「天皇応援派のハマコー」を自称するヘカテーの列外派星くず日記から。

「キコと結婚できないなら皇族辞める!」と報道されてた皇嗣詐欺の宮
じゃあ皇嗣詐欺の宮はどうだったのか当時の報道を振り返ってみましょう。
ヘカテーが持っている雑誌記事コレクションから引用するぜ!

『週刊新潮 1989年9月7日号』に掲載された特集記事「礼宮 ご婚約発表のあと」
【引用始め】
この春にマスコミで報じられた「皇籍離脱」問題―皇太子殿下との待遇の違いに不満が高じ、礼宮殿下が「皇籍離脱」を口にされているという話だった。
ある皇室ジャーナリストは「つまり、あの皇籍離脱問題は自分の結婚についてだったんでしょう。礼宮にしてみれば長幼の序などに関係なく恋を全うしたい。無論、宮内庁では押えにかかったが、それに抵抗するために、礼宮が皇籍離脱を口にしたのだと思います」
女子学習院の卒業生を中心とする常磐会の会員の一人も、「天皇家ではご兄弟の順序というものにこだわられたんでしょ。それで礼宮様も皇籍を離脱したいとなんて言い出したんです。皇族なんて結婚も自由に出来ず、兄弟の順序にこだわれば、いったい何年後に結婚できるのかも分らない。いつまでもお兄様が決らず、もう待たされるのはごめんだとお考えだったですよ」


ヘカテーが敬愛する皇太子殿下(当時)ご自身が礼宮の皇籍離脱発言について完全否定しているのです。

 ところで、ボクから質問をさせていただきたい。弟の結婚に関して弟が皇籍を離脱すると言ったということが一部の雑誌などで取り上げられました。私たち家族としてはそういうことは一度も聞いたことがありませんで、非常にびっくりしたというのが事実ですが、その根拠は何だったのでしょうか。一つの雑誌が取り上げて、それを別の雑誌が引用して独り歩きをするということはやはり困ることだと思いますけれど。

(朝日新聞 1989年9月22日)


皇太子がベルギー、フランス訪問の前に開いた公式会見で、礼宮の皇籍離脱発言に関する報道はデマであると述べ、週刊誌の報道姿勢を厳しく批判したのです。

上記記事の春に報じられた皇籍離脱報道の一例が『週刊朝日 1989年4月21日号』には「え、礼宮さまが「皇籍離脱」だって・・・」という記事です(他にも『週刊ポスト 1989年4月7日号』が報じている)。
皇族を辞めたい理由は「国民は法の下で平等であるはずと憲法で定められているのに兄貴と俺とで待遇が違う!待遇格差は憲法違反だ!」という実に呆れたもの。
英国留学中も現地の記者の取材を受けた際にも「こんだけ答えてやっているのに自分の記事なんてどうせベタ記事」と不貞腐れたそうです。
同記事内で宮内庁長官や高円宮さまは一応否定されていますが、こういう報道が出る時点でアウトだと思うよ。


該当記事の内容は幼稚園から大学まで一緒だった友人の話が紹介されている。

「礼宮さまの思考回路をどうひっくり返しても、皇太子さまとの待遇の差を『憲法違反』などという線は絶対に出てきません。そのあたりは、完璧に整理なすっておいでです」

また、高等科時代の恩師も礼宮が兄との待遇の差にこだわるツマらん男ではない、と述べてます。

どんだけ~の一言ですね


礼宮の英国留学なのですが、読者様からのタレコミ情報によると実はキーコさまと離す為だったんだってさ
キーコさまも留学が決ったら「新しい人が現れたらどうしよう。どうして行ってしまうのかしら」と親しい先輩に泣きなが)ら言ったとさ(ソース『緊急増刊 女性自身7月17日号』皇室担当記者松崎敏弥特別手記「殿下、やっぱり紀子さんとの愛を貫きましたね」。
まあそこはキーコさまなのでなんと自分の大学の卒業式に出ないで礼宮の元へ訪英しているんですよ。
絶対に離さないと必死でした。

 

川嶋紀子さんは学習院大学の卒業式に出席しなかった。

 

一部の週刊誌が紀子さんは留学中の礼宮に会うためにイギリスに渡ったのだと記事にした。

 

それはデマでした。

 

紀子さんは両親と弟、初等科時代からの親友である女性と一緒にインドネシアに旅行してたのです。

 

友人の女性は元NHK解説委員の平野次郎の長女で、何度も手記を発表しインドネシア旅行の写真も公表しています。

 

ブックオフやヤフオクで雑誌のバックナンバーを大量に購入しながら、それを知らないとは考えられないことですね。

 

良宮さまがお元気だったら絶対に許さなかった。
その裏付けとして皇太后となられた良宮さまに仕えた小林忍侍従はスーパー辛口評価をしている。
(過去記事 
昭和天皇に仕えた小林侍従が見た皇太子ご成婚と礼宮結婚

 

 

 

 

平成5年1月6日


皇太子妃決まるの報道、夜の8時45分から各テレビ局は一斉に皇太子妃内定のニュースを流し始めた。数年前に候補者の一人として話題を集めながら、御本人が断ったということで立ち消えになっていた小和田雅子さん。
外交官としてバリバリの人。相当な決断で別世界に入ることをきめたものと思われる。外交官として身を立てるべく活躍してきたのだから、断念するにはそれなりの重大な決心がなければならないが、父娘共に外務官僚であり、父は次官の立場でもある。外交官の先輩から膝詰めでせまられれば到底断り切れないだろう。あたら英才を籠の取りにしてしまうのはいかにも残念だが、皇太子の幸せのためには止むをえないのか。

平成5年1月19日


皇室会議。皇太子殿下と小和田雅子さんとの御結婚が会議で決定された、御両人の記者会見約20分。仲々几帳面に質問に答えていたのは流石だが、苦悩の末の決断だったことを示すものと思う。別にあった御両親の記者会見で、父親の「色々ありましたが・・・・・・」という苦渋に満ちた、よどみ勝ちなあいさつに、娘と小和田家のこれからの苦労や負担を考えると気が重いということがよく表れていた。

これは、皇太子と小和田雅子さんの結婚に対する祝福や喜びの言葉ではないですよ。

有能な外務官僚であったのに、先輩の説得により外務省を辞めて籠の鳥にされてしまう小和田雅子さんと小和田家の人たちへの同情の思いが綴られている。


『週刊朝日 1991年3月29日号』「紀子さんご懐妊! オメデタを表立って喜べぬ 川嶋家のこれだけの事情」
( ゛紀子さん”は原文ママ)によると
宮内庁職員が「昭和天皇の喪中のさなかに婚約された秋篠宮さまに対しては、宮家の一部に反対意見が強かったし、皇太后さまをお世話する女官たちからも『まだ学生の立場でありながら』とか、『皇太子殿下より先に結婚するのは皇室の伝統を損なうものだ」という批判があった」と証言しています。
また、同記事内では美智子教原理主義者の渡辺みどりも皇嗣詐欺の宮夫婦の結婚当時に付き合いのある常磐会会員からみどりさん、昭和も遠くなったわねえ。お嫁入り道具が段ボール三十箱ではねえ」と嘆いたと言っている。


歴代天皇と皇后の結婚は常に周囲から反対の声があがっています。

昭和天皇と香淳皇后の時には政界、官界、右翼まで巻き込んだ大騒動に発展し「宮中某重大事件」として教科書に載ってるくらいです。

上皇夫妻の結婚も香淳皇后や秩父宮妃、高松宮妃らが猛反対し右翼団体を使って結婚を阻止しようとした。

雅子皇后は祖父が公害企業の社長だったことから宮内庁長官が浩宮に結婚を断念するように説得し、三笠宮が2人の結婚に反対だったという報道もありました。


秋篠信者が「天皇は雅子と結婚できなければ皇族辞める」と言ったと妄言吐いてます。

そんな報道は一切ないし、帝王学を叩き込まれた今上陛下がそんな事を1秒たりとも思うわけがない。


皇族をやめる、とは述べていないけど、こういう記事なら載ったことがあります。


『週刊ポスト』1990年6月22日号  卑劣な怪文書 「それならぼくは結婚しない」

小和田雅子さんのハーバード大学時代の友人と称する匿名の人物から怪文書が出された。

内容は雅子さんがハーバード大学に仲の良いボーイフレンドがいてどういった服装で、どういったところへデートに出かけたかが事細かく記述されていた。

その怪文書を理由に宮内庁が小和田雅子さんをお妃候補リストから外したことに憤慨し皇太子が「それなら僕は結婚しない」と言い放った、という内容の記事。

 

これはガセ記事ですね。

 

小和田雅子さんがリストから外されたのは、祖父がチッソの社長であったことが最大の理由です。

 

当時の宮内庁長官だった富田朝彦が「(お妃候補には)こういう問題が付随しますからね」と説明すると、浩宮は「分かった」と述べた。(『週刊朝日1991年3月8日号』)

 

1987年秋の時点で小和田雅子さんはお妃候補のリストから除外され、宮内庁長官の説得に浩宮は素直に応じているのです。

 

ヘカテーがついたウソをまとめます。

 

・礼宮は「紀子さんと結婚できないなら皇族をやめる」と言った

 

・紀子さんは大学の卒業式に出ないで礼宮の元へ訪英した

 

とっくの昔にガセ認定された週刊誌の記事を引用し続けるヘカテーの徒労に、ゆっこママから一言