第29話

 

さて、休日。今日はベルギーへ行く日だ。ずっと楽しみにしていた。

アルデンヌの森にある、スパ・フランコルシャン。

この森でベルギーはドイツとルクセンブルグに接している。

 

スパ・フランコルシャンでのF1観戦。

最もスリリングなコーナーと言える”オー・ルージュ”。左にやや曲がりながら進入し、右に切り返して丘を駆け上がるロングコーナー、ラディオン。


心臓破りの丘。約58mの高低差、ビルでいうと18Fほどの高さを、一気に時速310㎞で上る。ドライバーには進入時2G、右への旋回中は4.5Gほどの力がかかる。

信じられない。ドライバーには丘ではなく、壁に見えるという。何周もする。


観戦前からハイテンションな心のまま、A2からA27に乗り、E19に入り約2時間でブリュッセルに着いた。

 

ブリュッセルでは、いつものグランプラスを観光。昼食は秘書に聞いたスイーツの美味しい店、アヴェニュールイーズに行く。ベルギーのスイーツは、基本どこへ行ってもハズレはない。

買い物も目移りするが、やはりベルギーの「ブルージュレース」(フラワーレース)編みの繊細さ、美しさに引かれる。

 

フランス語で買い物程度は会話できるが、途中からは無理せず英語。少し店員にバカにされる。まきちゃんへのプレゼントを探索したり、ぶらぶらお散歩。

 

昼食後はブリュッセル近郊の自然や古城めぐり。気軽な、目的地のないドライブ。


郊外の小さな教会の地下の美術館で、まきちゃんに似た顔立ちの絵画を見つけた。まきちゃんはフランス人系の顔立ちをしているから。

 

美しいな。なんだか嬉しい。

その絵の前から動けない。

 

まきちゃんへ

 

『今ベルギーに来ているよ』

『まきちゃんに似た女の子の絵画をみつけた。嬉しいよ』

 

すぐの返事。

 

まさ君へ

 

『夕方、海辺で遊んでた。ビーチバレー、楽しかったよ』

『いいなあ、ベルギー。よかったね、そちらで彼女を見つけたの?』

『もう私、いらないねっ!』

 

真由美

 

『P.S. バイバイ!』

 

ベルギー人は料理に、フランスの質とドイツの量を求める。

 

ベルギーは、世界中の食通たちが「フランスよりも美味しいフランス料理が食べられる」と太鼓判を押す国で、これも秘書に聞いた土曜日も空いている市内の三ツ星レストランへ向かった。

市内東方のEU地区、南方のサン=ジルや南東のイクセル地区などを散策し、迷いながら意外にお店を見つけるのに苦労した。

 

まずはトラピストビールのWestmalle。

キャビアクリームを添えたラングスチーヌのカルパッチョ、ヴァンデ産鳩のガレットを注文。オランダでは味わえない美味。これは贅沢である。この店の創作フレンチはなかなか素晴らしい。

 

土曜の夜の街、道行く人を眺め思う。着飾る女の子、色鮮やか、自由人の楽しさ。まきちゃんのコーデすべてをベルギーのレース編みで・・・なんて妄想する。

 

”一泊するの。花火もするの”

 

そう、遠い空の下で、お互いにお互い、縛らずにいようね。今は今、何かが出来る。記憶を重ねられないけど、心だけは重ねあえる。

 

 

ーーーーー

 

 

朝早く、ブリュッセルのホテルから、スパ・フランコルシャン行きのバスに乗る。

 

F1GPはいつ観ても感動だ。とにかく生はすごい。「キーン」と唸る、ものすごいレース音、コーナーでの数段のギヤチェンジの爆音、エキサイティングな光景・音の競演。

なかなか、よっぽどのファンじゃない限り、男子にも、特に女子にF1のすごさを伝えるのは困難である。まず、何より話しに耳を貸さない。

 

300km/h越え、直線コースのオーバーテイク(追い抜き)は、F1の醍醐味。美しく、レースで最も輝かしい瞬間の一つ。心臓破りの丘を上り、直線へ向かうマシン達。時間と空間のヘビーメタル。

 

アムスへ帰る帰路、高速道E19、F1レースの興奮で心が燃えあがったまま。

気がつくと100マイル(160km/h)近くまで車のスピードが出ている。ドイツのアウトバーン(Autoburn)ではない。スピードを慌てて押さえる。

 

アムス着。

 

大家とF1レースやサッカーの話で盛り上がる。今日は久しぶりに家で夕食。質素な、いもと人参の茹でたもの、そして缶詰のグリーンピースの煮物とごくシンプルだが、大家さんの心の暖かさが伝わってくる。家庭の味だ。素直に嬉しい

 

ん、メール?

 

『こんばんは、まさ君。こっちはおはよう』

『旅行楽しかったよ!』

『夜は、初恋の人の話とか話題にあがって』

 

『なんとなく好きで、そのときは好きだと言えなかった人のほうが、今好きな人よりいつまでもなつかしいって、皆言ってた』

『初恋の人、記憶の底に刻まれてるの。女の子って』

『それ消せないの、一生』

 

『まさ君、困るでしょ』

 

『でもね、そのなつかしさがあるから、今まさに、まさ君のことが大好きでいられるの。分かる?』

『まあ、男の子にはわからないかもね』

 

『そんな話し、女子同士でしちゃった!』

『私、友達に私の初恋の人、バラしたちゃったよ』

 

『どうする?』

 

真由美

 

大家さんも暖かい、まきちゃんも暖かい。

 

僕もちゃんといたよ。男もそうだよ、きっと。


初恋の、なんとなく好きで、そのとき好きだと言えなかった女の子……。

 

 

第30話

 

今日はトリノ入り、2泊3日。トリノの次はサンレモ。ほぼ一週間イタリア漬けだ。

 

早起きして、朝5時にオフイスに行き、書籍・文献の整頓から。

サティの曲をBGMに準備を進める。

 

まずは、イタリア留学研修生と大学の担当教授との打ち合わせのため、担当教授の書いた論文の内容のおさらい、斜め読みを終了。秘書のMonicに依頼していた論文のサマリーレポートには助けられた。

 

「よし、OK」

 

現地では、そのほか市役所での留学生の滞在手続き。そして銀行口座開設。

 

9時過ぎのフライトでトリノへ飛ぶ。晴天だったので、銀の翼越しにアルプスの絶景が見られた。


美しいアルプス連峰、神々の屋根。筆舌に尽くしがたい。

アルプスでは、ここが海だった時代を物語る海竜などの化石が多数発見されているらしい。アルプス、全て海中だったんだ……。神のなせる業、畏敬の念。

 

トリノ空港で、研修生と待ち合わせ。挨拶を交わす。

大学でのアポイントメントを午後1時にしていたが、相手方の助手の先生が、

「Tornera all'universita intorno alle le quattro」(教授は4時頃戻ります)

との話。いつも一旦午前の11時に帰宅し、夕方4時前後に大学に戻るとの事。シエスタの感覚。

予想はしていたが、留学生とともに先に市役所での留学生の滞在手続きと銀行口座開設を済ませることとした。

 

研修生の三上さんは僕より5つ年上で、海外勤務は初めてらしい。しかしてTOEICは900点超え、学術論文も数報まとめあげている逸材。

 

「イタリア語の日常会話だけ、頭に叩き込んできました。でも、不安ですね。」

 

「短期留学で、教授は英語が通じるから問題ないと思います。ただし、日常生活は、やはりイタリア語ですね」、僕は答えた。

 

三上さんは、

 

「しかし加藤さん、よくトリノ市内で運転ができますね」、と驚いた様子。

 

「もちろん怖いですよ。時に赤信号でも左右、車の通行がないとは、そのまま直進する車もありますし、路上の2重駐車のおかげで道幅が狭いところもあり、運転も荒くて普段の何倍もの神経を使います」

 

以前のトリノ出張では所長に同行し、所長の運転ぶりを見て、なんとか勘をつかんでいるからこその運転だ。初心者はタクシーが無難。三上さんの現地移動はもちろんタクシーだ。

 

「トリノは昔、イタリアの首都だったんですよ。日本で言う京都的な街です。フィアット(FIAT)の本社もあるし、街並が美しい」

「ポルティコ(アーケード街)を散策すると、ブランド品店や高級皮製品店などがあり、ショッピングも楽しいですよ」

 

僕は以前トリノでOrobianco(オロビアンコ)のレザースニーカを買ったが、日本より安価で履き心地も持ちもいい。今も愛用している。

 

教授は3時半頃に帰ってきて、打ち合わせ。三上さんには理化学の基礎研究の調査の分野をうけもってもらう。僕の調査班のプロジェクトと研究班のプロジェクトの橋渡しでもある、大切な人。

 

教授との挨拶も済ませ、今日の仕事は終了。

 

三上さんとの夕食だ。

 

「本場イタリアンの店に行きましょう。とにかく、イタリアのレストランははずれがないです。何処でも美味しいですよ。日本でいうと、街は京都、食べ物は大阪の様」

 

王宮のあるカステッロ広場から、サン・カルロ広場を通ってカルロ・フェリーチェ広場へと続くローマ通りの夜景を堪能。


少し、値が張りそうな高級イタリア料理店に入る。

 

「Buona sera.」

(こんばんは)

 

「Avette prenotato?」

(予約はされていますか?)

 

「No.」

 

「C'e un tavoloa per due?」

(二人ですが、空いている席はありますか?)

 

「Si.」

 

ボーイがメニューを手渡してくれた。

 

「Grazie」

(ありがとう)

 

僕は三上さんが驚くであろう、イタリアンのフルコースを注文した。メインディッシュは僕は魚料理、三上さんは肉料理を選んだ。

 

まずは、Aperitivo 食前酒のシャンパンで乾杯、ブルスケッタ(バゲットを焼いたもの)をおつまみに。

 

三上さんは、目を細めて、

 

「イタリアの女の子は、美人が多いですね。目移りします」

 

「僕もです」

「イタリアの女性は陽気でおおらかですが、僕の知る範囲では、意外に気の強い子が多いですよ」

「家族愛が強く、料理の上手な子が多いです」

 

「そうなんですか」

 

「お姫様気分があり、恋には情熱的なところがあるらしいです」

 

「食べ物は美味しいし、女性は魅力的。いい街ですね」

 

二人して微笑んだ。

 

フルコースの始まり。Antipasto 前菜は、メロンにサラミ・生ハムたっぷり、小食の女の子ならこれで十分というボリューム。そしてPrimo Piatto(第一の皿)、コースのスターターのミートパスタ。この店の味は格別に美味しい。

 

これで普通、ほとんど食事が済んだ状態の満腹のおなか具合。

しかして、本場イタリアのフルコースは続く。

 

僕はここでシャブリ、三上さんはカベルネ・ソーヴィニヨン。アルコールが進むと会話も弾む。

 

「えっ! 三上さん、森下さんのこと知っているんですか?」

 

「ええ、優秀な人だったので」

 

「今、森下さんはどこにいるんですか?」

 

三上さんは全く分からないということ。ただし、はっきりはしていないが会社は退職はしていないらしい。

 

Second Piatto  第二のお皿でメインディッシュ、魚・肉料理。僕はacqua pazza、スズキのグリルレモンクリームソース、そして三上さんはossobuco、仔牛の骨付きスネ肉の煮込み。互いに少しずつ皿に分ける。どちらも美味。

 

そしてコントルノ、温野菜。フォルマッジョはペコリーノチーズ。Dolceは、りんごのミルフィーユ。

 

なんとか、二人して完食。

 

結構苦いエスプレッソコーヒーの後、三上さんに、森下さんの事を聞いてみた。

 

「森下さんですが、急に皆の前から消えてしまったみたいですね」

「理由は何なのでしょうか?」

 

「僕にもよく分からないんです」

「ただ、会社では森下さんのことについての会話は口止めされています。この話はやめましょう」

 

「そうですね」

 

所長の口癖、"森下君の例があるからな"

 

森下さんの元気な姿しか覚えていない僕だが、三上さんの言った通り、ここは口を紡ぐ事にした。

 

「三上さん、もう満腹ですね」

 

「はい。少し無理したけど、とても美味しかったです」

 

二人でホテルに帰り、シャワーの後1FにあるBar(エノテカ・バール)で待ち合わせた。

 

「三上さん、イタリア語で注文してみましょうか。風味豊かなコレージ・ビールで」

 

三上さんは指で二つという仕草をして

 

「Due Collesi birra, per favore」

(コレージ・ビール二つ下さい。)

 

「Si.」

 

トイレに席を立つ、日本時間は朝7時

まきちゃん、起きてるかな?

 

『おはよう、まきちゃん』

 

『今イタリア、トリノに来てるよ』

『イタリアンのコースはボリューム満点で、食べきれないと思ったけど美味ですごい!』

『全部食べちゃった』

 

雅彦

 

『おはよう、じゃなくこんばんはだね、まさ君』

 

『イタリアで女の子を口説いたりしてるんじゃないの?』

『世界の森の木の葉が全て舌でも、君への想いを語り尽くせない、とかなんとか言っちゃって』

 

『でも、わたし知ってる。まさ君、イタリア語超下手くそだから無理よね』

『ナンパの成功を祈る!』

 

真由美

第27話

 

ロンドン・ヒースロー空港からアムステルダム・スキポール空港への飛行機の機内クラシカルラジオプログラムでは、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』が流れていた。

 

緩徐楽章(第三楽章)Des Helden Gefahrtin (英雄の伴侶)のヴァイオリン演奏が美しい。

 

この楽章は、無骨者である”英雄”は、はじめてみる”伴侶”のあでやかさに息をのみ、呆然と見つめる。

 

やがて、低音楽器の和音で表現される重々しくごつごつとした音調の”英雄”と、優美でしなやかな”伴侶”とが交互に現われ、2人がぎこちなく言葉を交わす。

 

”伴侶”は”英雄”に、意味ありげな潤んだ視線を送り、その関心を惹こうとしたかと思うと、一転して”英雄”の無粋ぶりを嗤い、からかってみたりもする。

 

”英雄”は”伴侶”の、そんなふざけた態度についには業を煮やし、”好きにしろ”といった感じで”伴侶”をつき放してしまう。するとようやく”伴侶”は、自らの過ぎた悪ふざけを悔い拒絶されたさびしさにも背を押され、”英雄”の胸の中へと飛びこみ互いに理解しあい、求めあう。

 

同じ旋律を陶然とうたいあげる”英雄”と”伴侶”。

2人の心は一つになり、壮大な愛の情景が描かれていく。

 

約1時間のフライト、あっという間にアムスだ。

 

久しぶりにアムステルダム・スキポール空港の中で軽い夕食を食べる。スキポールを拠点に各国に飛ぶ。この空港の自分の家の玄関のような安心、気軽さ。

 

パニーニとフィリッツを注文。車で来ているので、アルコールは飲めない。ソフトドリンク、トニックウォーターにする。

 

電話が来る、

 

「もしもし、かとちゃん」

 

「もしもし、所長ですか?」

 

「ああ、そうだ。かとちゃんお疲れ」

 

「無事アムスに戻りました。今、空港で夕食食べてます」

 

「珍しいね、空港でディナーなんて」

「まずはありがとう。ブライトンでも頑張ってくれたね。いい子が来たと相手が喜んでいたよ。かとちゃんには感謝、ホント感謝だね」

「どうだね、今晩一杯」

 

「大丈夫です。Ruthの店ですか?」

 

「そう。俺は先に行っているから、適当な時間にきてくれ」

 

「分かりました」

 

A4、A10で帰路へ。新しく貸与された社有車のAudiは身分不相応だが、疲れている体に優しい。いい車だ、これから助かる。

 

絵はがきが3枚届いている。麻友さん2枚、美咲さん1枚。

 

人差し指を口にあてる癖がある麻友さん。

大学時代の彼女と同じ名前の美咲さん。

 

どちらも印象に残る。

 

なんでどちらも続けざまに絵はがきを送って来るのだろう?

僕に彼女がいるのを知っているのに。

 

そして、どちらからも、絵はがきよりも簡単なのに、メールがほとんど来ない……。

電子記録が残らないように?

 

「Ik ben huis.」

(ただいま。)

 

たまには大家さんに、オランダ語の日常会話を習わなくては。

 

「Goedenavond, Masa. Blijft ge thuis vanavond?」

(おかえり、まさ。今晩は家にいるのか?)

 

「Nee. Ik heb zin in uit eten vanavond.」

(いや、今晩も外食する。)

 

「Heb je nieuws?」

(調子はいいのか?)

 

「Niets speciaals.」

(特別変わりないよ)

 

普段着に着替え、所長が待っているRuthの店へ。

 

「Hoi, Goedenavond, Ruth.」

(今晩は、ルース)

 

「Goedenavond, Masa.」

(今晩は、まさ君)

 

Ruthはいつものように穏やかに迎えてくれる。優しく深い瞳。

 

「Heb je nieuws?」

(調子はどう?)

 

「Niets speciaals.」

(特別変わりないよ)

 

「かとちゃん、お疲れ。」

 

「所長もお疲れ様です」

 

「焼き鳥の塩でも頼むか。 Hi, Ruth.」

 

「Incredible, you must be crazy as usual.」

(信じられない、あなたたちいつも通り。気が違っている)

 

Ruthは少し微笑んで、注文に応じる。

 

「かとちゃん、新規事業は大変だぞ。遠い明日と、足下のぬかるみの両方をこなしていかなければならない」

「でも、いつも焦らず、今いる地点から始めよう。自分の持っているものを全て使え。できることはすぐするんだ」

「たいていの人は、問題を解決しようとするよりも、問題を回避するためにより多くの時間とエネルギーを費やしている。かとちゃんは、それ、だめだぞ」

 

「No one has ever drowned in sweat.」

(汗で溺れた者はいないんだ)

 

「No.」

(はい)

 

Ruthはうなずき、美しい笑みをこぼしている。

 

メールが来ている。

 

まさ君

 

『なんかね、明るい、未来のまさ君との毎日、想像力でいっぱいなの。楽しいよ。どう彩ろうかしら』

『神様って、きっと絵描きに違いないね。妄想だけど、どうしてこんなに多くの想像力を授けてくれるの』

 

『たまに声、聞かせてねっ』

 

真由美

 

「会いたい……」

 

ふと、自然と唇が動く。

 

「Ruth, I’ll take a Laphroaig on the rocks.」

( ルース、ラフロイグをロックで)

 

強いピートのその香りが、仕事もまきちゃんもひっくるめて、今の僕を癒してくれる。

 

所長は帰宅、僕は一人Ruthの店に残る。

 

「さあ、やるぞ」、独り言。

イギリスで購入した書物リストを斜め読み。

 

必要な情報だけを抽出しなければならない。

何をするかではなく、何をしないか決めることに集中する。

 

Ruthの店を出て、ニューヴェンダイク通りに向かう。賑やかな彩りだ。ライトアップされたダム広場の王宮も美しい。カップルを見て思う。まきちゃんに、此処の、今、まさにこの瞬間の空気と風景を全て感じて欲しい。

 

またメールが入って来た、まきちゃんからだ。

 

『こころの涙でシーツが濡れるの……』

 

またしばらくしてメール。

 

『う・そ・よっ。ベー』

 

真由美

 

『P.S. ホントよ……』

 

アムス、ニューヴェンダイクの街は華やかなのに、なぜだろう? 今日の僕には寂しく映る。

 

 

第28話

 

「Shall I get you something to drink ? tea, coffee, water or a soft drink? 」

(お飲み物をお持ちいたしましょうか。紅茶、コーヒー、お水、またはソフトドリンクがありますが)

 

「Did you find our offices easily?」

(オフィスの場所は簡単にお分かりいただけましたか)

 

オフィスに帰るとお客さんがきていた。秘書のMonicが対応している。

 

「誰だろう? 所長からはお客さんが来る予定は聞いていない」

 

「おう、かとちゃん、おかえり」

「新規事業のコンサルタントのShib Hugeだ。君の右腕になる」

 

「I'm Masahiko Kato. Pleased to meet you.」

(加藤雅彦です。よろしくお願いいたします)

 

「I'm Shib, Shib Huge.  Please to meet you, too.」

(こちらこそ、よろしくお願いいたします)

 

「加藤君、いろいろな業務で、時間・空間的にも君一人では対応できない問題も出てくるだろう。そんな事情でコンサルタントを頼む事にしたんだ」

 

「ありがとうございます。心強いですね」

 

「好きなときに好きなだけ活用してくれ」

「ただし、彼の勤務時間は午前9時から午後4時までだ。時間厳守」

「オランダでは残業ないからな」

 

「わかりました」

 

「Shibは学術方面に明るい。オランダ語の資料・文献情報が容易く入る。力強い助っ人だ」

「ワーゲニンヘンに住んでいる」

 

「非常に助かります」

 

コンサルタント契約について、4時間ほどの長いミーティングになった。

 

「Shib, It’s almost four. Want to go out for a drink?」

(シッブ、もうすぐ四時だ。一杯飲んでいくかい?)

 

「Yes.」

 

「かとちゃんも大丈夫か?」

 

「いえ、書籍調査があって……」

 

「じゃあ、後で合流しよう。先に行っている。今日は日本食居酒屋でいこう」

 

「七時位には行けるようにします」

 

 

ーーーーー

 

 

居酒屋に入ろうとすると店の近くの通りで日本人観光客の女の子が泣いている。

 

僕は声をかける、

 

「どうしたの?」

 

彼女が涙目で答える、

 

「カフェバーで怖い目にあって……」

 

なんだか事情は分からないが、泣いている。人助けだ。

 

「所長、1時間くらい遅れます」

 

「わかった、かとちゃん来るまでShibと飲んでるよ」

 

彼女は、朝から何も食べていないとのこと。一人旅するレベルなら昼食くらいは何とかなるものと思うが、カフェバー内で客同士が喧嘩するのをみてびっくりしたらしい。一時的にパニックになって、食事する店だけでなく人ごみも怖くなったようだ。

宿泊のホテルにはレストランがないらしい。

 

「何か食べに行くかい?」

 

女の子は、まだ何か街に警戒心を持っている。名刺を見せると、少し安心したように、

 

「はい……。お願いします……」

 

日本人の口に合う中華料理店。僕はこれから居酒屋に行くのでジャスミンティーだけ。彼女には白のインディカライスとビーフケリー、ジャスミンティーを注文。インディカライスは柔らかめに、カレーは甘めにとボーイに伝えた。

 

彼女は涙半分で、

 

「とても、美味しいです……」と笑って、また泣いて、そしてまた笑った。

女の子って可愛い。

 

アムステルダム中央駅の近くのホテルまで、彼女を送った。

 

「所長、遅くなりました。」

 

「どうした?」

 

「ちょっと人助けを。日本人の旅中の女の子」

 

「ハハハ、かとちゃん優しいからな。まあ飲もう」

「久保田のいいのが入っているぞ」

「人助けのご褒美かもしれないな」

 

所長、Shibそして僕で、和気藹々と酒の席が進んだ。

 

アムスの夜も更け、RuthのBarに寄らずに帰宅した。

 

ベッドに横たわる。

 

まさ君へ

 

『明日、男女友達と南房に行きまーす』

『海産物とか、浜辺の散歩、お花畑とか楽しみ』

『なんと! 1泊するの。花火もするの』

 

『まさ君、私の男友達はいつも私の事狙ってるのよ。心配でしょ?』

 

真由美

 

『P.S.  まさ君、本当に一泊三日で日本に帰って来くるの? 土日は休みっしょ』

『それ、組み合わせたら三泊五日で来られるじゃない。私待ってる。要検討!』

 

「心配でしょ?」の一言が彼女らしく愛らしい。

 

『P.S.の追記だよ』

 

『距離って二人を離れ離れにするのかな?』

『私、まさ君といつも一緒にいるって想っているの』

『もうそう想うという時点で、二人の間に距離なんてないよね』

 

『ね、安心でしょ? 心配しないでね』

 

真由美

 

まきちゃん、優しい。

 

僕を心配しなくていいよ。

僕は安心して。変わらないから。

 

三泊五日……。

プライベートでの日本国への土日利用はダメなんだ、ごめんね。

 

僕は少し苦笑いし、こころのため息でまきちゃんに謝った。

第26話

 

ウォーキング郊外で日本の国立大学からの依頼の仕事を済ませ、次の仕事場、ウイズレーガーデンに向かった。英国人に最も愛されている庭園、ウイズレー。エリザベス女王自らが総裁を務める英国王立園芸協会(RHS)運営の庭園の1つ。

 

ウイズレーガーデンは季節折々の鮮やかな花々が咲く一角があると思えば、どこまで続くのかわからないほど広大な果樹園、さらに大きな森林まであり、「庭園」とは思えないほどの規模を誇る。

 

ここでも新規事業に必要な情報を入手した。

 

とにもかくにも、今回のイギリス出張の用事を済ませた。今日の宿泊はヒースロー空港近くのホテル。明日はアムスに帰るだけ。

 

僕は、ふと、一泊三日でもよいから日本へ帰ろうかな、と考えはじめた。

まきちゃんはこっちへこない。一泊でいい、まきちゃんが欲しい。

 

“She wants to come to your side. She want to be by your side.”

(彼女はあなたのそばにいたいの、そばにいたいの)

 

Ruthの言葉が耳に残っている。

 

声が聞きたい。

 

「もしもし、まきちゃん……」

 

「今お風呂だから。メールするねっ」

 

メールが届く。

 

まさ君

 

『まさ君のささやきは、耳だけじゃないよ、ハートでも聞くの』

『まさ君が抱くのは、私の体だけじゃないよ、私のこころも。分かる、意味?』

 

『今抱くのは、ハートだけでいいよ』

『体の方は、これから念入りに洗います!』

 

真由美

 

返信のメールは打たないが、彼女とは以心伝心、大丈夫。やはり声を聞くと安心する。

 

さて、夕食だ。復命書もまとめなきゃ。

 

アムステルダムオフィスの秘書から、メールが入っている。内容は……。

 

そのままイギリスにいて、明日ブライトンへ向かってくれとの事。所長がアポをとったらしい。イギリス南海岸沿いの町、M25からM23に入り南へ約2時間の距離。

 

了解。

 

夕食はヒースロー空港でビールとフィッシュ&チップスの組み合わせ。これほど有名で、また店の格により異なる料理はない。ヒースローのパブのはかなりいけている。

 

アジア系の女性が僕の背後から僕を見ている気がした。が、ふり向いても誰もいない。

 

?。

 

ホテルに入り、チェックイン。そのまま、1Fの小さなBarへ。

 

僕がバーボンを頼んですぐ、アジア系の女性が話しかけてきた。

日本人ではない。ハーフかな?どこかで会ったことのあるような・・・

 

「Do you have free ?」

(お時間大丈夫?)

 

「Yes……」

(はあ……)

 

「Are you here on vacation? 」

(休暇で来てるの?)

 

「No, I’m here on business.」

(いいえ、仕事です)

 

「I’m Claudia, do you remember me?」

(私はクラウディアよ、思い出せる?)

 

そうだ、ウインチェスターの国際会議で名刺交換だけはした。彼女はR&D先の担当者の一人。直接話す機会がなかったため、印象が薄かった、思い出した。

 

「Oh, I was about to forget you. Claudia, it's good to see you again. 」

(忘れかけてたよ。また会えてうれしい。)

 

「It's nice to see you, too, Masa.」

(私もよ、まさ)

 

「How are things going?」

( 調子はどう?)

 

「Pretty well. How about you?」

(すごくいいわよ。あなたはどう?)

 

「Fine, thank you. Are you still working at NC Research inc. Company?」

(いいよ。君はいまも同じところで働いてるの?)

 

「Yes.」

 

「How's the project coming along?」

(プロジェクトの進行状況はどう?)

 

「Not so good. We're a little behind the schedule.」

 (あまりよくないの。少し遅れているわ。)

 

「How far behind schedule are you?」

(どのくらい遅れているの?)

 

「About two weeks. We lost some time when my colleague get sick.」

(約2週間よ。同僚が体調を崩したために遅れたの)

 

僕はこれから新規事業に力を入れて行くので、R&D業務からは少しの間距離をおく事になる。彼女とは会う機会が減るだろう。

 

「How's your R&D work coming along?」

(あなたのプロジェクトの進行状況はどう?)

 

彼女は僕に尋ねた。

 

「Pretty well.」

(順調)

 

「You did a great job!」

(よくやってるね)

 

「You can learn a lot from this experience. You can do much better work.」 

 (経験から多くのことを学ぶことができるはずよ。そしてより良い仕事ができるはず)

 

クラウディアとは、その後たわいもない話をしながら、結構な夜ふけまで飲んだ。彼女も我々のR&D業務から距離を置き、いずれ完全に外れるらしい。

 

雑談とはいえ仕事の話が混じることになる。言葉には留意しなければならない。

 

思考がぶれないように。

思考は知らず知らずのうちに、言葉になる。

 

部屋に帰り、クラウディアに会った事を復命書の外枠に綴った。

 

“彼らのR&Dは、約2週間遅延しているらしい”

“クラウディアは、将来的にR&D業務から外れるらしい”

 

相手は僕との出会い、どんな言葉を綴るのだろう……。

 

 

ーーーーー

 

 

イングリッシュブレックファースト。最高の紅茶とともに。

 

モームをして、「イギリスで美味しい食事がしたければ、1日に3回朝食を取ればいい」と言わせた量と栄養が十分な朝食。

 

目玉焼き・ソーセージ・マッシュルーム・ベイクドビーンズ・ハッシュドポテト・ベイクドトマト・ベーコン・トースト。このホテルのべーコンはアメリカ並のカリカリさで焼かれていて美味しく、嬉しかった。

 

一日の始まりに断食(fast)を断って(break)取る食事だからBreakfast。イギリスは昼も夜も質素な食事なので、朝食はしっかり。

M25からM23に入りブライトンへ向かう。リーゾート地であり漁業の街。

“イギリスにおける同性愛者の首都”ともいわれ、同性愛者が多いらしい。

 

まきちゃん、笑い話で言ってたっけ。

 

「私、同性からもアプローチをうけることがあるの」

「でも百合じゃないから、安心して!」

 

ブライトンでの打ち合わせでは、大型犬が相手方の隣にいてかなり怖い思いをしたが、ビジネスはうまく行った。

 

ごちそうになった昼食シーフード料理は、新鮮、美味、量も良し。生のオイスターは磯の香り、クラブスープも絶品。カニのフレーバーとコクが口の中いっぱいに広がる。

 

昼食後、面白い情報が得られるかも?という紹介を受け、ブライトンの少し北にある街の老舗ナーセリーへ向かった。そう、思い出す。その街には小さい店だがおいしいインドカレー店がある。Take outでもしておやつがわりに食べよう。

 

A23からA273から街へ向かった。小さな街だが大きな情報を得られた。

キューガーデンやウイズレーガーデンでの情報収集に匹敵するほど。ここのナーセリーは水面下でM&Aも視野に入れた方が良い。

さて、後はアムスに戻るだけ。

 

そっちはおはよう、まきちゃんへ

 

『今回、イギリスで仕事の白地図を塗り初めたところ。これからアムスに戻るよ』

 

『仕事のぬり絵だけじゃなくて、まきちゃんとのぬり絵が世界で一番好き』

『大切に塗ろうね。お互いの信じる気持ちがぶれないように』

 

雅彦

 

すぐに返信があった。

 

まさ君へ

 

『私が私自身に出会う、まさ君がまさ君自身に出会う』

『そして、お互いが相手の中に自分自身を発見する』

『今はそれだけでいいから、大丈夫から』

 

真由美

 

『P.S.  夏休み、ドタバタでしょ?』

『私が行く? まさ君が来る? ほら、ムリ』

『色々微妙なとこよねっ。愛は支配しない縛らない。愛は育てる、縛れない』

 

『なるようになるよ』

 

一泊三日の日本帰省が、そっけない現実味のないものになってしまった……。

 

しかし、まきちゃん、優しい。

第25話

 

「かとちゃん。急な話だが、今日の昼の便でロンドンに飛んでくれ」

「夕方にロンドンオフィスでイタリアに配置する留学生についての下打ち合わせだ」

 

「はい、分かりました」

 

「ついでにその後リッチモンドとウオーキングに行ってもらう。2泊3日」

「来週は、話した通りトリノ、サンレモとイタリア入りだ」

「あと、再来週はまたスコットランドでのアポだ、エジンバラにも飛んでもらう。そこから湖水地方だ、少し忙しいぞ」

 

「かなり……、忙しいですね……」

「あの……、ブリストルでの定期の仕事は?」

 

「今回は俺が対応するから、今、かとちゃんには新規事業立ち上げ準備に集中してもらいたい」

 

この調子だと、五日もらえる夏休みは二日と三日に分けて取らなければならない。最悪取れない。日本への夏休みの帰国は無理が確定。また、まきちゃんが万が一来るとしても、まとまった休みが取れない。辛い事態だ。

 

「お疲れさまだが、かとちゃんにはこれから色々重荷を背負ってもらわなければいけないからな」

「新規事業のプロジェクトリーダーである事を自覚してくれ」

 

神は荷物を負うように、人の背中を作る。イギリスのことわざだ。仕事もまきちゃんも。

 

アムステルダム・スキポール空港からロンドン・ヒースロー空港へ約1時間。いつものように、空港から地下鉄でオフィスへと向かう。

 

打ち合わせを終え、ロンドンオフィスを出ようとすると、所長から、

 

「いいかい、君のプライベートまで踏み込む事はしたくないが、業務の重要性を踏まえて品行方正を保ち、私的な人付き合いにも留意してもらいたい。よろしくな」

 

この意味合いはよく分かっている。業務はもちろん、私生活での行動にも気をつけねばならない。特に海外勤務組は、何者らから情報を仕入れるための罠を仕掛けられる人もいると聞く。

 

これまでも、それを肝に命じ仕事を続けているが、確かにプライベートの心の隙間に入ってくる何かの雰囲気を感じた事がない訳ではない。自己分析では、僕は鈍感ではない。

 

亀田さんと橋本さん?

 

“きな臭い……”

 

昨日、所長がBarで話していたが……。

 

二人ともただの観光客。亀田さんは大丈夫そう。行動力のある明るく気さくな女子だ。面と向かって話もしたし。しかし、橋本さんは知るはずのない僕の住所を知っていたし……、一方的に来る絵はがき……。

 

今日の宿泊はロンドン市内。運良く、ロイヤルフェスティバルホールでのブラームスチクルスの途中で、大学祝典序曲、交響曲第1番を堪能できた。なかなかの名演だった。自分へのご褒美。

 

ビックベンとテムズ川の夜景を見ながら遊歩道を一人静かに散歩する。いつ来ても落ち着く高貴な瞬間。

 

そう、前回此処で橋本さんに会ったんだ……。

 

職を失ったのか、帽子を足下に、悲しそうにクラリネットを演奏している男が一人。1ポンドを帽子へ投げ込む。”上を向いて歩こう”を悲しげに鳴らしてくれた。

 

テムズ川散策路とは好対照の、賑わうコペントガーデンのパブでの遅い夕食。

深夜10時。賑やかだが深夜は人通りが少なくなる。男の僕でも少し勇気のいる時間帯だ。ギネスを頼み、チキンとマッシュルームのパイ、そしてフィリッツ、キャロット、ビーズ。イギリス料理の美味しい店はパブを選べばそう外れはない。

 

 

ーーーーーーーー

 

 

朝起きてすぐに地下鉄でリッチモンド方面へ。

 

「王立キューガーデン。これで6度目くらいかな?」

 

僕はキューガーデンにはよく足を運ぶ。3万種類以上もの植物がある王立植物園。往時のキュー王立植物園に、世界各地から資源植物が集められた。宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な植物と資料を有している。

学生時代植物同好会にいた僕には、たまらなく幸せな場所。

 

まずは、キューガーデンの近くにある幾つかの古本屋で書物を入手する。新規事業の仕事の一つだ。場所柄か、業務に必要な植物関係の貴重な古本がずらりと並んでいる。

 

「Hello. How may I help you?」

(いらっしゃいませ。何かお探しですか)

 

「Just looking, thanks.」

 

本屋では、探してもいないのに見つかる、そんな自分の人生を動かす本があったりする。業務の本を探しながら、自分の本にも巡り会うチャンス。

ロメオとジュリエットの古本の隣に、To protect me という気になる題名のライトノベルがあった。

 

書き出しは、”Every man I meet wants to protect me. I can’t figure out what from.”

(私が出会うすべての男性は、私のことを守りたいと言う。でも一体何から守ろうというのかしら?)

 

確かに、世界のどこでも聞く言葉。男性は女性の何を守るんだろう? 

 

古書を数冊取り置きしてもらい、ランチはキューガーデン内のカフェでとることにした。

食物繊維の豊富な全粒粉のパンにサラダとチーズとチャットニ―(チャツネ)が具になった、プラウマン・サンドイッチにした。少しパサパサしていて僕の好みではなかったが、セットで付いてる紅茶は最高に美味しかった。

 

ランチを済ませた後、少し植物園を散策。イングリッシュ・ローズのエレガンスと香りに魅了される。小一時間して古本屋に戻った。気になったフレーズの古本一冊は自分へのご褒美、併せて十二冊の古本を購入した。

 

「Thank you very much, indeed.」

(誠にありがとうございました)

 

「indeed」。この単語はイギリス独特。ミドルクラス(中流階級)やアッパーミドルクラス(中上流階)の人達に使われている。

 

今日はこの後、ロンドン市内に戻るだけ。オフィスで復命書を書いた後、フリーだ。

 

「加藤君、まだ随分時間があるが、今晩9時くらいになるが、一緒に夕食はどうだ?」

 

ロンドンオフィスの所長が夕食に誘ってくれた。

 

「大丈夫です。それまで市内を散策しています」

 

「いつものピカデリーサーカスのインド料理店だ。現地集合」

 

「はい」

 

9時まで3時間もある。今日はトラファルガー広場にあるナショナル・ギャラリーのレイト・オープニングの日、なじみ慣れた美術館。モネやセザンヌ、ダ・ヴィンチにも会える。名画の絵はがきのコレクションが多いのも嬉しい。

 

ディナーはピカデリーサーカスの行きつけの日本人もよく訪れるインド料理高級店。ピリヤニ、タンドリーチキン、ケバブそしてカレーにナン。本当に日本人の口に合う。インド懐石、ターリーも美味しい。

 

「ギネスでいいか?」

 

「いいえ、僕はビールじゃなく、スタートからシャブリにします。」

 

「シャブリ・プルミエクリュでいいか?」

 

「両方試してみます。スタートはシャブリでお願いします」

 

「加藤君。どうだね、新規事業を手掛け始めた感触は」

 

「まだプロジェクト体制が整っていませんので何とも……」

 

「君はなんでも集中しすぎると周りがよく見えなくなる癖があるから気をつけるように。また、先に話したとおり、プライベートでも気を抜かず自分の周りに留意して物事に当たってくれ」

「ほら、あそこの席のアジア系の人たち、我々をずっと見ている。」

 

「そう? ですか?」

「気づきませんでした」

 

「冗談だよ。常に自分の周りにアンテナを張っておけということだ」

「ここはよその国だよ。我々は異邦人なんだ」

 

「君は正式な海外駐在員になるんだ。いつどこで誰がみているか分からない。公私共に留意しろ」

 

所長はむずかしい顔をした後和らいで、

 

「しかし、海外組の遠距離恋愛はつらいな」

 

「えっ? 僕のことですか?」

 

「そうだ。顔に書いてある」

「フロイトじゃなくても分かる」

 

所長は笑みを浮かべる。

 

「女の子は耳で恋を深める」

 

「所長の持論ですか?」

 

「いや、今はそれしかできないだろ。彼女にこまめに声を聞かせてあげなさい」

 

ロンドンの夜も十分にふけ、いつも泊まるホテルのレストラン兼Barへ。はしご酒、やはりシャブリ。食べ残すのを承知で好物のラムショルダーのスローローストを注文。

 

明日は社有車で高速道、M4、M25、M3でウォーキングへ向かう。M4は混雑するが、後はたぶん、大丈夫。

 

最近はメールばかりだ。所長に感化された訳ではないが、まきちゃんに電話してみよう。

 

「もしもし、雅彦だよ」

 

「まさ君? おはよう、じゃなかった、今晩わだね」

 

「まさ君の声聞くの久しぶりね」

 

「うん。少し忙しくしてる」

 

「今、お母さんに代わるね」

 

「えっ? 急に、なに?」

 

「そちらでの私が欲しいなら、まずお母さんを口説かなきゃ」

「まさ君上手でしょ。女口説くの。やってみて」

 

30秒くらいのサイレント、僕は少し、ドキドキする。

 

「もしもし……」

 

「こんにちは、真由美の母ですが」

 

少し緊張して、

 

「加藤です。お母様とは一度お会いした事が……」

 

クスクスと笑い声、

 

「まさ君、ウソよ、私よ」

 

「びっくりした」

 

「でもね、母はまさ君の事すごく良く思っているよ。家にきた時、仕事先への連絡で電話をかけたりしたでしょ。素行もみていて、あの子は素直だって。好印象よ」

 

「そう、最近まさ君の周りで、女子にまつわるエピソードはない?」

 

「ないよ」

 

「本当?」

 

「絵はがきを送ってくる子はいるけど、二人」

 

「やっぱりね」

 

「ちょっとね。会社がらみの友人達の間で、まさ君のことで話題があがったから」

「私会社やめるけど、女友達の人脈は受け継ぐの」

 

「何?」

 

「まさ君は、女の子に優しいしモテるから、女子の話はどうなんだろうって」

「まさ君、ある意味のん気で鈍感だから女子のアプローチに気づかないだろうけど。やっぱりか」

「自然な好かれ方ならいいんだけど……。不穏な噂もあってね」

「この話はまた後でねっ」

 

 

ーーーーーーーー

 

 

高速道M4は上りほどではないが、下りも混んでいた。まあ、慣れっこの道。

 

“自分の周りにアンテナを張っておけ。だれがみているか分からない”

“まさ君、ある意味のん気で鈍感だから気づかないだろうけど”

 

なんだろう? 僕はそんなに鈍感……、なのかな?

 

さて、M25ロンドン・オービタルに入る。ロンドンの周囲を繋ぐ全長約200kmに渡る大環状高速道路。いつもより少し混雑している。

第24話

 

「おはよう。かとちゃん」

 

所長はかなりの上機嫌である。

 

「オランダ駐在おめでとう!」

 

人事の通達を見ている。9月1日付けの人事。

 

8月31日付けの人事で、まきちゃんが退職する事が確かめられた。一番大事なものが、一番遠くへ行ってしまう気分……。

素直に自分の人事に喜べない。

 

まきちゃんからメールが入っている。

 

『遠くにいても、お互いのどんな小さな事もたぐり寄せて時を大事に重ねていこうね』

『気張らずに歩いているまさ君が好き。まさ君、たくましくなったし』

『私は会社を去るけど、私が誇りに思うようなまさ君になっていってね』

『穏やかにいこう、気をつけようね。愛しすぎる事は、愛せないと同じになるからね……』

 

真由美

 

「かとちゃん、早速お祝いだ。一杯やろう」

 

「はい」

 

「いいかい、新規事業のキーワードは白地図だ。皆で連携、きちんと選んだ色を塗っていこう」

「君はプロジェクトリーダーだ」

「分かるな、絵付け加減の監査役だ」

 

「はい」

 

「車だが、社有車として近日中にAudiが貸与される。今のレンタカーは返却するように」

「中途解約だ。相手に日本人式のお礼を忘れるな」

 

「ホームステイ先は当面そのままだ」

「遠からずかとちゃんも、いい人を連れてくるだろ。そのときはアムスもいいが、日本人の多いアムステルフェーンや、かとちゃんの好きな花市場のあるアールスメアにでも家を借りたらいい」

 

久しぶりの地中海レストラン。

所長は笑顔でウゾをたしなんでいた。僕は、相変わらずのシャブリ。

 

とにかく肉料理のボリュームがすごい。ドライエージングポーク、サーロイン。食べきれない。

 

「早速来週、トリノとサンレモに向かってもらう。君のプロジェクトメンバーの留学関係のためだ」

「滞在手続きなどの関係で、役所や銀行に出向かなければいけない」

「かとちゃんには面倒をかけるが手伝ってやってくれ」

 

「分かりました」

 

「トリノはその後留学生に任せる。サンレモ近郊へは、君がこれからちょくちょく行く事になる。よろしく」

 

「はい」

 

トリノへはトリノ空港、サンレモへはニースのコート・ダジュール空港からモナコを通りレンタカーで。天候が良ければ、飛行機の窓からスイスアルプスがられる。神々の屋根、絶景である。

 

そう、イタリア語はまだ初心者、多少難儀するのは覚悟している。車の運転もトリノ市内中心部などはかなり気をつけなければいけない。

 

「飛行機の遅延、相手先とのアポの遅延も計算に入れてな」

「俺もトリノでの仕事のアポで三時間待たされたことがある。シエスタの時間感覚だ」

「運転はくれぐれも事故に会わぬよう、起こさぬよう十分注意すること」

「女の子の事故もな」

「まあ、かとちゃんにはいい人がいるから心配ないだろうけど」

 

「はい、了解です」

 

食事を終え、所長が誘う。

 

「かとちゃん、Ruthの店に行こうか?」

 

「いいですよ」

 

昨日の今日だが……。

 

二人してシャブリを頼む。

 

僕が話を切り出した。

 

「実は今、三人の女の子と関係があって……」

 

「何?三人? 皆としてるのか?」

 

所長は笑う。

 

「違います。一人は彼女、二人は通りすがりの観光の子です」

 

所長の単刀直入な言葉は生々しい。

 

「かとちゃん、青春だ。出来るだけしておけ」

「14の春に帰るすべなし。何人も青春時代には戻れないんだ」

 

「だから、違うんですって。僕が愛してるのは一人だけです」

 

所長は笑う。

 

「甘いだけの危険な恋には落ちるなよ。本当に愛しあっていたら傷つけ合わずにうまくやれ」

「愛という名は綺麗に響くが、傷つく心の舐めあいになったら……、悲しいことだからな」

 

所長は珍しくバランタインの17年ものをRuthに注文した。

 

「17年前の自分に帰る。いい香りだ」

「I was doing a Master's degree……」

(俺が、大学院生の頃だ……)

 

Ruthがカウンター越しに微笑んでいる。

 

所長はよく、女性は愛に一途であり、そして、女の子の体と心の快楽は、ゆっくり果てなく育まれていく。幾つになっても。そのために男は常に女性に気を配り、エンターテイナーであるべきだ、という。お付き合いも、性の大切さも。

 

所長は大学院時代に同じ大学の一年下の女性と同棲生活をしていた。いつも何をするにも一緒だったとの事。

 

しかし、ある時、転がり込むようなスピードで別れてしまったらしい。所長曰く、自身のエンターテイナー失格、過ぎてしまったと言う。

 

所長は話す、

 

「激しく燃やし続ける愛というのは、冷たい別れと背中合わせだ」

「過ぎるのはよくない。ほどほどがいい」

 

所長はロックのバランタインを飲み干した。

 

「かとちゃん、そろそろ帰ろうか。」

 

「僕は、もう一杯だけワインを飲んだら帰ります。」

 

お腹はいっぱいだ、アルコールも十分だけれど……。

 

「タフだね。わかった」

 

「絵はがきの女子のお二人様には気をつけてもいいぞ……、少しきな臭い。横やりは出さないけれど」

 

所長が帰ったあと、メールを確認。

 

おっはー まさ君

 

『裸で寝てたよ。ご存知通り、まさ君が確認したまんまだよ』

『ホントよ、再確認する?』

 

『本日は晴天なり。雨も風も何もないよっ』

『まさ君への妄想をたよりに空と風を眺めるよ』

 

真由美

 

『P.S.  まさ君がいないときに愛を研ぎ澄まし、まさ君といるときに愛を強くする』

『ポジティブに行こう!』

 

まきちゃんの心を優しく包み込みたい。離れていて傷つけないように。燃え過ぎないように。

 

穏やかに。

 

「Nog een wine, Alsjeblieft」

(もう一杯シャブリ)

 

「Ja, Alsjeblieft」

(はい、どうぞ)

 

Ruthは、ワイングラスを丁寧に拭きながら、黙って僕を優しく見つめる。

 

なんて深くて青い瞳。

第23話

 

食事を済ませ、亀田さんをホテルに送りとどけた。

 

亀田さんのホテルのBarに誘われたが丁重にお断りした。ホームステイ先まで来たので夕食をご馳走したが、あくまでそこまで。

 

明日から新規事業業務、そして駐在のための始動開始。

早くベットに入らなければならない……、しかし、まきちゃんとの成田での重ねた時間、シャワーの前にもう少しだけそのままの身体に……。

 

RuthのBarへ。

 

「Hi, Ruth」

 

いつものシャブリ。チーズはアムステルダムオールドとゴーダ。

 

「We want to see everyday, but we won’t……」

(お互い会いたいのに会えない……)

 

Ruthは言った。

 

「So, you could probably find her feelings?」

(さて、あなた彼女の気持ちが分かったでしょ?)

 

 「I believe, she is greatful to you.」

(彼女はあなたに感謝してると思うわ)

 

うつ向き加減の僕へ、ルースは少し心配げに、

 

「You have faced some trying time.」

(あなたたちは難しい時期)

 

「Everything O.K. now」

(今はそれでいいの)

 

Ruthは微笑んで、

 

「Masa, don’t jump the gun.」

(マサ、あわてない、あわてない)

 

カランカランと、もう随分の深夜なのにBarの扉が開く。

 

「One person」

(こんばんわ)

 

「Hi.」

(いらっしゃい)

 

亀田さん!なんでここへ?

 

「Do you know her?」

(お知り合い?)

 

「Yes……」

(うん)

 

「大家さんに聞いたの。加藤さんの行きつけのBar」

 

Franceには個人情報、守秘してもらわなければ……。

 

「Is she a girlfriend of you?」

(お友達?)

 

「No, she is a girl who are traveling as a tourist.」

(観光で旅している女の子だよ)

 

「I’ll take a beer, please」

 

彼女はビールを注文した。

 

「もうお腹はいっぱいだけど、何かおつまみに良いものあれば教えて下さい」

 

「じゃあ、ビッターバレンを頼もうか」

 

「丸い小さな揚げ玉、ピンポン玉よりやや小さい肉団子に似ていて、中に引き肉と甘い香辛料ソースが入っている」

「オランダの歴史あるクロケットだよ」

 

「Ruth, Bitterballen, please」

 

揚げたてのビッターバレン、そして好みでつけるマスタード。

 

「これ、日本のコロッケの元祖となったクロケットと言われているんだ」

 

「本当?すごいすごい!」

 

亀田さんは話しを切りだす。

 

「加藤さんの彼女の話、もう少し聞きたくて」

「遠距離恋愛大変でしょ?」

 

「うん、世の中で僕たちだけがそうじゃないのが救いだけどね」

 

「近くにいても分かり合えない人たちもいるしね」

「男子は以外に鈍いのよ」

「変わるのよ、毎日毎日、女の子は」

「1日の内だって、澄まし顔、笑顔、そしてふくれ顔」

「女の子は1人でも色々な女の子なの」

 

僕は相打ちがてらに呟いた、

 

「彼女はとても綺麗になっていたよ、身も心も変わってた」

 

「彼女からみた加藤さんも似た様なものだよきっと」

「海外で大きな仕事をまかされ、自分に奢らず成長してるでしょ」

「彼女も加藤さんのたくましく変わった姿と心を愛してみて、あれっ?少し違う、と戸惑ったんじゃないかしら」

 

「ちょっとメールするね」

 

「うん」

「彼女に?」

 

「うん。彼女と会社」

 

池上次長殿

 

『無事アムスに着きました』

『次長のおっしゃられたとおり、新規事業は1からではなくゼロからのスタート』

『皆でプランニングした白地図に、ひとつひとつ僕なりの色をつけてお見せして参ります』

 

『よろしくご指導のほど、お願い申し上げます』

 

加藤雅彦

 

 

まきちゃん

 

『無事アムスに着いたよ』

『ありがとう、愛とぬくもりを』

 

『これからも自分を愛せる自分になる』

『まきちゃんで、僕は動いている』

『必ず迎えにいくよ。そんなときがきっと来る』

 

『愛だけでは今はなにもできない』

『お互い、それが分かっているから辛いけど……』

 

『僕は、僕のできる最良のものを、まきちゃんに与え続けるよ』

 

雅彦

 

亀田さんをホテルまでタクシーで送り、僕もそのまま帰宅。

 

深夜1時半。やっと帰宅。

大家はとっくにお休みだ。

 

シャワーを浴びてベッドへ寝そべる。絵はがき2枚。

今さっきまで会っていた亀田さんと、橋本美和さんからだ。

 

拝啓 加藤さん

 

童話の中から飛び出したようなチボリ公園。最高でした!ディズニーランドのモデルになったという話も納得。

 

ハンブルクもすばらしい夜景だらけ!ハンブルク・スカイラインの絶景!

ブラームスの生誕地だったり、ビートルズが下積み時代を過ごしたりした街並。

ソーセージやハンバーグは超美味しいし、チーズのアソートも最高(山盛りには参った!)

 

ハンブルグ、堪能してからアムステルダムに向かいます!

 

麻友

 

そう、チボリ公園。ディズニーはディズニーランドの構想に、アンデルセンもここで童話の構想を練ったらしい。

夜のチボリ公園は眩い光と陰の織りなす美しい空間。僕はたまたま公園内の劇場で、運良くシカゴ交響楽団のベートーベンの交響曲第7番を聞けたことも思い出した。

 

そういえば、亀田さんには気になる癖があった。日本料理屋でもRuthのBarでも、時折人差し指を唇にあてる。脳裏に残る仕草だ。

 

橋本さんからの絵はがきには、どうして牛の写真が……。この前の赤ポストの写真はイギリスから。牛の写真はここ、オランダからのもの?

 

前略 加藤さま

 

お元気ですか?

 

私は旅を終え、普通のOL生活に戻ってます(苦笑)。

真夏。爽やかで過ごしやすいヨーロッパとは違い、東京はご存知通りの暑さです……。

 

海外旅行に行けただけでドラマなのに、加藤さんに会えたのは奇跡です。嬉しかった。

 

さて、ちゃんと私の住所を書いておきますね。暇があればご連絡ください。

 

橋本美咲

 

この二人の女の子からの、絵はがき達……。

 

第2章

 

第22話

 

「Ladies and Gentlemen, we have arrived at Amsterdam, Schiphol 

Airport, where the local time is now ten minutes past fifteen.」

(ご搭乗のみなさま、ただいまこの飛行機はアムステルダム・スキポール空港に着陸いたしました。現地時間、午後15時10分でございます)

 

「さて、アムス」、気を引き締める。

 

P3 Long-term Parking、車に乗り込む。まきちゃんに電話。

日本時間午前0時、繋がらなかった。

 

高速、A4に乗りアムス市郊外、ホームステイ先へ。

A10から降り、家に近づくと、日本人?らしき女性が、腕を後ろで組み家を見上げている。

 

「亀田さん?」

 

車を駐車スペースに止め、問いかけた。

 

「あっ、加藤さん!お久しぶり!」

 

「どうして此処にいるの?」

 

「メール見たでしょ。アムステルダムに行くって」

「観光は一段落したし、加藤さんにお礼方々ご挨拶しようかなと思って」

 

僕は驚きはしなかったが、オランダに帰国してすぐの事態、少し拍子抜け。

 

「日本に出張していたんだ」

 

「そうだったの」

 

「亀田さん、これからどこへ向かうの?」

 

「今晩アムスで一泊して、明日ロンドン・ヒースロー経由で日本に帰国するの」

 

どうやら、ハンブルクからロンドンへ行かず、わざわざ僕に会うためアムスに来たらしい。仕方がない。

 

「一緒に夕食でも食べようか?」

 

「はい」

 

彼女は微笑んだ。

 

「オランダ料理、イタリアン、中華、和食、その他あるけど、何にする?」

 

「じゃあ、和食で」

 

トラム(路面電車)に乗り込み、行きつけの日本料理店に入った。

 

「おや? 加藤さんデートですか?」

 

店長がにこにこして話しかけてきた。

 

「そんなもんです」

 

と軽く挨拶した。

 

亀田さんは、微笑んで、

 

「加藤さんには恋人がいるんでしょ?」

 

柔らかな口調で質問して来る。

 

「うん、いるよ」

 

まきちゃんのぬくもりを思い出し答える。

まだ、ほんのさっきの日本でのこと。

 

「なるほどね……。加藤さん、世間の女子はほおって置かないわね」

 

「もしかして、オランダにいるの、彼女? もしかしてオランダ人だったりして」

 

「いや、日本にいる、日本人だよ」

 

「遠距離恋愛?」

 

「まあ、そんなもんだよ」

 

正直、僕は、意味がないか言葉だけ多い男女の会話は好まない。

 

「亀田さん、最初に何頼む?ビールでいい?」

 

「うん」

 

「店長、ビールといつもの升酒、お願いします」

 

「承知致しました」

 

亀田さんが驚いて、

 

「海外での和食って、結構お値段高いのね」

「よく考えたら、ヨーロッパで初めて日本食レストランに入ったの」

「何を頼もうかな……」

 

「鉄板焼きでいいかな、おごるからね」

「さて、どんな旅程だったんだっけ?」

 

僕は、男女の会話を避けるよう、先制して彼女のヨーロッパ一人旅の感想を聞く事にした。

 

「イギリス、フランス、コート・ダジュール、デンマーク、ドイツ。楽しかった」

「約一ヶ月、ヨーロッパの一人旅、堪能しました」

 

あちらこちらで見聞きした話の聞き役で、楽をさせていただく。

 

「亀田さん」

 

僕が話しかけると、彼女は箸をおいて、

 

「みんなに麻友ちゃん、と呼ばれているから麻友ちゃんで、お願いしまーす」

 

彼女は、少し酔いがまわってきたらしい。

 

「鉄板焼き、すごく美味しい!」

 

お互い若いとは言え少し疲れているので、値は張るが鉄板焼き。この店の看板料理だ、精もつく。ここのは最高、相変わらずの美味。

 

「渡り鳥ライン、どうだった?」

 

「加藤さんも乗った事あるんですか?」

 

「ああ、あるよ」

 

「もう感動ものですよね!」

 

「うん」

 

「船底にレール、列車丸ごと入るんですよ!」

「フェリーは風光明媚だし」

 

「もう、最高でした」

 

渡り鳥ラインはもちろん美しかった。でも僕は、デンマーク人の列車の売り子の女の子の、息を飲むほどの美しさの方が鮮やかに脳裏に残っている。その子のつけていたエプロンの色、模様さえ憶えている。

 

「麻友ちゃん、もう一杯ビール頼む?」

 

僕は、酔いが少し過ぎていたが、升酒を追加で頼んだ。

 

めずらしく、こころがお酒に飲まれたい気分。麻友ちゃんと一緒にいるせいではない。

まきちゃんのコーデ・香り、そして何よりぬくもりをまだ、鮮明に憶えているのだから。 

第21話 (第1章 最終話)

 

「朝食、何にする?」

 

「まさ君は?」

 

「まきちゃん」

 

「あら、お上手ね。じゃあ夜食が過ぎたから、朝食抜きね」

 

「コンチネンタルにしようか?」

 

二人して微笑む。

 

パンとバター、ジャム、ハム、チーズ、フルーツ、ヨーグルト。シンプルなコンチネンタルブレックファースト。

 

「飛行機の離陸っていつ見ても飽きないね」

「まさ君も、行っちゃうんだね……」

 

銀の翼、離陸の見える窓際の席でお互い同じ方向を見つめ合っていた。

これから二人、恋も同じ方向を見つめ続けていけるのかな?

 

「夏休みの申請、まだなんだ」

「オランダに帰ってすぐだけど、まきちゃんに会いに日本に帰ってこようかな」

 

「守れそうにない約束はしない方がいいよ」

 

まきちゃんは、神妙な顔をして、

 

「実はね、私、会社を辞めるの」

 

「えっ!どうして?」

 

「二度、通勤途中に貧血で倒れたの」

「通勤時間が一時間半くらい、意外に大変で……」

「お医者さんに、無理しないようにって言われたのがきっかけ」

 

「まきちゃんの家から本社は遠いことは知っていたけど、貧血で倒れたことは知らなかったよ……」

「体が一番大切だからね」

 

「うん」

 

まきちゃんとは恋心だけでなく、同じ会社の社員としても繋がっている。

社員同士という、家族に似た安堵感が崩れてしまう。

 

なんとなく、会社を辞めるのは貧血だけの理由ではなさそうな気がした。

まきちゃんとの距離が遠のいてしまわないかな……。

 

まきちゃんは誰にも渡したくない。

 

「まきちゃん、本当に本当なの?」

 

「嘘はつかないよ」

「いや、美しい嘘は好きだけど、会社を辞めるのは本当」

「まさ君への気持ちは変わらないよ」

 

澄みきっている彼女の瞳は嘘をついていない。

 

しかし、

 

「駐在なんだね……」

「4年だね……」

 

急に、震えた子犬のような目を伏せ、寂しげにまきちゃんは呟いた。

 

ーーーーー

 

二人、無言のまま足を進める。

 

途中、その足が一人分だけ。

もう一人分は、神様が僕に背負わせた……。

 

セキュリティゲート。

 

まきちゃんは、僕に、ちぎれるほど手を振る。

第19話

 

スケジュールは二日間、ホテルに缶詰状態の新規事業立ち上げ初会議。

海外勤務、研修組は時差ぼけのせいもあり、少しばかり辛そうだ。僕は大丈夫。

 

新規事業は大きく分けて、調査・研究班、そして生産・営業班で構成される。

僕は調査班のプロジェクトをまかされる。身が引き締まる。

 

「かとちゃん、お久しぶり」

 

二日目に、新入社員の頃からお世話になっている新規事業部長が合流した。

 

「いいかい。これからの仕事では、会議や打ち合わせでも単なる情報収集だけではなく、その時、その場で自分が感じたもの、なんでもいい、その場でしか浮かばないアイディアや思考をすぐさま書きとめておくことが大切だよ」

「常識、既存の理論にとらわれないように」

「それは他人の考えた結果で動いていることと同じなのだから」

 

「自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい」

「君は、君が本当になりたいものを、すでによく知っているはずなのだから」

「だから、君を選んだ」

 

「ありがとうございます」

 

僕は部長の言葉を心に刻んだ。

 

ーーーーー

 

スケジュール通りに会議を終え、成田へ向かう。

あっという間の二日間。電車のデッキでまきちゃんに電話。

 

「ホテルは母親にとってもらったの。領収書は女子会の宿泊代として、と書いてもらう」

「うちの親には成田で女子会があるから、と話しておいたのよ」

「まさか彼氏と会うため、みたいなこと領収書に書けないでしょ」

 

「うそは良くないかも……」と僕が呟くと、

 

「私もいやよ」

「じゃあ但し書きに、まさ君と寝るため、と書いてもらう?」

 

僕もまきちゃんも笑った。

 

「まさ君、愛してる?」

 

「突然?何?」

 

「だから、まさ君、愛してる?」

 

「まきちゃんのこと、愛してるよ」

 

「ちがうちがう。まさ君が自分の事、自分自身愛してる?」

 

言葉の意味がよくつかめなかった……。

 

「私が求めているのは、自分自身を愛しているまさ君なの」

 

まきちゃんは平坦な口調で、

 

「自分を愛して」

「意味分かる?」

 

「分かりそうで分からない」

 

「もうすぐ分かるわよ。成田でね」

 

 

第20話

 

「もしもし、次長ですか?」

 

「ああ、加藤君。無事成田に着いたか?」

 

「はい、予定通り成田に着きましたした」

 

「ホテルでゆっくり休んで、オランダに戻ってくれ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

少し疲れた腰を伸ばし、タクシーでホテルに向かう。

 

1Fのロビーのソファーで一息ついた。

まきちゃんはもうチェックインしているのだろうか?

 

「もしもし、まきちゃん。今何処にいるの?」

 

「女子会中よ」

 

「えっ?」

 

「まさ君の後ろにいるよ」

 

「まきちゃん!」

 

「おーっす。女子会へようこそ」

 

彼女は最高の笑みで僕のソファーの隣に座った。とても奇麗になった。白のタイトスカートと白ブラウス、クリーンな印象を与えるオールホワイトコーデ。夏の

お姫様と形容しても構わない。ロビーの皆も彼女に注目している。

 

「まさ君、チェックインしたの?」

 

「まだだよ」

 

「まきちゃんは?」

 

「まさ君にチェックインした」

 

「えっ?」

「まきちゃんが予約している部屋は?」

 

「まさ君と同じ部屋。体一つで来たんだから」

 

「まきちゃんのお母さんが女子会の宿泊で予約したんじゃなかったっけ?」

 

「ウソよ。24にもなってお母さんにホテル予約頼む?」

 

僕はダブルのシングルユースで予約していた。

カウンターへ行き、慌てて二人で宿泊する変更手続きを済ませる。

 

二人して自然とロビーからの目線が隠れる場所、人影のない場所へ向かう。

 

二人黙って静かに体を寄せ合う。

華奢な体を優しく抱きしめた。長い口づけ。

 

「どう?私に感謝?」

 

「うん」

 

「どうする?」

 

「スキンシップって大切だよね……」

 

「まさ君、自分自身、愛せてるよね?」

 

「うん、大丈夫」

 

「では、よし!」

 

静かに部屋のドアを閉める。

今度はしっかりとまきちゃんを抱きしめる。

 

シャワーの後、初めてお互いを確かめ合った。

 

ーーーーー

 

まきちゃんは少し寂しげに話す。

 

「そう、この夏やっぱりオランダには行けないよ」

「ごめんね……」

 

僕は、まきちゃんの寂しい気持ちに追い打ちをかけることを承知で、9月1日付けの人事の件について話した。

 

「実は……」

「正式にオランダ駐在が決まったんだ」

 

まきちゃんはしばらく僕を見つめ沈黙していた。

 

「どれ位?」

 

「4年」

 

「4年?」

 

お互い目をそらして沈黙。

 

「まさ君。明日が見える魔法を教えてあげようか?」

 

「なに?」

 

「私の後に続いて、同じ言葉を唱えてみて」

 

「うん」

 

まきちゃんは呟いた。

 

「さよなら」

 

僕はためらいながら、

 

「さよなら……」

 

まきちゃんは笑顔で、

 

「さて、これからの新しい二人の物語をどう料理するかよね」

 

「Starting Over、やり直し」

 

そして、恥ずかしげに、

 

「もう一度、ファーストステップから」

「信じさせて、まさ君のぬくもりで……」

「私に感謝して」

 

ーーーーー

 

「領収書はダブルのシングルユース分の金額だけで」

「但し書きは宿泊費として、でお願いします」

 

領収書をみてまきちゃんは笑った。

 

「あれ?女子会の宿泊費としてじゃなかったっけ?」

 

第18話

 

定刻、成田着。

 

ボーディングブリッジ、蒸し暑い。まさに日本の夏。

 

空港の”おかえりなさい”のビルボード。目にもこころにも、とても優しい。

 

まずは、すぐにメールをチェックしたが、まきちゃんからの返信がない……。

その代わり、亀田麻友さんからのメールが。

 

 

こんにちは 加藤さん

 

『ハンブルクの後、予定を変えてアムステルダムに向かう事にしました』

『是非会いたい!』

 

『会えますか?』

 

麻友

 

 

携帯をポケットにしまい、ターミナルビルを出る。

 

「加藤君久しぶり」

 

成田では、R&D担当次長、池上さんが出迎えにきてくれていた。

 

「9月1日付けで、オランダに駐在員として4年間駐在してもらうからね、よろしく」

 

「えっ?」

 

いきなりの口頭辞令。

 

黒塗りのワンボックスカーに乗り込む。車内のシートとクーラーが体に優し

い。

 

「直接長野に向かうよ。車中、早速打ち合わせ開始だ」

 

「はい」

 

「新規事業立ち上げの件だが……」

 

「はいっ」

 

池上次長が大まかな新規事業のあらすじを僕に話し始めた。

 

「加藤君には、欧州圏内を頻繁に駆け回ってもらう事になる」

「よろしく頼むぞ」

 

僕は調査班のプロジェクトリーダー。情報収集でヨーロッパ中を駆け巡る。しかして、各国間の飛行機での移動は、せいぜい長くて2時間少し、日本人が日本で思うより、欧州内の国間の移動は苦にならない。

 

僕に限って、欧州のどの国でもレンタカーの使用が認められるらしい。

基本、海外組の移動手段にはタクシーを使うのが普通だが、それは二つの理由によるかららしい。

 

一つは、丸一日タクシーをハイヤーしても経費的にも何ら問題ないが、第三者への情報漏洩が起きる可能性が無いとは言い切れないため。

もう一つは、僕に自由度を与えて、探していないのに見つかる何かの面白さ、大切さを経験させたいらしい。

 

「加藤君は若いから大丈夫」

「君の欧州での車の安全運転技術は、アムステルダムオフィス、ロンドンオフィスからもお墨付きだ」

「ただ、南方面の国での運転は気をつけろよ」

 

確かに、欧州では、南に行くほど車の運転が荒いと思う。

レンタカーは薄汚れている。車を借りる際には、”車を洗車しないで使用して欲しい”という会社もある。車を綺麗にしてしまうと、路上狙いのターゲットにされる場合が多いらしい。

 

「君には管理職ではないが、4つのうちの一つのプロジェクトリーダーとして事に当たってもらう」

「メンバーは4人」

 

「アムステルダムオフィスには?」

 

「君1人のままだ」

「ただし、日本に2人、イタリアの大学に1人留学生を配置する」

 

「了解しました」

 

一通り次長の話しが終わると、仕事から離れ、僕のヨーロッパでの暮らしやエピソードで話がはずむ。

 

「そろそろ遅い昼食にしようか」

 

諏訪ICで車は降りた。

 

「どうだ、この店の牛の味は」

「ここの牛肉は、リンゴの餌だけで育てられた特上品だ」

「加藤君には初めてかな?」

 

「はい。初めてです」

「柔らかさ加減といい、味といい最高ですね」

 

「オランダでの牛肉の味はどうだ?」

 

「Tボーンステーキやテンダーロインなど、オランダもとても美味しい店が多いです」

「10人に1頭の割合で牛がいる国ですし」

 

「それは、とびきりいいはずだ」

 

次長が微笑む。

 

トイレに席を立ち、まきちゃんへ電話。

 

「もしもし、まきちゃん」

「日本に着いたよ」

 

「まさ君、すぐに、長野入りだっけ?」

「涼しげなところでいいなあー」

 

「一晩だけのデートになるけどいいかな」

「あの……、深夜で、はなやぐものは何もないけれど……」

 

と、話を続けようとする僕に、

 

「何も言わなくていいのよ、わかってるから」

「今、話しすぎる事は、話さないのと同じ」

 

少し間をおいて、

 

「時計の針も一緒になったね」

「私、行くから。必ず行くから」

 

僕はまきちゃんの柔らかく、しかして強い声を、心を、震える全神経で感じた。

 

「ありがとう、まきちゃん」

「まきちゃんで、本当に良かった」

 

クスクス笑い、

 

「変な日本語。なんでもう過去形なの?」

「会ってみないと、良かったかどうかわからないよー」

 

そして、真面目声に変わり、静かで平坦な口調で、

 

「私、とびきりいいはずよ」