第25話

 

「かとちゃん。急な話だが、今日の昼の便でロンドンに飛んでくれ」

「夕方にロンドンオフィスでイタリアに配置する留学生についての下打ち合わせだ」

 

「はい、分かりました」

 

「ついでにその後リッチモンドとウオーキングに行ってもらう。2泊3日」

「来週は、話した通りトリノ、サンレモとイタリア入りだ」

「あと、再来週はまたスコットランドでのアポだ、エジンバラにも飛んでもらう。そこから湖水地方だ、少し忙しいぞ」

 

「かなり……、忙しいですね……」

「あの……、ブリストルでの定期の仕事は?」

 

「今回は俺が対応するから、今、かとちゃんには新規事業立ち上げ準備に集中してもらいたい」

 

この調子だと、五日もらえる夏休みは二日と三日に分けて取らなければならない。最悪取れない。日本への夏休みの帰国は無理が確定。また、まきちゃんが万が一来るとしても、まとまった休みが取れない。辛い事態だ。

 

「お疲れさまだが、かとちゃんにはこれから色々重荷を背負ってもらわなければいけないからな」

「新規事業のプロジェクトリーダーである事を自覚してくれ」

 

神は荷物を負うように、人の背中を作る。イギリスのことわざだ。仕事もまきちゃんも。

 

アムステルダム・スキポール空港からロンドン・ヒースロー空港へ約1時間。いつものように、空港から地下鉄でオフィスへと向かう。

 

打ち合わせを終え、ロンドンオフィスを出ようとすると、所長から、

 

「いいかい、君のプライベートまで踏み込む事はしたくないが、業務の重要性を踏まえて品行方正を保ち、私的な人付き合いにも留意してもらいたい。よろしくな」

 

この意味合いはよく分かっている。業務はもちろん、私生活での行動にも気をつけねばならない。特に海外勤務組は、何者らから情報を仕入れるための罠を仕掛けられる人もいると聞く。

 

これまでも、それを肝に命じ仕事を続けているが、確かにプライベートの心の隙間に入ってくる何かの雰囲気を感じた事がない訳ではない。自己分析では、僕は鈍感ではない。

 

亀田さんと橋本さん?

 

“きな臭い……”

 

昨日、所長がBarで話していたが……。

 

二人ともただの観光客。亀田さんは大丈夫そう。行動力のある明るく気さくな女子だ。面と向かって話もしたし。しかし、橋本さんは知るはずのない僕の住所を知っていたし……、一方的に来る絵はがき……。

 

今日の宿泊はロンドン市内。運良く、ロイヤルフェスティバルホールでのブラームスチクルスの途中で、大学祝典序曲、交響曲第1番を堪能できた。なかなかの名演だった。自分へのご褒美。

 

ビックベンとテムズ川の夜景を見ながら遊歩道を一人静かに散歩する。いつ来ても落ち着く高貴な瞬間。

 

そう、前回此処で橋本さんに会ったんだ……。

 

職を失ったのか、帽子を足下に、悲しそうにクラリネットを演奏している男が一人。1ポンドを帽子へ投げ込む。”上を向いて歩こう”を悲しげに鳴らしてくれた。

 

テムズ川散策路とは好対照の、賑わうコペントガーデンのパブでの遅い夕食。

深夜10時。賑やかだが深夜は人通りが少なくなる。男の僕でも少し勇気のいる時間帯だ。ギネスを頼み、チキンとマッシュルームのパイ、そしてフィリッツ、キャロット、ビーズ。イギリス料理の美味しい店はパブを選べばそう外れはない。

 

 

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朝起きてすぐに地下鉄でリッチモンド方面へ。

 

「王立キューガーデン。これで6度目くらいかな?」

 

僕はキューガーデンにはよく足を運ぶ。3万種類以上もの植物がある王立植物園。往時のキュー王立植物園に、世界各地から資源植物が集められた。宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な植物と資料を有している。

学生時代植物同好会にいた僕には、たまらなく幸せな場所。

 

まずは、キューガーデンの近くにある幾つかの古本屋で書物を入手する。新規事業の仕事の一つだ。場所柄か、業務に必要な植物関係の貴重な古本がずらりと並んでいる。

 

「Hello. How may I help you?」

(いらっしゃいませ。何かお探しですか)

 

「Just looking, thanks.」

 

本屋では、探してもいないのに見つかる、そんな自分の人生を動かす本があったりする。業務の本を探しながら、自分の本にも巡り会うチャンス。

ロメオとジュリエットの古本の隣に、To protect me という気になる題名のライトノベルがあった。

 

書き出しは、”Every man I meet wants to protect me. I can’t figure out what from.”

(私が出会うすべての男性は、私のことを守りたいと言う。でも一体何から守ろうというのかしら?)

 

確かに、世界のどこでも聞く言葉。男性は女性の何を守るんだろう? 

 

古書を数冊取り置きしてもらい、ランチはキューガーデン内のカフェでとることにした。

食物繊維の豊富な全粒粉のパンにサラダとチーズとチャットニ―(チャツネ)が具になった、プラウマン・サンドイッチにした。少しパサパサしていて僕の好みではなかったが、セットで付いてる紅茶は最高に美味しかった。

 

ランチを済ませた後、少し植物園を散策。イングリッシュ・ローズのエレガンスと香りに魅了される。小一時間して古本屋に戻った。気になったフレーズの古本一冊は自分へのご褒美、併せて十二冊の古本を購入した。

 

「Thank you very much, indeed.」

(誠にありがとうございました)

 

「indeed」。この単語はイギリス独特。ミドルクラス(中流階級)やアッパーミドルクラス(中上流階)の人達に使われている。

 

今日はこの後、ロンドン市内に戻るだけ。オフィスで復命書を書いた後、フリーだ。

 

「加藤君、まだ随分時間があるが、今晩9時くらいになるが、一緒に夕食はどうだ?」

 

ロンドンオフィスの所長が夕食に誘ってくれた。

 

「大丈夫です。それまで市内を散策しています」

 

「いつものピカデリーサーカスのインド料理店だ。現地集合」

 

「はい」

 

9時まで3時間もある。今日はトラファルガー広場にあるナショナル・ギャラリーのレイト・オープニングの日、なじみ慣れた美術館。モネやセザンヌ、ダ・ヴィンチにも会える。名画の絵はがきのコレクションが多いのも嬉しい。

 

ディナーはピカデリーサーカスの行きつけの日本人もよく訪れるインド料理高級店。ピリヤニ、タンドリーチキン、ケバブそしてカレーにナン。本当に日本人の口に合う。インド懐石、ターリーも美味しい。

 

「ギネスでいいか?」

 

「いいえ、僕はビールじゃなく、スタートからシャブリにします。」

 

「シャブリ・プルミエクリュでいいか?」

 

「両方試してみます。スタートはシャブリでお願いします」

 

「加藤君。どうだね、新規事業を手掛け始めた感触は」

 

「まだプロジェクト体制が整っていませんので何とも……」

 

「君はなんでも集中しすぎると周りがよく見えなくなる癖があるから気をつけるように。また、先に話したとおり、プライベートでも気を抜かず自分の周りに留意して物事に当たってくれ」

「ほら、あそこの席のアジア系の人たち、我々をずっと見ている。」

 

「そう? ですか?」

「気づきませんでした」

 

「冗談だよ。常に自分の周りにアンテナを張っておけということだ」

「ここはよその国だよ。我々は異邦人なんだ」

 

「君は正式な海外駐在員になるんだ。いつどこで誰がみているか分からない。公私共に留意しろ」

 

所長はむずかしい顔をした後和らいで、

 

「しかし、海外組の遠距離恋愛はつらいな」

 

「えっ? 僕のことですか?」

 

「そうだ。顔に書いてある」

「フロイトじゃなくても分かる」

 

所長は笑みを浮かべる。

 

「女の子は耳で恋を深める」

 

「所長の持論ですか?」

 

「いや、今はそれしかできないだろ。彼女にこまめに声を聞かせてあげなさい」

 

ロンドンの夜も十分にふけ、いつも泊まるホテルのレストラン兼Barへ。はしご酒、やはりシャブリ。食べ残すのを承知で好物のラムショルダーのスローローストを注文。

 

明日は社有車で高速道、M4、M25、M3でウォーキングへ向かう。M4は混雑するが、後はたぶん、大丈夫。

 

最近はメールばかりだ。所長に感化された訳ではないが、まきちゃんに電話してみよう。

 

「もしもし、雅彦だよ」

 

「まさ君? おはよう、じゃなかった、今晩わだね」

 

「まさ君の声聞くの久しぶりね」

 

「うん。少し忙しくしてる」

 

「今、お母さんに代わるね」

 

「えっ? 急に、なに?」

 

「そちらでの私が欲しいなら、まずお母さんを口説かなきゃ」

「まさ君上手でしょ。女口説くの。やってみて」

 

30秒くらいのサイレント、僕は少し、ドキドキする。

 

「もしもし……」

 

「こんにちは、真由美の母ですが」

 

少し緊張して、

 

「加藤です。お母様とは一度お会いした事が……」

 

クスクスと笑い声、

 

「まさ君、ウソよ、私よ」

 

「びっくりした」

 

「でもね、母はまさ君の事すごく良く思っているよ。家にきた時、仕事先への連絡で電話をかけたりしたでしょ。素行もみていて、あの子は素直だって。好印象よ」

 

「そう、最近まさ君の周りで、女子にまつわるエピソードはない?」

 

「ないよ」

 

「本当?」

 

「絵はがきを送ってくる子はいるけど、二人」

 

「やっぱりね」

 

「ちょっとね。会社がらみの友人達の間で、まさ君のことで話題があがったから」

「私会社やめるけど、女友達の人脈は受け継ぐの」

 

「何?」

 

「まさ君は、女の子に優しいしモテるから、女子の話はどうなんだろうって」

「まさ君、ある意味のん気で鈍感だから女子のアプローチに気づかないだろうけど。やっぱりか」

「自然な好かれ方ならいいんだけど……。不穏な噂もあってね」

「この話はまた後でねっ」

 

 

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高速道M4は上りほどではないが、下りも混んでいた。まあ、慣れっこの道。

 

“自分の周りにアンテナを張っておけ。だれがみているか分からない”

“まさ君、ある意味のん気で鈍感だから気づかないだろうけど”

 

なんだろう? 僕はそんなに鈍感……、なのかな?

 

さて、M25ロンドン・オービタルに入る。ロンドンの周囲を繋ぐ全長約200kmに渡る大環状高速道路。いつもより少し混雑している。