第60話

 

南房の海は静か。

 

「どうしたんですか、奈美さん。いままでの奈美さんとは違いますよ?」

「私には奈美さんが自分の悲しみにがんじがらめで、希望が見えていないように思います」

「正直、そういう奈美さんは見たくないです」

 

「真由美さん、私は、もう……、疲れました」

 

「分ってますよ、森下さんのことであなたがとてもやるせなくて落ち込んでいるのは」

「そう、どんな時でも本当のことを話して下さいね」

「私に打ち明けて下さい」

 

「ありがとう、真由美さん……」

 

「大丈夫、あなたの友達ですから、信頼して下さい」

 

「はい」

 

「奈美さんはいつも自分に自信を持っていたのに、今、心が倒れそうになっているんです」

「心倒さず一緒に頑張りましょうよ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

波の音は穏やか。

 

「これから私たちの辿る道は、通り直しのきかない道なんですから、慎重に行きましょ」

「悲しんでいる場合ではないんです」

「物事、はっきりしなくて駄目、は良くないです。はっきりして駄目元なんですから」

 

沈黙の時が過ぎる。

波の音が少しざわめく。

 

「奈美さん」

「あなたも私も十分知っているはず。悲しみはどうしたらやってくるのか、傷跡を残して去っていくのか」

「気を取り戻しましょう」

 

「必要な真実がすべて手元にそ揃うまで待ちましょう。そしたら何かが見えてくるはず」

 

奈美さんは、うつむいていた顔をあげる。

 

「大丈夫。きっと神様がいます。呼びかける奈美さんの声が届く以前に、神様はすすり泣く森下さんに先に気づいているんですから」

 

「奈美さんの今の心を天の定規に当ててみましょ」

「何か狂いはありませんか?」

 

 

ーーーーー

 

 

Shibが話す。

 

「Masa-san, In my view, the proposed R&D plan is not going to benefit our company.」

(マサさん。私の見るところ、あなたが提案されているR&D計画は会社の利益にはなりませんよ)

 

「I don’t agree with Masa-san’s plan.」

(私はマサさんに同意できません)

 

Shibのビジネス感覚は鋭い。世界の商業国オランダ、まさにオランダ人的である。

 

「I think we should wait until we have all the relevant information at hand. 」

(必要な資料がすべて手元に揃うまで待つべきだと思います)

 

やはり、特許を申請する国の範囲、共同研究先とのその利益配分についてはグローバルな観点からして一筋縄にはいかない。スペインから帰って来たら、所長との要検討マターだ。

 

とにかく、今回バルセロナで行う仕事の下準備は済んだ。アムスへの家路につく。

 

車中では、マーラーの交響曲第5番を聞いて帰路へ。

 

第四楽章 アダージェット。身もこころも洗われる美しさ。映画「ヴェニスに死す」で使われている音楽。クラシック音楽で最も美しい旋律の一つ。

 

マーラーはこの甘美な第四楽章に、熱烈な恋愛をしていたアルマに対する想いを込めている。痛切なまでに込み上げる情感を湛えた、音楽のラブレター。

この楽章には、そうした恋愛の情を越えた、もっと崇高な祈りにも似た心境が感じられる。

 

ひとりの女性に対するマーラーの深い想いが、音楽によってここまで昇華されるのか。素晴らしい。まきちゃんにもお気に入りのシンフォニーだ。

 

アムス郊外。夕食は久々にイタリアンBar。

 

店の中は未成年も含んだ若者達で混雑している。

RuthのBarの気品高さ、静寂さとはまるで別世界。

 

「Japanese!Okonomiyaki!」

 

お酒で出来上がった若者が僕をみて話しかける。

 

「The Japanese  pizza is okonomiyaki!」

(日本人のピザはお好み焼き!)

 

テンションが高い。

 

「?」

 

注文する前にビールが運ばれてくる。

 

斜め前を見ると、親指を立てている賑やかな若者達。僕へのおごりだ。

おどけて、はしゃいでいるだけではない。彼らの粋な優しさがとても嬉しい。

 

「Pizza without fries, please.」

 

「So, I’d like everything, but anchovies.」

 

アンチョビだけのピザを注文。

 

「I'd like thin crust, please.」

(生地は薄いのにしてください)

 

ダンスミュージックが、大きなボリュームで店の空気、窓さえ震えさせている。

 

Bad Romance、Poker Face、Just Dance ft. Colby O’Donis

 

たまにはこういう雰囲気もいい。

 

大きい。大げさに言うと、座布団ほどの大きさのピザが来る。


この店では、ピザを折りたたみ半円状にし、フォークとナイフで食べる人が多い。僕もそうする。

 

まきちゃんへ

 

『今、イタリアンBarでピザを食べる。アンチョビの』

『奈美さんはどう?』

 

雅彦

 

日本時間はまだ早朝5時。メールは帰ってこない。

 

「さて、」

 

イタリアンBar店を出て、夜のオアシス、RuthのBarへ向かう。

騒がしい店と、すぐに変わる静かなたたずまいの夜の街。ドラマティクに変わるこの雰囲気が素敵だ。

 

エメラルド色の夜風も心地よい。本当にアムスはいい。この街の雰囲気。まきちゃんが隣にいれば……。

 

いや、いつでも一人じゃない。二人分だ。

僕は肌身につけているまきちゃんからのお守りを優しく握りしめる。

 

でも、やはりいつも足跡は一人分……。

 

「神様、僕はまきちゃんを上手く背負って歩けているのでしょうか……?」

 

一人つぶやき、RuthのBarの、優しさの扉を開ける。

 

第58話

 

時計の針は深夜1時を指している。

ひと通り、渡辺さんの彼との不倫話や思い出話しを聞いた。話は尽きるわけがない。

 

まきちゃんが話した通り、嘘の話もあっただろう。でも、美しい嘘なら聞き流せる。聞き辛い嘘はなかった。

 

「そろそろ帰りましょうか、渡辺さん」

 

「はい。加藤さんでよかった。これから自分が生きていく励みになりました」

「I was here. 本当に、加藤さんでよかった」

 

肝心の森下さんの話。重要な情報が手に入った。

 

森下さんがある日、日本料理店で食事をしていてトイレに席を立った際に置き引きにあったらしい。場所は窓際のちょっと荷物を乗せておくテーブルの影にある棚。盗まれたものは書類の挟んであるバインダー。

 

「森下さん、警察を呼んで被害届も書いたんです」

「警察と店長しか見られませんでしたが、防犯カメラには置き引きにあった棚の場所は映っておらず、アジア系のお客様や私たち従業員が近くを横切った影だけが映っていたらしくて」

 

「私たちスタッフも当然のこと全面協力いたしましたが、置き引きはほとんど捕まらない犯罪だと警察に言われて……」

 

「その書類はなんだったんですかね?」

 

「森下さんは”とても大切なもの”、としか言わなかったんです。それ以外の表現をしませんでした。金銭に関わるものではないそうでしたが」

 

「森下さん、諦めませんでしたか? 海外で置き引きに会うと、ほぼ犯人が捕まることはないですよ。森下さん自身が、よく知っていると思うのですが」

 

「書類のバックアップはあったらしいのですが、やはりそれがどうしても必要なものだったらしくて」

「森下さんが分かるところまで独自に捜査したいというので、私とそして不倫していた彼とで協力していくことになりました。お店には内緒で」

 

「お客さんの、洗い出しみたいなものもですか?」

 

「はい。もちろんそれが中心です。アジア系の方は、常連さんである可能性もあると推察されましたし」

「ただ、お客さまの高度な個人情報に関わる問題ですから、店の休日に合わせて3人で、他の従業員には内緒で過去の顧客名簿、名刺を調べたりもして……」

 

結びついた。森下さんと渡辺さん、そして不倫していた彼。

そして森下さんが、あたかも渡辺さんの彼氏の様に振る舞うことになった理由も。

 

 

ーーーーー

 

 

「まきちゃん。重要な情報でしょ」

「でも、それと今、療養所で養生しなければいけない森下さんの置かれている状況とは直接結びつかないよね」

 

「まさ君、その女の人の話が本当だったら、森下さん、何か弱みを捕まれたのかもしれない」

 

「えっ? 渡辺さんたちに弱みを……?」

 

「違う違う。置き引きした人からよ。いや、人たち、組織かもしれないし……」

「いや……、違うかもしれない……」

「今のところ分からない」

 

なんだか、さわがしい風が吹きそうで僕の心が慌ててる。

 

「まきちゃん」

 

「なあに?」

 

「ありがとう……」

 

「うん。まさ君をちゃんと守るから安心してね」

「いい、今日の話も、まさ君には全く関係のない話なの。まずは忘れて。こっちで調べる、奈美さんと」

 

「まさくん。深入りしないでね」

 

 

ーーーーー

 

 

オフィスの机一杯に白地図を広げる。

訪れた国、州そして地方など、仕事の内容別に細分し、それぞれの色を丁寧に塗っていく。

 

「おはよう、かとちゃん」

 

「おはようございます」

 

「今日の夕方からワーへニンヘンに行ってきます」

 

「よろしく頼むよ。Shibにもよろしく伝えてくれ」

 

「はい」

 

今晩はワーへニンヘンに宿泊する。

出張や休暇のおかげで、仕事が山のように残っている。コンサルタントのShibの力が必要だ。

 

「所長、日本料理店の渡辺さんがお店を辞めるみたいです」

 

「そうか……、寂しくなるな」

 

昨日、彼女と飲んだことは、話すことを止めた。

森下さんの話題が出た。話してはいけない、そんな空気が流れている。

 

所長は後ろを向いて、森下さんと彼女の関係を知ってか知らぬかのように捨て台詞を僕に投げかける。

 

「かとちゃん。深入りはするなよ」

 

まきちゃんとは別な意味で、同じ言葉を言っている……。

 

 

 

第59話

 

「明後日からのスペイン出張の準備はどうだ?」

 

「まだ半分くらいです。明日Shibと、R&Dの特許の範囲・評価の基準について煮詰めます」

 

「よろしくな」

 

「俺はこれからハーグに行く。用事があったら電話をくれ」

 

「分かりました」

 

所長は、日本料理店の渡辺さんという言葉を聞いた後から少しイラつき気味だ。行ってきますも言わずハーグへ出かけた。

 

MonicがBGMで The Police / Synchronicity のアルバムをかける。Every Breath You Take (見つめていたい)。いつ耳にしてもいい曲だ。

 

Every breath you take

(君が息づかいをするたびに)

 

Every move you make

(君が動くそのたびに)

 

Every bond you break

(君が絆を破るそのたびに)

 

Every step you take

(君が歩くそのステップの全て)

 

I'll be watching you

(僕はいつでもずっと見つめているよ)

 

まきちゃんの可憐な姿が脳裏に浮かぶ。

 

「時間はいつでも何処でも、あらゆる人に平等に与えられるの」

 

「過去は与えられた」

「明日はまだわからない」

「今日は今与えられている」

「与えられている今の一瞬一瞬を大切にしなければいけない」

「だから、英語では今をプレゼント”present”と言うの」

 

まきちゃんが贈ってくれる言葉のプレゼント。愛を上手に配る女の子。離れていても、見つめていたい。

 

「Monic, I’ll go to Wageningen.」

(行ってきます)

 

「Tot ziens」

(いってらっしゃい)

 

忘れ物を取りに一旦家に戻る。

 

また来ている。麻友さんと美咲さんからの絵はがき。

まきちゃんの言う通り、読まずにとっておこう。

昨日の渡辺さんとの夜もあり、心は少しざわつくが……。

 

ワーヘニンヘンへ向かう。

 

A10、A2、A12。高速道で約一時間。

A10、アムステルダム環状線。

 

今は一人、いつかまきちゃんと通る道。

 

 

ーーーーー

 

 

ユトレヒト・ジャンクションでいつもより車が渋滞している。

 

「ユトレヒト同盟、オランダ独立戦争か……」

一人呟く。

 

きっかけは、スペインの暴政にネーデルラント新教徒が反発した事。 

 

経過は、南部10州、ベルギーは脱落したが、北部7州がユトレヒトで同盟を結び活躍した。

 

その結果、北部7州のオレンジ公ウィリアムがオランダ総督となり、ネーデルラント連邦共和国として独立。休戦条約が結ばれ、オランダ国は独立した。

 

16世紀コロンブスをアメリカに送り出したスペインの繁栄、17世紀、衰えていくスペインに取って代わって、アジア・アメリカ貿易を握っていったオランダの繁栄。

 

今日はオランダ、明後日はスペイン。

歴史の勉強、もっとしなきゃ。

 

コンサルタントのShibと夕食。美味で評判のステーキ店で待ち合わせ。

 

「Hey, Shib, it's good to see you.」

(シッブさん。こんにちは)

 

「It's nice to see you, too, Masa-san.」

(こんにちは、マサさん)

 

Shibは、ここの店では最高の味・柔らかさで評判のオセハース(フィレ)。

僕は片側がフィレ、片側がロースのTボーンステーキ。これも店の看板メニュー。

 

ビールはお互いハイネケン。

 

「Shall we start.」

(食べましょうか。)

 

明日の仕事の下打ち合わせ。

Shibは温厚で紳士的、几帳面な人柄だ。明後日の仕事の準備を半分近く任せてある。安心して仕事が進められる。

 

食事が終わり、僕はホテルに向かった。

シャワーを浴びる。

 

一休みした後、市内のお決まりのBarへ。

 

「Hi, Masa」

 

このBarに置いてあるビールの種類の豊富さはオランダでは有数の品揃え。

そう、日本人が最初に飲んだビールは、鎖国時代の日本にオランダ人が献上したビールだと言われている。日本語の「ビール」の語源もオランダ語の「bier」である。オランダと日本は本当に色々な面でつながっている。

 

日本のビールがあるかどうか聞いてみる。

 

「What kinds of Japanese beers do you have?」

 

オランダでは、ビールを冷やして飲むという習慣はない。生温いのだけ少し閉口するが、やはり日本のビールは口に合う。

二本目はトラピストビールのWestmalleを頼んだ。

 

「Bitterballen, please」

(ビッターバレン下さい)

 

お腹はいっぱいだが、店の看板メニューのビッターバレンを注文。ここの味は特別に美味しい。

 

Barからメール、

 

まきちゃんへ

 

『明日、ワーへニンヘンで仕事を済ませ、明後日スペインのバルセロナ、時間があればテルマエ・ロマエのあるカルデスに行くよ』

『夜は話した様に、カタルーニャ音楽堂でベートーベンの「運命」などを聴く』

『明後日にはガウディ、ピカソにも会える』

 

『そう、例の絵はがき、また来てた。それ以外今日は特段変わった事はなかったよ』

 

雅彦

 

まさ君へ

 

『本日は晴天なり!』

『今南房にいるの。私の車で朝早く来た。奈美さんと』

『まさ君との大切な思い出もあるし、南房にした』

 

『こっちは変わったことあったよ』

『昨日のまさ君からの話、奈美さんにした。びっくりしていた』

『そして彼女、浜辺に着いてすぐ、お昼前なのにもう海辺でビール飲んでる……』

『今の彼女の心、揺れている。正直わからない……』

 

『そして彼女は急に森下さんをどれだけ愛しているかを話し始めるの』

『それってね、もう彼を少しも愛していないからかもしれないの……』

 

真由美

第56話

 

「いらっしゃいませ。加藤さん」

 

久しぶりの日本料理店での夕食。

アムス郊外の湖畔に佇む、六角形のお寺を真似た料亭。

 

オランダ人にとっては高級料亭だ。

僕ら日本人には、食事の値段は高いものの気楽に立ち寄る食堂みたいな感覚で訪れる。

 

「加藤さん、本カツオのいいところが入ってますよ」

 

「じゃあ、升酒とそれ、あと海鮮サラダお願いします」

 

「お酒はいつもの久保田の千寿でいいですか?」

 

「今日は萬寿にします。今日は振り替え休日でしたし、少し自分へのご褒美に」

 

「どうもありがとうございます」

 

「しかし、加藤さん、お久しぶりですね」

 

「ええ、イギリスへ飛んだ後すぐに日本に出張してたんです。週末はバルセロナですし」

 

「お疲れ様ですね。よく体力持ちますね」

 

「持たせるために、目と心に優しい日本料理を食べにきました」

 

マスターは満面の笑みで、

 

「そう言ってくれるとうれしい限りです」

「久保田の方、うんと勉強させていただきますよ」

 

まきちゃんからの連絡が気になる。森下さんとオランダに一緒にいた期間はあるものの、仕事関係での関わりは薄かった。森下さんが持っていた大切な何か?

 

森下さんからはいくつか人生訓を教えられた。しかし、彼の過去、業績などは微塵(みじん)も聞いていない。森下さんは口の堅い人だった。

 

「はい、升酒とお通しです」

 

受け皿に溢れんばかりの升酒。升の香り、そして升の縁についているここの料亭の塩がたまらない。最高峰の酒の味がさらにぐっと引き締まる。

 

おしぼりで手と、軽く顔を拭く。

 

「美味しいですね。五臓六腑に染み渡ります」

「良酒水の如し。まさにその通りの日本酒ですよね」


「食事の後にテイク・アウト でおにぎり二つお願いできますか? 梅干しで」

 

「かしこまりました」

 

食事を終え、家路に向かう。マスターは結構勘定を値引きしてくれた。


今日はさすがにRuthの店には寄らず、家に直接帰ることにした。

 

絵はがきは来ていない。

郵便物はワーゲニンヘンからの特許関係の資料、月刊誌二冊だけ。一冊はオランダ語。Monicにサマライズしてもらおう。

 

これが日常だと思う。普通だと思う。心放れる開放感。

 

コップにミネラルウォーターを注ぎ、眠りに入る準備をしていたときに電話が入る。

 

まきちゃん? ではなさそう。日本は今、朝の5時頃。着信番号にも馴染みが無い。

 

「もしもし加藤さんですか?」

 

「はい、そうですが」

 

「私、日本食レストランの……」

 

声を聞けば分かる。渡辺さんだ。

 

不倫をしていた同じ日本料理店の男性が妻と別れて日本に帰ってしまったと言う噂。その奥さんも子供を連れて日本に帰ったらしい。

 

「こんばんは、加藤さん」

 

「こんばんは」

 

「今日はお越し頂き、ありがとうございました」

 

「いいえ、こちらこそ」

 

「加藤さん、突然なんですけどこれから会えますか?」

 

「あの、今日の今では少し……」

 

正直今日は辛い。時計も午後10時をまわっている。

 

「今日じゃないと駄目なんです」

「私、明日日本に帰るんです」

「加藤さんにだけには知っておいて頂きたいんです……」

 

 

ーーーーー

 

 

「Hi, Ruth」

 

「Maybe Masa have lots of girlfriends.」

(マサは、ガールフレンドがたくさんいるね)

 

「Today, what a wonderful girlfriend, huh?」

(今日はまた、とびきり素敵なガールフレンドですねぇ)

 

Ruthが微笑む。

 

「私の心に、あの人がまだ住んでいるんです……」

「だれにも話せなかった想いを、ここ、アムステルダムに置いていきたいんです」

 

「なぜ、僕に?」

 

「加藤さんは、優しくて心ののりしろが大きいと感じました。常連さんの中でも信頼が置ける人ですし、だから……」

 

僕はミネラルウォーターでもよかったのだが、いつものシャブリ。彼女はワインクーラー。

 

「不倫していた彼が、日本に帰ってから送ってきた手紙です。もちろん奥さんと離婚した後です」

 

『あなたがあなたの気持ちをくれたから、僕は僕の気持ちを渡します』

『これからの私の人生にあなたの微笑みをください』

『今でもあなたを心の底から深く愛しています』

 

『待っています』

 

Ruthが興味ありげに手紙を覗き込む。もちろん読めはしない。いつも、日本語の文字は不思議だというRuth。いつもの様に首をすくめる。

 

確かに漢字、ひらがな、カタカナそして濁点がついたり丸がついたり。ひらがな、カタカナには小文字もある。文章にはよく英語や和製英語、すなわちアルファベットも含まれる。ややこしい言語だ。

 

Ruthに渡辺さんの言葉を英訳してメモして渡した。

 

You gave your heart to me, so I'm gonna give you mine.

 Please smile at me for the rest of my life.

 I love you deeply with all my heart.

 

I need you.

 

「優しかったですよね、彼。僕は彼のお子さんも覚えてますよ」

 

「ごめんなさい。加藤さんには不倫だと分かっていたんですよね……」

 

この手の話は僕は全く門外漢。口を閉ざす。

 

「わがままごめんなさい。どうしても誰かとこうしてアムス最後の夜を過ごしたくて」

 

「申し訳ないですが、僕では何の力にもなれません」

 

「いいえ、加藤さんなら……、ここに私の記憶の欠片を残してくれるんじゃないかって」

「私が彼とここにいた、二人には美しい日々だった記憶を残しておいてくれるんじゃないかって」

 

彼女は今度はブラッツディー・マリーを注文する。ペースが早い。

 

「レストランの方々に、あなたの記憶が十分残っているんじゃないですか?」

 

「そう、皆からは私はもう汚らわしい存在。そんな風に思われています」

「幸せな人の家庭を潰したんですから……」

 

「御社の森下さんまで巻き込んでしまって……」

 

森下さん? こんなところで森下さんの名前が出てくるとは……?

 

彼女が僕の肩に寄りかかってくる。泣いている。まずはこのまま。

 

BGM にはElton JohnのSacrifice。Ruthが選んだ。

 

Into the boundary

Of each married man

Sweet deceit comes calling

And negativity lands

 

(結婚してる男の境界線を越えてしまう)

(甘美な不実の声が聞こえて)

(やがて背徳が忍び寄る)

 

「何だったんだろう、私……」

「そして、彼の腕には、もう二度と戻れないんです……」

 

 

 

第57話

 

「海外勤務に憧れていたんです」

「一生懸命勉強して、憧れの海外に勤められて嬉しかった」

 

「初めは職場のみんなのおかげもあって、生き生きと頑張れた」

「ただ、彼と出会ってしまってから……」

 

「マイナス思考は良くないと思いますよ」

「出会った事、楽しかった事、物事プラスに考えなきゃいけないと思います」

 

僕はまきちゃんみたいに愛を配る様な素地ではない。言葉足らずだ。

なんだか彼女も僕に似ている。愛を受け取ることはできても、配る事は下手そう。

 

「彼から誘われたんでしょ」

 

「そうです……」

 

何かに踏ん切りをつけた様。

 

「そうなんです。彼から誘いがあって。それで……」

「なのに、私たちの不倫がバレてからは、みんな、私が誘って彼を迷わせたって」

「責められたのは私……」

 

「こんな僕に何ができます?」

 

「先ほどお話ししたように、店に、御社の森下さんがよく来られていたんです」

 

「ある時期を境に、彼の家族に混じって森下さんと私が入り、プライベートでバーベキューをしたり、小旅行したり」

 

「彼の奥さんも、お子さんもですか?」

 

「はい」

 

「あの……、失礼ですが、森下さんと渡辺さんはどういう関係だったんですか?」

 

「二人静かに付き合っている、友人のような恋人」

「表面上だけの恋人同士を繕って、森下さんもそう振る舞っていてくれて」

「だから彼の奥さんが一緒でも……」

 

森下さんは、嘘や偽りを演ずるような人ではない。土下座して頼まれてもそんなことしない。表面上の恋人役など演ずる訳がない。

なにより、レストランへ良く出入りしていたのだから、皆にもすぐばれてしまう。

 

「職場では不思議と、私と森下さんの事、距離を置いておつきあいをしていたんだろうという風に取られて、遠くから微笑んで見守られ始めました」

 

「失礼ですが、森下さんは、浮気隠しに手を差し伸べる様な人ではないと思うんですが……」

 

「そうです。その通りです。けれど、それが……、態度で嘘をついて頂いていたんです。ある時お願いしたんです。いや、私が森下さんにそうしていただくよう強いたのかもしれません」

 

僕は尋ねた、

 

「うまい言葉が見つかりませんが、その対価は?」

 

彼女は、目を伏せ、

 

「何もありませんでした……。森下さん、優しい、いえ、優しすぎる人でした……」

 

森下さんを動かしたものは何だろう?

とにかくつながっている。森下さんと渡辺さん、そして渡辺さんの不倫相手の男の人。

 

「ちょっと、トイレに……」 渡辺さんが席を立つ。

 

 

ーーーーー

 

 

まきちゃん

 

『まきちゃん、おはよう』

『森下さんと接点のある女の子たちがいたよ。日本食レストランの女の子とその不倫相手の彼』

『今、その女の子と飲んでる』

 

『電話するね』

 

雅彦

 

「まきちゃん、こんばんは、じゃなかった、おはよう」

 

「うん、おはよう、まさ君」

 

僕が一通り今現在の話をすると、まきちゃんからは少しきつめの声。

 

「だから言っているでしょ。不穏な事には関わらないの」

「だめよ、まさ君優しすぎるのよ。呆れちゃうわよ……、全く」

「その女の人、半分嘘をついている可能性が高いわね」

 

「半分の嘘?」

 

「女の勘なの」

「金輪際、その女の子とは関わらない事。自分を正当化するためにまさ君と会ってるんだと思う」

「でもね、ある意味良かったみたい。森下さんの名前が出てきたから」

 

「まさ君は浮気の「う」の字もできない人だから何も分からないだろうけど、世の中綺麗事だけじゃないの。その行為を正当化する甘い言葉、終焉を迎えても生まれる甘い虚言」

「万が一、森下さんが善かれ悪しかれ嘘をついていたのだったら大変よ。不倫幇助でしょ。詐欺みたいなものよ。罪は軽くはないわ」

「奈美さんはその話、何にも知らないはずよ。森下さん何も話してないから、そんなこと」

 

「僕は何をすればいいのかな?」

 

「何もしない、何も言わない。でも巻き込まれちゃったんでしょ、彼女に。嘘か本当か分からないけど」

 

「うん……」

 

「変に約束事をしたり、不穏な方向に巻き込まれちゃだめよ」

「気をつけてね。女性が見せる弱みって、弱みを見せる強みなんだから」

 

「分かった。もう少し、彼女と飲んだら帰るね。森下さんの情報だけは絶対に欲しいから。今夜しかないから」

 

「うん、そうね。分かった」

「私も奈美さんに話してみるね。その話」

 

渡辺さんがトイレから戻り、またブラッディー・マリーを注文する。

 

僕はグラハムのポートワインに切り替え。ミネラルウォーターとエダム、ゴーダチーズと共に。

リコリスのような濃厚な香り。奥深く複雑な甘みが広がる滑らかでシルキーな味わい。

 

カウンター席、僕は少し心と腰の位置を据え直す。


第54話

 

まさ君へ

 

『まさ君、少し分かったの』

『例の女の子達からの絵はがき、来たら読まないで取っておいて欲しいの』

 

『人心掌握術、というらしいの。彼女たちの行動』

『ビジネススキル、とかで用いられているらしいけど……』

『スパイとか工作員と言われる人も持っているスキルらしいの、それ』

 

真由美

 

まきちゃんからのメール。

 

人心掌握術、知っている。人の気持ちをガッチリと掴んで離さないための術。

セミナーで習ったことがある。確かに、彼女たちは僕の心を掴み始めてはいる。でも僕は大丈夫。

まずは深く考えず、まきちゃんたちの言うことに従っていこう。

 

今日は振替休日。

午後からデルフト焼きを見に行く。デルフトまで、A4高速道で1時間ほど。

その前にお昼ご飯。

 

ラートハイス通り、西教会近くのBarに入る。

 

「I’ll have Cordon bleu en Fritz. And tonic water, please.」

 

シュニッツェル(ヨーロッパ版豚カツ)とフリッツ。いわゆる、チーズイン・トンカツとフライドポテト。

 

「さて、行こうか」、気合を入れる。

 

デルフトに向かう。

 

デルフト焼は、17世紀、オランダ東インド会社が輸入・販売した中国の陶磁器に憧れ、それを愛し模倣したのが始まり。

そしてその後デルフト焼は、伊万里焼きから大きな影響を受ける。

 

伊万里焼きは日本で最初に作られた陶磁器。これも東インド会社によって西欧に輸出された。

無名職人の織りなした最高傑作、伊万里焼。日本はもとよりヨーロッパ、アジアの人達に最も愛され親しまれた。 

 

デルフト焼きの青色に対する憧憬は、日本の古伊万里や柿右衛門の絵付けなど吸収しながら、デルフト焼独特の絵付け、デルフトブルーへと発展させていく。

 

「Hoeveel kost het?」

(いくらですか?)

 

土産用の花瓶、プレートなど安いものもあるがおしなべて高価。

 

「Ik wil het graag kopen.」

(これ下さい)

 

小さなデルフトブルーの一輪挿しの花瓶を買った。なんだか嬉しい。日本の無名職人の魂が生き継がれている。

ゆっくりデルフトを散策。陶器を見ながらの贅沢な時間。

 

アメリカのマンハッタン島の南方面、ニューアムステルダムと呼ばれていた街が1664年ニューヨークと改名された頃。

そう、世界貿易の主導権がオランダからイギリスに移りはじめた頃、磁器市場もイギリスが扱う中国磁器に奪われていった。

 

さらに18世紀前半にはドイツのマイセン窯が始まり、そして18世紀後半には伊万里焼は世界の表舞台からほとんど姿を消した。

 

日本では、かってヨーロッパや世界中に広がって親しまれた伊万里焼を探し、故郷の日本に買い戻し展示している美術館もある。

美術館の静けさの中、いにしえの世界でその役割を終えてゆっくり休む伊万里焼きと僕らは会話ができる。

 

”おかえりなさい”

”ただいま” 

 

オランダと日本の経済・文化・芸術の交流。互いに深く愛し、愛されたセラミック(磁器)。

 

 

ーーーーー

 

 

A4ーA12経由でスキーベニンヘン海岸へ向かう。

 

少し雨模様。

 

でも大丈夫。まきちゃんからもらった折りたたみ傘がある。雨や、世の災いから身と心を守るためにくれた傘。常に持ち歩いている。

 

季節はずれの北海。空は曇り海は鉛色。どんよりとした空気は重い。日も随分短くなってきた。

 

森下さんとここに来た……。

 

「バケツ一杯のムール貝が来るよ」

 

二人笑顔で食した。

 

まきちゃんと南房の海を眺めた……。

 

「海、奇麗ね……」

 

海。つながっている。いろいろな想いや記憶。

 

「もしもし、まさ君」

 

「まきちゃん、こんばんわ。深夜でしょ? 日本」

 

「うん、大丈夫。今まで奈美さんと会ってたの」

 

「今、僕ね、森下さんと北海にサバ釣りに行く前に寄ったスキーベニンヘンの海岸にいるんだ」

 

「北海でサバ釣り? そう、森下さんね、その頃大きな研究成果をまとめ上げたらしいの。”特許になったらその凄さがわかる”、と奈美さんには言っていたらしいのよ」

 

「内容はもちろん極秘。森下さんは、自分へのご褒美にその釣りに出かけたそうよ。ついでにまさ君も誘うことにしたでしょ」

 

「自分へのご褒美?」

「その後、しばらくしてから一時帰国したまま森下さんはオランダに帰ってこなかったけど……」

 

「そこよ、そこ……。そのしばらくの間にオランダで何かあったの」

「日本での森下さんの精神や神経の異変はまだよく分からないけど、帰国後の居酒屋辺りから始まる……。その間に何かが……」

 

「何だろうね?」

 

「何かな? まきちゃん、もう遅いから休んだほうがいいよ」

 

「うん。ありがとう。眠るね、おやすみ」

 

「おやすみ」

 

北海の水平線を眺める。雨は上がり、デルフトブルーの青。

 

特許? 僕は当時事務方で仕事していたが、それほどインパクトのある特許については誰からも聞いていなかった。気になるキーワード、特許。

 

少し波だった自分の心が落ち着くまで此処にいよう。

慌ててはいけない。海をじっと見つめて、僕なりに参考になるものを掴みたい。

 

海はまきちゃんの様。自分の心を泳がせてくれる無限の女の子。

 

安心して、裸の僕をさらけ出そう。

 

 

 

第55話

 

日本時間、深夜2時。

まきちゃんから電話が入る。

 

「もしもし、どうしたの? こんな深夜に」

 

「うん。心配事で寝られなくて」

 

まきちゃんの、少し疲れ気味の声。

 

「今日明日に、どうこうなることじゃないから早く寝ようね」

 

「うん。少し話を聞いて。まさ君のこと」

「そしたら寝るから」

 

「いいよ」

 

「まさ君、今どこ?」

 

「まだ北海の浜辺にいるよ」

 

「今現在の状況を話すね」

 

「何かわかった? どうなのかな? 僕の状況」

 

「まさ君のそれは、やはり人心掌握術みたいのをかけられてきているみたいね」

 

「何故なんだろう……?」

 

まきちゃんは、少し心配そうな口調で話す。

 

「人から好意を受けるとその好意に応えたくなる心理をくすぐられること。好意が繰り返し示され、拒絶できなくなる心理になるの」

「だから、メールじゃなくて絵はがき」

「そうじゃなくても、もともとまさ君優しいから簡単だし」

 

僕は尋ねた、

 

「友達感覚じゃないのかな?」

 

「あり得ない事じゃないけど、まさ君の絵はがき関連の話はお友達のそれは違うと思うよ。二人ともアカの他人でしょ? なのに繰り返し行われる操り。一緒に飲んだりまでしているし」

 

「ありふれた状況から始められたの、出会いは何気なく、そして絵はがき」

 

「この”何気なく”、問題なの」

 

「麻友さんは、まさ君のブリストル帰りに必ず立ち寄るストーンヘッジで出会ってるし、美咲さんは、これもまさ君のお決まりのロンドン、テムズ川沿の散歩コースで出会ってるし」

「しかも、美咲さん、まさ君の住所も名前も知らなかったのよ。絵はがきが送られて来るなんておかしいでしょ?」

 

「うん……」

 

「偶然もあるだろうけど、その後、悪い意味でまさ君の”気”を徐々に許させていっているの。少しづつ深い話ができるレベルまで」

「まさ君から何か情報を聞き出す、手を差し伸べさせたくなる演出が数々、ゆっくりと施されていっているの」

 

そういえば、今、プライベートは麻友さんと美咲さんなら、簡単な悩み事の会話くらいはできそうな関係にまで来ている。仕事の話は、もちろんご法度だが……。

 

まきちゃんは話を続ける、

 

「森下さんも海外にいた頃、似た様な場面がいくつかあったみたい」

「面倒見がよく、まじめで優しい人が狙われやすいの。まさ君もそうだから」

 

「森下さんが? 狙われた?」

 

「うん。森下さんは人心掌握術を施されていただけでなく、マインドコントロールさえされていたかも……」

「あたふたすると、人って意外にそういうのにかかりやすいのよ」

 

僕は尋ねる、

 

「マインドコントロールって、相手がそれを拒絶する事が困難な状況下において、ある考え方や行動に誘導する行為だよね。一般論としてだけど」

 

「そうなの」

 

「何故?」

 

「目的が分からないのよ」

 

「森下さん、研究畑育ちでしょ。何か過去の仕事に関係している事柄が問題らしいの。でも、話はそこまで。奈美さんも森下さん自身にも、まったく見当がつかないの」

「森下さんは口ごもって、そう話すらしいけど」

 

「僕は事務畑育ちだからよくわからないけど……。なぜ森下さんと僕?」

 

「一緒だったからなの。海外で。森下さんの持っていた大切な何かをまさ君も共有していると思われている? そんなことも考えられるの」

 

僕は呟いた、

 

「会社が日本出張で森下さんと会わせたくれたのも、その確認の意味なのかな……。でも、何もなかったよ、特段」

「とにかく想像の域を超えるね。僕には何もない、安心して。まきちゃんの言う事にもたれて、気をつけていくから」

 

「うん。そうして」

 

「まきちゃん、ありがとう。おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

また雨模様。水平線と曇り空が同じ鉛色で彩られてくる。

 

車に乗り込む。海、La Mer。ラジオから流れてきた、ドビュッシーの交響詩「海」第二楽章、「波の戯れ」Jeux de vagues の旋律。

ディズニーシーでも用いられている交響詩の奏。

 

ドビュッシーはこの曲で、”音楽の本質は形式にあるのではなく、色とリズムを持った時間なのだ”、と語った。自由な音の戯れ。印象派音楽の第一人者。

 

まきちゃんと僕の愛の本質も同じ。形式にあるのではなく、色を持った愛の戯れ。リズムを持った時間の戯れ。

 

愛と時間の使い方は、そのままいのちの使い方になる。

 

「永遠を感じるよね」

 「いのちを感じるよね」

 

二人で一緒に海を見たときの、まきちゃんの言葉を思い出す。

 

僕は、何かに巻き込まれている? 巻き込まれ始めている? のだろうか。

 

まきちゃんは、身をつくして僕のために動いている。

でも、危険なこと、行動する前に叩かれてしまうこともある。僕もまきちゃんも。

 

それでも行動するのが本当の勇気。

まきちゃんの勇気は与える愛。

 

「守るの、まさ君を守るの」

「与える愛は受ける愛と同じに幸せ」

 

僕の中で少しづつ、その言葉が輪郭を帯びてくる。

 

第52話

 

「Hi, Ruth. Good afternoon.」

 

「Hi.」

 

所長が相変わらず飄々としてBarに入ってきた。

 

「所長、お疲れ様です」

 

「少し遅くなった」

 

「Ruth, I’ll take a Chablis, please.」

 

所長もシャブリ。

 

「まずは日本出張お疲れ様。帰ってきてすぐに飛ぶ仕事ですまないな」

 

「いいえ、所長のおかげで身も心もリフレッシュできました」

「本当に、心から御礼申し上げます」

 

「かしこまらなくていいぞ。かとちゃんは、恋のぬり絵と仕事のぬり絵の最中なんだ」

「色と言うものはお互いに助けあって美しくなる。人間関係と同じこと」

「どちらの色をつぶしても駄目だよ。どの色も生かさなければ」

 

「わかりました」

 

「それが人生のぬり絵の旅だ」

 

Ruthが再び僕に、

 

「Very important things, I’ll give you.」

(とても大切な事を教えてあげる)

 

「Never complain. Never explain.」

「Turn your wounds into wisdom.」

(不平を言わない、言い訳をしない。悩みを知恵に変えること)

 

所長も言う、

 

「そう、かとちゃん、悩みを知恵に変えなさい」

 

「悩みのせいで、誠実さ、仕事、勉強、精神力で負けるのは人間としてクズだ」

「最悪でも、誠実さと精神力だけは負けたくないと踏ん張るんだ」

「仕事や勉強は、その後に自然とついて来る」

 

「かとちゃん、スペインは何度目だっけ」

 

「三回目です」

 

「観光は?」

 

「ピカソ美術館とサクラダ・ファミリアくらいですかね」

 

「サクラダ・ファミリアか……」

 

「完成までに、あと約150年かかるといわれていたが、まだ十分普及はしていないが、3DプリンターやCNCの石材加工機といった先端ITで2026年頃には完成が見込まれているそうだ」

 

「知らなかったです。すごいですね!」

 

「人類の知恵と精神力の賜物だ」

「土曜の午前には、R&D先の担当者がバルセロナ観光をアテンドしてくれる」

「ガウディやダリの軌跡とか、バルセロナ穴場の観光地を案内してもらう様頼んでおくがいいかな?」

 

「是非、お願いします」

 

金曜日の夜には、バルセロナ・カタルーニャ音楽堂。

エグモント序曲、交響曲第5番「運命」ハ短調、ピアノ協奏曲第4番。Aの席に空きがある。すぐにネットでゲット。

 

どんな困難な状況にあっても、解決策は必ずある。 救いのない運命というものはない。苦悩に惑わされず、どこかの方角の扉を開けると、救いの道が残っている。

 

「When one door is closed, many more is open.」

(一つのドアがしまっている時、ほかのたくさんのドアが開いているのよ)

 

Ruthの言う通り。

 

ほとんど聴力を失ったベートーヴェンが、ピアノに耳をつけ骨伝道で作曲していたという、交響曲第5番「運命」。

 

冒頭の「ダダダ ダーン」というのは、「運命がドアをたたく音だ」と答えている。

この動機は、曲全体で何百回も用いられ、最後までこの動機で埋め尽される。

古典的なソナタ形式による壮大な音楽。

 

僕らは、自ら幸、不幸をつくって、これに運命なる名をつけていく。

運命は、笑いを与え、涙を与え、勇気、希望を与える。

 

涙で目が見えなくなるほどたくさん泣いた女の子は、心の視野が広くなる。僕の運命の子、まきちゃんはそうだ。

何百回も僕の心の扉をたたいてきた。僕も何百回も彼女の扉をノックしたはず。そして今、繋がっている。

 

「Ruth. Chablis, Alsjeblieft.」

(ルース。シャブリ、おねがい)

 

「Here you are.」

(どうぞ)

 

Ruthが話を盗み聞きしてか、ベートーベンの運命のイジーリスンングを流す。

ダダダ ダーン。運命の動機からこの曲の全てが始まる。

 

どうしてだろう? この曲の冒頭を聞いて、僕の脳裏にはまきちゃんの姿が鮮やかに映った。

 

 

 

第53話

 

旅の疲れはないが、少しぼーっとしてきた。

シャブリをおかわり、それとアムステルダムオールドのチーズ。

 

Ruthが話しかけてくる、

 

「You didn't know the meaning of true love and  happiness until you met her.」

(あなたは今回彼女に会うまで、本当の愛と幸せの意味、わからなかったでしょ)

 

そうだと思う。

これまでの人生、失くしたあとで気づくものばかり……。

それが、幸せや愛情というものだったのかもしれない。

 

「Masa have changed. Remember you're not alone by yourself.」

(マサの心変わったでしょ。あなたは一人じゃないの)

 

「Keep her hart on a tight leash. 」

(彼女のハートをしっかり捕まえていなさい)

 

今なら分かる、失ってはいけないもの。

 

「かとちゃん、そろそろ帰るか? 疲れたろう」

 

「そうですね」

 

「Betaling, alsjeblieft. 」

(勘定お願いします)

 

家に帰り、ベッドに寝転がる。

 

「もしもし、まきちゃん」

 

「は~い、まさ君」

 

「こちらはおやすみ、そちらはおはよう」

 

「うん。日本はおはようなの」

「まさ君、元気してる」

 

「うん。夕食食べて、今までRuthの店で飲んでた」

 

「昨日の今日でしょ。すごい体力ね!」

 

「少しぼーっとはしてるよ、でも、大丈夫」

「シャブリ飲んできた。いつもの」

「まきちゃんと飲んだ青山のワインと同じ銘柄」

「ワインをくゆらせるとき、きっといつでもまきちゃんを思い出すよ。お守りも胸にあるし」

「Even distance can not keep us apart.」かな。

(離れていても心はいつも結ばれている)

 

「まさ君って意外にロマンティストね」

 

「そう、今日奈美さんと会うの。調べるの」

「何かまさ君周り、森下さん関係で不穏な事が無いかどうかって」

 

「ありがとう。心強いよ」

 

「森下さんはご存知どうりの療養所暮らしでしょ、仕事も何もなし」

「ただ、森下さん、苦悩を乗り越えたいの、奈美さんとかの力を借りて。私も微力ながら手伝うわ」

 

「何か、社会に役に立つことがしたいのよ。彼自身が、転がるように今のような状況に落ちた理由も知りたいし」

「”苦悩を超えて喜びに至れ”、みたいな事も言うらしい」

「ベートーベン第九交響曲のテーマみたいだよね」

 

「そうそう、バルセロナで仕事帰りに第五番「運命」を聞きに行くんだ」

 

「いいなあ~。私も行きたい」

 

「私たちは一緒になる運命じゃなくて、一緒になっている運命だからね。未来完了進行形なの」

 

「うん」

 

運命……、

 

「まきちゃん、ベートーベンはね、運命の作曲から25年余、苦闘と忍従を続け、貧乏に苦しみながら、全く聞こえない耳で音楽を創造していったんだ」

「25年間だよ!」

 

「そんなベートーベンが最後に作曲したシンフォニーが第九交響曲」

「第九の初演で、ベートーベンは自ら指揮棒を振ったんだ」

 

「その初演、演奏後のことなんだ」

「ベートーベンは恐怖で客席を向くことが出来なかった」

 

「彼が思っていたのは、耳が聞こえないのをいいことに誰も演奏してくれなかったのではないか? 自分の思っている音楽ではなかったのではないか? ということ」

「まったく音が聞こえないのだから、当然の不安」

 

「怖い……」

「観客の顔が見られない……」

「バカにされているのではないか……、笑って席を立って帰る人も……」

 

「いつまでも客席を向こうともしないベートーベンに、アルト歌手がそっと寄り添って、彼の手を取り客席の方を振り向かせたんだ」


「そこにはスタンディングオベーションで大喝采、涙する観衆の姿があったんだ」

 

「歓喜。それはいつだって苦難の先にあるんだ」

第51話

 

「かとちゃん、今週末スペインに飛べるか? バルセロナ」

 

「木曜にワーゲニンゲンの予定が入っているのですが……」

 

「確かに」

 

所長はPCのスケジューラーで僕の予定を確認している。

 

「金曜日は? 一泊二日で土曜の昼戻りになるが。その分、月曜は自由出社でいいよ」

 

「なんとか。大丈夫でしょう」

 

「疲れが溜まっているだろう。今回に限りレンタカーは使わずタクシーで動くように」

「バルセロナ市内は、結構車の運転荒いしな」

 

バイオ関係の仕事を依頼している機関。R&Dセクションだけでなく、新規事業のプロジェクトでも関係する大切な連携先。三度目の訪問になる。

 

「今晩、時間あるか?」

 

「Ruthのところですか?」

 

「そうだ」

 

「大丈夫ですよ」

 

「じゃあ、お互い夕食は済ませてからいこう」

 

家に戻りシャワーを浴びる。大家さんは留守。

絵はがき数枚。麻友さん、美咲さん……。

 

まきちゃんへ

 

『話したかもしれないけど、まだ女の子たちから絵はがきが来るんだ』

『2、3度ならまだしも、これまで続いていて、これからも続きそう』

『何だろう? ね?』

 

『麻友さんは口に指を当てる仕草が強く印象に残る子』

『美咲さんは学生時代の恋人の名前。かすかに心の琴線に触れる』

 

『何だろう?』

 

雅彦

 

まさ君へ

 

『単にまさ君に興味があるだけではなさそうね』

『マインドコントロール? みたいのかもしれないし……』

『ストーカーさん? じゃなさそうだし……』

 

『女心は色々で、どれについても分からないでもないけど、私ならしないよ』

『すなわち、何か普通じゃないことは確か』

『電話できる? まさ君の声が聞きたいの』

 

「もしもし、まきちゃん」

 

「まさ君、声が聞けてうれしい!」

 

「僕もだよ」

 

「まさ君、いろいろとありがとう。感謝なの」

 

「僕の方こそ、とびっきり素敵な時間、ありがとう」

 

「そう、どんな小さな事でも、腑に落ちないことは話してね」

 

「うん」

 

「調べてみるね。まず奈美さんに聞いてみる」

 

「彼女、占いとか心理とかの方面にも通じているから」

「森下さんが転がり落ちてゆく過程にも、女性の影があったみたいだし」

 

「二、三日待っててね」

 

 

ーーーーー

 

 

「I’ll have Amstel beer, nasi crocket and Crispy duck with Cointreau en orange sauce, Alsjeblieft.」

(ビールとクロケット、北京ダックのコアントロー&オレンジソース、お願いし

ます)

 

夕食は行きつけの中華料理店で済ます。

 

各国に中華料理店は多いが、個人的にオランダの中華のテイストが一番僕の口に合う。ただし、一人前のボリュームが多く、残す事もままある。

 

キッチンから背の低い痩せ型の中国人オーナーが出てきた、

 

「Hi, Masa. It’s been a long time. How have you been?」

(お久しぶりです。元気でおられましたか?)

 

そういえば、ここには、半月位来ていなかった様な気がする。

 

「I'm pretty busy at work these days, but otherwise, everything is O.K.」

(仕事はかなり忙しいけど、それ以外は順調です)

 

「That's nice to know.」

(それは良かったですね)

 

「What's new with you?」

(何か変わったことあります?)

 

「Not much. 」

(何事もありませんよ)

 

オーナーは笑顔でキッチンに戻っていった。ほんの少しの会話のキャチボールがここち良い。

 

何事もない、それが一番いい。

 

 

ーーーーー

 

 

「Hi, Ruth.」

 

「Hi, Masa」

 

「Masa, Could you enjoy Japan?」 

(まさ、日本はどうだった?)

 

「I enjoyed very much with my girlfriend for three days.」 

(三日間、彼女と素晴らしい時間を過ごせたよ)

 

「Eating together.」

 

「Talking together.」

 

「Everything together.」

 

「I wish I could spend more with my girlfriend.」

(もっと一緒にいたかった)

 

「She are very kind, cheerful……」

(彼女はとても優しくてとても明るくて……)

 

「I love her very much.」

 

「Great.」

(良かったわね)

 

「Ruth, I’ll have a Chablis again and assort cheese, please.」

(ルース。シャブリお願いね。あと、チーズのアソート)

 

青山でまきちゃんとシャブリを飲んだ記憶を思い出す。

切なさを殺せない……。

 

「I wish I could spend more time with her……」

(もう少し彼女と過ごしたかった……)

 

そう呟くとRuthは強い口調で、

 

「Never complain.」

(不平を言わない)

 

そう、今回日本に帰国できただけでも優しさだ、感謝だ。

 

「Masa, the purpose of life is a life of purpose.」

(マサ、人生の目的は、目的のある人生を送ること)

 

所長も同じような事を言っていた。

 

「The most important thing is to enjoy your life, to be happy, it’s all that 

matters.」

(何より大事なのは人生を楽しむこと、幸せだと感じること。それだけ)

 

僕はグラスのシャブリを一気に飲み干す。

 

やはり心は、いつもまきちゃんを求めている……。

第4章

 

第49話

 

「はい、まさ君。これ、お守りよ」

 

セキュリティーゲート前で渡された手製の赤いお守り袋。

 

「あのね、私の髪の毛が入っているの。一本ずつ」

「持ち歩いて無くしたら困るから二つね」

 

まきちゃんは僕の手のひらにそれを乗せた。

 

これでつながる。まきちゃんがいつも側にいる。

心にこみ上げてくる不思議な嬉し恥ずかしい感覚。

これ、なんだろう?

 

日本時間深夜3時。もう大半の乗客は眠りについている。

ジェットストリームが奏でるAir、僕はマーラーを聴いている。

 

まきちゃんからのお守り袋をじっと見つめる。何かが僕を暖める。

 

ワインとナッツを頼む。ワインは、ソーヴィニヨン・ブラン・アティテュード。フレッシュで弾けるような爽やかな味わい。

 

マーラー交響曲第2番「復活」第五楽章、アルトソロが美しい。まさに天から舞い降りてくる声のよう。

 

O glaube, Mein Herz, o glaube.

(おお、信じるのだ、わが心よ、信じるのだ)

 

Es geht dir nichts verloren.

(何ものもおまえから失われはしない)

 

Dein ist, ja dein, was du gesehnt.

(おまえが憧れたものはおまえのものだ)

 

Dein, was du geliebt, was du gestritten.

(おまえが愛したもの、争ったものはおまえのものだ)

 

別れは悔しい。でも、だめだ。不足を絶ち、自分の心を穏やかに保とう。これからもまきちゃんと希望を語ろう。

僕たちをの心を動かすのは、未来完了形、そして過程なんだ、そう、いつも今なんだ。

 

「問題を嘆かないで、乗り越えるの」

「今笑うから……。幸せだから……」


まきちゃんは別れ際で、笑って泣いてた。

 

コールボタンを押す。

ドイツ人CAが来る。

 

「Sorry to keep bothering.」

(たびたびすみません)

 

「No problem.」

(大丈夫ですよ)

 

「May I have a glass of water?」

(お水、頂けますか)

 

「I’ll be back shortly.」

(すぐにお持ちします)

 

CAは水を持ってきた。

僕のお守りをみて、

 

「What is that?」

(それはなんですか?)

 

「This is a charm.」

(お守りです)

「My girlfriend comforts me being always at my side.」

(彼女はいつもこの中にいて、僕の心を慰めてくれるんです)

 

お守り袋の中身が、彼女の髪の毛だと話すと、

 

「Good! Good luck with your girlfriend.」

(彼女とうまくいくといいですね)

 

「Thank you.」

 

「Welcome.」

 

スケルツォのテンポで、荒野を進むように。

愛の万能の感情が、われわれを至福なものへと浄化する。立体的かつスペクタクル的に、マーラー交響曲第2番、第五楽章が終わる。

 

ヘッドホンを外す。ジェットストリームとお守りと、精緻なAirが僕のこころを優しく包む。

 

 

 

第50話

 

サンクトペテルブルク上空を通過してまもなく、

バルト海に宝石のように浮かぶ島々。

フランクフルトは雨らしいが、この辺の天候はまずまず。いつ見てもここの窓からの眺めは美しい。

 

「オレンジジュース下さい」

 

「はい、かしこまりました」

 

心も体も目を覚ます。

洋食を頼む。

 

メインディッシュ、

エッグベネディクト ロースハム添え。

 

ブレッド、

マロンブリオッシュ クロワッサン。

 

デザート、

ヨーグルトガランス。

 そして、紅茶。

 

お守りを手にしてまきちゃんを想う。

彼女からの言葉は、どんなに短くて簡単でもその響きは永遠だ。

 

「私、守るから。まさ君の事、守るから」

 

天からの声のように、脳裏に残る。

 

彼女は言う、僕が成功していけば、騙し取る友や明らかな敵を作ることになるかもしれない。それでも、自分の正しいと思う道を歩み続けること。

 

まきちゃんの正直さと誠実さは、あまりに強くて彼女自身を自身で傷つけているかもしれない。でも、彼女は正直で誠実であり続けてくれている。


彼女は自分自身のことは最後に考える。そんな素敵な人に、僕は生まれて初めて会った。

 

僕は、僕の中の最良のものを世の中に与え続ける。

利用されて裏切られるかもしれない。それでも、続けよう。ただし、邪魔なものは排除する。

 

他人の愛し方を知っているまきちゃんがいるから。苦渋の時、必ず助けてくれるから。

 

「Ladies and Gentlemen. We'll be arriving in Frankfurt International Airport, in about fifty minutes.」

(みなさま、当機はただ今よりおよそ50分ほどでフランクフルト国際空港に着陸する予定でございます)

 

「According to the latest weather report, it is rain in Frankfurt, and the temperature on the ground is fourteen centigrade.」

(地上からの連絡によりますと、フランクフルトの天候は雨。気温は摂氏14度でございます)

 

まきちゃんは話してくれた。

 

「夢は逃げないよ、自分が夢から逃げないように」

「苦難は幸福への通過点だと気付くことよ。雨は一人だけには降らないの」

 

「Ladies and Gentlemen, we have arrived at Frankfurt International Airport, where the local time is now ten minutes past five in the morning.」

(ご搭乗のみなさま、ただいまこの飛行機はフランクフルト国際空港に着陸いたしました。現地時間で午前5時10分でございます)

 

フランクフルトで乗り継ぎ、アムスには8時過ぎに到着予定。

一休みして午後から仕事。時計の針を現地時間にゆっくり合わせる。

 

しかして、こころの時計は止めたまま。

 

僕とまきちゃん、二人だけの時間軸。二つの針を違(たが)えぬように。

 

 

ーーーーー

 

 

「Please be sure to take all of your belongings when you disembark.」

(お降りの際は、お忘れ物のないようお仕度ください)

 

「アムス。ただいま」、一人呟く。所長に連絡を入れる。

 

僕の心の玄関口、スキポール空港から、いつものA4ーA10でアムス市内、まずはオフィス。

 

「ただいま」

 

「おう、かとちゃん、帰ってきたか。お疲れ」

 

所長が笑顔で迎えてくれる。

 

「コーヒーでも飲もうか」

 

Monicがドリップしたコーヒーを持ってきてくれる。

いつもの香り。心安まる。

 

「いろいろなもの、見て・聞いて・感じてきたか」

 

「人の優しさを感じてきました」

 

「そうか。いい事だ」

 

土産話に森下さんの名前は出ない。復命書もいらない。

まきちゃんのことなど、もちろん、何も言わなくても十分知れてる。

 

人の優しさ。その一言で、所長には十分伝わる。何より、所長の優しさで日本に帰れたんだ。

 

「いいか、どんな状況でも、幸福だと感じられる基準を作っておけ」

「幸福な人は強い人でも頭の良い人でもない。生きる目的を持っている人だ」

「かとちゃんの自身の存在証明、それは目的だ。手段や結果なんかじゃない」

「今の連続なんだ」

 

所長は少し間をおいて優しい声で、

 

「寂しいだろ」

 

「はい、少し」

 

「少しじゃないだろ」

 

「はい、大いに」

 

その言葉を聞いて、所長は大声で笑った。

秘書も笑みを浮かべる。

 

「その目じゃ、まだ大切なものが目に見えてないな」

 

「女の子の想いは、大きすぎるほど大きい」

「太陽系より大きくて、銀河系よりも大きい」

「女子の包容力は不思議なほどすごいんだ」

 

所長の持論だ。

 

「男は女に、迷えば不安、決めれば自信だ。甘えもできる。女子は素晴らしい」

 

Monicに頼む、

 

「Nog een koffie, Alsjeblieft.」

(コーヒーもう一杯下さい)

 

所長は続ける、

 

「迷うな。人はもともと不合理、非論理、利己的なんだ」

「それでも人と仕事を愛しなさい。でも身体を壊すな。ほどほどでいい」

「恋と仕事、両立できるかできないかではなく、やるかやらないかだ」

 

まきちゃんからメールが入る、

 

まさ君へ

 

『はしゃいだ海、泣いちゃったこと、互いのぬくもり』

『目を閉じると、まさ君がいるの』

 

『それだけですごいの。嬉しいの』

『世界が震えるほどに、まさくん好きって叫べるよ』

 

真由美

 

言葉にならない想いがある、僕は彼女で動いてる。

 

『P.S.  お守りね、Every moment with you. (どんな時もあなたと一緒)』

 

僕はうなずく。

第47話

 

「東京着は6時頃ね」

 

「うん。夕食と……」

 

「夕食と何?」

 

まきちゃんは涼しげな顔で尋ねる。

 

「夕食とね、品川あたりのホテルで……」

 

「……いいわよ。ショートステイでしょ?」

「フライト、午前1時10分だもんね」

 

そういうと、静かにうたた寝を始めるまきちゃん。

電車の音と車外の光と影の中、僕とまきちゃんの未来が揺れる。

 

可愛い寝顔、つないだ手のぬくもり、あどけない微笑みを僕は預かる。

かけがえのない未来を一緒に見つめていく人が隣にいる。

 

駅前で綺麗だったので買った花束を手に、まきちゃんは夢の中。

花束のスターチスが話す、”永遠に変わらない、途絶えない記憶。”スプレーマムが話す、”逆境も平気、清らかな愛”。

 

僕も話す、”今、君が素敵だよ”

 

 

ーーーーー

 

 

「まさ君……」

 

「起きた?」

 

「うん。起きたの。眠っちゃった、少し」

 「温泉が効いたみたい」

 

「神経痛治った?」

 

「まさ君、冗談すごく面白いね」


まきちゃんが微笑む。

 

片思いだった人が住んでいた駅を通過する。ほろ苦い想い出。最後に交わす言葉もなかったし、すれ違った心のまま……。

 

「まさ君、どうしたの? 急にぼーっとして。昔の彼女でもいたのかな〜? この辺りに」

 

まきちゃんの勘は鋭い。冗談抜きに第6感が強い子だと思う。

 

「時のすれ違いね。まさ君と出会って気を引いた女の子に嫉妬しちゃう」

「でもね大丈夫。過去を見ないで未来を見つめているの。まさ君だけをねっ」

 

まきちゃんは、僕をまじまじと見つめる。

 

「品川で夕食ね」

 

「うん、そうしよう」

「まきちゃん、何が食べたい?」

 

「和食にしようかな? お寿司でもいいし。そう、回るやつ」

「まさ君、またすぐ海外だから、今日は和食三昧」

 

まきちゃんは、映りゆく車窓の景色を静かに見ている。

 

「私の手料理でも食べさせてあげればよかったね……」

 

独り言のように呟く。

 

「今度の帰国は最悪二年後だよね。改めて聞くと、ずっしりと重いよね」

 

「ああ、とても辛い」

「まきちゃんに来てもらうしかないんだ……」

 

「まず、まさ君の身辺に起きそうな、きな臭い物事を明らかにして取り払わなきゃ」

「それが大方済めば、両親に話すの。行くよ、きっと、まさ君のもとに」

 

「そばに来て欲しい。待ってるよ」

 

「うん。まさ君を守らなきゃ」

 

「We will soon arrive at Tokyo terminal……」

 

僕は、優しくまきちゃんの肩を抱く。体がかすかに震えている。

 

まきちゃんは手帳を取り出し、今日が最後の大きなハートマークを涙目で見つめる。

 

 

 

第48話 (第3章 最終話)

 

まきちゃんが旅の始まりで、旅の終わり。

そしてまた、旅の始まり。

 

つかの間の品川のホテルでのショートステイ。

二人、お互いを確かめ合う。

 

誰のものでもない、今、まきちゃんは僕のもの。

 

「さよならだね……」

 

「いってきます、でしょ……」

 

まきちゃんは真顔で話す。

 

僕は別れの言い方が分からない。まきちゃんは、別れを言うべきタイミングが分からない。

 

お互い様。

 

「まきちゃんの、大切な鼓動を心に刻むよ」

 

「私も。いつも、この鼓動を感じて生きるからね」

 

「ありがとう」

 

「こちらこそ」

 

「お互いの感謝を重ね合わせて、積み上げていこうね」

 

「うん。積み上げていこう」

 

「まきちゃんは特別だね。その優しさ」

 

「ううん、女の子は誰でも持っているのよ」

「ただ、まさ君には何か引き寄せられるものがあるから、そのぶん余計に優しくできるの。身もこころも」

 

「ありがとう」

 

「いいえ、感謝を言うのは私の方。素直になんでも認められる人がいるんだもの。最高のパートナーよ」

「まさ君はこれから、自分が成功している未来を思い浮かべて頑張っていってね」

「他人様の褒め言葉を奢らす受け止め、自分が創造した道、する道を歩いていってね。論理とストーリーを大切にする、まさ君の生き方、好きよ」

 

「大切な事だよ。頭の中でストーリーができているときは、そのために、もう心と体が動いている」

 

「まさ君を苦しめるものや、さえぎるものは、私、力の限り守るからね」

 

まきちゃんは優しい顔をして、

 

「向こうに帰って、何か理不尽なことに気づいたら、すぐに言ってね。すぐよ」

「まさ君の存在を脅かすものは、私許さない」

 

「ありがとう」

 

「いつもまさ君を想っているから、どんな時も、私は一人じゃないの」

 

羽田空港23時。

 

ぬくもりが残っている。

ハートが、こころが、まきちゃんを覚えている。

このままフライト。

 

「まさ君、お土産は?」

 

「自分へのバーボンと、あと大家さんへのお土産だけ」

 

「意外に少ないのね。私にはたくさん買ってきたのに」

 

「うん」

 

「撒き餌だったんじゃないかしら?」

 

二人で笑う。

 

「フランクフルト経由でアムステルダムね。いいな~」

 

「うん。ビジネスクラスは快適だよ。食事も美味しいし、ワインもいい」

 

「まさ君、ワイン好きだから良いね」

 

「うん。まきちゃんと飲んだ青山のレストラン。ワイン美味しかったね」

 

「そう、思い出すの、シャブリ。美味しかったの」

 

まきちゃんは、何気に寂しげ。

 

「まさ君、ラウンジでひと休みする時間、なくなるよ」

 

「構わないよ。機内でゆっくり休めるから」

「深夜便だから、軽食食べてすぐ寝るし」

 

「そうなんだ……」

 

「遠くに行っちゃうね、また……」

 

ふたり、言葉にできない互いの想いに戸惑う。

 

「まさ君、間に合うの?」

 

「深夜便は大丈夫。早くて10分もあれば、免税店のところまで出られるよ」

 

「Attention passengers on ……Airlines flight 203 to Frankfurt. The boarding gate has been changed……」

 

「まさ君、いっちゃう……」

 

まきちゃんは涙を見せる。

 

「悔しいと思う……。一緒にいたいから」

「でもがんばるの……」

「この境遇を嘆かないで、乗り越えるの」

「今、笑うから待ってて。とても幸せなの……」

 

笑おうとするまきちゃん、でも涙が止まらない。

 

「まきちゃん、未来で今日を懐かしもうよ」

 

言葉と本音は違う。まきちゃんのストールで、この時間を縛ってしまいたい。

 

こんなにも辛い。別れが……。

優しく抱いている肩の手、いつまでも触れていたい。

なかなか離れない……。

 

「We have departed Tokyo 10 minutes behind schedule, but we now have strong tailwinds, so we estimate our arrival in Frankfurt International Airport on schedule.」

(東京を定刻より10分ほど遅れて離陸いたしました。現在、強い追い風を受けております。フランクフルト国際空港には、定刻の到着を予定しています)

 

時のフライトが、いま、二人を切り裂いた。


第46話

 

「いろいろなことがあるかもしれないけど、物事ポジティブに考えて行きましょ。息がつまらないように」

 

「ポジティブシンキングは大切だよね。いつでも、どこでも」

「そして過ぎないようにだね。了解」

 

「第三者からの自分をいつも見つめていて。まさ君、海外では異邦人なんだから、特にね」

 

「うん」

 

「あのね、お昼だけど、エビ天丼のものすごく美味しい店があるの。どう? 行ってみる?」

 

「いいね。行こう」

 

まきちゃんの大好きな海岸を二人の記憶に焼き付け、車を市内方向に走らせた。

 

「今から行く店は超穴場よ。旅行ガイドにもどこにも載っていないの」

「漁師さんたちが直接陸揚げした海産物をお店に持ってきて、元漁師さんコックがそこで魚介類をさばき、ランチを食べさせる店なの。一般のお客さんもOKよ」

 

「聞くからに美味しそうだね」

 

「うん」

 

市内のバイパスを通りすぎて、左折して山林方向、内陸部に向かううねった狭い道を少し進むとその店があった。なかなか分かりにくい場所だ。

 

「ごめんください」

 

店には日曜日というのに客がいなかった。

 

「お客さんいないね」

 

「大丈夫よ。待ってて」

 

まきちゃんは、店の裏玄関に入り、調理場の近くに向かっていった。

 

「はい、いらっしゃい」

 

いかにも漁師さんぽい店主が挨拶に来た。

 

「店主さん元漁師の雰囲気あるでしょ」

 

「ああ、声も枯れているしね」

 

「エビ天丼二つお願いできますか?」

「あと、何かおすすめの品ありますか?」

 

「アワビと今日はアオリイカがあるよ。生きが下がるといけないんで、うんと安くしとくよ」

 

「じゃあ、それも、お願いします」

 

「はいよ」

 

「まさ君、美味しいね。こんな大きなエビが2匹、他の海産物の天ぷらもどんぶりからこぼれ落ちてるよ」

 

「鮮度のいいエビがカラッと揚がっていて、すごい美味しい。食べた事ないよ、こんなすごいエビ天丼」

 

「ここ穴場でしょ。特別な塩の使い方がポイントなのかな?」

 

「色々な海鮮素材そのものの味が微妙な塩気でグッと引き締まって生きてくるね」

 

「でしょ。きれいな空気、新鮮な海の幸、漁師さんのまかない飯レストラン」

 

「アワビも絶品、アオリイカも甘くてシコシコ、上品な味」

 

「五つ星でしょ?」

 

「うん。とにかく最高の味だね。僕的には日本一のエビ天丼の店だ」

 

「ふふっ、世界を股にかけてる人がそんなに気に入ってくれたの?」

 

まきちゃんが優しく微笑む。

 

「うん、すごく気に入った。僕は、日本の都道府県は大体仕事で回っていて、ご当地の美味しい海鮮物もいただいたりしてきたけど、ここのエビ天の味はすごいよ。滅多にお目にかかれない。ありがとう」

 

「そう、まさ君。この辺りにね、もう一つ穴場があるの」

 

「また食べ物?」

 

「ううん、違う」

 

「温泉よ。隠れ家の温泉」

 

「温泉?」

 

「そう。観光客はまず 99% 訪れない民家が営んでいる温泉。黒い色の天然温泉よ」

 

「そこも、情報誌やネットにも載っていなくて、地元の人でさえ知らない人もいるの」

「体の芯から温まる家族風呂風温泉よ。どうする?」

 

「うん。行こうか」

 

海鮮料理店を出る。玄関先のブーゲンビレアの花が優しく揺れている。花言葉は”あなたしか見えない”。まきちゃんの髪もゆれている。

 

温泉は料理店から車で10分位しかかからない、古びた民家のお風呂場のこと。

一般家庭のお風呂の3倍くらいの湯船が二箇所ある。

看板もなく、商いとしてやっている訳でもない。お年寄り夫婦だけの住まい。

 

「一人500円でええよ」

 

「ありがとうございます」

 

タオルと石鹸を借りたが、そのレンタル料はいらないとのこと。

 

僕は千円札を渡し、まきちゃんと脱衣所へ向かった。脱衣所は2畳ほどの大きさ。

 

「Let’s take a spa!」

(温泉に入りましょう!)

 

まきちゃんが子供のように嬉しそうに服を脱ぎ、たたむ。

もう、見慣れた仕草。何だか恥ずかしいけど嬉しい。

 

「まきちゃん。よくこんな秘湯知ってるね」

 

「この家の近くの農家さんに聞いたの。学生時代の夏休みお手伝いしていた花農家さん」

「ここのお湯、神経痛にとても効くんだって」

 

「もしかして……、まきちゃんって神経痛持ち?」

 

「んな訳ないでしょ!」

 

まきちゃんは、笑顔で僕の手のひらを叩く。

 

「少し熱めで、玉のような汗がでるね。体の芯まで暖まる」

 

「いいお湯でしょ?」

 

まきちゃんは、古びた温泉の窓を指差し、

 

「夜はね、この窓から月が見えるの。キレイよ」

 

まきちゃんが微笑む。

 

「今日で帰らなきゃならないね、まさ君」

「今、こんなに楽しいのに……」

 

「寂しいね……」

 

二人抱き合い、長い口づけを交わす。

 

「あのね、成功者は必ず、その人なりの哲学をもっているものなの」

「まさ君のまだ未熟な哲学を支えてあげる。邪魔なものは徹底して排除する」

「守ってあげるから、その事守ってね」

 

まきちゃんは少し泣いている。

 

「そろそろ、帰路に向かおうか」

 

「まさ君……」

 

「なに?」

 

「うん……。ありがとう。海や食事や温泉、全部楽しかった……」

 

まきちゃんの涙が止まらない。

よく笑う女の子はよく泣く女の子。

 

「あのね、僕はよく銀の翼で空に居るけど、雲の上は世界中どこでもいつでも青空だよ」

「務めて空を見上げて笑うようにしようよ」

「そうすれば、笑う回数が増えて泣く回数が減るから」

 

まきちゃんは頰を伝った涙を拭きながら、僕の言葉に頷き、そして少し微笑んでくれた。

第44話

 

「森下さんは、みんなの憧れの存在だったの」

 

「誰からも信用され、社交的。また、国内外のプレゼンや会議においても饒舌」

「非の打ち所がない優秀な人。とても目立っていたわ」

 

僕の知っている森下さんはそうだ。とても愛想よく、何事にも丁寧に接する人だった。即断・即決・即実行の快活な人で、グローバル感覚にも優れている。一種のカリスマ性さえ感じた。

 

まきちゃんは話を続ける。

 

「ただ、森下さんに敵意か何か? をもつ人がいたのが事実。堂々と足を引っ張る事ができない人たち」

 

「何かって何?」

 

「例えば、彼が見つけた成果や情報などを先取り、横取りしたい人たち。あるいは隠したい人達」

「さらには、森下さんの存在自体に嫉妬している人達」

 

「そういう人達が、病気じゃないのに優秀な森下さんを心の病を持つ人に作り上げたと思うの。第三者をうまく利用してレッテル張りを仕掛けてくるのよ」

「森下さんを、優秀な研究者としての地位から永久に追放するため」

 

僕は少し曇り顔で、

 

「どうして? 何のメリットもないじゃない。敵意か何かを持つ人たちの方がよっぽどおかしいんじゃないの? そんな人たちの行動なんて、世の中では見抜き見通しだと思うけど……」

 

「そこよ、そこなのよ、見抜き見通しできないシームレスな動き。そこが私たちにもよく分からないところなの……。もしかしたら政治的なものも絡んでいるのかも知れない」

「一つ一つのピースをバラして、再度組み立てて行けば、起きた問題の全体像に近いものが明らかになると思うの」

 

「そんな事を深く探って何か意味があるの?」

 

「大ありよ。森下さんはレッレルを張られちゃったけど、彼と似たような処遇、能力、性格に近い関係にあるのがまさ君でしょ。なにより、海外で森下さんと一緒にいた時期もある。そこが大事」

 

「僕は、物事を深く考えないようにしている。そして、森下さんの持っているた情報や成果など詳しくなんか知らないし」

「僕は事務畑、森下さんは研究畑の人だから」

 

「第三者からみたらそうじゃないの。まさ君は、森下さんと色々な情報を共有していたんじゃないかとか……」

「確認されちゃうのよ、しつこく確認。よい意味でも悪い意味でも」

 

「まさ君は鈍感でたくさんスキがあるのよ」

「私のまさ君……。心配なの……」

 

「ありがとう。僕はこれから、色々な物事に留意して行動するよ」

「いろいろあるかも知れないけれど、僕の心には一つの法則しかない」

「仕事や自分を愛する生き方は、まきちゃんを幸せにするためのものだから頑張れるんだ」

 

「ありがとう」

 

まきちゃんは僕を強く抱きしめ、少し涙を流した。

 

「僕はどんな仕事の成功や讃賞よりも、いつも愛するまきちゃんの一言二言が欲しいんだ」

 

まきちゃんは今度は微笑んで答えた。

 

「ありがとう」

 

僕は昨日より強くまきちゃんを抱きしめた。

まきちゃんも僕に応えてくれる。

 

「明日は海だね」

 

「そうね」

 

「まさ君、海で一番何がしたい?」

 

「貝拾い」

 

「ビーチバレーやスイカ割りより良い返事だけど、フフフ」

 

まきちゃんは笑みをこぼした。

 

「子供みたい」

 

「われ泣きぬれて蟹とたわむる、とでも言ったほうが格好良かったかな?」

 

二人で笑った。

 

まきちゃんの存在、自分以外のもう一人の愛する人間の幸せが、自分自身の幸せにとって、絶対的に欠くことのできないもの。

互いにこころを重ね、何度も確かめ合う。

 

「まさ君、明日いなくなっちゃうんだよね」

 

「うん」

 

「何度言っても寂しいよね……」

 

「うん……」

 

「おやすみなさい」

 

希望の光を灯したり、ささいなことで胸が傷つく夜もある。

それに耐えて……。そんな僕の可愛い人。

 

また、まきちゃんをひとりぼっちにさせてしまう……。僕を守る、プチ探偵の仕事まで背負って……。

 

I'm falling in love with her, this person who keeps hurting herself 

to protect the people she cares about.

(この人を愛している。愛する人達を守りたくて、自分を傷つけてしまうこの人を)

 

天使のようなまきちゃんの寝顔。

そっと髪を撫で、その羽をも包みこむ様に優しく抱きしめ、僕も深い眠りについた。

 

 

第45話

 

始発の特急電車で南房へ行き、館山でレンタカーを手配した。午後4時までの小旅行。

 

「まさ君、南房方面は詳しい?」

 

「いや、そんなに詳しくはないよ」

 

「じゃあ私がナビするね。私、毎年春と夏にはここへ来るの。南房、大好きなの」

 

車を走らせ、時折見える海岸を望めながら北上した。

 

「トンネル多いね」

 

「うん」

 

まきちゃんのお気に入りの海岸に着いた。

 

「私ね、ここの海岸好きなの。ここにはね、いっぱい思い出があるの」

「大学時代のサークルの春合宿も夏合宿もここだったの」

 

シーズンも終わりに近い海岸には親子連れが2組。

僕は海辺に立つまきちゃんを見つめていた。清楚で華奢、海を背に美しい。

 

「海、奇麗ね……」

「私ね、いつもまさ君を喜ばせたい」

「だけど……」

 

まきちゃんは涙ぐんでいる。

 

一緒に来ない? と、必死に声をかけたい衝動に駆られる。僕も辛い。このままのまきちゃんが欲しい。

 

「海って永遠を感じるよね」

 

まきちゃんが呟く。

 

「うん、そうだね」

 

僕は答える。

この瞬間を記憶に閉じ込め、世界のどの海も眺めるたびに思い出したい。

 

「この海の景色が、まさ君色に変わるまでここにいようね」

 

「僕色?」

 

「そう、まさ君、この海の風景に溶けて欲しいの。私の記憶で」

 

「座る?」

 

「うん」

「まさ君を守るからね。些細な事でも、おかしいと感じたら私に連絡してね。絶対よ」

「まさ君、のん気で鈍いところがあるから心配だけど……」

 

「分かった」

 

「そう、特にまさ君を褒め上げたり、持ち上げたりする人には気をつけてね」

「浮かれた思考は言葉になり、相手に情報を与えることにもつながるから」

「いろいろな、まさ君自身が、おかしいな? と思わせるパターンがあるから注意してね」

 

「うん、注意する」

 

「情報提供者たちは、自分たちがほしい情報だけをとるのよ」

「そのためなら、どんな手段、嘘をついても構わない。嘘を伝達するグローバルネットワークまで構成しているの」

 

「怖いね」

 

「怖いでしょ」

 

「何のために?」

 

「分からないでしょ?」

「彼ら、彼女らは、森下さんを狙った。それだけは確か」

「奈美さん曰く、そして森下さんがグローバル・ローカルネットワークに”潰された”……」

「そして今、まさ君狙い?」

 

「あのね、私なりにまさ君の性格を分析して単純化したの。森下さんと比較して」

「まさ君の特徴。優しい全然普通の人。仕事はできる、責任感が強い、嘘はつかない、逆切れしない、感情は穏やかで心から人と愛し合える、鈍感」

「森下さんの特徴は、鈍感以外まさ君に同じ」

 

「森下さんと僕って似てる?」

 

「第三者から見てそうなのよ」

「だから標的になるのよ」

 

まきちゃんは落ち着いた声で、ゆっくり話し始めた。

 

「森下さんは、意思伝達が上手で魅力的だった。そこはまさ君よりはるかに上ね」

「けれど、揚げ足もとられるの、時と場合によっては、魅力的すぎて。説得力が強すぎて」

「あと自由の与えられ方。いわゆる自由優先で縛らないで仕事をさせると、実は社会的に問題行動とみられても仕方ないケースの行動もでるの。いわゆる便宜

的なものも含めて」

「まさ君の行動にはいろいろあるよ、便宜みたいな時間。たくさん」

 

「私とここでこうしていることも……」

 

僕は答えた、

 

「多からず少なからず、この世の中では便宜は誰にでもあることだと思うけ

ど……」

 

「違う違う、誰にでもないの、稀なの、与えられ方が。しかも、グローバルによ!」

「気をつけて。繰り返すけど第三者からの自分を客観的に見なきゃ。この三日間も業務上の便宜で片づく?」

 

「……」

 

「ねっ」

 

「まさ君は、会社からは仕事以外のいろいろなグローバル感覚も吸収して欲しくて、自由行動を認めるお墨付きを得られている人なの」

 

「裏を返せば、無責任行動とみられる行いの有様も確認されている?」

 

「そう。気づいた?」

 

「森下さんやまさ君のような自由行動を許された有能な人には良質な情報が転がり込んでくる。そしてそれを欲しい人達がいる。また無責任行動は、足元をすくうため、その人達が否定的な情報を流すネットワークの格好の餌になる」

 

「少し話が見えてきたでしょ?」

 

そういえば、亀田麻友さんと出会ったのは、ブリストルの仕事の帰りに必ず寄るストーンヘンジ。彼女は終バスに遅れたと……。

 

橋本美咲さんとは、僕がロンドンの夜を楽しむ時に、必ず散策するビックベンを眺めながらのテムズ川沿いの遊歩道……。

 

どちらも業務の便宜中? 無責任なルーチン行動? そんな時に彼女たちに出会った。

 

亀田麻友さんは、僕より前に森下さんに会っている可能性がある。森下さんの入院中に、人差し指を口に当てる癖の女の子が面談してたともいう……。

 

橋本美咲さんも、僕が住所を教えてもいないのに、僕のホームステイ先に絵はがきを送ってきた。どこからか、僕の旅程スケジュール、住所が漏洩していて……。ただ彼女は今のところ森下さんとは繋がらない。

 

「まきちゃん。なんだかいろいろピースを集めると繋がってくるかも。森下さんとの接点とかも」

 

「でしょ」

「だから今、森下さんの方は奈美さんがピースをバラして組み立てている」

「でも、事の核心まではまだまだよ」

 

「肝心なことは、たやすく目には見えないのよ」

「そして運命の女神は、努力を怠らない者だけに微笑むの」