第11話
「え~っと」
僕は恵ちゃんに何から頼もうか考える。
「まずは恵ちゃん。移動相の溶液だけど、2種類作って」
「A液は、1.5% リン酸、蒸留水にリン酸を入れるだけ。B液は、1.5% リン酸に40%アセトニトリル、50%酢酸溶液」
「酢酸は強烈な匂いだし、アセトニトリルは第4類危険物 第1石油類だから、どちらもこぼさないよう気をつけてね」
「は~い」
「返事は伸ばさない」
「はいはい」
「はい、は1回ね」
「あっ! 正くん、アセトニトリル、少しこぼしちゃった」
僕はため息をつく。
「だから言ったじゃない。水じゃないんだから。全く……、天然のお嬢さんなんだから」
「ケーキも作る腕前のある私よ。今のはうっかりミス。料理はすごい上手なんだから」
「前に研究室の台所で作ってくれた里芋の煮っころがしに、みりん入れ忘れたじゃない」
「あら? 正くんよく覚えているね」
恵ちゃんの一挙一動、全て覚えているよ……。
「忘れないよ」
「はいはい」
「だから、はい、は1回ね」
「はい」
僕はこぼれた溶液を新聞紙に吸わせ、ドラフト内で乾燥さる。そのあと産廃。
「解析プログラム、大丈夫?」
「うん。なんとか」
「カルコンはモニタリングは420nmあたりがいいらしいけど、有田先生が360nmで測定しろと言っていたよね……」
「フラボノイド全般がモニタリングできるからかな?」
「有田先生、部屋にいると思うから恵ちゃん、聞いて来て」
「は~い」
「だ・か・ら、返事は伸ばさない」
恵ちゃんが有田先生を実験室に連れてきた。
「正くん、いよいよ始めるんだね」
「あっ! 先生。聞きたいことがあって……」
「恵ちゃんから聞いたよ。360nmでお願いと言ったのは、お察し通り、カルコンと一緒にフラボノールも測定できるからなんだ」
「フラボノールは無色透明に近いけど、最大吸収波長が360nm付近にある。カルコンと両方同時にモニタリングできるんだ」
「やはりそうだったんですか」
「薄い黄色は、カルコンとフラボノールが共存している可能性が高いからね。いっぺんに両方調べられる」
「正くん、液クロのプログラムできる?」
「はい。できます」
「頑張ってね。結果楽しみにしてるよ」
「は~い」
「正くん。返事は伸ばさない」
「恵ちゃんだけには言われたくないよ」
「さて、A液10%から50%のグラディエント。分析時間、40分と」
「流速は0.8ml/min」
「サンプルは11種類。黄色9つと、オレンジ2つ」
「恵ちゃん。プログラムできたよ」
「そうそう、あとODSカラムだね。新品だから平衡化しておこうか、2時間ほど」
さて、液クロの準備はできた。あとは分析するだけ。
「正と恵ちゃんと何してる?」
「ハグか?」
大樹が実験室に入ってくる。
「色素分析の準備ができたよ。あと2時間くらいしたら分析開始する」
「正は液クロといい酵素解析といい、化学系もろもろ詳しくていいよな」
「いつ覚えた?」
「去年だよ。半月ほど薬学部と医学部に行って機器分析法教わって来たんだ」
「オーケストラの友人がいるから」
「去年、元山先輩が卒論の肉付に果実の色素データが必要だったらしくて」
「自分じゃできないと言うから、僕が分析してあげた」
「俺は電子顕微鏡だけだよ。ただ覗いて写真撮るだけ」
「俺も化学系の分析を覚えたいよ」
「大樹、大丈夫よ。僕のわかる範囲なら教えてあげるよ」
「私もあまり詳しくないから教えて」
恵ちゃんが僕にスリスリ寄ってくる。
そんなに距離が近いと……。照れる。
本当にハグするよ……。
「有機溶媒や劇物も扱うから、二人とも僕の言うことをちゃんと聞くんだよ」
「は~い」
「あのね、何回言おうか? 返事は伸ばさない」
恵ちゃんは僕に目線を合わせて素敵に微笑む。
「何々。恵ちゃんと正、いい関係?」
「違うよ……」
「えっ? 違うよで、い・い・の・か・な?」
恵ちゃんが僕をからかう。
そうだよ、とは冗談でも言えない僕の性格。
「まあ、恵ちゃんは俺に惚れてるし」
大樹が言う。そう言う図々しさが僕は少し欲しい。
「義雄は何してる?」
「さっき行ったけど、無菌室で組織培養してた」
「昼には終わるって」
「俺、今朝納豆食べて来たと言ったら、すぐに出て行け! と酷く怒られた」
「大樹、当たり前だよ。無菌室で繁殖性のものすごい納豆菌がコンタミしたらどうなる?」
「コンタミって何?」
恵ちゃんが優しく僕に質問してくる。
「組織培養している培地は無菌なんだ。もちろん培養している植物やカルスも無菌のものを扱う」
「コンタミって、コンタミネーションの略なんだ。空気中や接触物などから、細菌やカビが培地に入ってしまうこと。つまり、それらは繁殖力が強いから、培養器の中で繁茂して、中にある植物体が枯死してしまうんだ」
「あら、大変!」
「大樹よ、納豆食べて無菌室なんて厳禁だからね。ただでさえ私服での立ち入りは禁止なんだから」
「はいはい」
「どうする? お昼ごはん食べてから分析始めようか?」
「そうね」
「今日の生協のA定食はサーモンフライだったよ。タルタルソースがけの」
「美味しそう。私A定にする」
「僕も恵ちゃんと同じ、A定」
「俺はがっつり。B定の生姜焼き、ライス大盛りにする」
大樹は相変わらずの大食漢だ。
「そうだ、義雄も誘おうか?」
「俺、声かけてくる」
大樹が実験室を飛び出そうとする。
「だ・か・ら! 納豆食った人が培養室に行かない」
「身も心も無菌な恵ちゃん、呼んで来て」
「は~い」
恵ちゃんは少女のような笑顔で手を振って培養室に向かうけど……。
「あのさ、返事の仕方なんだけど……」