第11話

 

「え~っと」

 

僕は恵ちゃんに何から頼もうか考える。

 

「まずは恵ちゃん。移動相の溶液だけど、2種類作って」

「A液は、1.5% リン酸、蒸留水にリン酸を入れるだけ。B液は、1.5% リン酸に40%アセトニトリル、50%酢酸溶液」

「酢酸は強烈な匂いだし、アセトニトリルは第4類危険物 第1石油類だから、どちらもこぼさないよう気をつけてね」

 

「は~い」

 

「返事は伸ばさない」

 

「はいはい」

 

「はい、は1回ね」

 

「あっ! 正くん、アセトニトリル、少しこぼしちゃった」

 

僕はため息をつく。

 

「だから言ったじゃない。水じゃないんだから。全く……、天然のお嬢さんなんだから」

 

「ケーキも作る腕前のある私よ。今のはうっかりミス。料理はすごい上手なんだから」

 

「前に研究室の台所で作ってくれた里芋の煮っころがしに、みりん入れ忘れたじゃない」

 

「あら? 正くんよく覚えているね」

 

恵ちゃんの一挙一動、全て覚えているよ……。

 

「忘れないよ」

 

「はいはい」

 

「だから、はい、は1回ね」

 

「はい」

 

僕はこぼれた溶液を新聞紙に吸わせ、ドラフト内で乾燥さる。そのあと産廃。

 

「解析プログラム、大丈夫?」

 

「うん。なんとか」

 

「カルコンはモニタリングは420nmあたりがいいらしいけど、有田先生が360nmで測定しろと言っていたよね……」

「フラボノイド全般がモニタリングできるからかな?」

「有田先生、部屋にいると思うから恵ちゃん、聞いて来て」

 

「は~い」

 

「だ・か・ら、返事は伸ばさない」

 

恵ちゃんが有田先生を実験室に連れてきた。

 

「正くん、いよいよ始めるんだね」

 

「あっ! 先生。聞きたいことがあって……」

 

「恵ちゃんから聞いたよ。360nmでお願いと言ったのは、お察し通り、カルコンと一緒にフラボノールも測定できるからなんだ」

「フラボノールは無色透明に近いけど、最大吸収波長が360nm付近にある。カルコンと両方同時にモニタリングできるんだ」

 

「やはりそうだったんですか」

 

「薄い黄色は、カルコンとフラボノールが共存している可能性が高いからね。いっぺんに両方調べられる」

 

「正くん、液クロのプログラムできる?」

 

「はい。できます」

 

「頑張ってね。結果楽しみにしてるよ」

 

「は~い」

 

「正くん。返事は伸ばさない」

 

「恵ちゃんだけには言われたくないよ」

 

「さて、A液10%から50%のグラディエント。分析時間、40分と」

「流速は0.8ml/min」

「サンプルは11種類。黄色9つと、オレンジ2つ」

 

「恵ちゃん。プログラムできたよ」

「そうそう、あとODSカラムだね。新品だから平衡化しておこうか、2時間ほど」

 

さて、液クロの準備はできた。あとは分析するだけ。

 

「正と恵ちゃんと何してる?」

「ハグか?」

 

大樹が実験室に入ってくる。

 

「色素分析の準備ができたよ。あと2時間くらいしたら分析開始する」

 

「正は液クロといい酵素解析といい、化学系もろもろ詳しくていいよな」

「いつ覚えた?」

 

「去年だよ。半月ほど薬学部と医学部に行って機器分析法教わって来たんだ」

「オーケストラの友人がいるから」

 

「去年、元山先輩が卒論の肉付に果実の色素データが必要だったらしくて」

「自分じゃできないと言うから、僕が分析してあげた」

 

「俺は電子顕微鏡だけだよ。ただ覗いて写真撮るだけ」

「俺も化学系の分析を覚えたいよ」

 

「大樹、大丈夫よ。僕のわかる範囲なら教えてあげるよ」

 

「私もあまり詳しくないから教えて」

 

恵ちゃんが僕にスリスリ寄ってくる。

そんなに距離が近いと……。照れる。

本当にハグするよ……。

 

「有機溶媒や劇物も扱うから、二人とも僕の言うことをちゃんと聞くんだよ」

 

「は~い」

 

「あのね、何回言おうか? 返事は伸ばさない」

 

恵ちゃんは僕に目線を合わせて素敵に微笑む。

 

「何々。恵ちゃんと正、いい関係?」

 

「違うよ……」

 

「えっ? 違うよで、い・い・の・か・な?」

 

恵ちゃんが僕をからかう。

そうだよ、とは冗談でも言えない僕の性格。

 

「まあ、恵ちゃんは俺に惚れてるし」

 

大樹が言う。そう言う図々しさが僕は少し欲しい。

 

「義雄は何してる?」

 

「さっき行ったけど、無菌室で組織培養してた」

「昼には終わるって」

 

「俺、今朝納豆食べて来たと言ったら、すぐに出て行け! と酷く怒られた」

 

「大樹、当たり前だよ。無菌室で繁殖性のものすごい納豆菌がコンタミしたらどうなる?」

 

「コンタミって何?」

 

恵ちゃんが優しく僕に質問してくる。

 

「組織培養している培地は無菌なんだ。もちろん培養している植物やカルスも無菌のものを扱う」

「コンタミって、コンタミネーションの略なんだ。空気中や接触物などから、細菌やカビが培地に入ってしまうこと。つまり、それらは繁殖力が強いから、培養器の中で繁茂して、中にある植物体が枯死してしまうんだ」

 

「あら、大変!」

 

「大樹よ、納豆食べて無菌室なんて厳禁だからね。ただでさえ私服での立ち入りは禁止なんだから」

 

「はいはい」

 

「どうする? お昼ごはん食べてから分析始めようか?」

 

「そうね」

 

「今日の生協のA定食はサーモンフライだったよ。タルタルソースがけの」

 

「美味しそう。私A定にする」

 

「僕も恵ちゃんと同じ、A定」

 

「俺はがっつり。B定の生姜焼き、ライス大盛りにする」

 

大樹は相変わらずの大食漢だ。

 

「そうだ、義雄も誘おうか?」

「俺、声かけてくる」

 

大樹が実験室を飛び出そうとする。

 

「だ・か・ら! 納豆食った人が培養室に行かない」

 

「身も心も無菌な恵ちゃん、呼んで来て」

 

「は~い」

 

恵ちゃんは少女のような笑顔で手を振って培養室に向かうけど……。

 

「あのさ、返事の仕方なんだけど……」

 

U第10話

 

バラ科バラ属の自作の分類表を開く。

バラ属は4つの亜属に分かれている。

 

フルテミア亜属 Hulthemia、ヘスペロードス亜属 Hesperrhodos、サンショウバラ亜属、そして、バラ亜属 Rosa。

 

バラ亜属はさらに11の節に分かれる。

 

モッコウバラ節 Banksianae ー中国を原産地とするバラ。

カカヤンバラ節 Bracteatae ー3つの種があり、うち2つは中国に生息し、残りの一つはインドに生息する。

イヌバラ節 Caninaーアジア・ヨーロッパおよび北アフリカを原産地とするバラ。

カロリナ節 Carolinaeー北アメリカ大陸全域に生息している。

コウシンバラ節 Chinensisー中国やミャンマーに生息している。

ガリカ節 Gallicanaeー西アジアからヨーロッパにかけて生息している。

Gymnocarpae ーローズヒップ類と区別するために作られた節。北アメリカ大陸西部に生息する一方、他の種は東アジアに生息している。

ナニワイバラ節 Laevigataeー中国に生息。

ピンピネリフォリア節 Pimpinellifoliaeーアジアおよびヨーロッパに生息している。

ハマナス節またはキンナモメア節 Rosa (syn. sect. Cinnamomeae) -北アフリカを除く世界中に分布している。

ノイバラ節 Synstylae ー世界中に分布する。

 

これらの分類された野生種のバラの葉から酵素を抽出して調べ、それぞれの節の特徴、近縁度を酵素のアミノ酸組成レベルで解析するのが僕の卒論。

 

バラ属のその起源は、世界で多元的に発生していることが特徴。

 

通常の植物、例えばマリーゴールドはアメリカ大陸の熱帯、温帯。ヒマワリは、北アメリカ大陸西部、ケイトウは、アジア、アフリカの熱帯地方、ガーベラは南アフリカなどなど、色々な花卉の原産地は少なからず地域性を持っているのに対し、バラ、そしてカーネーションの属するナデシコ科ナデシコ属などは一部の南半球を除き、世界中のいたるところでその起源が確認される。

 

今のところ解ってきたのは、中国に生息するバラの節には大きく分けて4種類ほどの酵素多型があり、その4種類の中でもザイモグラム、すなわち酵素から得られるバンドパターンが異なっているものがいくつかあること。

 

すなわち、遺伝子プールを考えてみると、中国でのバラの起源は古く、何千万年? の間に多くの遺伝子の変異が蓄積されてきた可能性があると言うこと。

 

また、北アメリカ大陸全域に分布するカロリナ節では2種類のザイモグラムだけしか確認されないことから、その起源は比較的新しく、遺伝子の変異があまり蓄積されていないらしく、種分化上、比較的新しい節と考えられること。

 

まあ、卒論は恥を書くみたいなものと言われる。僕は僕なりに、酵素を用いた化学分類を、世界の学者が調べ上げたバラ属の分類に照らし合わせ、ファンタジー小説みたいに書ければいいかな? と言う方向性で気軽に卒論作成を進めている。

 

いいんだ。若い時には、恥はかくもの。

 

「恵ちゃん、おはよう」

 

「おはよう、正くん」

 

「色素は昨日のうちに大樹と義雄と一緒に抽出準備したから、もうサンプル出来ているんじゃないかな」

 

「うん。ありがとう」

 

「私箱入り娘だから。ごめんね」

 

「恵ちゃん。それ自分で言わない」

 

いつものように二人で目を合わせ微笑む。

 

「そう、有田先生が新品のODSカラムとアセトニトリルを持ってきてくれたから、液クロでの色素分析、始めようか」

 

「正くん、大丈夫?」

 

「机いっぱいにバラの分類表とか論文とか広げてあるじゃない。忙しいんでしょ?」

 

「全然大丈夫。すぐ片付けるよ」

 

僕は、一つ一つの資料を丁寧にバインダーに戻す。

 

「しかし、不思議よね。バラ属の分布」

「世界で多元的に発生しているじゃない」

 

「うん。ホント不思議なんだ」

「これらがほとんど交雑親和性を持つ同じ属なんだからね」

 

「私も不思議に思う。すごいよね」

 

「バラ属の起源は、3500~7000万年前頃と言われている」

「それがヒマラヤの山麓付近という学者もいれば、バラ属の種が多い中国付近からという学者もいる」

「中には、原始バラがシベリア付近にあって、それからどんどん世界中に南下していき分化したということを書いてある論文もあるんだ」

 

「7000万年前というと白亜紀後半の恐竜が絶滅するちょっと前だし、3500万年前でもまだヒトが存在していない頃だから、バラって遥か昔から存在していたのね」

 

恵ちゃんが、優しい遠い目をして話す。

 

「恐竜がかっ歩していた白亜紀の植物は、主流であった原始的な裸子植物やシダなどが減少し、被子植物が主流となって進化、繁栄した頃」

「恐竜もきっと、バラ踏んだりして、足痛かったろうね」

「あ~あ。バラ踏んじゃった、とか言って」

 

僕は恵ちゃんの冗談にカラカラ笑う。

 

「正くん、種分化の持論みたいのはあるの?」

 

「ヒマラヤだの、中国だのじゃなくて、神様がいっぺんに世界中にバラの種の素を蒔いたかもしれない。そんなことを考えたりもする」

「恐竜や昆虫や植物も何もかも、神様のシムアース。ゲーム感覚だった? かなとか」

 

「あとは、現実的に考えると、白亜紀頃の大型昆虫や鳥類が、例えばバラの実を食べて、地球の大陸中を飛び回り、種子の入った糞をあちらこちらで落として世界に広まった」

「そして、それぞれの地域で分化していく」

 

「なるほど、面白い持論ね」

 

恵ちゃんは頷く。

 

「さらに、バラだけでなく、地球に存在する百花爛漫、彩緑の植物たち」

「白亜紀後期の地球への隕石の衝突による気象変動で地球は暗黒化し、ごく低温状況が続いたことなどで恐竜が絶滅したとあるけど、その頃の環境による植物への影響についてはあまり触れられていない」

 

「もしかすると、その隕石に含まれていたかもしれない放射性物質、例えばプルトニウム239のような放射能も地球上を覆った」

「もちろん、ごく強い放射線のせいで、植物に中には滅するものもあったけど、放射線の影響で様々な植物の遺伝子に変異が起こり、多種多様なな種分化を遂げるきっかけになった。プルトニウム239の半減期が2.4万年だからね。その期間中心に」

 

「放射能により起こった壮大な地球レベルでの遺伝子組み換え」

「そして、決定的な隕石だけでなく、おびただしく地球に衝突した隕石にどれかに乗って来た昆虫類が小型化しつつ花々を訪れ放射線変異した植物の交雑に寄与し、また恐竜の子孫の小型化した鳥類たちはその実を食べ、種子入りの糞を大陸のあちらこちらに落として廻る」

「そして地球上のあらゆる地域の風土、気象条件などに従い、それぞれの属や種が、自然淘汰なども経てさらに分化し、進化ていく」

 

「正くん、面白い発想するね」

 

「想像するのはタダだからね」

 

「正しくん、貧乏だもんね」

 

「さて、貧乏はともかく、色素分析始めようか」

「恵ちゃん。白衣に着替えて来て」

 

「うん」

 

恵ちゃんは軽いステップを踏んで、更衣室に入っていく。

 

「じゃじゃ~ん。どう? 科捜研の女よ!」

 

白衣の裾を上げて、首かしげお嬢様挨拶をするような可愛い仕草。

ホント素敵な女の子。可愛すぎて軽いめまいがする。

 

恵ちゃん。その変異する姿、日々進化してる恵ちゃん全部。どんなバラよりずっと綺麗だよ。

恥ずかしくて、口には出せないけれど……。

 

第9話

 

帰りの車中で先生にお願い。

 

「先生。液クロ動かすのに、アセトニトリルと新品のODSカラムが研究室にないので買っていただきたいんですが?」

 

「わかった。隣の研究室から借りてくるよ。確か農芸化学研究室には両方とも在庫があるはず」

「正くん、早く正確な色素分析がしたいんでしょ?」

 

「はい」

 

「そうだ、恵ちゃん。去年、先輩から少し液クロでの色素分析習ったよね」

 

僕は恵ちゃんに確認する。

 

「うん」

「色素の抽出法とか、液クロの移動相の作り方とか知ってるよ」

「でも、パソコンの測定ソフトウエアの使い方は、かなり忘れてるかな?」

 

「大丈夫。そこは僕が覚えている」

「二人で力を合わせれば、なんとかなるね」

 

二人でと言ってしまい、僕は少し心で照れる。

 

「俺はどうすればいい?」

 

「大樹はサンプル採取と準備」

 

「採取はわかるけど準備って?」

 

「採取するサンプルのステージを揃えたり、持って帰ってきて花弁を乾燥させ、乾燥花弁の準備、そして重量測定して小分け整理して超低温庫にしまったり」

 

「何だ、正のおじさんのところで実験に使う花をポンポン摘んで取ってくるだけじゃないの?」

「女の子をナンパしてお持ち帰りするみたいに」

 

「違うよ。サンプル準備はとても繊細な作業で、気を使うんだよ」

「女の子のお持ち帰りだって、繊細なエスコートに気を使うだろ?」

 

「ソレはそれ。アレはあれ」

 

大樹の意味不の言葉。

 

義雄が口を挟む。

 

「例えば、僕の遺伝子解析用のサンプル採取では、蕾から開花始めまでのステージ別に、採取直後に液体窒素で即凍らせてアルミホイルで包み、ドライアイス入りのケースにサンプルを入れて持ってきてもらう」

 

「義雄、それは俺には無理だよ。その時は義雄も一緒にきてくれよ」

 

「わかったよ。一緒に行くよ」

 

「色素分析のサンプルも同じ。蕾からのステージ別のサンプルも持ってきて」

「それは常温で構わないから」

 

「はいはい」

 

大樹は、めんどくさそうに返事をする。

 

「今日持ち帰る花はどうしようかな?」


「恵ちゃんのこと?」

 

「まあ、大樹の冗談はさておき、生花弁重の計測をして、それぞれ定量の80%メタノールで一晩浸漬するかな」

「まず、手始めに」

 

「先生、そういえばうちの液クロ。2波長の同時測定は可能ですよね」

 

「うん。UV/VIS仕様。測定波長はカルコンは360nmの紫外光、オレンジにあるはずのアントシアニン、すなわち、今回調べるペラルゴニジン3グルコシドの赤色色素は520nmくらいでいいかな」

 

「本当は、全波長測定のPDA、フォトダイオードアレイがあるといいんですけど……」

 

「そんなの、予算オーバーで買えなかったよ。うちの台所事情、厳しいからね」

 

あともう少しでキャンパスに着く。

 

「恵ちゃん。今日はもう帰る?」

 

「うん、もう帰る。夕方6時を過ぎたし」

 

「じゃあ、僕が今日採取した9種類、6つのグループに分けられた黄色花、2種類のオレンジ花の色素を抽出しておくよ」

 

「うん。ありがとう」

 

「箱入り娘は早く帰らないとね」

「悪い虫がつくと困るから」

 

大樹が言う。

 

「お前が一番悪い虫だよ」

 

義雄が鼻で笑いながら大樹に向かって話す。

 

「まあ、輩は徹夜もOKな連中だから、今日のサンプル分の調査、分析準備は3人でできるね」

 

「それぞれの卒論も進めなきゃならないし」

 

「正、大丈夫か?」

「お前のアイソザイムの研究は、分析も面倒で4時間以上かかるし、細かい洗い物も多いから」

「長い時には、2時間くらい器具洗浄にかかるだろ?」

「結果が出てからの多変量解析にも時間がとてもかかるし」

 

義雄が心配そうに僕に声をかける。

 

「大丈夫。習慣になっているから。慣れだよ、慣れ」

 

大樹がテンション高く声を張る。

 

「俺は電子顕微鏡の写真だけで暇だし!」

「義雄は、せいぜい寒天培地の作成や、植物のカルスからのプロトプラストの単離くらい」

「そうそう、あとはPCRやらシーケンサーやら機械任せの遺伝子解析か」

 

義雄が言う。

 

「そんな簡単に言うなよ。遺伝子解析はとても難しく大変だよ」

「正直、一人では出来ないんじゃないかと思っている」

「暇なのは大樹くらいだよ」

 

「いや、恵ちゃんも暇だよ」

 

「あら、私そんなに暇じゃないわよ」

「100種類くらいの胡蝶蘭を毎日取り替え、密閉チャンバーにセットし、24時間光合成測定装置で光合成量を測る」

「そして、その胡蝶蘭の葉の厚さを測定」

「CAM(キャム)、non-CAM判別のための基礎的知見を得るの」

「結構、気を使うのよ」

 

「そう、何だっけ? CAM植物って」

 

「大樹、知らないの」

 

「うん」

 

恵ちゃんはため息をつく。

 

「あのね、大雑把に言って葉が薄い胡蝶蘭はC3型のCO2固定をしているの。一方、葉の厚いラン、胡蝶蘭などはCAM型のCO2固定によって光合成を行っていることが多く,成熟したコチョウランは、このCAM型の光合成を行っているらしいの」

 

「CAM型とは、暗期(夜間)に気孔を開きCO2を吸収してリンゴ酸を合成して葉に貯え、明期(昼間)には気孔を閉じリンゴ酸から発生するCO2を用いてC3型の光合成によってCO2固定を行っているものなの」

「サボテンや、アロエなどもそうよ」

 

「よくわからないな、C3型植物、C4型植物だとかCAMも」

 

「大樹くんは知らなくていいよ」

 

「そんな、冷たいこと言わないでよ恵ちゃん」

 

「まあ、簡単に言うと、普通一般の植物は昼間光合成をして、二酸化炭素を取り込んで酸素を出している。見かけ上のね。呼吸もしているから酸素も消費しているよね」

「夜になると、酸素だけを取り込んで二酸化炭素を放出している。いわゆる普通の呼吸と言われるものよ」

「これがC3型植物ね」

 

「トウモロコシ、サトウキビで行われているC4型は飛ばすけど、CAM植物はさっき言った通り。1日中、見かけ上植物体から酸素を放出しているの」

「だから私の研究は、光合成測定装置のデータが命。あと、葉の厚さの正確な測定が大切なの」

 

僕は口を挟む。

 

「胡蝶蘭は、葉の薄い品種や幼植物のステージでは、どうやらCAMをしていないらしいよね」

 

「そうなの。それを確かめる事が、私の研究の大きなテーマの内の一つよ」

 

「じゃあ、どのくらいの葉の厚さからCAMが始まる?」

 

大樹が聞く。

 

「葉の厚さを測定して、判別分析という多変量解析の統計手法を用いるの。CAM、non-CAM個体の葉の厚さを2次元にプロッテイングしていき、この辺の葉の厚さからCAMが始まる。という線引きをする感じかしら」

「私、その後のことは詳しく言わないけど、C3型植物、C4型植物、CAMの細かい光合成の生化学分析も手がける予定なの」

 

大樹が黙って腕を組む。

 

「皆んな自分だけでなく、友達の研究についても詳しいんだ……」

「恵ちゃん、胡蝶蘭に光合成測定装置をセットし放りっぱなしにして、後は、ただその株の葉の厚さを楽して調べているだけかと思ったよ」

 

「大学は勉強するところよ。園芸学教室にいて、このくらいのこと知らないのは大樹くんだけよ」

「自分の研究とロックのドラム叩きくらいしか頭にないでしょ」

 

恵ちゃんが真面目顔でマジマジと大樹を見つめる。

 

「隣の芝生は青く見えた」

 

大樹が言う。

 

「青いのは、大樹の庭だけだよ」

「でも、これから大樹の庭はオレンジ色になる」

 

僕が言うとウンウンと、大樹に向かって皆んなで首を縦に振り笑う。

 

第8話

 

「摘んできたわよ」

 

ビニールハウスのすべての通路をおじさんとゆっくり歩きながら、恵ちゃんは黄色とオレンジ色のカーネーションの花を摘んで、ビニール袋に入れてきた。

それぞれの花の咢(がく)に、マジックで素材番号が書いてある。

 

また恵ちゃんはワンウォッシュデニムのエプロンのポケットに、綺麗な色模様のカーネーションを破れんばかりに入れてきた。

 

「恵ちゃん。黄色とオレンジだけって言ったでしょ?」

 

僕が話すと、

 

「だって、綺麗なんだもん。おじさんが持って帰っていいよって言ったの」

 

恵ちゃんが花で膨らんだお腹を、ポンポン叩く。

 

「まるで妊婦さんだね」

 

僕が言うと、

 

「多分、俺の子だと思う」

 

しかし大樹は、どうしてかサラサラとそういう言葉が出てくる。

 

「元気な女の子です」

 

恵ちゃんも冗談に乗る。

 

「恵ちゃん、写真を撮ってあげる」

「ポケットから顔を出している溢れんばかりの花と恵ちゃんの姿」

「とても可愛いよ」

 

僕はスマホで写真を撮る。

 

「俺にもくれ、正」

 

「俺も」

 

大樹と義雄にLINEで送る。

 

「個人情報保護法違反よ、正くん」

「もらった人は使用上の注意をよく読んでね」

 

恵ちゃんが、素敵に微笑む。

 

おじさんの選花小屋のテーブルに、恵ちゃんが取ってきた黄色花とオレンジ花を並べる。

 

おじさんが皆んなにお茶を注いでくれる。

大樹は来るときの車中の事を忘れたのか、ガブガブとお茶を飲む。

 

「さて、並んだね」

 

僕がこの場を仕切る。

 

「オレンジ色は2種類だけ、単色で濃いのと薄いの」

「黄色は6種類?」

「黄色は……」

「ごく薄い黄色、ちょっと薄い黄色、薄い黄色、普通の黄色、ちょっと濃い黄色、とても濃い黄色」

「何、これ? 連続した濃淡の差があるじゃない」

「黄色って、濃い、薄いの二つだけじゃない」

 

有田先生が興味深げに黄色花を見つめて話す。

 

「そうだね。研究室に帰ったらこれら黄色花のカラーチャートの番号を調べて控えておこう」

「ここでは、まず黄色には6種類くらいの濃淡の差が見られた、ということだね」

「でも、もっと大きめにくくると、ごく薄い、普通、濃いの3種類の黄色に集約できそうな感じもあるよね」

 

有田先生が、あらためて大きく3つの集団にそれぞれの黄色花を集め、僕らに見せた。

 

皆でなるほどと頷く。

 

「これは黄色を呈するためのCHI遺伝子がやはり鍵になるね」

 

義雄が推理を始める。

 

「黄色色素になるための基質、すなわち材料となるカルコンの量が違うのか。あるいはCHI遺伝子の壊れ方が違うのか」

「いずれにせよ、CHI遺伝子の発現を、遺伝子レベルで調べる必要があるね」

 

「義雄さあ。そういえば論文に書いてあったんだけど、赤とか有色のアントシアニンを作るためのDFRという遺伝子が壊れた場合には、フラボノールと呼ばれる無色の色素が溜まるというようなことが書かれていた」

 

「正の言うことを勘案すると、黄色だけになるやつもいれば、黄色が溜まり、かつCHIを何らかの方法で通り抜け、DFRでもブロックされて黄色がフラボノールにより薄められ、薄い黄色になるものもいる」

「そう言うことかな?」

 

有田先生が感心する。

 

「義雄くんの推理はすごいね。その点に注目して研究を進めると面白そうだね」

 

「な〜に? 恵ちゃんと大樹、何やってるの」

 

「丈夫な女の子が生まれました」

 

恵ちゃんのポケットから取り出した花全部。花色や花柄を組み合わせて、二人して遊んでいる。

 

「恵ちゃん。DFRとかの話聞いてた?」

 

「何それ?」

 

「ほ~ら、聞いてない」

 

「ちゃんと知っているわよ。DFR、ジヒドロフラボノール 4- 還元酵素遺伝子でしょ。遺伝子型はYIASRMの内のA。優勢だと、赤とか紫とかできる。ちゃんと論文読んだもん!」

 

「何だ、恵ちゃん知ってるじゃん」

 

「大樹は?」

 

「何々、それ?」

 

「ほ~ら。恵ちゃんのせいだ」

「妊娠しただの、元気な女の子だのはしゃいでいるから、大樹のバカがさらにバカになる」

 

「私のせいじゃないよ」

 

「大樹さ、義雄から、ちゃんと納得いくまで話を聞いてくれな。みんなで情報を共有してオレンジ色の秘密を探るんだから」

「恵ちゃんも」

 

「は~い」

 

大樹と恵ちゃんが一緒にテンションの低い返事をする。

 

「さて、そろそろ帰りましょうか」

 

有田先生は夕方に用事があると言う。

 

おじさんが言う、

 

「どう? お茶もう一杯」

 

恵ちゃんが大樹に向かって微笑んで言う。

 

「大樹くん。いっぱいのお茶、どうですか?」

 

第7話

 

「さて、ここが育種用ハウス」

 

おじさんが、少し嫌なきしむ音のするハウスのドアを開ける。

恵ちゃんはその音を聞いて、ぶるっと震えた。

 

「恵ちゃん、おしっこ漏らしたんじゃない?」

 

大樹が言うと、

 

「大樹くんだけには言われたくないわよ」

 

皆んなでクスクス笑いながらハウスに入る。

 

50坪くらいの大きさだろうか。栽培しているカーネーションのハウスとは全く趣が違う。まず目に飛び込むのは花弁のない子房の元につけられた、たくさんの小さなラベル。どれにも数字が書いてある。

 

次に、生産用ハウスでも見られないような不思議な花色、花模様の素材。また、普通の花屋さんで見られるような素材もある。大げさではなく、百以上もある花色、花色パターンの花が咲いている。

 

僕はおじさんに尋ねる。

 

「ここには色々な種類の花色のカーネーションがありますね」

「普通の花屋で見かけるピンク、赤などもあるし」

 

「そう、ここには150種類くらいの育種素材を植えてあるんだ」

「普通色のカーネーションも、生産性が高いとか、病気に強いとか、交配親として優れているという特徴のものは置いてある」

 

「各々、12株から30株くらい植えてある。花粉の出やすい、出にくいものがあるからね」

「カーネーションは八重咲きだから、意外に花粉が出にくいんだ」

 

義雄が話す。

 

「そう、カーネーションもバラも菊も、そのほかも八重咲きと言うのはほとんどが一重咲きの突然変異なんだ」

「八重における、内側の花びらは雄しべや雌しべにあたり、それらが花弁化したのが八重咲き」

「一般的に花粉は取りにくくなるよ」

 

「カーネーションの柱頭って、蝶々の触角みたいですね」

 

恵ちゃんが両手の人差し指を頭の上に立て、蝶の触角の真似をする。

 

「それ、鬼だよ」

 

大樹がからかう。

 

恵ちゃん。クリクリとした眼で、興味深げに膨らんだ子房を見つめている。いつもながらの不思議顔。とても可愛い。

 

「そう、その二本の触角のような柱頭の先が少し丸まり始める頃が交配の適期なんだ。そこに花粉をつける」

 

「おじさん、どれくらいの交配をするんですか、ここで」

 

「交配数は数百くらいかな」

 

「数百も!」

 

「そうだよ」

 

「一つの子房に少ないものは数粒、多いものは3ー40粒入っているものもある。年間1万種子くらいを目安に採種しているんだ」

 

「おじさん、ラベルの数字の意味は」

 

おじさんはニヤニヤする。

 

「ただの通し番号だよ。もちろん、その番号で雌、雄の両親がわかる」

 

大樹が尋ねる。

 

「育種記録は取ってあるんですか?」

 

「ああ、あるよ。でも専門的なことは書いていない。目で見た花色、生産性や茎の強さ、病害抵抗性みたいなものをデータベース化してあるが、遺伝子型がどうとか、色素が何かとかまでは解らないから書いていない」

 

おじさんは、十数冊ある中の一冊のノートを取り出す。

 

「こんな風に」

 

僕は手に取り目を通す。

 

そこには、素材番号、例えばA65とか、色は黄色、後代の生育よし。花粉量多。などなど交配親のメモ書きがぎっしり並んいる。

交配記録は、雌 x 雄、例えば A62 x B24、ラベル番号212ー218などと記録されている。

 

おじさんは、別なノートを見せてくれる。

 

「これは、一次選抜ノート。つまり、得られた種子の実生群の記録だよ」

「別なハウスに植えてある」

 

そのノートには、得られた実生の花色別割合、模様の有無など花色を中心とした情報が細かく記載されている。

 

「おじさん、交配後代の実生を1万株も一つ一つ調べているんですか?」

 

おじさんは笑う。

 

「そんな暇ないよ」

 

「俺自身が命名した、バードウォッチング法という、実生全体をパッと見渡して、この交配群は、赤が何パーセント、薄オレンジに赤の条が何パーセントと、即時に感じた割合を記入しているんだ」

 

「気になる花色のものは、もちろん細かくその詳細と写真を記載する」

 

「すごいじゃないですか! それ!」

 

「いやいや、30年も育種を続けていると、だいたい出来るようになるもんだよ」

 

「ここにある花、摘んでもいいんですか?」

 

「いいよ。交配時期はそろそろ終わるから、今咲いているものの、花だけ摘んで」

「交配済みのラベルの付いている茎を折ったりしちゃダメだよ」

 

「はい」

 

恵ちゃんは嬉しそうに花を摘みにかかる。もちろん黄色花とオレンジ花だけ。

 

「あの、花の萼(がく)に素材番号を書きたいので、マジックを貸してもらえます?」

 

「いいよ」

 

「恵ちゃん。自分の顔には素材番号書かなくていいからね」

 

「あら、大樹くん。私の素材情報知りたくないの?」

 

「知りたい! 知りたい!」

 

皆で大笑い。

 

僕ももっと深く知りたいよ。大好きな恵ちゃんの素材情報。

 

第6話

 

街中を抜け、平坦な田園風景の続く道を1時間半くらいひたすら道なりに走ると、おじさんの家のカーネーションハウスに着く。方向としては、南の海へ向かう道。

田んぼ、点々としている大きなハウス群、種々の農産物の一大産地を通り抜ける。

 

車の中では恵ちゃん以外、おやつを食べるわ、お茶やコーラーをガブガブ飲むやの大騒ぎ。

今日は、有田先生が運転してくれている。

 

「みんな、トイレ近くなるよ」

 

恵ちゃんが注意してくれているのに、誰も聞く耳持たず。車の中は、遠足気分で皆んな大はしゃぎ。

 

「困った人たち」

 

恵ちゃんが小さく呟く。

 

「先生……。俺、トイレ……」

 

「この辺は店やコンビニのないところだから、もう少し我慢して。あと30分」

 

大樹は沈黙を始める。

 

しばらくして、

 

「もうダメだよ、俺」

 

大樹がもがき苦しむようにお願いする。

 

「ねえ、先生。おしっこむぐす……」

 

僕は義雄に尋ねる。

 

「なあ、むぐすって何?」

 

「俺もわからん」

 

「大樹、むぐすって何だよ」

 

「だから、むぐす」

 

有田先生が話す。

 

「大樹くんの故郷の北海道弁だよ。漏らすっていう意味でしょ?」

 

「そういえば大樹、とても美味しいを、なまらうまい、と言うしな」

 

義雄が言う。

 

「だから、今、方言云々を話している場合じゃない」

 

大樹が悶える。

 

恵ちゃんが冷めた目で、

 

「だから言ったじゃない」

 

呆れ顔。

 

仕方がない。路肩に車を止め立ち小便。

恵ちゃんはため息をついて、反対側の窓から外を見つめる。

 

「さて、着きましたよ」

 

有田先生が車を止める。

 

おじさんが丁度ハウスから出てくるところ。

 

「佐藤さん、お久し振りです」

 

「やあ、有田先生。本当、久しぶりだねえ」

 

「あれ、先生、おじさんと知り合いだったんですか」

 

「僕が大学に助手で入って間もない頃、挨拶にだけ来たことがあるんだ」

 

佐藤宗男、還暦を迎える今年60歳。身長は180cm近く、大柄でしっかりとした体型。僕は体型はともかく、身長は少しおじさんの遺伝が欲しかった。

 

「正、そしてお友達もご苦労様」

 

「こんにちは」

 

皆で声を合わせて挨拶する。

 

「皆さん、まずはお茶でも飲みますか?」

 

恵ちゃんが大樹を見つめてからかう。

 

「お茶でも飲みますか?」

 

みんなで爆笑する。

 

 

ーーーーー

 

 

「そうかい。オレンジ色の秘密かい」

 

おじさんが話し始める。

 

「俺のパチンコ育種では、なかなか爽やかなオレンジ色が出ないんだ。いや、出たことがない。薄い、くすんだようなオレンジ色はよく出てくる。でもその花には、赤い縞の模様みたいのが必ずと言っていいほどついてくるんだ」

「だから、爽やかなオレンジ色のカーネーションは種苗会社を通して買っている。イタリアで育種されたものらしい」

 

大樹が尋ねる。

 

「パチンコ育種ってなんですか?」

 

「ハッ、ハッ、ハッ」

 

おじさんが笑う。

 

「皆知っているよね。営利用のカーネーションは種から栽培するものじゃなく、苗から栽培するものなんだ」

「いわゆる、栄養繁殖性植物」

 

「種苗会社では、例えば一つの品種を、健全な母株から出るわき芽を取り、増やしていき、何十万株にも増やして農家に販売するんだ」

「中には、オランダから直輸入されて販売されている苗もある」

「ほとんどの人は、種苗会社の営利品種の苗を購入する」

「種苗登録された品種は、勝手に苗を増やすことは禁止されているし、何万本も1農家で一度に準備することはできないでしょ」

 

「バラや菊と同じですね。栄養繁殖」

 

義雄が話し始める。

 

「ただ苗をどんどん増やして栽培していくうちに、ウイルスに罹病して生産性が落ち込んだり、場合によっては花や葉に病状を示したりするんですよね」

「僕は今、そのウイルスフリー株を好条件で維持管理し、効率よく繁殖させる技法を研究しているんです」

 

「俺もそこは、一部種苗会社さんに手伝ってもらっているんだ」

「大学とかで、より効率の良い方法が見つかると大いに助かるね」

「よろしく頼むよ」

 

おじさんは笑顔で義雄に声をかける。

 

「それはさておき、パチンコ育種」

「育種では色々な育種素材同士を交配して、それで結実した種を取り撒く。千なら千の遺伝的に異なっている実生(みしょう)、すなわち新植物から、花色に優れ、生育よく、生産性に優れ、病気にも強いなどの性質を持った株を選ぶ」

 

「パチンコ育種とは、パチンコのように一つ当たりが出たら儲けものと言う比喩だよ」

「さっき言ったように、目的に叶った当たりの実生が見つかれば、その一つの株を母株として、苗を倍々に増やしていく」

 

「日本では、俺みたいにカーネーションの育種をしている農家は多くはない」

「俺は俺のオリジナル品種を作り、苗生産もほとんど自分でしている」

「購入する苗代がもったいないと言うより、種苗会社の販売していない花色や花模様のオリジナル品種を中心にブランドとして売り込んでいるんだ」

 

皆、なるほど、と言う顔でおじさんの話に食い入る。

 

「さて、ハウスでも見て回るか」

「その前に……」

 

「すまんが、消毒した長靴に履き替えてくれるかな。5人分準備した」

「土壌病害のフザリウムとかシュードモナスの細菌病にかかると、えらいことになるから」

 

おじさんが先導してハウスを見学する。

茶色、くすんだ紫色、暗い暗赤色、ショッキングピンク、グリーンなどのスタンダード大輪系、普通のピンクとニュアンスの違う透き通るような明るいピンク。そして、僕らの研究ターゲットの爽やかなオレンジ色の大輪。

 

しかし、花色の種類、花模様の種類が豊富だ。普通の、赤、白、ピンク、黄くらいかと思いきや、おじさんの生産用ハウスには、十数種類の珍しい花色、花模様のものが栽培されている。

 

「これ、3分の2くらいオリジナル品種なんだ」

 

「おじさんが育種したやつ?」

 

「そう。パチンコ育種だよ」

 

おじさんは笑顔。

 

「こんな普通の花屋じゃ売っていないようなカーネーション。どこに卸しているんですか」

 

恵ちゃんが興味深げにおじさんに問いかける。

 

「青山や渋谷の花屋で販売してる。もちろん市場は通すよ、ルールだからね」

「特化した花屋、フラワーアレンジメンターの人たちと契約しているんだ」

「だから、その人たちに育種ハウスを見せて、花色の選抜をしたりもしてもらっている」

「ニーズを追いつつ、ウォンツ、すなわち、こんなものが欲しかった、と言う市場を発展させるんだ」

 

「そうなんですか。ほんと、素敵な花ばかり。見とれちゃう」

 

「ちょっと待ってね」

 

おじさんが、数種類の花色の花を組み合わせてブーケにして恵ちゃんに手渡す。

 

「わあ! 素敵! ヨーロピアン調ですね。特に薄茶色、セピアカラーの花が優しい。グリーンもアクセントになっていて素敵!」

「オレンジ色どころの騒ぎじゃない。いろいろな中間色、濃色、淡色」

 

「ねえねえ! すごいすごい!」

 

恵ちゃんが僕らに振り向き、我を忘れて子供のように大はしゃぎ。

おじさんはキョトンとしている。

 

「育ちのいい子ですから」

 

僕がおじさんに向かって言うと、おじさん以外、皆で爆笑した。

 

第5話

 

「あのね。ドリップ式のインスタントコーヒーも持って来た」

「今入れるね」

 

恵ちゃんがコーヒーカップを5つ準備し、袋の上側を開け丁寧にお湯を注ぐ。

 

大樹が唸る。

 

「ケーキ、すっごい美味しい!」

「コーヒーも最高の味だね。もう研究室のインスタントコーヒーなんて飲めなくなるよ」

 

恵ちゃんは、眩しくニコニコ微笑む。

 

「中のクリームのところにも、甘いイチゴがぎっしり」

「恵ちゃん、嫁にしたいよ」

 

大樹は、なんでも物事をストレートに言う。ある意味羨ましい。

僕も義雄も恵ちゃんが好きだが、冗談でもそんなこと言えない性格。

 

「やろうか。赤いカーネーションと黄色いカーネーション調べ。そしてオレンジ色」

 

大樹は調子に乗っている。

 

「おじさんには連絡しといた。母の日までは生産しているカーネーションには手をつけられないけど、育種ハウスにあるものはサンプルを取っても構わないって」

「母の日が済んだら、栽培しているハウスの花も6月初めまでは取り放題」

 

「僕と恵ちゃんは花色の分析だね」

 

恵ちゃんは、うん、と首を縦に振る。

 

「一応、何グラムの乾燥花弁というふうに重量を決めてサンプル管理しようね」

「分析では色素の量的なものも比較したいから」

 

「了解。俺は正のおじさんのところに行ってサンプルを取ってくる役だね」

「義雄は遺伝子の推定や解析だね」

 

大樹が仕切る。


義雄が話し始める。

 

「了解だけど、一筋縄ではいかないかもしれない」

「花の色素を作るフラボノイド生合成系に関わる遺伝子を調べ始めたんだけど、赤色になる理由はバッチリ調べられている」

「ただ、黄色なんだけど、どうやら黄色になるのはCHI遺伝子、カルコンイソメラーゼという遺伝子が壊れている、あるいは無いのかもしれないんだ」

「そして、カルコンに糖をつける遺伝子、つまりカルコン配糖化酵素遺伝子は今のところ解っていない」

 

「義雄、オレンジ色は?」

 

「どうやら、まずはアントシアニンの前駆物質が、CHI遺伝子を通過しないものがカルコンになる」

「しかし、アントシアニンの前駆物質がCHIの働きなしに直接色の付く生合成経路にスポンテニアス、そう、日本語でいうと自発的・自然的なという意味だけど飛び越える場合があるとか」

「あるいは、CHI遺伝子が壊れているけど、完全な壊れ方じゃなくて、少しの量の前駆物質がアントシアニン生合成経路に漏れるように流れていくなどが考えられている」

 

「それでカルコンができるし、アントシアニン生合成経路に流れていった前駆物質が赤色となり、それらが混じってオレンジ色になる」

 

僕は呟く。

 

「ものごとの順序からいうとオレンジ色の云々の前に、カーネーションの黄色花とCHI遺伝子の調査が最優先だね」

「赤色花の生合成については十分な知見がありそうだし」

 

大樹が腰を上げる。

 

「大好きな恵ちゃんからケーキを頂いたし、もうすぐお昼だし。生協にランチでも食べにいこう」

 

大好きな、だけが余計な言葉。

 

「恵ちゃんも行く?」

 

「ううん。私はお昼は抜く。ケーキもりもり食べたでしょ?」

 

「恵ちゃん、それをいうならパクパクじゃない?」

 

「育ちよ。育ち」

 

「育ちの良い方が、パクパクと言うと思うんだけど」

 

みんなで爆笑する。

 

ケーキを食べ終えた有田先生がアドバイスをくれる。

 

「まあ、皆んな、頭でゴタゴタ考えていないで。行動が先だよ」

「先ずは正のおじさんのところからサンプルを頂いて来てみよう」

 

「そうそう」

 

大樹がふんぞり返り偉そうな口調で話す。

 

「いつにする?」

 

有田先生がこめかみをさすりながら皆に問いかける。

 

「善は急げ。明日にしよう、明日」

 

何が善? 大樹がまた仕切る。

 

「分かった、僕からおじさんに連絡しておくね。最初は皆んなで行こう」

「驚くよ。育種ハウスなんか見たら」

 

「僕も行ってもいいかな?」

 

有田先生も興味があるらしい。

 

「いいですよ」

 

僕はカーネーションの育種の現場、多彩な花色の魅力を先生にも見て欲しい。

 

「大樹くんと義雄くん、卒業研究の方は大丈夫?」

 

有田先生が二人に問いかける。

 

「僕は今日、またバラの花粉、電子顕微鏡を覗きます。写真を撮っておしまいの作業ですから」

「系統分類は、100位の花粉の写真が出揃った頃から始めます」

 

「僕は、カーネーションとかすみ草のプロトプラストを取ってありますから、細胞融合してみます」

 

「そう言えば、義雄くん面白い造語作っていたよね。カスミネーションというネーミングだっけ?」

 

「そう。かすみ草の形態に、小さなカーネーションのような色とりどりの花が付く。新植物ができないかなと」

 

「いいかい、義雄くん」

「その細胞融合を卒論のテーマの主に置いちゃダメだよ。失敗の要素が大きすぎる」

 

「先生、分かってますよ。論文は組織培養による植物のウイルスフリー化を中心にして、細胞融合はチャレンジした、と言うストーリーにします」

 

有田先生は、ホントかな? という心配顔をして、いつもの癖の、こめかみに人差し指を擦る仕草を繰り返す。


恵ちゃんは先生の後ろで、その仕草を可愛らしく舌出して笑顔で真似る。


 

第4話

 

「今日は恵ちゃん遅いね」

 

「寝ぐせ直しに時間がかかっているんじゃない?」

 

大樹がロックのドラムを叩くフリをして、軽く鼻で笑って言う。

 

「それはない。いつも、そのままでくるじゃん」

 

義雄が呟く。

 

「さて、やるか」

 

僕が席を立つと、大樹も義雄も自分の研究に取りかかり始めた。

 

昨日、有田先生がバラの野生種の葉のサンプルを取って来てくれたので、今日は電気泳動の実験をする。

 

電気泳動のゲル作り、酵素の抽出、そして電気泳動。

“アイソザイム"という、酵素多型の研究だ。

 

簡単にいうと、酵素とは、同じ働きをしていても、そのタンパク質組成、すなわちアミノ酸配列が異なる場合がある。パーオキシターゼという植物体内に生じる過酸化水素を分解する酵素がターゲット。

 

酵素を抽出して、ポリアクリルアミドゲルに乗せ電気泳動し、その後染色すると、その組成の分子量の違いから、ゲル上に縞模様のようなバンドが得られる。そのバンドの位置、太さ、数の情報を得る。

 

バラの野生種の産地や種類で、共通なもの、また異なるバンドなどの情報が得られる。

それらを互いに比較し、統計解析をすることで、野生種の近縁度や遺伝子変異の多少が確認される。

 

「有田先生、今日は泳動の日。流します」

 

「その前に正くん、ちょっといいかな」

 

「何でしょう?」

 

先生は、相談事を話すときの癖である、こめかみに人差し指を擦る仕草で僕を呼び止めた。


「オレンジ色のカーネーションの花色調査の件だけど、予算つけようか?」

 

「いいえ、特別いりませんよ。自由研究みたいなものだから」

 

「でも、液クロのカラムだとか、それに使う有機溶媒だとか色々と結構かさむよ」

 

「そうなんですか? 僕、よくわからなくて」

 

「大学の友人に聞いておくね。面白そうな課題なんで3年生に手伝わせてもいいし」

「来年、課題化すれば予算もつく」

 

「何だ、先生。科研費、予算獲得の戦略じゃないですか」

 

先生はニヤニヤ微笑む。

 

まず、ゲル作りに取り掛かる。アクリルアミドは劇物であるので注意する。

口や皮膚から大量に吸収した場合、中枢神経及び末梢神経に障害を引き起こす。

 

凍結してあるバラの葉からの酵素抽出は楽ではない。マイナス10℃の冷暗室で、乳鉢に葉と少量の石英砂、バッファーを適量加え乳棒で抽出を行う。

この作業は春でも、夏でもスキーウエアを着て行う。

 

「さて、抽出よし。ゲルよし。電気泳動準備よし」

 

工場の安全確認ではないが、指差呼称し実験するのが僕のくせ。先輩から叩き込まれた。

 

冷暗室に1時間もいたので、校舎の外に出て背伸びをする。

もう終わりそうな桜の花びらが宙を舞い若葉が芽吹く。

 

アカシアの花の咲く緩やかな丘を上がってくる女の子。

 

恵ちゃんだ。

 

右手に大きな荷物をぶら下げている。

何だろう?

 

「おはよう。恵ちゃん」

 

「おはよう。正くん」

「何? その荷物」

 

「お楽しみよ。お・た・の・し・み」

 

研究室に戻ると、一仕事終え大樹も義雄もお茶を飲んでいた。

 

「何、何。恵ちゃん、それ何?」

 

大樹が早口で話す。

 

「ちょっと待っててね」

 

恵ちゃんは荷を机に置き、紐を解いて蓋をゆっくり開ける。

 

「じゃじゃ~ん!」

 

「すごいすごい! ホールケーキじゃん! イチゴの!」

「今日は俺の誕生日……、ということは……」

 

「そうよ、大樹くんへのバースデーケーキ。手作りよ」

 

「やった! やった! すごい! 嬉しい!」

「恵ちゃんが遅いんで、俺すごく心配していたんだよ」

 

誰だ、さっきまで恵ちゃんは寝ぐせ直しで遅れてくると腐して言ってたヤツ。

そういえば、さっき大樹を好きな、生物環境工学研究室の歩ちゃんもチョコレートを持って来ていたな……。

 

僕も、義雄も複雑な心境。大樹、歩ちゃんで手を打てばいいのに……。

ライバルが減るから……。

 

「お昼前だけど、今食べる? それとも、後にする?」

 

「今! 今! 今食べる!」

 

大樹がはしゃぐ。

 

「待っててね」

 

恵ちゃんが、ナイフ、フォーク、取り皿を準備する。

 

「有田先生も呼ぼうかしら?」

 

「うん。そうしよう」

 

「しかし、上手だね。恵ちゃん」

 

僕がそう言うと、

 

「育ちが違うのよ」

 

「そういうことは、自分じゃ言わない」

 

皆んなで笑う。

 

「おっ、ケーキだね。恵ちゃん作ったの?」

 

「はい」

 

有田先生が、親指と人差し指で顎をつまみ笑顔で研究室に入ってくる。

 

「イチゴの赤の色素はアントシアニンが複数入っていて、確か、カーネーションと同じかどうかわからないけど、ペラルゴニジン3グルコシドも入っているはずだよ」

 

「そうなんだ。面白いですね。花の色にあり、果物の色にもあり」

 

恵ちゃんが不思議顔で呟く。

 

「先生、オレンジ色のイチゴはありませんよね」

 

「恵ちゃん。見たことある?」

 

「無いです」

 

「実はね、美味しいイチゴの色は真っ赤ではなく、ほんのりとオレンジがかった色になるんだ。いちご本来の甘さと適度な酸味があり食感が良いいちごの印」

「でも、カーネーションのような爽やかなオレンジ色じゃ無いよ」

 

「カーネーションのようなオレンジ色のイチゴがあったら、ニンジンの味がするのかしら?」

 

「恵ちゃん。カーネーションのオレンジ色を抽出した時はオレンジの香りかな? と言っていたのに、今度はニンジン。どこからそんな発想出てくる?」

 

僕は笑いながら、そんなことがポロリと口から出る恵ちゃんが可愛らしくて仕方ない。

 

第3話

 

「綺麗なカーネーションだねえ~」

 

助手の有田先生が恵ちゃんの飾ったオレンジ色のカーネーションを見て呟く。

 

有田稔先生。園芸学研究室の助手。30代半ば、1児のパパ。

専門は蔬菜と花卉。園芸実習では、先生から鍬(クワ)の使い方なども学ぶ。最先端の研究ばかりでなく、鍬の使い方一つも身につけられるのが大学であり、この園芸学教室の面白いところである。

 

「誰がこの花持ってきたの?」

 

「恵ちゃんです」

 

「恵ちゃんは?」

 

「ラン温室に行って実験中だと思います」

 

「先生。このオレンジ色の秘密わかります?」

 

「オレンジ色は大体がカロチノイドだけど、確かカーネーションの主要色素はアントシアニンだよね」

 

「そうなんです。カルコンというアントシアニンの前駆物質から出来る色素と、赤色色素のペラルゴニジン3グルコシドが共存しているみたいなんです」

 

「カーネーションの色素ね……」

 

「そう、面白い文献があるから持ってきてあげる」

 

有田先生は自分の机の引き出しの論文ファイルから、一つの論文を抜き出した。

 

Inheritance in the Carnation, Dianthus Caryophyllus. IV. the Chemistry of Flower Color Variation, I T. A. GEISSMAN and GUSTAV A. L. MEHLQUIST

 

「これ、カーネーションの花色についてよく調べられている文献。1947年のものだけど、とてもいい論文だよ」

 

僕は論文を斜め読みする。

 

「すごい! よくここまでカーネションの花色、花色の遺伝について調べられてありますね」

「ただ、この時代はまだ、黄色色素のカルコンが解らなかったんですね……」

「ダリアの花にあるカルコンと似ている、というところまで来ていますが」

 

「そう。今はForkmannの研究や日本でのカーネーションの花色に関する基礎的研究で、黄色色素がカルコンであることが解っている」

 

「確か、僕の記憶では、カーネーションの黄色色素は、カルコン2’グルコシド、すなわち、カルコンの2’の位置に糖がついているものだったと思う」

 

「そうなんですか」

 

「あと、赤色色素のペラルゴニジンは、正式名称は、ペラルゴニジン3マリルグルコシド。ペラルゴニジンというアントシアニジンの3の位置に糖がついていて、さらにそれにリンゴ酸が付いている」

「リンゴ酸を英語でいうとマリルというんだ」

 

「おはようございます」

 

「恵ちゃんが温室から帰ってきた」

 

「恵ちゃん。先生が面白い文献を見せてくれたよ」

「読んでみる?」

 

「うん」

 

恵ちゃんはうっすらかいた顔の汗を拭きながら自分でアイスコーヒーを入れ、論文を読み始める。

 

恵ちゃんの集中している不思議顔。いつも可愛い。いま、恵ちゃんの脳みそではどんな感じで英語論文を読んでいるんだろう。想像するだけで嬉し楽しくなる。

 

「オレンジ色のこと書いてないね」

 

「うん」

 

大樹と義雄が研究室に入ってきた。

 

「おはよう~っす」

 

「はい。これ、読んで見て」

 

恵ちゃんが大樹に手渡す。

 

「もう、正も恵ちゃんも読んだんでしょ?」

「内容だけ教えて。内容だけ」

 

いつも物事を飛ばし急かす、大樹らしい口ぶり。

 

「カーネーションの花の色の遺伝子型、いわゆるgenotypeは、YIASRMの6つで示されるみたい」

「419ページの表2を見てみて」

 

「あれ? ここには、黄色、白、オレンジがないね」

 

義雄が呟く。

 

「僕らが知りたいのはオレンジ色。つまり黄色と赤色の混合した形態」

 

「赤色は、YIASrm。R遺伝子が劣勢だからペラルゴニジンという色素になり、M遺伝子も劣勢だから糖が一つしかついていない」

「有田先生の言う、ペラルゴニジン3マリルグルコシドだね」

 

「まず、赤色はOKだね」

 

「さて、黄色」

「429ページにあるように、濃い黄色は、推定遺伝子型が、Yiaになっている」

 

「y遺伝子、i遺伝子、a遺伝子が劣勢の場合は、薄い黄色や白になると書いてある」

「y遺伝子が劣勢だと、アントシアニンは生成されないらしい」

 

義雄が言う。

 

「ちょっとややこしいね」

「Y遺伝子が優勢なのに、黄色花の遺伝子型、Yiaではアントシアニンが生成されないじゃん。矛盾してるよ」

 

「分かった。まず、シンプルな物事から考えよう」

 

僕は仕切る。

 

「解ったのは、黄色の遺伝子型がYia、色素の名前は、カルコン2’グルコシド」

「さて、オレンジ色の秘密を探るのはここからだね」

 

「どうして? ここから? 黄色色素も解ったじゃん」

 

「大樹は物事決めつけるの早すぎ。どうして、赤色色素と黄色色素が共存する?」

「この論文のどこにもオレンジの事、書いてないよ」

 

「深入りはよそう……」

 

しばらくして大樹が神妙な面持ちで呟く。

 

「深入りはよそう!」

 

恵ちゃんが僕の目を見て可愛い声で繰り返す。

そして、クリクリした目で眩しく皆んなに微笑む。

 

それはいつもの、“やるわよ”と言う合図。

 

第2話

 

「おはよう、正君」

「どんな感じになってる?」

 

「綺麗なオレンジ色になってるよ」

 

僕は朝一番で抽出液をろ過し、試験管に入れキャップを閉めて研究室の試験管立てにおいた。

 

ろ過など一連の作業は、実験室の排気口のあるドラフトと言われる場所で手袋、マスク着用で行う。有機溶剤の使用にはドラフト内作業と、有機溶剤の分別廃液管理が重要である。

 

僕はこの有機溶剤作業主任者の資格を持っている。卒業論文の実験のため、この資格の取得が必要だった。

 

「ホントだ!」

 

恵ちゃんが窓の明かりに照らし、試験管内の溶液をマジマジと見つめる。

 

「すごく綺麗ね。匂いもオレンジっぽいのかしら?」

 

「恵ちゃん。そういう見当違いな言葉、どの脳みそから出てくる?」

「匂いは刺激臭だし嗅いじゃダメ。メタノールは危険な劇物だよ」

「誤飲したら失明の危険すらある」

 

「冗談よ」

「そう、少し調べてきたら、カーネーションのオレンジは、カルコンという黄色い色素と赤いペラルゴニジン3グルコシドという赤いアントシアニン色素が液胞内に同居しているんだって」

 

「僕も調べたよ。恵ちゃんの調べてきたことに同じ」

「やっぱり、何も手を出すことないね」

「解っちゃったね、恵ちゃん。カーネーションのオレンジ色の秘密」

 

僕はファイナルアンサーとして軽く恵ちゃんの肩をポンと叩き呟いた。

 

「あのさ、正君。でも不思議じゃない? 黄色は黄色、赤は赤のままでいいのに、なぜ液胞内で別々の色素なのに共存しているの?」

 

「僕、ついでに、ペラルゴニウム、いわゆるゼラニウムの花の色と色素についても見てみたんだけど、ペラルゴニジン、シアニジン、ペオニジン、デルフィニジン、ペチュニジン、マルビジンの6種類の色素が共存しているものもあったりするんだよ」

「色素の共存は不思議じゃない」

 

「分かるわよ。でもそれ全部アントシアニンじゃない。有色色素の共存は、いろいろあってそれでいい」

 

「でもカーネーションでは、カルコン色素のカルコンとアントシアニン色素のペラルゴニジンの共存よ。何か変」

 

「どこが変なの?」

 

「だって、カルコンはアントシアニンを作る前駆物質からできていて、アントシアニンが出来ない場合に生成されるみたいだから、カルコンがいるということと、赤いアントシアニンが同時にあるということ自体がつじつまが合わない訳よ」

 

「おはよう」

 

大樹がやってきた。

 

「おはよう、大樹君。これ」

 

恵ちゃんが試験管を大樹に優しく手渡す。

 

なんだろう? 恵ちゃんが誰かにしてあげる仕草全てが気になってしまう。

”好き”だから……。僕自身、一番良く分かっている。

 

「綺麗じゃん。これで何かわかった?」

 

「大樹、これでは何も解らないよ。色素を抽出しただけだから。しかも適当に70%メタノールで」

 

「お~っす」

 

義雄もやってくる。

 

「これね、オレンジ」

 

「そう、恵ちゃんと話していたんだけど、このオレンジは黄色色素のカルコンと、アントシアニンのペラルゴニジンが液胞で共存しているらしいんだ」

 

「正、俺も少し調べてきたけど、フラボノイド生合成系、つまり、カルコンやアントシアニンを作る生合成系から言って、カルコンとアントシアニンとが共存することはね、実は色素の生合成系において簡単には説明できないんだ」

 

「義雄のいうこと、恵ちゃんと似てる」

 

恵ちゃんは得意げに話しだす。

 

「ねっ。遺伝子に詳しい義雄君がいうんだから間違えないわ」

「何か秘密があるのよ」

 

「オレンジね~。調べてみるか。色素組成」

 

大樹が呟く。

 

「正、実験室にある液体クロマトグラフィー動くか?」

 

「多分、大丈夫と思うけど、分析カラムが使えるかどうか。全然メンテナンスしていないからね」

 

「皆んなでさ、役割決めてちょっぴりだけ各々時間を割いて調べてみよう。カーネーションのオレンジ色の秘密」

 

大樹が仕切る。

 

「遺伝子は義雄に決まり。義雄にしかできない」

 

「正は育種と花色素分析、と言いたいところだけど、それじゃあまりに大変すぎる」

 

「正は色素分析かな」

 

「育種は俺。正のおじさんのところを紹介してくれれば、材料をいつでも取りに行ける」

「俺、卒論楽だし、金持ちで車あるしー」

 

「大樹さ、恵ちゃんは?」

 

僕は尋ねる。

 

「そうだね、恵ちゃんは正のサポート。色素分析だね」

 

「私、いいよ!」

 

恵ちゃんは微笑んで快諾する。

 

なんだろう、恵ちゃんと一緒の時間が増えそう。

僕の心は、素敵に微笑む。