第71話
「かとちゃん、明日ボルトンに行けるかな?」
「大丈夫ですが、ウルヴァーハンプトンと湖水地方にも寄りたいですね」
「車だとボルトンからウルヴァーハンプトンまで1時間半、そこから湖水地方までまた1時間半くらいかかるぞ」
「大丈夫です。M6を使えば楽なものです」
「併せて、ブリストルに行きたいのですが……」
「かなり走るぞ。大丈夫か?」
「M6、M5の高速道だけですので楽なものです」
「分かった、じゃあ日帰りのフライトを変更して一泊二日で飛んでくれ」
イギリスには定期的に行かなければならない。2週間に一度は飛ばないと、仕事が溜まり追いかけられる。以前からのR&Dと新規事業の情報収集が重なっている。
「宿泊はどこにする?」
「ブリストルで」
「分かった。仕事帰りにまた、ストーンヘンジにでも寄ってこい」
所長は優しい声で言う、
「いいか、仕事優先だ。かとちゃんの彼女はまあともかく、奈美さんの事など考えて仕事するなよ」
「それは大丈夫です」
奈美さんの事は、9割方奈美さんに自身に任せる。
まずは、自分が楽しい自分に気づけば良いから。
所長と秘書は、特許関係の用事でワーゲニンヘンに向かった。
BGM無しのオフィスはいつになく静かである。
本のページをめくる音だけが聞こえる。
「Hello, This is Mr. Kato.」
旅行会社へ電話。
秘書の取ったフライトを変更してもらう。
「Could you please arrange another flight for me?」
(別の便を手配してもらえますか?)
穏やかな時間。
オフィスのベランダの花に水をやる。
僕の好みでバラだらけ。品種よりも原種やイングリッシュローズが多い。二季咲き性の株には、まだいくつか花が咲いている。
イングリッシュローズの素敵な香りに癒されていく。葉の香るものもある。リンゴのように。
BGMでベートーベンとブラームスのヴァイオリン協奏曲を選ぶ。ブラームスはベートーヴェンの作品に感銘を受け、ヴァイオリン協奏曲を書いたと言われる。どちらも調べは二長調。
簡単に、同時期に両方ともCDで演奏が聴ける時代。良い時代だ。
さて、昼食だ。
「もしもし、奈美さん。今どこにいます?」
「アムステルダム市立美術館です」
「僕、これからお昼ですから、一緒にそこのレストランで昼食取りましょう」
「トラムで行きます。15分くらいかな?」
「はい。コーヒーでも飲んで待ってます」
パウルス・ポッター通り。美術館の立ち並ぶアムスの中でも僕のお気に入りの素敵な通り。コンセルトヘボウもすぐ近く。
「美奈さん、シーフードにしましょう。ここのはとても美味しいですよ」
「なんだろう、美術館のレストランなんですが、一流レストラン並みの格別な味ですよ」
「はい」
奈美さんは微笑む。
「朝ごはんの後、どうしました?」
「まずは朝一番でアムステルダム中央駅に行ってウロウロ、そしてトラム5番でここまできました」
「いろいろ美術館はあるけど、まず初めに現代アートのあるここにしました」
「でも、まずはオランダ出身のゴッホ、モンドリアン。そしてピカソ、セザンヌ、モネ、カンディンスキー、キルヒナー、シャガール、マティスなどなど、凄い! の一言です」
「現代アートもすごい楽しいです。不思議な空間が楽しめます」
「ショップも本やジュエリーなどなど、おしゃれなものが沢山ありますね。こういう美術館、なかなかありませんよ」
「僕も私立美術館、大好きですよ」
「美術館では、オランダで一番来ることの多いのがここ、次にロンドンのナショナルミュージアムかな」
「ああ、いいですね。ナショナルミュージアム。行ってみたいなー」
「まずはオランダでの奈美さん自身、自分探しの旅ですけど、一度くらいイギリスに飛んでみますか? 飛行機で1時間程ですし」
「そうですね」
「何事も早く決めるのが得策ですから、来週か、再来週の土日に飛びましょうか?」
「はい!」
「今週の土日は、森下さん巡りの旅にしましょう。スキーべニンゲンの海岸から、ハーグのマウリッツハウス美術館、エッシャー美術館、そしてマドローダム。森下さんがお好みだったコースです。食べ物も美味しいし」
「そのあとは、デルフト、ライデンに寄って、夕方にワーヘニンヘンに入り1泊しましょう」
「森下さんが足繁く通っていた学術都市です」
「翌日は植物園など散策して、ライン川、ドイツとの国境沿いなどぷらぷらして、アムスに夕方戻りましょう」
「私のために、本当にありがとうございます」
「いえいえ。奈美さんに喜んでもらえれば、それでいいんです」
「さて、そろそろ仕事に戻ります。そう、コンセルトヘボウへ寄って行きましょうか。今晩何かコンサートがあれば行きましょう」
「はい。シーフードランチ、最高に美味しかったです」
アムステルダム私立美術館から歩いてすぐ。アムステルダム・コンセルトヘボウ。
「奈美さん。運がいいですね」
「今日はユースオーケストラのマーラーの5番があります」
「えっ! 本当ですか」
「はい」
「すごいすごい!」
「Twee tickets, alsjeblieft」
(チケット二枚ください)
「今晩の予定、決まりましたね」
奈美さんは、子供のような笑顔で喜んでいる。
第72話
奈美さんとのランチを済ませオフィスに戻る。
所長も秘書を連れオフィスに帰ってきた。
「かとちゃん、明日、明後日の準備は整ったか?」
「これが資料です」
所長がじっくり目を通す。
「O.K.。よくできている」
「奈美さんの方は大丈夫か?」
「ランチを一緒にとってきました。全然大丈夫そうです」
まきちゃんからメールが入っている
まさ君へ
『奈美さんどう?』
『私、森下さんに会ってきた』
『静かな療養所。彼の部屋は、めくる雑誌のページの音だけ。何かの論文?』
『魅力あるもの、奇麗な花、美しい音に心惹かれる。みんな誰でもそうだけど、森下さん、そういうものに興味がわかない。私が居る事さえ忘れてしまう』
『壊れてしまう、強がる彼の悲しい心。優しくほぐしていかなきゃね』
『過去の重さを洗い流せばいいの。どんなにもがいても、未来しかこないんだから』
『時空を超える愛で彼を見守っていくの』
『皆からそうされている自分に気付いた時が、彼の朝』
まきちゃんに電話をするがつながらない。
日本時間午前1時。きっと寝ている。
通じない電話に「おつかれさま、おやすみ」と小声でささやく。
愛を牛乳配達の様に皆に配る素敵な人。ゆっくりおやすみ。
ーーーーー
「奈美さんお疲れ様。ランチの後どうでした?」
「はい。パウルス・ポッター通り、アムステルダム私立美術館、国立美術館、ゴッホ美術館を足早に見て回りました」
「国立美術館は17世紀オランダ絵画を中心にした、世界都市として発展したアムステルダムらしい展示で、感銘を受けました」
「凄いです。レンブラント、フェルメール、ゴッホ」
「特にフェルメール! とても感動しました!」
「それはよかった。僕はレンブラントの夜警とフェルメール4作品を見る、あとは館内散策、みたいな感じで廻ります。いつも1、2時間くらいかな?」
「羨ましいです。いつでもそれができる街にいて」
「はい、そしてアムスは中心街自体が美術館、博物館の様な街ですし」
「森下さんは普段、昼休みとか仕事の後とか、市内のフォンデル公園をジョギングするのが好きだった様です」
「休日には、アムステルフェーンにあるアムステルダムセ・ボス公園。140kmの散歩道、50kmの自転車道がある広大な公園で楽しんでいたり」
「そうだったんですか……」
「絵画を見たり、音楽やオペラ・バレエを観るより、走ることや泳ぐこと、長距離の自転車、海釣りなどが好きだった。ワイルドな人でしたから」
「軟弱な僕とは違います」
奈美さんが微笑む。
「彼、そういう人です」
「だから、急に身も心も自由がきかない体になって、暗い毎日を過ごしているんです」
「何より、大好きな仕事ができないし……」
奈美さんは悲しげでうつむき加減。
僕は話を別な方向にリードする。
「コンセルトヘボウの演奏会は20時からですから、先に晩御飯食べましょうか」
「さて、何がいいかな?」
「奈美さん、時差ぼけの方は?」
「何となく、少し軽い気だるさと眠気を感じますが……。大丈夫です」
「日本食レストランにしましょう。安心する建物の作りや優しい食事で、時差ボケは軽くて済むはずです」
「森下さんの最高のお気に入りの店です」
「そう、お伺いしましたが、彼が何か資料を置き引きされた処ですよね?」
「そうです」
「そして、従業員の女性の方と、見た目恋人の役を演じたところです」
ーーーーー
「いらっしゃいませ」
「今日はまた、とびきりお綺麗な方とお食事ですね」
「加藤さん、相変わらずモテますね~」
オーナーも店の人も、奈美さんが森下さんの恋人であることを知らない。
「まずは、いつもの升酒、お持ちしますか?」
「いいえ、今日はこれからコンセルトヘボウへ行きますのでアルコールは無しで」
「はい、わかりました」
奈美さんは、店内をぐるりと見渡す。
「置き引き? なんて、される要素のない店の造りですよね」
「そうなんです。僕も聞いて驚きました」
「でも、海外では何が起こるか分かりません。注意しないと」
奈美さんはまた、うつむき加減。
奈美さんに今大切なのは、どれだけ森下さんを愛するかと言う努力ではなく、森下さんにとって自分とは何かを知ることだ。
過去は安い本と同じ。読んだら捨ててしまえばいい。まず自分自身を好きになる事。これから末長く付き合うんだから。
「奈美さん。ダリはフェルメールを、レオナルド・ダビンチやピカソよりも優れている画家と絶賛したようです」
「ダリの言葉に、”完璧さを気にかけるな。決してそこには到達しないから”とあります」
「はい、その通りです。しかし、フェルメールの絵は限りなく完璧に近かった……」
「確かに。完璧はないと言うダリが言ってましたよね。”アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できるなら、この右腕を切り落としてもいい”と」
「奈美さん、僕らは無理です。完璧ってないんですよ」
「普通であることの勇気を持つこと。人はもともと、目的のない目標を目指して生きている不完全な存在なんです」
「人を愛するということを除いて」