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第一部 7.眼下に望む街-4

 剣技大会の前日、後宮の朝はいつもと同じように明けた。ジェニーたちの門出を飾るにふさわしく、この日の青空はどこまでも澄みきって、からっとした夏の空気が城内でもはっきりと感じられた。フィリップを始めとする招待客は既に入城し、夜中まで繰り広げられる大きな祝宴をひかえ、本城の使用人たちは早朝から走りまわっているという。とはいえ、ジェニーが顔を会わせる面々は、普段の様子となんら変わりなく、後宮に居る限り、大会が目前に迫っている実感はわかない。
 ジェニーが昨夜寝ついたのは日付が変わった後の深夜で、それ以降も熟睡できずに夜明け前までに何回も目が覚めた。ケインとの脱出を今夜にひかえ、自分が思う以上に緊張しているようだ。おかげで、ジェニーは体がぐったりとしていて食欲がわかない。
 アリエルがそんなジェニーを心配して寝室で休息するよう勧めたが、ジェニーは自分が再び眠りにつけるとは考えられなかった。むしろ戸外に出て、体を覚醒させたい。
 昼寝をするとアリエルに約束させられた後、ジェニーは彼女と連れ立ってサロンに向かう。二人が階段の降り口にさしかかると、上階に続く階段の途中で二人の女が何やら言い合い、対立しているのを見かけた。そのうちの一人はオルディエンヌの侍女で、ジェニーは、主人同様に後宮内で遭遇したことのない彼女が誰なのかわからなかった。彼女はジェニーたちがpuma スニーカー
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来たのに気づき、はたと会話を閉ざす。
 ごきげんよう、とアリエルが先に挨拶をすると、彼女たちはあわてて姿勢をただし、ジェニーに挨拶をする。ジェニーが微笑み返すと、侍女が階段を降りてきた。
「お見苦しいところを失礼いたしました、ジェニー様。今から、サロンに行かれるのですか?」
「ええ」
 アリエルが代わりに答えると、侍女が彼女に向かって言った。
「まあ、それはようございますわね。今日は天候にも恵まれて、さぞ気持ちがよいことでしょう。私どもは朝から準備で追われて――オルディエンヌ様が今夜の宴に出席されることになって、もう、目の回るような忙しさで」
 侍女はそう言いながら、さっきまでいがみ合っていた背後の召使らしき女に微笑みかける。そしてジェニーに振り返った彼女は、肉付きのよい頬をくぼませ、さらに大きな笑顔へと変わった。その笑顔の中には、若干の高慢さが潜んでいる。
「そうなのですか。今夜の宴は盛大にとり行われるそうですね。オルディエンヌ様も、さぞかし楽しみでございましょう」
「ええ、それはもう。今夜の宴には王が――」
「今夜は、久方ぶりに王族の方々がご参集するとうかがいましたわ。準備も念入りになさいませんとね。ご存分に楽しんでくださるよう、オルディエンヌ様にはよろしくお伝え下さいませ」
 アリエルがジェニーに振り返った。侍女が若干の不満を表情にたたえ、アリエルの視線を追ってジェニーを見る。アリエルは侍女に向けたのと同じ微笑を保ちながら、ジェニーを先へ進めさせるように促した。
 ごきげんよう、とアリエルが侍女ににこやかに挨拶すると、彼女は膝を曲げ、おざなりにだがアリエルに応えた。ジェニーは彼女の前を通り過ぎ、階段を下へと降りていく。侍女の視線がジェニーの背中に突き刺さる。
 今までに何度となく思ったように、ジェニーは、アリエルに護られている、と感じた。
 母のようにジェニーを護ってくれるその彼女を裏切るような形で、ジェニーは今夜脱走する。彼女に会えなくなるのはとても寂しい。彼女もまた、寂しがってくれるだろうか? 
 アリエルとは一生涯会えなくなる可能性を強く感じながらも、この別れがほんの一時だと捉え、いつか再会できるようにと、ジェニーは彼女の実家の所在地を把握してある。
「どうしました?」
 サロンに差し込む光を見て眩しそうに目を細め、アリエルがジェニーに問う。ジェニーが首を横に振ると、彼女は笑い、もっと中庭に近い場所に移動しましょう、と言った。

 ジェニーは中庭に面した窓から対面の東館を見上げた。日差しはもうすっかり夏のそれで、東館の壁がいつもよりずっと白く光って見える。壁にある窓は清涼とした外気を取り込もうと、ほとんどが外側に向かって開放されている。
 ゴーティス王を何度か見かけた窓を見てみたが、そこに人影はない。中庭にもひと気はない。中庭の地面は濃い緑に様変わりし、中央に立つ木には青々とした葉がぎっしりとたくわえられている。
「この時間はたしか――王は剣の練習をしておいでですよ」
 いつのまにか隣に来ていたアリエルが言い、ジェニーは息を短くついて、アリエルを軽くにらむように見た。
「あの人が何をしていようと、私は気にしてないわよ」
「そうおっしゃると思いました」
 アリエルがくすくすと笑い、ジェニーは怒る気も失せる。
 再び中庭に目を戻すと、突然、ジェニーは、この目の前に見える世界は今日を最後に二度と見られないものだと実感して茫然となった。サロンの出入口をふさぐ屈強な衛兵も、青々とした緑を縦断する小径も、そこをたどって颯爽と歩いてくるサンジェルマンの姿も、東館の窓からサロンを見下ろすゴーティス王の姿も、もう目にすることはない。
「ジェニー様、どうされたのです?」
「え? ううん、何でもない。少し頭がぼんやりしてて……」
 アリエルは心配そうにジェニーを観察するように見たが、彼女をとがめるようなことは何も言わなかった。彼女はただ黙って、ジェニーの隣で同じように中庭を眺める。
「そういえば――昨夜、サンジェルマン様がおっしゃったのですが」
「サンジェルマン?」
 ジェニーがアリエルに向くと、彼女の頬が少し赤らんだ。それがとても愛らしく見え、ジェニーの頬をゆるませる。アリエルとサンジェルマンは、まだ今もちゃんと顔をあわせているようだ。
「サンジェルマンがどうしたの?」
「あ、はい」アリエルが顎をあげ、話を続ける。「数日前のこと、王が指を火傷し、ちょっとした騒ぎになったそうでございます。その理由が、なんとも子どもじみた行為のせいだとかで。周囲の者は王に戸惑ったようですが、サンジェルマン様は楽しんでおいでのご様子でした」
 そうやって、アリエルも無邪気な微笑みを浮かべる。ジェニーは、ゴーティス王が時おり姿をのぞかせる窓をちらりと仰ぎ見た。
「彼は何をしたの?」
「なんでも、お菓子を明かりの火であぶって焦がそうとし、あやまって人差し指に火傷を負ったそうでございますよ。王の傷は大したことはないそうですわ。行儀の悪い子どものようだ、とサンジェルマン様は王の行動を笑っていらっしゃいましたが、王がどうして急にそんなことをされたのか……首をひねるばかりで。ただ女官長様が大騒ぎだったらしく、なだめるのに苦労した、とサンジェルマン様がおっしゃっていました。ねえ、ジェニー様、女官長様のお姿が目に浮かぶようですわね?」
 あの王が、お菓子を火であぶった……?
 アリエルが楽しそうに微笑みながらジェニーを見て、不意に表情をくもらせた。
「ジェニー様?」
「アリエル――ノワ・パイは、サンジェルマンがくれたんじゃ……なかったの?」
「えっ?」
 ジェニーがアリエルから目をそらさずにいると、彼女は動揺したように目線を下へ流した。その彼女の反応で、ジェニーは答えを確信する。
「ジェニー様、それは……」
「ちがうのね」
 アリエルにがっかりしてジェニーが言い放つと、アリエルが気落ちした様子で顔を上げた。
「ジェニー様、申し訳ありません。あれは……王がご用意くださったものです。サンジェルマン様からの土産として差し上げるようにとの王のご命令で、やむなく――」
「なぜそんなこと? アリエルに嘘をつかせる必要なんかないじゃない」
 ジェニーがそう憤慨すると、アリエルが弱々しく笑って言った。
「そうしないと、ジェニー様がお菓子に手をつけてくださらないからですわ」
「え?」
 ジェニーを見て、アリエルが頷く。
「ジェニー様は王に頑なに反発され、王からとなれば、ご自分の好物でさえ手に取ろうとなさいませんもの。王はそれをご承知の上で、せっかくの故郷の味を、王への反発心のためだけにふいにするのは忍びないと、あえて名を伏せられたのです。ジェニー様を喜ばそうとする一心の、王のご配慮ですわ」
 アリエルの穏やかな口調の中に非難する響きを感じ、ジェニーは彼女を直視できなくなって、中庭の方を向いた。
 アリエルの言うことは、少しは正しいのかもしれない。でも、ジェニーには彼の気遣いが到底、信じられない。
 心臓は既に胸の中で大きく跳ね続け、大きくなった鼓動で周囲の音がかき消されていく。ジェニーは右手で自分のお腹をそっとさすった。
「あの人に……そんな気遣いができるとは思えない」
「ジェニー様が思われるより、王はずっと繊細なお方ですわ」
 アリエルが断言し、ジェニーは彼女に振り向かされた。だが、アリエルのいやに自信たっぷりな口調とは反対に、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「一度でよいですから、王を正視なさってくださいませ、ジェニー様。王の真のお姿に目をお向けください。これは、私からのお願いでございます」
 そしてジェニーの返答も待たず、アリエルは口をきつく結んで、サロンの奥の方へ歩き去っていってしまう。

 昼寝の名目でジェニーを寝室に独り残すまで、アリエルはずっと言葉少なで笑顔もあまり浮かべなかった。ジェニーは彼女に賛同できかねたので、彼女にどんな言葉をかけたところで事態は変わらないと考え、必要以上の会話はしなかった。
 部屋に独りきりになると、ジェニーは体にどっと疲れを感じた。ただでさえ睡眠不足だというのに、アリエルの言葉がきっかけとなって、胸には混乱がうずまいている。それがジェニーの体を不自由にしている。この疲労を心身に残したまま、今夜を迎えるわけにはいかなかった。
 風にのって衛兵たちの陽気な声が室内に入ってきた。普段でも聞こえる場合はあるが、いつになく機嫌のよさそうな、明るい口調だ。彼らの会話はしばらく途絶えず、何度か笑いあう声がそれに混じる。 
 衛兵たちの笑いが起きるたび、ジェニーは王の笑顔を脳裏によみがえらせて、頭を振った。
 王のことなど、考えたくない。
 アリエルが何と言おうと、不可解極まりないゴーティス王の言動に頭を悩ますことは、ジェニーはしたくない。それにどちらにしろ、今日を最後に――彼の顔を見ることも永遠になくなる。
 不意に腹が重くなり、ジェニーは掛布の下のお腹をやわらかく撫でた。ジェニーの手のひらをつたわってくる体温は温かく、心地よい睡魔がジェニーを襲う。次に頭がふわりと軽くなり、ジェニーは自然に目を閉じた。

 早めの夕食を済ませ、十分な休息をとりたいとアリエルに訴えたジェニーは、早々に独りの時間を勝ち取った。アリエルの態度は通常どおりに戻っていて、気遣うように寝床のジェニーに声を掛け、召使とともに退室する。
 昼間の睡眠のおかげで、ジェニーの気力は元に戻っていた。体全体をおおっていた緊張感も薄れている。今夜の脱出に備えての準備は、数日間の逃亡に耐えられるだけの体力と心構え以外に特にはない。
 ジェニーはそれほど眠いとは思わなかったが、ケインが現われるだろう真夜中まで、もう一眠りする時間は十分にあった。
 眠りには落ちないだろうと考えていたが、ジェニーはいつのまにか、うつらうつらとしていた。日の長い夏の空が暗闇に移りかわり、窓から差し込む光も濃い青色だ。夢と現実の間で、ジェニーは召使かアリエルが枕元までやってきて、自分の様子を確認していく気配を感じた。扉が遠慮がちに閉められるかすかな音で、ジェニーは目を覚ます。
 寝室は、夜の空気に包まれていた。ジェニーは耳をすましてみるが、扉の閉じる音を最後に闇夜を妨げるものはない。昼間には頻繁に聞こえてきた衛兵たちの会話も、今はまったく聞こえない。
 ジェニーは勢いをつけて寝台の上に起き上がり、扉の向こうの様子を気にかけながら、床に静かに降り立った。そして、地下扉のある床面まで暗闇の中を歩いていく。
 敷物の位置は変わりなく、扉が開けられた形跡はなかった。ジェニーは床にしゃがみ、敷物をはねのけて地下扉に手をかける。扉の下に階段が現われ、ジェニーは暗闇の中で目を凝らし、前回との変化を求めて視線をめぐらせた。だがそこには、ジェニーが前回そこに見たままの光景――同じ場所に同じ合図が転がっているだけだった。
 ジェニーはあきらめて扉を閉め、長いため息をついた。
 真夜中までにはまだ時間があり、見回りの看守をやり過ごした後でなければ、ケインも牢を抜け出せないのだろう。
 ジェニーは寝台の上に戻った。ケインが顔を出すまでに、もうそれほどの時間を待つことはないだろう。
 目はすっかり冴えている。

 けれども――ジェニーは夜明けになるまで起きていたが、ケインはいつまでもたってもジェニーのもとに現われなかった。

 ジェニーはいても立ってもいられなかった。ケインが約束を破るとはどうしても考えられず、彼がそうせざるを得ない危機的状況に陥ってしまったのではないかと、ジェニーは彼の身が心配でならなかった。ジェニー自らが地下の通路をたどって彼の無事な姿を確認したくても、そうするには、独りとなれる夜を待って行動するしかない。
 その夜までの時間が、どんなに長く感じられたことか。
 ジェニーの不安で落ち着かない様子は、元気がない、とアリエルたちには見えたようで、心配する彼女に侍医を呼ばれそうになるのを、ジェニーは苦労して押しとどめなければならなかった。
 やっとのことで待ち望んだ夜が来て、召使が退室して早々に、ジェニーは明かりを手に地下扉へ向かった。命の価値が最も軽い囚人であるケインを、ジェニーが想像する最悪な状況で発見することだけは避けたいと願いながら、ジェニーは敷物を床から取り、木扉を引き上げる。
「あ……!」
 扉の下に現われた階段の上に、昨夜見たのとは別の場所に木片が置かれていた。ジェニーはそれを急いで拾いあげ、ひっくり返して裏面を確認する。ケインからの新しい伝言だった。
“ごめん。明日の夜、決行する”
 ジェニーは心底安堵して、床に膝をついた。
 ケインはまだ、生きている。
 そこにケインの姿がないと知っていながら、ジェニーは彼の姿を求めて階段の奥を明かりで照らす。
 彼に何が起きたのかはわからないが、無事でよかった、とジェニーはもう一度、安堵の息をつく。それから、手の中に握った彼からの新しい伝言を見やる。
 明夜に決行。
 それは、剣技大会の最終日前夜だ。聞くところによると、上位者ばかりが戦い、勝者が最終的に決まる最終日は、三日間の中でも最高の盛り上がりを見せるという。その前夜には誰もが興奮し、浮かれているにちがいない。
「私たちはきっと、ここから脱出する」
 ジェニーはケインが間近にいるかのように囁きかけ、自分の心の中でもそう強く誓った。

 決行当日となる剣技大会の二日目、ジェニーの心は驚くほどに落ち着き、揺るぎなかった。そんなジェニーの心情を反映するかのように、空は前日にも増して青く高く、気温は早朝からぐんぐんと上がっていた。そして、風向きのせいなのか、地響きのような群集の歓声が時おり後宮にも届き、大会はたしかに開催されているのだとジェニーにも実感させる。
 アリエルの勧めに従って、ジェニーはその日も昼寝をした。昨夜の熟睡の後では昼寝もできないだろう、というジェニー自身の予想を裏切り、ジェニーは床につくなり、あっという間に眠りに落ちた。そして、どのぐらいの時が経ったのかわからないが、非常にすっきりとした気分でジェニーは目覚めた。室内はまだ、ずいぶんと明るかった。
 ジェニーが違和感に気づいたのは、目覚めて間もなくだ。
 ジェニーの目の前には鈍い銀色をした腰帯があって、濃紺の上質な生地が目に飛び込んできた。 ジェニーが寝台から顔を浮かせてその生地を上にたどると、その濃紺の衣服に身を包んだ人物も横顔を動かし、寝台に横たわるジェニーを見下ろした。ジェニーと目が合うと――ほんの一瞬だが、わずかに緑色の瞳を見開く。
 ジェニーはなぜか、そこにゴーティス王の存在をみとめても少しも驚きはしなかった。ジェニーは彼から目をそらさず、彼もジェニーを見つめて動かない。だが、そこに流れる沈黙は、緊張感も保っていなければ、威圧感を与える種類でもなかった。
「……寝顔を覗き見るのが趣味なの?」
 ジェニーが先に口をきくと、王は少しだけ不愉快そうに眉を寄せたが、すぐに真顔に戻った。
「おまえが、こんな昼間から寝ておるとは思わなんだ」
 それから、彼は唇の端を上に向かって上げる。
「おまえこそ、今日は寝たふりを装わぬのか?」
 ジェニーの前で、王がおかしそうに頬をゆるめる。ジェニーは王の顔を見つめながら、その問いの意味するところに思い当たって、頬をかっと熱くさせた。