お寺に入る前は、仏教に一般的なイメージしか持ってなくて、
『日々善いことをして、善いひとになる方法を教えるもの?』
などと、思ってた。
お寺に入って、真宗の色んな先生のお話を聞いて、
がーん!違いましたー。
目から鱗、ぽろぽろ。
「みーんな大したことない、迷ってる凡夫だよ」って知って、楽になったり、
「自分の ほんとの姿を観なさいよー。」と聞いて、
『私ってアカンわー。偉そうにして、ごめんなさい』と、着地したり。
自分の本当の姿をみていく。
自分勝手なのに、他のチカラに助けられて生かされてる私。
ごめんなさいありがとうと 頭がさがる。
うん、うん。
そして、着地したら、
次には、どっちに向いて、どう進んだらいいのだろ?
どうしたら、幸せになれるのん?
ってのが、わからなかった。
で、もしや?って思って、取り組んでたのが、
『身体はわかってる』のでは?
身体の感覚「快」「不快」、「ワクワクする」「腑に落ちる」「熱くなる」「明るい感じ」などで、
身体が教えてくれているのでは?
と思い至り、身体の感覚を ひらくことが大事では?と、
ヨガや、整体、東洋医学を学んだ。
そして、
ふとしたきっかけから知った、
『みくさのみたから』
舞踏系ダンス整体?
なんだかわからないけど強烈に気になり、
参加してみたら、
これこれ!すごい!
まさに、求めていたものだった。
身体の感覚をひらいて、イノチとつながる。
イノチのままに生きてゆけるようになる。
私たちの進む方向は
『イノチの喜ばしい方へ。』
イノチとゆうのは 『amitayus(無量寿)』とほぼ同じかな。
みくさのみたからの一部
『まことのる』
「私は このようになっている。」と、ことばを声に出し宣言する。
自分を制限する 思い込みを書き換えてゆく。
言葉にする。
声に出す。
相手に想いを伝えようとするとき、言葉と一緒に自然に身振り手振りが出るように、
身体は言葉に反応して、
言葉通りになっていく。
『南無阿弥陀仏』と、声に出して唱える「称名念仏」もそう。
「私は阿弥陀(イノチのつながり)に委ねます」
と、宣言することで、
大きなイノチの視点でものごとを観じることができる。
つながりの中で生きることができる。
「こんなに元気!ありがとう」
「こんなにしあわせ!ありがとう」
「日ごとによくなっている!」「こんなにツイてる!」
だまされたと思って、やってみて。
ほんとに 言ったようになっていくから。
「引き寄せの法則」って、よく知らないけど、同じような感じ?
「言葉を発声し、身体できく」
=『まことのる』
これには、みたから的コツがあって、
伸びや あくび、おどり、関節ポキポキ鳴らしたり、
身体が動きたいように、心地よーく動きながら「まことのる」の。
心地よく動いてる時は、頭も空っぽ、身体もゆるんでるから、言葉が身に染み込みやすいの。
コツは、ぜひ、お近くのみくさのみたからを身につけた方に、じかに教えてもらってねー。
お伝えの集いや 合宿も各地でやってまーす。
今、巷でよく言われている(様に感じる)
「自分を設定する」にも似ているよね。
それだけでも、効果あるみたいなんだけど、
『まことのる』では、
「こんなに美人、ありがとう」
など、
「私は〜」と、あえて主語を入れない。
そのことが、私だけに喜ばしいことでなく、周りのみんなが喜ばしいことになる。
そして、
「ありがとう」をつけると、
イヤになるような事が言えなくなる。
やってるうちに、
身体が心地よい事しか言えなくなってくるし、
それが、
本来の自分の在り方。
自分は、どう在りたいかわかってくると、
やりたいこと、やりたくない事、
やれば出来そうな事、出来なそうな事、
要るもの、要らないもの、
わかってきて、
生き方がシンプルになっていく。
って、実感出来てきた。うれしいな。
でもね、人ってすぐ、不安になる。
身体が疲れていたり、
怒られたり責められたり、
悲しい事があったり、
感情が うわぁーってなった時なんか。
だから、毎日毎日、いつでも思い立ったとき
「大丈夫、だいじょうぶ」って、まことのる。
自分が『大丈夫』になってはじめて、
人と助け合ったり、分かち合ったり、
ゆたかな つながりあいができるのだよね。
私たちは、
ひかりにあふれた世界で、
輝いて生きていけるのですよ。
と、あらわしているんだよー。

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