英国の小さな学園都市でニュージーランド人夫・息子ふたり・黒猫一匹と暮らしているAnimaです。おこんにちは。

 

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あしあと

 

 

昨日は親友がやって来て誕生日祝いにと、マカロンいっぱい持ってきてくれました。大好きだから嬉しい♪

 

 

 

 

さてさて、先日買って一気読みした本があります。それは・・・

 

 

カズオ・イシグロ氏の最新作『クララとお日さま』

 

 

 

 

 

ご存知、ノーベル文学賞受賞作家で、日系イギリス人、『日の名残り』や『わたしを離さないで』などの映画化などでもよく知られてると思うんですが、私は今までに『日の名残り』しか読んだことがなかったんです(映画も観てます。アンソニー・ホプキンス様ファンなので・・・)

 

 

で、先日イシグロ作品を翻訳している土屋政雄氏のインタビュー記事を目にして、イシグロ氏が作品内で使う特殊な言葉に対する、翻訳者たちへの様々な細かい翻訳指示があったことなどを読んで面白かったので、この最新作を手に取ったわけです。純文学でありながら、近未来の世界を描いたSF的な小説でもあります。

 

 

基本紙の本が好きなんだけど、最近はeリーダー使いまくり。

 

 

ではレビューいきましょー。ずらずらずらずら長々と書きますよー。覚悟してください(笑)。

 

 

【あらすじ】(ネタバレなし)

 

今より未来のアメリカのどこか。大都会のとある店で売られているクララは、AF(Artificial Friend、人工親友)と呼ばれる、人工知能(AI)を備えた高性能・高機能・高学習能力の少女ロボット。友達が欲しい子供や若者向けの人形だ。同じように売られているAF仲間と一緒に店先のウィンドウに座り、太陽光によって充電されながら購入者を待つクララは、AFの中でも特に人の感情や環境に対する観察眼や学習意欲が強い、優秀な個体。店のウィンドウから、様々な人間を観察し、排気ガスで環境汚染をする工事車両に眉を顰め、死んだかのように見えたホームレスが翌日、太陽の恵みを受けて復活するのを目にし・・・彼女はいろいろなことを学んでいく。

 

ある日クララは推定年齢14歳の少女ジョジー(Z氏の同級生に同じ名の子がいるけど、実際の発音は「ジョースィー」だなー)と仲良くなり、ついにジョジーとその母親に買われていく。ジョジーが暮らすのは郊外の一軒家。父親は別居しており、働く母親と外国人家政婦との3人暮らし。実はジョジーは病気で体がとても弱く、友達と言えるのは少し離れた隣人の息子・幼馴染のイギリス人少年・リックのみ。

 

実はジョジーの体が弱くなったのは、主にお金持ちの子どもが受けることができる学力向上のための「向上処置」(原語では「lifted」)という遺伝子操作を受けたせい。ジョジーの姉は、数年前にこの処置が原因で亡くなっていた。ジョジーと将来を約束しあっているリックはこれを受けていないので、お金持ち連中からは馬鹿にされているようだ。子どもたちは大学まで学校に行かずオンラインで集中講義を受けるので、ほとんどの子に「友達」というものはいない。だから、クララのような人工親友・AFが普及するようになったのだ。

 

クララはジョジーの家で様々なことを学び、ジョジーの支えとなり親友となって日々を過ごしていくが、ジョジーの体調はどんどん悪くなっていく。ジョジーの調子が良い時には、母親はジョジーの「肖像」(portrait)を製作してもらうために街にジョジーを連れて行く。そしてある時、母親はクララをもこの「肖像」製作のアーティストのところに一緒に連れて行くのだが、それにはある裏の理由があった。。。

 

 

長いんでとりあえずここで止めます。

 

 

このAI搭載ロボットの「AF(人工親友)」はとにかく人間の子どもみたいで、いろいろ自分で見たことを自分なりに解釈して学習していく能力があるんですね。だから、環境に合わせて個々に能力を発達させて、所有者のニーズに応えられるようにできている。その中でもクララは、特にこの学習能力や観察能力に長けた個体なんです。AFショップのマネージャーも、「クララは特別な子」という言い方をしょっちゅうする。同じ型でもクララと同期の「ローサ」は学習意欲が低いAFで、何かを見てもすぐにそっぽを向いて忘れてしまうことが多い。他にも、臭覚などの五感も兼ね備えたB3型という最新式モデルも売られてるんですが、ショップマネージャー曰く、「人間の感情をくみ取る能力が高いのはひとつ古いクララたちの型」だそうです。

 

 

英語で読んだのでどのように日本語訳されているかはネットのレビューなどでしか確認してないんですが、クララが自分なりに捉える物の描写が面白い。太陽光線やその影のことは「Sun's pattern」と呼ぶし、排気ガスを出す工事トラックのことはそのメーカーの名前だと思われる「Cootings Machine」と呼んでいる。

 

 

そしてもっと面白いのが、ジョジーが弱っていくにつれクララはジョジーをなんとかして助けないといけない、と解決法を考えるのですが、そこで彼女が思いついたのが、「太陽の恵みによってジョジーを回復させる」ということ。AFであるクララは太陽光発電式で、太陽がないと充電が切れてしまいます。更に、クララは店にいた時に、道端のホームレスが倒れていたのを見て死んでいると思うのですが、翌朝には彼は起き上がっていた。クララは朝の太陽の光を浴びたからホームレスが死から蘇ったと信じてしまいます。

 

 

「ジョジーに太陽の恵みを与えてくださるようお願いしなければ!!!太陽光を遮る排気ガスを全滅させなければ!!太陽サマ~~~!ジョジーをタスケテ~~!」

 

 

って必死になるクララ。ここまで来るとなんかもう、古代の太陽信仰晴れとしか言えないような太陽崇拝・盲信っぷりです。

 

 

おかしいですよね、辞書や図鑑に書いてあるようなことは全部知ってそうな最先端の人工知能なのに、人の病を治すために太陽信仰って。このお話の人工知能ロボットが「あらかじめすべてがインプットされてる完全無欠の機械」ではなく「自分で学ぶ、まるで子供のような存在」っていうところがすごく面白いと思います。

 

 

そして、物語の後半になって出てくるのが、問題の、ジョジーの母親の密かなる計画。

 

 

母親はジョジーに友達を与えるという理由以外に、もうひとつ目的があってクララを購入したんですわ。これがおそらくこの話の芯になると思うんですが、ネタバレはしないけれども、まぁ一言で言うと、「人工知能は人になれるのか?ロボットということです。

 

 

そんなもん、なれないに決まってんじゃんかニヤニヤ

 

 

って2021年の私たちは思いますよねー。でもさ、『2001年宇宙の旅』は1960年代当時、2001年にはまるで人みたいな人工知能ハルを搭載したロケットで宇宙に行くっていう想定ですよ。SFですけどね。現実世界でもさ、まさか「アレクサー」って呼んだらアレクサちゃんという名前の人工知能がいろいろ知らないことを教えてくれたりする、なんてことは戦前の人たちには想像もつかなかったことでしょう。だからさ、いつかなるかもよ、ロボットが人になること。人とロボットの区別がつかなくなること。

 

 

で、だ。真顔上差し

 

 

結局のところ、物語の最後の最後で、人工知能ロボットであるクララ自身がこう悟るんです。

 

 

「AFが人間になる=人間の代わりになることは到底不可能だわ」

 

 

って。

 

 

それはなぜか。

 

 

それは・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

人というのは「ひとり」ではないからです。

 

 

 

 

 

 

 

たとえば私。私は私であってほかの誰でもない。ロボットが私の特徴をすべて捉えて、私を真似て、私とまったく同じ考え方、動き方、話し方、感じ方をすることは可能でしょう。知らない人がそれを見たら、「ああ、Animaさんってこういう人なのね」ってよく解るかもしれない。でもね、私はひとりで生きているんではないのです。私には夫がいて、子供たちがいて、友達がいて、親がいる。その、それぞれの人たちの中にも「私」がいるんです。つまり・・・

 

 

今ここにいる私だけが私なのではなく、私は、私のことを愛するいろんな人たちの心の中にも無数に存在している。

 

 

その人たち一人一人の中で、違った私が存在している。野獣さんにとっての「Anima」と、子供たちにとっての「マミー」は全然違う。親友にとっての「Anima」と親にとっての「Anima」も違う。だから、それらすべてを網羅する「Anima」を一つのロボットが再現するのは不可能なんですね。それをしようと思ったら、私のことを知っているすべての人の脳みそ内の厖大かつ超絶曖昧な情報(←ここ大事。簡潔鮮明じゃないんですよ。曖昧なんです、人の心の中って)をすべて漁らないとできないよー、っていう。

 

 

人工知能の限界はそこにあると思う。ひとりの人間というものが実は無限大な存在であるということを完全に把握することができるようになる時代は、人間が滅亡するまでに来るかどうか・・・。はなはだ疑わしいよね・・・。

 

 

人工知能でありながら自らの限界を悟っちゃったクララちゃん・・・賢いなー。ほんとあーた賢いなー!(笑・フィクションだからね)

 

 

SFという衣をまといながら、実はこの小説、人間の根本っていうのをグサっと突いている。ものすごく読みやすいのに、最後、

 

 

うわ!深!!

 

 

ってちょっとビックリしました。そして切ない最後。

 

 

もの悲しさを常に湛えている文章の雰囲気は『日の名残り』の頃から健在で、静かにじわじわ感動しました。簡潔な英語表現なだけに、すごいセンスを感じました。やはりノーベル賞を受賞するというのにはこういうところがあるからかー、と。(誰とは言わんが、ノーベル賞取ってても「どっしょもねーな」と思う作家もいますけどね・・・)

 

 

素晴らしかったからもう一回言っちゃおう。

 

 

一人の人間というものは単にひとつの存在なのではなくて、愛する人の中に無数に生きている、複製することなど不可能な、無限大の存在である。

 

 

この言葉だけでたぶん私、あと10年は強く生きられるわ・・・。

 

 

『日の名残り』の時の感動から数年、またこんなにも感動してしまった私は、さっそくeリーダーで『わたしを離さないで』をダウンロード。今から読みます(笑)。

 

 

そんな、久しぶりのブック・レビューでした。皆さんも興味あったらぜひ読んでみてね♪

 

 

最後に、今日は予防接種を頑張ったこのお方。

 

 

あしあと

 

 

お読みいただきありがとうございました♪