たとえば、ジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」は、ダブリンのある一日(1904年6月16日)に起こった出来事を、様々な文体で書きつづった物語です。この1日にギリシャ神話のユリシーズの20年の遍歴が凝縮されているというのがこの物語のみそなわけですね。
物語を創作するに当たって、時間軸を意識するというのは、重要なんだよね。だって、どこかで物語を終わらせなければならないわけだし、それをだらだらと書き続けることで引きのばしていくとすれば、どこかで読者は退屈するだろうから。
その点でカマチーは、登場人物のコンポーネントで物語を作っていくから、なかなか先が見えないというか、それがいいのかもしれないが、物語全体がまのびしてしまうのは残念だと思う。
その点、表題にもあるように「化物語」は、全体の物語が有るとすれば、その途中から開始されている。そして、後でプロローグやエピローグが付け加えられつつある?のだろう。
それぞれの物語が一つのコンポーネントというか、レゴのブロックのようになっている。これは見る側にとっても作る側にとっても、上手な方法だと思う。単にキャラクターの設定だけではなく、きっちりとした時間軸の設定がおもしろいお話を生み出す基盤になっているのでしょう。
ジェームス・ジョイスの話が出たついでにもう一つ。ジョイスといえば言葉遊びが有名ですが、日本のライトノベルだって、表現の多様性では決してひけをとらないのではないでしょうか。たとえば、「狼と香辛料」のホロの郭(くるわ)言葉、郭というか遊郭を知らなければ、あの「~ありんす。」とかいう表現の奥行きは理解できないでしょうし、そもそも翻訳がかなり困難な気がします。ラノベが象徴しているのは、言語としての日本語の可能性ではないか、という気もするのです。