『幸多 Diary in Summer』

夏山は 香り漂う やまゆりや あじさいの露 ヘビにも出遭う

というわけで、涼を求めて山道へと進みたくなる朝…ふっと、幸多がヘビに遭遇した場面を想像します。唸って飛びかかり、ヘビの逆襲を受けて噛みつかれ、悲鳴を上げてパニクる幸多に、相手がマムシだったら…とうろたえ、血清を求めて動物病院を回る我が姿が浮かんできたので、〈君子危うきに近寄らず〉を選択しました。
なので、炎天下の町内をダラダラ歩き回って、「おっ、ワンコも暑いなぁ」なんて近寄ってくるオジサンに、「バカ犬なんで、噛むかもしれないから、すみませーん」とか言い訳して、吠えまくる幸多のリードを手繰り寄せ抑える場面も度々です。
それでも、ちょっと時間と気分に余裕がある時は、木陰を通リ抜けて山道を進んで、あのひんやりとしたトンネルで一涼みしてから、花咲く野原まで行ってみたくなります。神木に囲まれた朱塗りの小さな神社に寄って「幸多、利口になりますように」と儚い願掛けをして、緑のじゅうたんにピンク色の小さな星が散りばめられたような花や、恋占にぴったりのくっきりと細い花びらの黄色い花に誘われて、野原を進んで行きます。この先は、震災直後に汲みに来た水が流れる沢〜と視線を上げると、藪の方からカサカサ音がして…チラッと見えた!
やっぱり居た、逃げろ〜1メートルほどの黒いヘビが、ヤマタノオロチになって追いかけて来るかのように、坂道を駆け下りる私に、幸多は何が何だかわからなくて面食らっていました。

そんなある日、町内会から「側溝に撒くように」と消毒薬が各家庭に1袋ずつ配給されました。説明も殆どなくて、尋ねても班長さんもチンプンカンプンでしたが、配布された翌朝は、あちこちの側溝の小さな穴の周りに、肌色の 薬剤が 散らかっていました。除草剤と勘違いしたのか、草に振りかけている人もいました。
こりゃあ、大変!犬の散歩、危ないです〜
私は『側溝沿いを歩かせないこと、帰ったら足の裏を拭くこと』と注意書きを書いて、町内会の掲示板に貼ってきました。
ということは…幸多の足拭きも実践しなければなりません。最初の1週間は、唸りながら噛む仕草をして威嚇を続ける幸多と、「やんなきゃないことはやんの、ダメなものはダメ!」と格闘する私の声が、通りに響き渡っていたとか…新米のボランティアさんには「一歩も引かない態度が大事なんですね〜」と感心され、近所のおじいさんからは「親の世話から、犬の躾から…大変だね」と同情されました。
それでも、認知症の母と違って、幸多は日々進歩して、段々と抵抗しなくなり、今では、散歩から帰ったら足を拭くのが当たり前になりました。〈消毒事件〉の無知蒙昧にはゲンナリしましたが、幸多にとっては、怪我の功名となりました。

 

 

 

 

昨年春、ネグレストによる極度の飢餓で、立つこともできない状態で保護した時の、3倍の体重〜12キロになりました。

 

 

 

 

夏山といえば、強い日差しの中を、一瞬の涼風が運ぶやまゆりの香り〜誰も見ていない所でも満開でした。

 

 

 

 

雨上がり、紫陽花の花びらに、まるいおおきな水の粒…暑すぎるから、カタツムリには会えません。

 

 

 

 

「側溝に入れるなら、雨上がりの水がある時に、漏斗でも使って、溢れないようにして入れるべきではありませんか」と、町内会長宅に言いに行きました。

 

 

 

 

家の近くの側溝は、箒で穴に入れて回ったけれど、草むらに撒いてあるのは集めようがない〜渡す方も受け取る方も高齢者で、「何だかわからないけど、やれって言われたから」やる、怖い慣習。

 

 

 

 

 

今では足1本1本を丁寧に拭かせるようになった幸多。心なしか、幾らか利口そうに見えます。

 

 

 

 

『連れて行きたいおばあさん』



町内に猫のエサやりに通って来るおばあさんがいます。震災後ずっとです。通って来ている場所に家があったのですが、津波で住めなくなって、解体してさら地になり、草茫々の状態です。
遠い記憶を手繰り寄せれば、そのおばちゃんは、小さな家に一人暮らし、猫を飼い、野良猫に餌付して、大勢集めていたので、避妊手術を勧めようと訪ねたら、大音量で1970年代の映画音楽を聴いていました。おっとりと話す照れ屋さんで、ロマンチストなのかなぁ、という印象でした。

震災後、この人が仮設住宅の次に移り住んだのは、ここから徒歩では1時間以上かかる復興住宅。「ぺット可だから、猫を連れて行きたい」と相談されて、捕獲器を仕掛けて、捕まった順に避妊・去勢して、送り届けました。
数年経つと、また別な猫の手術を頼まれました。のべ7〜8匹は手術したと思いますが、現在残っているのは3匹だとか。病気になっても、馴れていないから病院にも連れて行けないし、そもそも体調の変化にも気づかないようで、何とか連れて行けた子は、動物病院で「手遅れです、もっと早く連れて来れば助かった」と言われたと、何度も話していました。よほど悔やまれるのでしょうが、思いに実力が伴わないのが、老人です。震災があった頃はまだ60代後半だったこの人も、もはや80歳〜リュウマチなどの持病があるせいか、よりおばあさんに見えます。背中を丸め、たどたどしい足取りで、手押し車を押しながら、1日おきに通ってきます。近年夏は尋常でない暑さだから、途中、熱中症で倒れるのではないかと心配になり、「代わりにやるから、来なくて良いよ」と何度言っても、「楽しみだから」と、通って来るのです。

町内では、「野良猫が集まって、迷惑だ」と怒っている人達もいます。そこでのエサ争奪戦に敗れて、アニマルクラブに流れてくる野良猫を何匹も捕獲して、保護してしまいました。子猫には里親を見つけましたが、成猫は全員居残りです。
おばあさんに、「今後どうするつもりなのか?」と聞きました。「連れて行きたい猫が3匹いるので、その子達を捕獲して避妊・去勢して、復興住宅まで運んでもらいたい。その3匹を保護できたら、もうここへ通わない」という答えでした。
日に何度か現場に通って、猫達の行動をリサーチしました。崩れかけた大型犬の犬舎のような小屋が、エサやり場〜前かがみでないと進めない高さで、床は抜けて、新聞紙が幾重にも敷かれていましたが、底はブヨブヨ、時々残っている床板の間に足を取られる、危険な場所でした。屋根は穴だらけで、地震や台風が来たら、無くなってしまいそうでした。ハサミムシや大きな蟻がウヨウヨしていました。ナメクジやムカデも居そうでした。それでも、ボランティアさんが草刈りしてくれて、小屋までの通路ができました。

手術日の前日、夕方から小屋の中に捕獲器をセットしました。30分後に見に行ったら入っていなかったので、周囲の景色に同化させるべく、捕獲器に新聞紙を掛けて隠して、さらに30分後にもう一度行ってみたら、おばあさんが一番気にかけていた、黒白の猫が入っていました。おばあさんはこの子を震災前に飼っていた『キラちゃん』だと言うけれど、どこから見ても若いオス猫でした。キラちゃんは、もはや生きているとは想えません。自分で作った物語に従って行動するのも老人の特徴で、先を見越したこちらの忠告は、頷いても頭には入っていかないようです。
そして、夜には、黒猫が捕獲器に入りました。今年の冬から春にかけて、毎月1匹ずつアニマルクラブに現れ、次々と保護して、里親さん宅へ送り出した、『黒豆』『チャミ』『カイ』〜姉妹と想われる3匹の黒猫とよく似た、小顔で長い足のオスでした。4匹兄妹だったのでしょうか…この子達を産んだ母猫を避妊しない限り、町内では、黒猫が生まれ続けることでしょうが、その姿を見たことはありません。
2匹のオスは翌日無事に去勢手術やワクチンを終え、エイズ・白血病も陰性でした。
さて、猫を連れて行く前に、偵察に行かねばなりません。この2匹が増えたら、5匹になります。どんな飼い方をしているのか?置くスペースはあるのか?「おっとりしたロマンチストは、現実が見えていないかも…」どんよりと嫌な予感が立ち込めました

予感的中でした。復興住宅はきれいで立派な建物です。そして、高齢者が多く住んでいます。この棟は、ペットと暮らす人が集まっています。ドアの向こうは、ゴミ屋敷状態になっているお宅も少なくはないような気がしました。
このおばあさんのお宅も、本来は寝室として用意されている一部屋が、猫部屋になっていました。2段ケージが3台、3段ケージが1台、キティケージが1台並んで、部屋にはもう空きスペースはありません。猫が入っているケージは2台で、1匹はフリーにしていて、リビングに居ました。ケージにはキャスターが付いてないので、動かせないから、長年の埃が抜け毛と一緒に降り積もっていました。この人は、汚れを新聞紙を敷いて隠す癖があるようで、底板や棚板に紙が幾重にも貼りついていました。ケージの内側には黒い脂汚れがべったり…洗わないわけにはいきません。亡くなった子のお骨が入った袋が5つありました。これまでに8匹、ここに運んだことになります。今度で10匹です。

風呂場でケージの底板や棚を洗いました。毛で塞がって排水溝はすぐに流れなくなり、バリアフリー設計だから、脱衣所と風呂場の敷居に段差がないので、戸を閉めないわけにはいかないし、新聞紙を剥がすのにお湯に浸さなくてはないから…暑さで体調がおかしくなってきました。猫部屋でケージを動かして清掃していたかなえさんも、「危険な暑さです〜」と音を上げたので、その日は2時間で退散して、3日後に3人で向かいました。5時から自宅30匹のごはん作りに取り掛かり、幸多の散歩をして、8時に出発しました。

助っ人のチエさんは、〈ぶん投げ名人〉〜これまでも何軒ものゴミ屋敷を、見違えるようにきれいサッパリ片付けてきました。猫部屋は、両端に積み重なっている服や布団や本などを撤去すれば、広く使えそうです。半世紀以上前の『ジャポニカ百科事典』は、虫が湧いていました。支援物資でもらった布団には、猫のオシッコが掛けられ、カビが生えていました。
私は今回、高さのある風呂椅子を持参して、腰掛けて洗い物をしました。洗剤やブラシ類も揃えて来たので、洗い物は前回よりずっとスムーズにできました。

大きなデジタル画面の温湿度計を猫部屋に置き、きれいにしたケージの底には全部キャスターを取り付けました。「ぶつかると危ないから、リビングに行ってて」と何度言っても、おばあさんは出てきて、前かがみの姿勢で猫部屋を見渡して、「どうも、どうも、すみませんねぇ」と繰り返していました。なので、クイックルワイパーに、ウエットシートを取り付けて、拭き掃除することを教えました。「あら〜便利な物があるんだね~」と興奮していました。子供もいないし、あまり人付き合いもしていないから、世の中の進歩に出会う機会が殆どないようです。不自由な体で小さな風呂椅子に腰掛けていることもわかったので、持参した高さのある風呂椅子も置いてきました。
玄関の中に置き切れなくなって、ドアの外に積み重ねたゴミは、またたく間に山を成していきました。何といっても、ジャポニカが重かった〜布団などの壊れない物は、通路のベランダから、外の芝生に放って落としました。チエさんの車は、ゴミで中が見えなくなり、経営する雑貨店の開店時刻の11時が迫ってきたので、一足先に退散です。かなえさんと私は1時過ぎまで頑張って、2匹を迎え入れる場所を用意しました。それでも、すっかりは片付かなかったから、もう一回戦行く予定です。
「猫が増えるから、不潔にならないように、毎日掃除してください。エサやりは私がやるから、通って来ないでね。熱中症で倒れたりしたら、ここの猫達のお世話をする人がいなくなるんだから」と言い聞かせて、帰って来ましたが、おばあさんは翌日も手押し車に、エサや水のペットボトル、アニマルクラブへの甘栗のお土産を積み込んでやってきました。

 

 

 

 

ケージの中も外も、抜け毛とトイレの砂と綿埃がぎっちりと積み重なっていました。

 

 

 

 

掃除開始〜シッチャカメッチャカ足の踏み場もないのに、おばあさんは度々登場して、オロオロするばかり…

 

 

 

 

猫が入っているケージもキレイにしなくてはないから、人馴れしていない猫を、洗濯ネットに入れて出しました。

 

 

 

 

トイレ容器は洗わないで、ただ砂を入れ替えていたそうです。しばらくハイター漬けしてから、積年のこびり付きをブラシやタワシでこそげ取りました。

 

 

 

通路に山積みになったゴミ。布団などは、ここから下へ放り投げました。

 

 

 

そして、ここまでキレイになりましたよ〜かなえさんも私も汗だくフラフラ、チエさんはゴミ満載CARでクリーンセンターへ。

 

 

 

 

『引き取って欲しいおばあさん』



猫を迎え入れるおばあさんの件に目処がついたら、次に行くべき所がありました。やはり、ペット可の復興住宅です。3週間ほど前の開院日、炎天下の中、自転車を漕いで真っ赤な顔をした小柄なおばあさんが、肩で息しながら待合室に入ってきました。何度か避妊や治療に来たことのある人で、前は軽自動車を運転してきましたが、免許を返納したそうです。エアコンの下で水分を取り、幾らか落ち着くと、堰を切ったように窮状を訴え始めました。「1階に住むおじいさんが入院して、留守宅に残された2匹の猫の世話をしているが、最近、おじいさんの病気が重くて帰って来れないかもしれないと聞いた。私の所にも1匹居て、おじいさん宅の雄猫とは相性が悪い。2匹の面倒をずっと見ることはできないので、引き取ってもらえないか?」という話でした。

そのおじいさんが子猫を保護して、このおばあさんが車に乗せて連れて来た日のことを憶えています。責任能力があるとは思えない男性だったから、里親探しを勧めましたが、聞き入れませんでした。8年位前のことです。その猫は外にも出して飼っていたので、一度出産してから、避妊手術に来ました。生まれた子猫のうち、1匹はFIPで死にました。おじいさんは、残った雄猫と母猫を飼っていたそうです。
私は「おじいさんが入院している間は面倒見て下さい。おじいさんが生きている間は、今の部屋も借り続けることができるのだから、エアコンのある住み馴れた場所に置いておくのが安心です。そして、おじいさんが亡くなった場合には、行き先を考えなければなりませんが、果たして里親を探せる子達なのか…私もそのうち、様子を見に行きますから」と答えました。その頃、炎天夏は一変して、どしゃ降りの雨…待合室に居合わせて話を聞いていた方が「方向が同じだから、車に乘って行きなさいよ」と声を掛けてくれました。しかし、おばあさんは「この雨、もうすぐ止むから、大丈夫です。自転車で帰ります」と断っていました。
今想えば、気が急く人、人の話を聞き入れない傾向があったのですが…その時は、「何だかんだ言っても、この人はおじいさんちの猫の面倒をずっと見てきてくれた人なのだから、見放すようなことはないだろう、ただ自分が大変だということを聞いて欲しかったのだ」と楽観していました。

電話がなかなか通じません。午後2時頃、4回目にやっと繋がると、様子が変でした。「もう少ししたら行ってみたいのですが、ご都合大丈夫ですか?」と尋ねると、「猫たち、塩釜魚市場に捨てられて、悲しくて私、泣いていたの〜」と泣き出したので、びつくり仰天しました。
すすり泣く人をなだめすかしながら、聞き出した経緯はこうです。
「私、2匹の猫を引き取ってくれる所を探して、あちこちに相談したの。市役所は合同庁舎の中に引き取ってくれる所があると電話番号を教えるだけ。電話かけたら、保健所でした。法律が変わったから、引き取れないと言われた。それじゃあ、飼えなくなった年寄はみんな捨てて、野良猫だらけになっても構わないんですか?って言っても、知らんふりなんだよ〜そしたら昨日、入院している人の兄さんが多賀城から来たので、車に乗せてもらって、私もお見舞いに行ってきたの。脳梗塞も起こして、もう猫の話もしない。私、お兄さんに引き取ってもらえないかと話したら、近所の人が猫を飼いたいと言っていたと、2匹共連れて行ってくれたの。40代の娘さんも一緒に来て、犬を2匹飼っている話も聞いたから、信用して渡したんだよ〜どうしてますか?って、今日電話したのね。そしたら、多賀城に帰る途中の塩釜魚市場に放して来た、って言われて…最初から捨てるつもりで連れて行ったんだね。可愛そうで可哀想で、私ずっと泣いているの」。

私はおばあさんに、「捨ててきたお兄さんに連絡して、放した場所を教えて欲しいから、塩釜魚市場に来てもらうように頼んで下さい。夕方近くになりますが、住宅前まで迎えに行きますから、車で向かいましょう」と話すと、おばあさんは「行ってもらえるんですか〜ああ、良かった。臆病だから、きっと近くに隠れています、なんぼ心細いんだか。ああ、可哀想に…」と、またしゃくり上げました。
塩釜の魚市場が新しく大きくなった、とニュースで見た記憶があります。広大な市場で、猫を見つけることなんてできるのか…だいたい市場が何処にあるのかもわかりません。森さんに応援要請して、5時頃に出発しました。
市場へ続く道の路肩に軽ワゴン車が停まっていました。昨日の夕方、猫を放したおじいさんでした。その車の後をついて行きました。市場の目の前の原っぱで止まりました。市場の敷地内でなくて、ちょっとホッとしました。一足先に着いたおじいさんは、近所に聞き込みもしていたようで、「今朝は姿を見たそうだ」と言っていました。おばあさんを真似て、猫の名前を呼びながら捜して歩く姿を見れば、この人が残酷非道な人とは思えませんでした。おばあさんに引き取って欲しいと頼まれて、弟がかけた迷惑の責任を取るつもりで、放したのでしょう、魚市場近くなら魚にありつけるとでも思った軽率な判断で。
おばあさんにしても、必死になって名前を連呼して、泣き顔でぐるぐる捜し回るほどに、自分にとってその子たちが大切な存在であったことを、今日まで気づかなかったとは、浅はかです。昨日、一緒にお見舞いに行って、話す時間もあったのに、互いに相手の心中を察することも、自分の思いを伝える術もなかった…老いの閉塞や無防備、無秩序の犠牲者は、猫たちーああ、何とか出てきて欲しい!

車を停めた傍に、大きな倉庫がありました。猫が何とか通れる位にシャッターが開いていました。ここに隠れている可能性は大です。おばあさんはつんのめるように膝を付き、わずかな隙間から「ハルー、マックー」と叫びます。
すると…白にキジブチの猫が、身を低くして出てきたのです。母猫のハルです。おばあさんがぎっちりと抱き締めてこちらに向って来ます。ハルは怖くて目を大きく見開いていたから、私は動かないで、車に入って後部のドアを開いて、おばあさんに猫を抱いたまま乗るように合図しました。その後に前の座席にサッと入って、車中でキャリーバッグにハルを入れました。
マックはハルより警戒心が強いそうです。大人4人がウロウロと歩き回り、名前呼んだり泣き顔の人までいるから、通りかかった人も足を止めます。森さんが説明すると、「昨日の夕方、犬の散歩の時は2匹で並んでいたけれど、今朝は1匹しか見なかったね〜」と教えてくれました。原っぱの隣の家のご主人も、「姿見たらエサやって家さ入れでおぐがら、連絡先を書いていって」と親切だったので、捕獲器を託して行こうかなと考えていました。さらに1時間ほど探して、日没も近づいてきました。
私は倉庫の会社の郵便受けに、猫を探している旨と連絡先を書いたメモを入れようと歩いていました。倉庫の反対側の駐車場に黒い猫がいるのが見えました。近寄って見ると、キジトラ〜マックと同じだから、おばあさんを手招きしました。「あ〜マックだぁー」とおばあさんは、もつれるような足取りで急ぎ、「マックーおいでー」と呼びかけ、そして、捕まえました。駐車場のフェンスの境に1人通れる位の隙間があったので、そこで小さなケージの扉を開いて待ち受け、入れようとした瞬間は、パニクって逃げられそうになりましたが、3人がかりで押し込めました。
「まさか2匹とも見つかるなんて〜」と感無量の森さんとクシャクシャの泣き顔になったおばあさんは、抱き合って喜んでいました。離れた所まで捜しまわっていたおじいさんも、2匹とも保護できたニュースに、胸をなでおろしている様子でした。お隣の方にも報告してお礼を言って、倉庫のポストに入れるはずの手紙を捨てて、帰路に就きました。

帰りの車の中で、おばあさんは、猫たちに「帰ったら、美味しい物、いっぱい食べさせっからね、まずは牛乳か〜」と語りかけて、早速私に怒られました。「体調を観察しなくてはなりませんから、消化の良い物を少なめでお願いします。吐いたり下痢したりしたら、連絡下さい。あと、数日後にノミ・ダニの薬を点けに行きますね」と伝えました。「はい、ハイ」と答えていましたが、守るかどうかはわかりません。
復興住宅に着いた頃には、すっかり暗くなっていました。おじいさんの部屋に入って、放すと、マックは真っ先に水を飲みに行きました。おばあさんが新しい水に替えてやると、いつまでも飲んていました。保護できたのが今日で良かった、としみじみ感じました。天気予報、明日は〈雷雨に注意〉でした。改めて見ると、ハルちゃんは結構高齢で、あんな場所では何日生きていられたか…。ただただ喜んで、お礼を繰り返すおばあさんに、「もうどこかに引き取ってもらおうなんて考えないでくださいね」と釘を差すと、「はい、私が面倒見ます、どこにもやりません」ときっぱり宣言していましたが、いつの日かまた一波乱来るような気はします。

 

 

 

 


「ハルー、マックー」と呼びながら、魚市場近くの倉庫の周りを捜し回るおばあさん。

 

 

 

倉庫のシャッターのわずかな隙間から覗いて、懸命に呼びかけます。

 

 

 


最後の最後に、マックをキャッチした直後。顔をクシャクシャにして泣くおばあさんに、森さんが駆け寄りハンカチを渡しました。

 

 

 

マック、入ってくれてありがとう。人は時々自分の心が読めなくなって間違うけれど、何人かの頭と心が重なれば、軌道修正ができるからね。

 

 

 

ハルが入ったキャリーとマックを入れたケージを横に並べて、帰る車中〜おばあさんはご満悦でした。

 

 

 


住み馴れた我が家に生還!あーっ、喉が乾いた〜怖かったよ〜

 

 

 


独居でペットと暮らす人は、自分に何かあった時でも、ペットが守られるように、遺言書を書いておくべきです。高齢者に限ったことではありません。10月6日、イオンモール石巻店で、ワークショップを開催します。

 

 

 


爪研ぎ、のびのびハルちゃん。1時間前の恐怖でいっぱいの顔が、晴れ晴れとして…私達も報われた気がしました。

 

 

 

 

『〈遺族の家〉って知っていますか?』


私が子供の頃は、ご近所にそう書かれたプレートが貼ってあるお家が何軒もありました。濃紺に白文字、文字の上には菊の紋章が入っていました。父親の実家がある山形では、菊ではなくて日本の国旗が入っていました。プレートのあるお宅の仏間に行くと、必ず兵隊さんの写真がありました。随分たくさんの日本人が戦争に行って命を落としたのだな、ということが実感として心身に染み込んだように思います。
でも、今はどうなんだろう?世界のあちこちで戦争や紛争が起きているのに、「怖いね」「嫌だね」と目を逸らして終わることが多いのは、戦争が自分ごとであった時代を疑似体験する機会もなくなったからかなぁ、なんて感じました。

私は昨年11月、いよいよ足が痛くて歩くこともままならなくなって、人工股関節を入れる手術を受けて、2週間の入院生活を送りました。最初の2日間は、体を固定されて、何もできなかったけれど、3日目からは…毎日時間に追われていた生活が一変〜時間が全然進まないのです。なので、「よし、この機会に書こう!」と、思い立ちました。
3年前に99歳で亡くなった伯父から、その半年前に聞いたシベリア抑留の話と、その伯父の葬式の朝に、意識もなく、死体のように冷えて固くなって拾われて来た子猫が、3時間後に突然立ち上がって、ごはんをムシャムシャ食べ出した奇跡のような出来事を物語にしたいと思っていました。子猫は、「伯父さんの霊が乗り移ったんじゃない」と言ったボランティアさんが、伯父と同じ『たけし』と名付けました。元日本兵のたけしと飢え死にしかけていた野良の子猫たけしの命が交錯して、生まれた『たけやん』〜この度、イラストレーターの柴本礼さんの挿絵も完成して、まもなく発刊の運びとなりました。背表紙を、〈遺族の家プレート〉の濃紺にして、日の丸も入れました。

7月末、『たけやん』の文章の校正をしてもらった石巻高校新聞部部長の馬場くんと、時代考証をしていただいた、ご自宅に平和資料館をお持ちの佐々木慶一郎さんを訪ねました。佐々木さんは元高校の校長先生。戦時中の沢山の遺品を、若い世代が平和を築くためのメッセージとなるように、公開展示しています。関心のある方は、まずはお名前で検索してみてください。これまでの開催された企画展が紹介されています。

平和資料館の行き帰りの車中で、17歳の馬場くんと色々な話をしました。彼は石巻高校の生徒会長でもあり、政治家志望なのだそうです。
私は、ふと、私の長年の願いは、政治家になれば叶えられるのだろうか、と考えました。石巻市で動物愛護活動を始めて半世紀…市長が変わる度に陳情に行ったり、意見書を提出したり、署名を集めて持参しましたが、何一つ実現しませんでした。議員さんも、こちらの話にいちいち頷いて、賛同はしてくれますが、何かを実現してくれた人は、一人もいません。
中学生の時から活動を始めた私は、誰よりも長く続けていますが、いよいよ、どうやめていくかを決めなければならない時期に来ています。何一つ夢が実現できぬまま、アニマルクラブが消滅するなら、せめて最後にもう一つ、「道を拓くための挑戦をするべきではないのか?」という自問も浮かびます。これまでは、人に託したから実現しなかった。自分の体験を自分の言葉で議会で伝えたら、叶うこともあるかもしれない…議会で話すことはいくらでもできると思うけれど、選挙運動が非常に嫌です
「ねぇ、選挙運動しないで、立候補だけってできるの?」と聞くと、少年は「市会議員に立候補するのに、35万円必要です。選挙運動もしないで票もさっぱり取れなければ、そのお金は戻ってきません」と教えてくれました。動物と老人をめぐる社会問題は山積しているのに、行政は介入せず、アニマルクラブは滅亡に瀕しています。背水の陣のように、石巻市会議員に立候補して落選して、なけなしの35万円も返ってこなかったら…50余年の活動〜あまりにも気の毒な幕引きです。アニマルクラブがまだ在るうちに、動物のために行政を動かす出会いが、巡って来ないかなぁ~






戦後43年目に、所有していたアメリカ人から家族の元に還ってきた日章旗。その後、兄弟から平和資料館に寄贈されたそうです。
平和資料館のある石巻市河南町から出兵した兵士への寄せ書きで、この方は、昭和20年6月にニューギニアで戦死されたそうです。





様々な軍服が展示されていました。『たけやん』のように、寒い地域に送られた兵隊さんはこんな格好だったのかな?と想いながら、見て回りました。





今回の企画展のテーマは『学童疎開』〜学生の制服やお母さんのモンペ、従軍看護婦の制服もありました。




馬の鞍です。日本の農村部から沢山の馬が軍馬に供出させられて、馬は一頭も生きて祖国には帰れませんでした。




青い電球は、夜間の空襲に備えた物、さらにお手製の傘を被せたり、黒い布を掛けて、明かりを隠したそうです。

 

 



陶器の食器は、金属が供出させられて不足して、出回ったとか。

 

 

 

軍服の中の白いのは傷病者用で、戦後これを着て、松葉杖を傍らに、お祭りなどでアコーディオンを弾いて、お金もらっている旧日本兵が大勢いたそうです。戦後20年ほど経ってからの石巻の神社でも見かけました。

 

 

 

資料館を後にした時、私は耳の奥で、兵隊さんの靴音が聞こえる気がしました。

 

 

 

とてもお忙しい中、『たけやん』の挿絵を快く引き受けてくださった柴本さんが、すべての絵を完成させた後に、こんなメッセージを送ってくださいました。
多くの方に手にとっていただきたい本だから、この本を創った人がどんな方なのか、知って欲しいから…ここに紹介させていただきます。

 

 

~『たけやん』に寄せて~    柴本 礼

 

私が阿部智子さんを知ったのは、宍戸大裕監督の映画『犬と猫と人間と2 動物たちの 大震災』(2013年)を見た時です。大変な災害に見舞われた石巻において、自ら家屋に 被害を受けたり、一緒に活動していた大切なボランテイアの女性や世話していた犬猫を失 うなど、途方もない悲しみの中にいながらもてきぱきと動かれるその前向きな姿に感銘を 受けました。ですから映画を見た人たちと監督や出演者とのワークショップが三軒茶屋で 開かれた時はすぐ参加、阿部さんと直接お話したいと思ってドキドキしていました。が、 ワークショップ会場ではその機会がなかったので、そのあと場所を近くのお店にうつして 食事会が設けられた時そこにも参加して、さあ阿部さんに話しかけよう、と思って店内を キョロキョロ見回したのですが、見当たりません。近くの人に尋ねると、阿部さんは石巻 からいらしていて遠いので、電車がなくなるからと帰ってしまわれたとのこと。「え~!」 とショックを受けて力が抜け、ワークショップ会場でお声かけしなかった自分の気弱さを 後悔しました。 けれどその後宍戸さんとは、宍戸さんが作られる障害関係の映画を見に行くなどしてご 縁を深めさせて頂いており、その中で宍戸さんを通じて阿部さんとも連絡し合えたような 記憶があります。 元々絵を描くことと犬猫が大好きな私ですが、夫が20年前に突然くも膜下出血を起 こしたことにより高次脳機能障害を負ってからは、本を書いたり講演で全国を回っており、2015年10月17日に仙台で講演をした際に、帰りに石巻まで足を延ばしました。宍 戸さんがたまたまその時石巻にいらして、私を石巻駅までアニマルクラブ石巻さんの車で 迎えに来て下さり、震災後の南浜地区や日和山を案内してくれたあと、アニマルクラブ石 巻へ連れて行ってくれました。そこで阿部さんと初めてゆっくりお会いし、部屋にも入れ てもらい、亡くなった猫たちの骨壺だの写真だのが整然と大事に並べてあるのを見たり、 猫たちや柴犬のゆきちゃんを見たりしました。その日はちょうど里親探し会も開催されて いたので、その会場へも行って、実際の様子を見学しました。どの子も可愛く、良い里親 さんが見つかることを願いました。その日のうちに東京へ戻る予定だったので、ボランテ ィアスタッフの井上さんご夫妻と一緒に中華料理店の揚子江でお昼ご飯を食べ(ご馳走に なってしまいました。有難うございます!)、帰京。 揚子江は、私が本を出す前後に取材して下さった朝日新聞の武田耕太記者や、毎日新聞の江刺正嘉記者が勧めて下さったお店 でしたので、行けて嬉しかったですし、海老そばはとても美味しかったです。お 2 人の記者はともに石巻高校を卒業されています(お2人は直接互いにお会いしたことはないそうですが)。

 

 

 

 

実はその年の9月に我が家の猫が20歳で大往生しておりまして、愛犬さくらが嘆いて 食べなくなり3キロ痩せてしまっていたので、新たに猫を飼うことを決めていました。そ んな時にアニマルクラブ石巻を訪問しましたので、そのあとすぐ阿部さんが宍戸さんの運 転で石巻から2匹の猫、ナガメ君、マルメ君を連れてきてくれました。が、子猫ではなく 少し大きくなった猫たちだったせいか警戒心強く、大喜びして興奮して吠えるさくらのせ いで食事もおしっこもできないのを見た阿部さんは、「これでは無理ですね。」とまた2匹を石巻に連れ帰ってしまいました。申し訳なかったですが、我が家にその後別ルートで来 た子猫2匹の里親には無事なれ、さくらも落ち着いて太り、現在も犬猫3匹仲良く暮らし ています。

 

 

アニマルクラブ石巻さんの HP はいつも拝読していて、阿部さんが書かれる「活動報告」の文章のうまさと中身の濃さに舌を巻いて感動していました。阿部さんの長年にわたるご活動は、猫の支援だけにとどまらず、猫を介した人間との関わり、時には問題を抱えた彼ら(人間)への支援、行政や飼い主(飼い主ではなくても私達人間全体)への問題提起など無限に範囲が広がっていき、それらはどれも切っても切れない関係なのだということを教えてくれます。

あちこちに立ちはだかる大きな厚い壁や問題に、細い体で立ち向かわれる阿部さんはどんなに疲弊されていることかと心配しながらも、遠く東京から応援するだけで申し訳ないのですが、阿部さんの鋭い洞察力、行動力、慈悲深さには常々敬意を抱いております。外見は美しく神秘的で穏やかなモナ・リザのようで、中身は現代のマザー・テレサのような強さと優しさと慈悲心を兼ね備えた稀有な素晴らしい方だとずっとファンでいます。また、睡眠や食事もいつも慌ただしい大変な毎日なのにもかかわらず、書かれる文章にはユーモアがあり、数々の貴重な命との別れの悲しさは全て阿部さんの体の中に受容され、蓄積され、その活動を後押しし支える力となっているように感じます。

これからもアニマルクラブ石巻のような団体が日本全国に沢山できて、行政や人々を動かし、犬猫が幸せに暮らせる社会になることを願ってやみません。犬猫が幸せに暮らせる社会はすなわち、人間も幸せに暮らせる社会にほかなりませんね。
さて、その阿部さんが『動物たちの3.11』のあとまた本を出されると聞き、しかも挿し絵担当に私をご指名されたのを知って驚き、自分にそんな大役が務まるか不安を感じつつも、光栄で嬉しくお受けした次第です。
けれどいざ原稿を読んでびっくり、およそ80年前のシベリア抑留生活から現代まで続く壮大なストーリーの中に、猫たちやその猫たちにまつわる様々な人たちが登場しますので、これを絵にするのは相当大変なことだ、と思いました。そもそもまず60年前の石巻の風景もわかりませんから、阿部さんが送ってくれた浅井元義画伯による絵画の写真や、自分でネットであれこれ調べて出てきた写真で、内海橋は2つあることを知ったり、中洲は拙宅の近くの多摩川の中洲のような草ぼうぼうではなく、工場やお店があったこと(今も)を知ったり、これは抱いていたイメージとは違う知らないことばかりだ、と腰が引けました。さらに私が生まれる前の戦時中の話や、知ってはいてもよく知らないシベリア抑留の話など、まずは下勉強が必要でした。私はたまたま講演で舞鶴に行ったことがあり、シベリア抑留記念館も訪れて岸壁の母の写真なども見ていましたので、少しは馴染みはありましたが、調べるうちに木内信夫さんという画家を知り、ホームページを拝見しては、シベリアでの兵隊さんたちの生活風景画を参考にさせて頂きました。
そのような下準備に時間がかかり、やっと描き始めてからも尚調べることが多かったにもかかわらず、できあがった絵にはどうしても事実とは多少異なる点はあると思うのですが(湊地区から見た日和山の形とか、引き上げ船の形とか)、何卒そこはご容赦頂けると有り難いです。

色々な猫が登場しますけれど、それぞれの猫への私の思いも描くにつれて強くなり、涙ぐみながら描いたり、あるいは本当に泣いてしまうと、心落ち着かせてからまた描き始めたりしました。なので、余計筆が遅々として進みませんでした。
最後になりますが、この本が 1 人でも多くの人に読まれ、犬猫を責任をもって飼うことは勿論、犬猫をはじめとする命あるものへの慈しみの心の大切さを改めて思い直し、地域で困っている人へ目を向けて救いの手を差し伸べるなど、温かな心が読者の間に広がっていくことを願います。

2024年8月4日 記

 

 

 

おまけ〜〈臍の緒子猫〉のその後



5月の活動報告に書いた、野良猫ママが産んだ子猫の足に、兄弟の臍の緒が巻き付いて足先が失くなっていたキジ白の赤ちゃんは、その後すくすく成長して、愛らしい女の子になり、幸せをつかむように『ふく』と名付けられました。
7月の里親探し会に参加すると、希望者が現れてトライアル中です。活発に走り回るとどうしても足先を擦ります。気にして舐めてしまいます。炎症を起こして動物病院に行ったら、骨が見えるほどになっていたとか。「治療してもこの繰り返しになるから、断脚した方が良い」と勧められたそうです。しかし、提示された手術代は20万円近くの高額で、里親希望者さんは「先住猫とも馴れて、とても可愛くて家に迎えたいと思っていたけれど、費用をこちらが全額支払わなければならないのなら無理」だと悩んでしまいました。

私は、不妊予防センターに来てくれている獣医さん達の病院で割引して手術してもらうことをお願いしました。そして、ふくちゃんの母さんや兄姉の面倒を見ている、ふくちゃんが生まれた家の〜あの、パニクってばかりだけれど、猫への愛情は深い奥さんにも、手術代の負担をお願いしました。『ふく』と名付けたのもこの人だから、誰よりも子猫の幸せを願っていると想いました。承諾をもらい、手術日も決まりました。

助ける人がいなければ、人知れず苦しんで消えていく命が数え切れないほど…私達の身近に在ります。すくい上げて幸せに導くためには、愛と勇気とお金も必要です。ふくちゃんがのびのびと元気に暮らして行くために、手助けをもらえれば、関係者の心も和みます。幸せ行きの切符を手に入れられそうな野良猫達のためにも…皆さんからの応援は、より効果的に活かしていく〜それだけは、私が公約できることです




お眠ポーズもチャーミングなふくちゃん、人懐っこくて愛されキャラです。

 

 

 


トライアル先でも、先住猫さんたちともすぐに仲良くなりましたよ。

 

 

 

この左後ろ足を擦ったり舐めたりしてしまう度に炎症を起こすので、断脚手術を受ければ、その心配もなくなり、身軽になって存分に走り回れるようになります。

 

 

 

2024年8月10日 記