【 光熱費パニック 】

光熱費が心配になる季節になりました。そう言えば…昨年の夏には、電気を停められる騒動がありました。

一昨年の暮れに、アニマルクラブのすぐ近くにある実家の倉庫と庭を潰して、小さな家を建てました。津波や水害に備えて、アニマルクラブの1階に置いていた猫たちを、2階で生活させるためでした。足の不具合も感じ始め、「今度浸水したら、人馴れしていない猫やパニック状態の猫たちを次々と2階に運ぶことはできなくなってしまうだろう」という、《老い》への準備でした。
新居の1階はこれまでに世話をして看取ってきた犬や猫たちの写真を飾ったメモリアルルーム、庭には80匹余りのお骨を埋めて、木を植えて樹木葬に~貯金をかき集めて作った、活動の集大成でもありました。
そこで迎えた初めての夏、猛暑の真っ只中に、「新居の電気が急に停まりました」と、掃除に行っていたボランティアさんから電話が来ました。停電かと思って、隣の実家を見に行くと、母が見てもいないテレビの前で、居眠りをしていました。ハッとして、テーブルの上に山積みになっているパンフレットやチラシやアルバムなんかの間を点検すると、ありました!私宛の電力会社からの封筒です。既に開封してあり、電気代の支払い通知書が入っていました。2カ月ほど前から通帳引き落としにしていたのですが、その前の分~3000円にも満たない金額でした。以前はアニマルクラブに届いていたのに、自動引き落としの手続きをした時に、新居の住所を書いたせいか、引き落としに間に合わなかった分の払込用紙が、実家に届いていたのです。認知症の老母は開けて見たものの…何だかわからなかったのか、伝えることを忘れたのか…払込用紙はゴミになって、埋もれていたのでした。
「電気停められるって、こういうことなんだ。体温より高温の日でも、容赦なく切られてしまうんだ~」と、焦りながら電力会社に電話して事情を話すと、コンビニから支払いをして、その報告をまた電話するように言われました。近くのファミマに走り、店を出てすぐに電話をかけました。
まもなくエアコンは動きましたが、「払うお金がなかったら、停められたままなんだ…」というトラウマが残りました。

暖冬だと思っていたらドカ雪が降り、ボランティアさんが「うっかりしていたら、電力会社から、残高が足りなくて引き落としできないって連絡が来たよ~」って笑い話をしていたのを聞いたら、背筋がゾゾっとしてきました。昨年の冬、最も光熱費がかかった月は25万円使ったことを思い出して、アニマルクラブの支払いに使っている通帳の残高が心配になって、銀行に向かいました。なにせ、アニマルクラブ、新居、不妊予防センター、私が30匹近くと暮らす家を合わせると、エアコンだけでも13台、それに灯油の温風ヒーターも同じ位、そして下に敷くペットヒーターなんて数えきれないほど使っているのです。
物価高騰で、フードなどの買い物の経費もこれまでの1.5倍位に上がった実感があります。《尻に火がつく》切迫感は、「動物を抱えてお金がなくなるとどうなるか?」という事例を目の当たりにすることが続いているからかもしれません。《多頭飼育崩壊》の類いの相談が相次いでいます。高齢の独り暮らし、特に男性はコミュニケーションを取れない人が多いから、目も当てられない、悲惨な状況になっています。

 

 

《猫は、とにかく暖かいところが好き。特に高齢猫には、暖房こそが命綱です。》

 

 

エアコンの真下に陣取って、温風を気持ち良さそうに浴びるおむすび。
 

 

 

オムツをしたセーラームーンの『ちょび子』、亡くなる2日前のショット。介護仲間の『ちゃこブー』と温風ヒーター前を占拠。

 

 

 

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【 80歳のおじいさんのケース 】

 

本人が言うには高速自動車道のすぐ近くなので、「車で来て、猫を捨てて行く人が多い」のだとか…。仕方ないからエサをやってるだけで、名前もみんな『シロ』か『トラ』。どのシロも痒そうに体を掻いて痂と傷だらけ、どのトラも風邪を引いて涙目と鼻水まみれでした。
部屋が寒いのです。タバコは買うくせに、「灯油代がない」と度々せびられる、近くに住む妹さんからの相談でした。「家の中も足の踏み場がないほど散らかして、なんぼ言っても片付けないのよ。嘘ついて、お金貰いにばかり来るんだよ~」とこぼす妹さんには、「お金ではなく、キャットフードや砂、本人には灯油や惣菜を、物で渡すように」と伝えました。こういうおじいさんは、灯油代もおかず代も、パチンコ台に注ぎ込んでしまうからです。

そして、この手の人と関わると、何から何までこちらがやらないと、何も解決しません。子猫は風邪と疥癬を治療しなければ里親探しもできないし、案の定、親猫は栄養不良から虚弱で、麻酔が安定せず、避妊手術は中断、延期となりました。
「タバコの煙のせいで肺の機能が落ちているのかもしれない」とも指摘され、近くレントゲン撮影を受けに行くことになりました。あり得ることです。
長年、「犬が病気になったから、病院に運んで欲しい」「猫を保護したから、避妊してくれ」と頼まれて、分割払いの約束は殆ど守らなかった、生活保護を受けていた独居のおじいさんは、昨年とうとう一人で生活することが困難になって、施設に入所しました。市役所から電話が来て、アパートに残る猫3匹を引き取れるかどうか、打診されました。「無理ならこちらで何とかします」と言われましたが…おじいさんにしか馴れていない老猫が保健所に行けば、処分コースに振り分けられるのは分かっていたから、引き受けました。
これまで入院代の立て替えを踏み倒されたことが4回、無料で避妊・去勢した猫は20匹近く、里親探しを頼まれた子猫や成犬も10匹以上はいて、中には見つからなくてアニマルクラブに残っている子達もいます。これだけ面倒をかけられてきたのだから、最後の3匹を引き取って、あのおじいさんとの腐れ縁も終わりにしたいと思いました。ボランティアさんが1匹引き受けてくれて、人馴れしていない2匹を2段ケージに入れて、老猫の部屋に置きました。そのうち白いオス猫が元気もなく食べなくなって、肩で息をしている様子に気づき、病院に連れて行くと、レントゲン写真は、肺が真っ白でした。ヘビースモーカーだったおじいさんと長年暮らしてきたことが影響しているようでした。退院後は酸素テントの中で生活して、一度回復したと思って出したら再発して、また入院することになり、その度に費用も10万円余りかかるので、今はずっと酸素テントの中に入れています。おじいさんは人間だから、施設に行って衣食住のお世話を受けて楽に暮らしていることでしょうが、動物には《基本的人権》のような権利はないので、関わった人間の裁量次第~負担も全部その人が負わなくてはないのが現実だから、誰もなかなか手が出ない。そこを何とか変えたくて長年活動を続けてきました。

今度のおじいさんの家から来た猫も、体力をつけて手術に再チャレンジするまで、面倒はこちらで見なければなりません。
メス猫の首に何筋もの傷がついていたのは、オス猫がよってたかって交尾しようと追いかけ回すからです。爺さんの家は、猫のスラム街です。病気と暴行が蔓延している中で生まれてしまった子猫たちは、愛されることも、美味しいものも知らずに、成長する前に消える数も多く、その割合は、食べ物がどれほどあるかと、何の病原菌が常在しているかと、住まいの環境に左右されると思います。
目が内側から赤くめくれ上がっていても、耳がガサガサに痂だらけでも、怖ず怖ずとしながらも、触られれば鼻づまりと喉を鳴らす音が聞こえてくると…「元気になってきれいにしたら、里親になってくれる人がいるかもしれない」と期待してしまいます。ここに居ては未来がない、命だっていつまで続くか…分からないからです。『里親が見つからなかったら、責任取れるの?いつまでもあると思うな、金と体力』という警告は、頭の片隅にベッタリと貼り付いていますが、せめて子猫だけでも、別な世界に送り出したくて、「5匹の子猫を連れてきてください」とボランティアのかなえさんに伝えました。

掃除と片付けは、助っ人のちえさんがやってくれています。かなえさんをアシスタントに、自分の仕事が始まる前の、朝の時間帯に通っています。独居老人が猫を家に入れるのは、寂しいからだと思います。最初は「やんねくていいんだ」なんて怪訝そうな顔をしていた爺さんも、「ゴミが運び出されて片付いた部屋を見て喜んでいた」と、妹さんが教えてくれました。しかし、だからと言っておじいさんが一念発起して生活を改めることは殆どないのが、ドラマではなくドキュメンタリーです。

 

 

 

子猫4匹は風邪症状が重く、目が真っ赤だったり、目ヤニで目が塞がっていたり…疥癬で皮膚もガサガサです。

 

 

 

ケージに移して、治療開始。真っ赤にめくれていた目は、せっせと目薬を点けていたら、2.3日でグンと回復しました。食欲はまちまち…食べない子には、注射も毎日~とにかくケアです。

 

 

 

『愛見(まなみ)』と名付けた女の子は、元気です。ケージに顔を押し付けて、《かまってアピール》です。

 

 

 

せわしいから、ネットに入れて目薬を点けています。エイズ・白血病検査は陰性。疥癬が完治したら、2月半ばの里親探し会からデビューしますよ~

 

 

おじいさん宅の様子

 

 

 


縁の下に住み着いているグループもいました。

 

 

 


交尾しようとオスに追いかけ回されて、首に傷が絶えないメス猫は、すっかり衰弱していました。
 

 

 

 

掃除前

 

 

 


掃除後~ちえさん、頑張ってくれてありがとう!

 

 

 

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【 アピールでやり通す女性のケース 】

 

最初に会ったボランティアさんは「悪い人ではない、猫は可愛がっていたよ」と評価しましたが、私は長年の経験から、おっとりと甘えた口調の中に、したたかな図太さを感じました。
多頭飼育崩壊に瀕している人が、自ら相談をよこすことはまずありません。事態を知って見かねた人が動いて、初めて明るみになるのです。
これまでの相談者の住まいとは違って、女性の家は大きくて立派な外観でした。ご主人が生きていた頃は、それなりに生活していたのでしょう。広いリビングに7歳から6カ月まで、猫が25匹ほどいました。「トイレの砂を買えない」から、トイレの中にはペットシーツが入っていて、もちろん他でも排尿しているから、臭いは強烈でした。
確かにおばちゃんは猫を可愛がっていましたが、責任感が伴わない子供のような愛着でした。間に入った人に頼まれて、毎週避妊手術を1匹ずつ引き受けることにしました。メス猫の避妊手術セットは、エイズ・白血病検査と内蔵機能の血液検査、3種混合ワクチン代込みで22000円です。分割払いは承知していましたが、1カ月に払える金額は「3000円位」だとのこと~気の遠くなるような話でしたが、とにかく手術しないととんでもないことになるから、年末から実施しています。

おばちゃんが「払おうと思って用意していたお金を娘に持って行かれた」とか、「息子が猫に暴力を奮う」と嘆くので、人馴れしている猫は里親探しをして、総数を減らさなければならないと思いました。検査やワクチン、手術を施し、砂のトイレを知らないから覚えさせて、オシッコ臭い体をシャンプーして、やっと1匹里親を見つけました。おばちゃんは「他の子も貰って欲しい」とせっついてきます。そんなに簡単に事が運ぶと思っているから、自分の失敗にも気づかないのです。
そして…里親探し会のある週に手術した子を、会場に連れて行ったら、とても条件の良いお宅から申し込みが来ました。そのことを伝えると、「あの子は保健所から貰ってきた最初の猫で、思い出もいっぱいあるから手放したくない」と、意外な返事をされてビックリしました。
その前の週には、「キャットタワーから落ちたオス猫が骨折して、病院に連れて行ったけれど手術費用が高いから、連れて帰って来たんだけれど、このままにしておいたらどうなりますか?」と、不妊予防センターに聞きに来たばかりでした。「痛み止めなどの対処療法だけして、自然に固まるのを待つしかない」という結論に、おばちゃんは安堵して喜んでいました。
「里親が見つかれば、病気になっても必要な治療が受けられるんだよ。これから年を取って、医療が必要になる時期です。そうなった時に治してやれなかったら、楽にしてやれなかったら、後悔するでしょう?もうこんなチャンスはないんだよ」と説得すると、その場は「そうだよね~お願いします」と言ったくせに、翌朝、「息子や娘に反対されたから、やっぱりあげられません」と電話をよこしました。いつも子供の悪口ばかり言っているのに、「渡したら、私が責められる」と早速被害者に転じていましたが、最大の理由は「すごく良い話だってわかるんだけど、あの子が居ないと私が気が抜けたようになってしまうんだよね~」と、自分のことしか考えていないことが判明しました。
聞けば、「2匹のメス猫を保健所から貰ってきたのが始まりで、そこにジモティーを通じてオス猫を貰って増えた」のだとか。保健所がきちんと調査もしないで渡して、避妊手術したかどうかの追跡確認もしないで、多頭飼育崩壊の種を蒔いたのです。そして、ネットを通じて里親探しをする人は、くれぐれも相手の飼育環境や意識を検証しなければならないことの教訓です。
結局、この人は自分の思いを遂げ、私達を思いのままに動かしています。私達は彼女の許可が出た猫と、里親になってくれる人のマッチングに奔走するしかないし、不妊予防センターは累積赤字を増やしていくしか、あの家に居る猫達を幾らかでも救う手立てはないのか現実なのです。

 

 

 

おばちゃんの家の猫達は可愛くて、人に馴れていますが、砂のトイレがわからないのが難点。
手術後からこんなにゴロゴロ~この子はトイレをマスターしたから、お見合いへ。

 

 

 

トライアル初日からくつろぐ写真が来ました。お見合いの前には、幸多に咬まれたトリマーさんが、ボランティアでシャンプーしてくれるのがありかたい!
 

 

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【 身の程を知っている人の選択 】

 

そのおじさんのことは、20年位前から知っています。ずっと猫と暮らしていたし、別れた女性が置き去りにした猫も引き取って面倒を見ていました。借家住まいですが、できる限り猫が快適に暮らせるように工夫して、掃除も行き届いていました。退職して車も手放してからは、避妊・去勢手術を頼まれれば送迎して、「無理のない分割払いで構わない」と対応していました。しかし、そのうちに分割でも払えなくなってきました。

ある時、おじさんの飼い猫の具合が急に悪くなって、病院を紹介したのですが、支払いできなくて、こちらが立て替えました。返済されないまま月日が流れ、1年以上経てから、野良猫への餌やりをめぐって近所の人とトラブルになって、保健所が介入していることを聞きました。音信が途絶えていた間に、また野良猫を保護して、その猫が子供を生んで増えていました。その子猫達も、すでに生後半年でした。「どうして手術の相談をよこさなかったの?」と苛立つ私に、「金が払えないからだ」とおじさんは逆ギレしました。「手術しないで済む話じゃないでしょう。子猫達が子供を生んで、何匹に増えるか考えてみてください」と諭して、「母猫と5匹の子猫は無料で手術するから」と伝えました。
後日、「この間はすみませんでした、本当にありがとうございます。助かります」と深く頭を下げられました。
手術も終えて、子猫3匹には里親も見つかりました。そして、しばらく音沙汰のなかったおじさんから、最近電話がきて…「外でエサをやっている野良猫が事故に遭って骨折したようだが、病院には連れて行けないので、薬を分けてもらえませんか?」と言われました。
獣医師が診ていない猫に薬を処方することはできないので、「一度病院に連れて行ったら?その上でなら、こちらで薬を出すことも可能だと思います」と勧めても「無理なんですよ」と言われると…この先は、もう一人の人間として応えるしかありません。うちの子達の薬を無料で差し上げました。おじさんはそれで持ち直せは幸い、回復しなければ死ぬまで付き合い、諦めるしかないと腹を括っているようでした。

『お金がなくなっていったら、自分はどうやって動物たちを守るのか?』という問いは、《明日は我が身》のテーマとして、身に迫ってきました。
日本は今、空前の人手不足に直面していますが、動物病院もその通りです。不妊予防センターに獣医師や看護師を派遣してくれている病院でも、深刻な人員不足に陥っているとか。ボランティアを援助する余裕はなくなってきているようで、「3月以降は、毎週の開院は無理になる」という通達が来ました。今でさえ手術が立て込む時季は予約が1カ月以上先になってしまうのに…そうなれば、お金を出せる人は、他の動物病院で手術を受けるでしょう。これまでは、ちゃんとお金を支払ってくれる人からの収益で、無料で手術する猫の分や、いつ回収できるか、わからない分割払いの損失を補ってきましたが、それが回らなくなるおそれがあります。そして、例えば収入が半分に減ったとしても、経費は半分にはならないから、事業自体の赤字が深刻になることも目に見えています。
最後の砦が切り崩されれば、相談に応じて、世間の猫のために活動することは、もうできなくなるかもしれません。私は東日本大震災で経営していた店を失い、それ以降アニマルクラブの運営資金は、寄付に頼るしかなくなりました。今度は物価高騰と人手不足の荒波に襲われて、アニマルクラブの運営がおびやかされています。ボランティアさんの中にも、生活が苦しくなって働く時間を増やさざるを得なくなって、来れなくなった人もいます。現実的には、お金とマンパワーが続くところまでは、社会で苦しむ動物たちの救済活動を続けるにしても、いよいよ困窮してきたら、アニマルクラブに居る動物たちをを守ることで精一杯になってしまうかもしれません。

私は中学3年生の時にこの活動に目覚めて、仕事をするにも、結婚をするにも、活動を続けられることを第一条件に人生の取捨選択をしてきました。社会保障が付く会社に就職したことは一度もないし、結婚と離婚も繰り返し、シングルマザーで育てた子供達が引きこもったり、学校で問題視されたりした時期もありましたが…活動はずっと続けて50年経ちました。息子も娘も社会人になり、大人の視点で私の生き方を容認してくれたような感じではあります。
しかし…半世紀前は、頑張って訴え続ければ日本は変わると信じてスタートしました。確かに家族の一員として幸せに暮らすペットの数は格段に増えましたが、不幸な動物たちは存在し続けています。保健所が殺処分数を減らすために、野良猫を引き取らなくなったから、巷で増えていく野良猫は、《町の難民》だと感じています。ガンジーも「良きことはカタツムリの速度で進む」と言ったけれど、人生をかけて挑んでも、そうそう変えられないことは数多くありました。宮沢賢治は「全ての人が幸せにならなければ、世界の幸せはあり得ない」と言いましたが、あちこちで戦争が起きて、難民が増え、自然災害も続発して、世界の幸せは遙か彼方に行ってしまいました。

「この先何ならできるのか?」と考えると、まずホームページを一新しなければならないと感じています。資金も人手も足りなくなってきたら、できることは長年の経験を伝えて、次代を担う人たちの中から、この夢の続きを叶えてくれる人の役に立つ《アーカイブ》を発信することなのかなぁ~と考えています。
もちろん、道半ばの降板は無念だし、助けを必要としている命に背を向けるのは、断腸の思いとなるだろうから…できる限り存続できるように、それぞれができる応援を、どうかよろしくお願いします。
私は11月に左足に人工股関節を入れる手術をして2カ月経ち、足は全然痛くなくなって、病気になる前と遜色ないレベルにまで機能も回復して、毎朝、柴犬の『幸多』と山に散歩に行っています。資金を回せれは、まだしばらくは働けると思います。
 

 

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【 近況報告 】

 

①幸多、ステイ先より帰る

私の足がいよいよひどくなって散歩も困難になって、ボランティアさんにお願いするようになった途端に、幸多がボランティアさん達を威嚇したり咬んだりする事件が続発したので、退院後落ち着くまで、躾もお願いできそうなペットホテルに預けました。
少しはお利口になって戻ってくるかと期待していましたが、むしろ逆でした。沢山の犬がいて、人の出入りも多かったからでしょうか…ハイテンションで落ち着きがなくなり、相手が躊躇しているのを見抜くと威嚇して吠えまくり、前よりも噛みつくようになりました。お世話になった先でも、きれいにして帰そうとシャンプーをしてくれたトリマーさんの手を噛んで、病院通いをさせるほどの傷を負わせるという、とんでもない置き土産をしてきました。
前は散歩に連れて行けていたボランティアさんにも吠えて脅すので、私が足を心配しながら散歩するしかなくなりました。それでも、「母ちゃん転んだら病院に逆戻りなんだから、ゆっくり歩け~」と号令をかけると、私の顔をのぞきながらトボトボ歩きをしていたから、幸多は私を飼い主だと思っているのかもしれません、困った😥




世間を見て、何か勘違いして、偉くなった気分で帰ってきた幸多~修行をやり直しています。




②捨て猫事件、その後

入院の直前にアニマルクラブに2週続けて、同じ人が猫が入ったキャリーバッグを置いて行ったのを、防犯カメラが捉えていた事件のその後は…
初めの週に捨てられた生後1カ月半位の子猫5匹兄妹『捨て子ザウルス』には、全員里親さんが見つかりました。しかも、ミケザウルスとトラザウルスはペアで仙台へ、サビザウルスとキジザウルスとパンダザウルスはトリオで石巻市内へ、兄妹一緒に巣立って行ったから、寂しい思いはしていません。どこへ行っても元気いっぱい、おちゃめを発揮して、可愛がられています。
残っているのは…次の週に捨てられた、母猫のモモと、ザウルスの前に生まれた兄妹と想われるロッキーとサンショの『おどろ木ファミリー』です。家族の絆が強い一家なので、バラバラは難しい。特にロッキーはサンショと一緒でないと無理かも。家族でいれば落ち着いて、静かで穏やかで全然手がかからないファミリーなので、まとめて迎えてくれるお家があればなぁ~と願っています。

 

 

「3匹まとめてお迎えしましょう!」なんて、夢のようなプロポーズ来ないかな~。一緒なら、ホント手がかからないんです。





③から丸、参上

相談を受けたのは、入院中でした。
手術後2日間はベットに固定されて、点滴や採尿の管を繋がれて、身動きできなくて、一番辛い時間でしたが…3日目解放された途端に、病室の壁を伝い歩きして、部屋のトイレに入ったことがバレて、看護師さんに「トイレに行きたい時は、ナースコールで呼んでください。廊下の車椅子が入るトイレに連れて行きますから」と注意されました。入院初日も、家から持参した電気ポットでコーヒーを淹れてたら、婦長さんがお出まし、注意を受けたから、学生時代同様《要注意対象》の入院患者になりました。

温和しくしていようと誓いを立てたけれど、日々猫たちの世話に追われ、あっという間に時間が過ぎる日常から遠く隔たり、病院の時計の針はスローモーション…別の人になったような私が、そこに居ました。
「そうだ!良いこと考えた~」とひらめいて、前々から書きたいと思っていた、物語の執筆を始めました。他に何もしなくて良いので、さらさらと筆は進み「私、小説家になったみたいだな~」と、1週間で原稿用紙70枚余り書き上げました。今年はこの物語を本にして、活動を支えてくださっている皆さんに、お送りするのが一番の愉しみです。
タイトルは『たけやん』~2年前に見つけた時には、死体のようにすでに冷たく固くなっていた子猫が、3時間後に起き上がってごはんを食べ出した奇跡につながる、法律改正前の保健所の実態や、シベリア抑留を生き延びた老人の話も織り交ぜた『7割ドキュメンタリー』です。東京で活躍しているイラストレーターの柴本礼さんに挿絵を描いていただけることになりました。乞うご期待ください。

『たけやん』を書き上げると、また《遅周り時計》の日々に逆戻りしたので、美肌パックしたり、スマホでアニマルクラブに来ている相談を見て、返信したりしていました。

気仙沼市で小さな会社を経営しているという女性からの相談でした。
「以前隣にあったラーメン屋のおじいさんが野良猫に餌付けして面倒を見ていたのですが、2年ほど前に店をたたんで引っ越してしまいました。餌をもらえなくなった猫達がこちらに来るようになったので、餌を与えて、触れる子は避妊・去勢手術も受けさせました。昨年の夏、しばらく姿が見えなかった1匹が大ケガをして戻ってきたので、従業員が動物病院に連れて行って、傷の治療はしてもらったのですが…その後、その猫が排泄する感覚がなくなっていることに気づきました。いつもオシッコもウンチも垂れ流し状態~しかも下痢便だから汚いし臭いし…寒くなってきて、猫達が中に入れてくれと鳴くのでつい事務所に入れてしまうのですが、その子だけは入れられない。それが可哀想で、心苦しい。自分に出せる位の費用は負担するので、治らないものか、病院でちゃんと診てもらい、その後の相談にも乗ってもらえないでしょうか」という内容でした。
早速この方と連絡を取って、石巻の病院にしばらく入院させて、検査して治療の方法を模索することを提案しました。「お願いします」と返事をいただいたので、早速かなえさんに連絡して、気仙沼まで行って、依頼者に会って、猫を連れて来るように頼みました。
こうして茶トラのオス猫『カラ』ちゃんは、石巻の動物病院に入院しました。

私はまもなく退院しましたが、カラの入院先の動物病院からのその後の報告は芳しいものではありませんでした。レントゲンを撮ると、骨盤が歪んでいるから、交通事故にあったものと想われ、確かに排便排尿の感覚はない様子。時間が経ちすぎて、改善の見込みはなく、下痢も一向に治らない。オシッコはおちんちんの先から細いカテーテルを入れて注射器で吸い出している。体がしょっちゅう汚れるので、まめにシャンプーもしているとのこと…なんと手のかかる、《要介護認定4レベル》といったところです。気仙沼の相談者から預かった10万円の治療費がなくなる前に、去勢手術と断尾手術をお願いしました。尻尾が長いままでは、毎回汚れてしまうからです。

そして、クリスマスに、カラちゃんは私の家にやって来ました。《おもらしサンタさん》の新居は、布製のケージです。里親探しにご協力いただいている《ペットのおうち》より、2年続けて頂いた景品の活躍時がやってきました。溝のある金属製では、糞尿が入り込んで厄介なことになります。洗える物を交替で使う~それが介護の基本です。一番下に敷くダブルワイドサイズのペットシーツはテープで留めて、その上には、冷えないように、ペットシーツでカバーを付けたヒーターを置いて、その上は汚れた度に交換するようにワイドサイズシーツを並べました。端っこには、重めの陶器の水入れを置きました。
介護の仕方も、こちら流に変えました。不妊予防センターの看護師さんから「毎日カテーテルを入れているから、尿道が腫れている」と指摘され、お腹を押して出す、圧迫排尿を習いました。私はうまくできなくて、若いかなえさんとしのぶちゃんの同級生コンビが上手だったので、昼はしのぶちゃん、夜はかなえさんでローテーションを組み、2人とも新年には《採尿マスター》の称号がもらえるくらいに、スムーズに出せるようになりました。
病院で「様々な療法食を試したけれど治らなかった」と言われた下痢も、私流の下痢猫用ごはんを与えたら治って、普通の猫のウンチになりました。ところが、それで喜んではいけないのです。カラちゃんの骨盤は事故で歪められた影響で、ウンチが詰まりやすいので、普通の硬さはもう危険。案の定、糞詰まりの症状~食欲不振と吐き気が出てきました。うちには、同様に事故で骨盤が狭くなった『ギル』がいるから、何度も見ているのです。
下痢の常習者のレッテルを貼られていたカラちゃんでしたが…ギルと同じ便秘用の可溶性繊維の消化器サポートを、普通のフードと混ぜて与えることで落ち着きました。ブレンド具合は、便の状態を見ながら変えます。昔の獣医さんが言ってました、「薬よりも愛ですよ」って。人もそうですが、生体って不思議です、先生でも解読できない変化が生じたりします。カラは、《要介護認定レベル2》くらいまで下がったと思います。
気仙沼の彼女に写真を送ったら、「男前になった」と喜んで、ペットシーツを沢山送ってくれました。「大ケガをしたのは去年」と聞いた時には、「なんでもっと早く動かないのよ」と思いましたが、1人ではなかなか決心がつかない人が多くいることを知りました。助けたいと願っている人、お金を出したり何らかの協力はする気のある人が、もっとつながりやすい、支え合える体制が目に見える社会になる必要があると感じました。
 

 

布ケージの中は、毎回こんな感じになりますから、日に何度かチェックしてチェンジ。

 

 

「すんませんね~」って顔して、入れた手にからまってくるようになったから、名前も『から丸』に昇格です。

 

 

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【 看取りラッシュと難民救済 】

 

私の足が重症化してきた秋以降、苦楽を共にしてきた懐かしのメンバーが次々に他界しました。入院前は、体が思うように動かなくて充分なことをしてやれなかった悔いが残り、退院後は命の残り火が消えかけた老猫が、絶え間なく私の自宅にやってきて…これでもかというくらい、看取りが続きました。

 

 



『くうかい』…9月25日逝去

 



その頃、くうかいが暮らす新居では風邪が流行っていて、他の子たちは注射をすると回復に向かったのに、くうかいだけ治らず、具合が悪そうだったので、病院に連れて行ってもらいました。そしたら、免疫の病気で、しばらく入院と言われ、それでも、私は足が痛くてちゃんとした看護もできないから、その方が安心だと思っていたのに…翌朝、思ってもいない訃報が届きました。
くうかいは、7年ほど前に不妊予防センターに去勢手術に連れて来られた野良猫で、頭にケンカ傷もありました。手術の後、頭の傷から膿が流れて目に入っていたのを見た時に不吉な予感がしたのですが…予感的中で、烈しいケイレンが起きました。為す術もなく、ただただ早く治まって欲しいと、体を支えているしかありませんでした。
レントゲン写真を撮ってもらうと、頭蓋骨に小さな穴が開いていて、髄膜脳炎という恐ろしい病名を告げられました。脳圧を下げる点滴を受けるために、毎日朝に病院に送って、夕方迎えに行くのですが、一向に良くならず、毎晩体をギーンと突っ張らせる、烈しいケイレンが襲ってくるのです。私は同じ部屋に寝て、ケイレンが始まると、くうかいをずっと抑えて、声をかけ続けました。そんな状態が10日以上続きました。
不妊予防センターに来ていた吉田先生にも相談すると、抗生剤の内服を持ってきて、「飲ませてみて」と言われました。錠剤を潰して、ちゅーるのような食べものに混ぜて、シリンジで口に入れました。大して期待はしていなかったのです。ところが…まるで、大沢たかお主演の『仁』みたいな展開で、毎日病院に通って全然改善しなかったくうかいのケイレンが、飲み薬で治まったのです。びっくり仰天~すごく感動しました。
くうかいという名前は、ケイレンの合間に、美味しそうな物を色々見せて「これは食うかい?あれなら食うかい?」と、何か少しでも食べさせようとしたからです。くうかいと私は、あの危機を生き抜いた戦友だったのに…、今また不妊予防センターには吉田先生が来てくれているのに、先生に相談する間もなく、まさかそんなに呆気なく逝ってしまうなんて…くうかいの死だけは、諦めきれず、この文章を書くだけでも、やっとこさの決心をして書きました。人生は別れの連続だけれど、無念の別れは生涯心に棲み続けます。



『ふもに』…10月5日逝去

 



『ふもに』は4年前に、アニマルクラブの2階の窓から屋根伝いに『コムギ』が逃走した時に、仕掛けた捕獲器に、何度も入ってしまった近所の野良猫でした。去勢して放してもまた入り、この子を野放しにしておくと、いつまでもコムギが捕まらないと思って、家に入れました。思った通り、コムギもその数日後に捕獲器に入り、連れ戻すことができました。
ふもには、野良猫とは思えない穏やかな性格で、みんなに可愛がられ、去年亡くなった『ふもと』に似ていたから、そんな名前になりました。
ふもとは、私が毎朝犬の散歩で登る山の麓で行き倒れていたから、その名前になりました。どちらもいったい何年間野良猫生活をしていたのか…わかる術もありませんが、ボランティアさんに可愛がられ、医療も受けて、暖かい部屋の中で見守られながら一生を終えて、幸いでした。しかし、この町内だけでも、いったいどれほどの野良猫が生きているのか…縁があればやがて繋がる~いつの間にか、そんな風に受け容れるようになりました。



『半月』…10月6日逝去

 



北上川に架かる内海橋の中間には中州があり、その昔は造船所関連の会社が多くありました。1999年から2年間、倒産した会社が置き去りにした12匹の番犬の世話に通って、里親探しをした《中瀬》には、野良猫も沢山いました。犬が全部居なくなった後も、餌をあげていた会社の社長さんと協力して、野良猫の避妊・去勢を進めました。「片目で野良猫生活は難儀だろう」と中瀬に返さなかった半月だけが、あの地の生き残りです。東日本大震災の津波で中瀬はすっかり水没して、生き物は全滅したからです。
ずっと野良猫気質が抜けない子でしたが、体も弱って認知症気味になり、私の家に連れて来てからは、人を頼ったり甘えたりするようになり、補液も楽にできました。夜中朝方にすっとんきょうな声で鳴き、異常な食欲を見せましたが、紙のように軽くなって、20年余りの天寿を全うして、安らかにお空に昇りました。



『ちょび子』…12月23日逝去

 



介護ヘルパーの女性からの相談で出向いた家の飼い猫でした。飼い主のおばあさんは認知症がひどくなって、その日施設に入所したそうです。「明日には市役所から人が来て、部屋を片付ける。猫は外に出されるか、保健所に渡されるしかない」とのこと。その時は、その方も「自分が費用は出すから避妊手術などして、貰い手を探して欲しい」と言ったのですが、後日電話をしたら、娘さんが出て断られました。

予想外の展開で名前を聞き忘れ、ちょび髭みたいな模様だったから『ちょび子』にしましたが、ちゃっかりと賢い猫で、どの猫部屋に行っても、世渡り上手でした。あの時で10歳過ぎと聞いていたから、老衰だったと思います。前の晩までごはんも完食して、当日も一度倒れても起き上がって、最期の最後までよく頑張りました。

 

 

 

『ちゃこブー』…1月7日逝去

 



津波で飼い主夫妻が亡くなって、家に残されていた被災猫でした。どれほど溺愛されていたのか…女の子なのに体重は7キロ越え、しかもとても気が強く、猫が嫌いで、誰か寄って行くとキーキー騒いでパンチしてくる~ヒステリックグラマーでした。犬は平気で、人間は大好きな《かまってちゃん》で、ドキンちゃんみたいに、悪い子なんだけど面白い、味のある子でした。
そのちゃこも年を取り、体重も全盛期の3分の1になりました。気の強さは秋まで、食欲は前日までありましたが…とうとう力尽きてしまいました。天国で待っていた飼い主さん夫妻には、「よく頑張ったね~偉い、可愛い」と褒められたことでしょう。



『ポンコ』…1月7日逝去

 



ちゃこと同じ日に、逝ってしまいました。さらに、この日の夜には、私の母が救急車で日赤病院に運ばれて入院する騒動まで起きた、命の往来に翻弄された日でした。

ポンコは一昨年の初夏に、不妊予防センターに去勢手術に連れて来られた野良猫でしたが、エイズと白血病のダブルキャリアの上に、血液検査で極度の貧血、肝数値も異常で黄疸も出ていて、たまたま応援に来ていた院長に「手術は無理、命が危ない、あと半月保つかなぁ~」と言われた猫でした。人馴れしていたので、生きるところまで見守ることにしました。ところが、手をかけたら食欲も出て、どんどん元気になってきました。

翌春には、血液検査の結果も正常値となり、去勢手術を受けられるまでに改善しました。甘えん坊で、掃除をしているとすぐにチョツカイ出してくるので、いつも怒ってばかりいたことを、今は後悔しています。けれど、怒っていたのは、元気でいることが当たり前になっていたから。院長先生の余命宣告から1年半…野良猫の時には食べたこともない美味しいもの、優しくお世話してくれる人、暑さ寒さも心配しなくていい快適な生活…を経験したことが、ポンコがここで生きた意味であったような気がします。



『ニャーゴ』…1月10日逝去

 


最期に、アニマルクラブでずっと面倒を見てもらったしのぶちゃんにも抱っこしてもらってから、安らかに逝きました。

 

 



この子も被災猫のようでした。市内の中学校の辺りをうろつき、人馴れしていたから子供たちに食べ物を貰っていたとか。『ニャーゴ』という名前は、子供たちが付けたそうです。ある日交通事故に遭って大騒ぎになり、先生が動物病院に運んでくれたまでは良かったのですが…退院してからも貰い手はなく、ニャーゴはボールなどの用具をしまっておくプレハブで飼われていたそうです。
夏の朝、鍵を開けて入った教師が「猫が泡吹いている」と電話をよこしました。熱中症です。すぐに病院に運んでもらいました。しかし、それきり学校はノータッチ、支払もしてくれませんでした。

ニャーゴは失明して脳障害からテンカン持ちになり、一生薬を飲み続けましたが、ここまで生き延びました。自分では水も飲めないので、つゆだくのごはんを考案して、シリンジで給水。ウンチ踏み散らかしが日常で、体を拭いたり洗ったりすると、本気で怒ってきました。たまにケイレンが起きれば、発作止めの注射もしなければなりませんでした。誰よりも手のかかる子でしたが、チャーミングで人気者でした。
高齢になりケイレンが頻繁になってきたので、目が届く私の家に連れて来ました。今後は頻発して命を落とす予感があったのですが…なんと、我が家に来てから、ピタッと発作は起きなくなりました。部屋をフリーで歩かせる時間を作ったことも良かったようで、晩年になってトイレも認識して、ウンチの踏み散らかしも格段に減りました。
食欲はあったのですが、どんどん痩せたから、老衰だったと思います。大した立派な生き様であったことを、可愛がっていた、かつての中学生達に伝えたいです。



『バロン』…1月21日逝去

活動報告にも度々登場した被災犬の『バロン』も、とうとう逝ってしまいました。椎間板ヘルニアで、2年位前から散歩もやっとやっとの感じだったから、近所の人達からも「おっ、まだ頑張ってたね!」なんて声を掛けられていました。私は入院中にバロンが死んでしまうのではないかと不安でしたが、2週間ぶりに帰って、何事もなかったようにそこに居る姿がとても嬉しかったです。もう私が近くに来ても気づかなくて、名前を呼んで、体を撫でてやると…遅ればせながら反応するほど老いぼれていました。
深夜に見回りに行ったら、ゆるくなった胴輪が口に挟まっていたので、目が届く所に置かないとダメだと、自宅に連れ帰り、最期の1週間は一緒に過ごしました。二階家住まいの私では、バロンを抱えて急な階段を登れないだろうと諦めていたのですが、片手に抱えて登れるほどに、バロンは軽くなっていました。

震災後、郊外をとぼとぼと歩いていたと、通りがかった人が連れて来ました。「自分は避難所暮らしだから、連れて行けない」と言っていました。知らない人の車にも飛び乗って来たほど車が好きで、散歩の道すがら駐車場に行くと、「ドライブに行こう行こう」と、私の黄色い車から離れませんでした。

お散歩ボランティアの平塚さんとは名コンビでしたが…平塚さんも昨秋、ガンで闘病の末、お亡くなりになりました。私は足の痛みが最盛期でお通夜に行けなかったので、今回やっと、バロンのお骨を拾った足で平塚家を訪れ、お線香をあげました。平塚さん、きっと天国の入口まで出て来て、バロンを迎えたことでしょう。

 

 


『お疲れさま、もうふり向かないで行っていいよ。上で、平塚お父さんが待ってるからね』




平塚さんとバロン、天国でもきっと名コンビ



バロンを見送って、アニマルクラブは総勢79匹になったのに、ゴミ屋敷のおじいさん宅から6匹と、アニマルクラブに住み着いている野良猫『パンダ』が、どこからか連れて来た黒い子猫1匹を「今なら里親が探せる!」と、家に入れてしまいました。
ふと、亡くなった父や別れてから他界した夫に、空の上から「バカか、お前は」と罵られたような気がしました。でも、人生は願いを叶えるためにあるのだから、同じ願いを持つ方々はどうか、協力してください~私は今、それしか言えません。

 



2024年1月31日