大学では「作品つくれーなんでもいいからつくれー」という、カルト教団のような作品制作至上主義みたいのが横行していたわけなんですが、
(いや、べつに作ることが悪とは考えてはおらん)
自分は、そこで壁にブチあたって、作品がまったく作れなくなったわけだ。
というのも「何のために作りたいのか」という、創造的行為の種みたいのが枯渇してしまい、
かなりジレンマにおちいった。
1年ぐらい悩み続けていたのだが、昔から興味をもっていた「創造的行為とはなんぞや?」という、美学哲学的問題から派生して、コンテンツマネージメントに応用できないかと考えた。
「自分が作りたいものを形にする方法」という至極簡単な問いに対して、多くの日本人が壁にブチあたっているのは自明のことである。テレビや映画やゲーム産業みても、ここまでコンテンツが枯渇している状況って、はっきり言って異常である。まぁ、日本人の教養が馬鹿な鬼畜米人に侵されたというのも問題の一つであるし、日教組の「模範的なるもの」信仰教育によって、僕らの想像力が確実に侵されたのも問題である。(と書いちゃうと、僕はとても右翼的な人間だと思われるのでヤメ。)
これだけ制作環境のデジタル化というビッグバンがおこっても、なお、コンテンツの進化がおこらないのは、結局人間のアナログ的な思想や思考がおいついてっていない証拠であると、僕は思っている。
「『漠然と作りたいものが在る』んだけど、何をつくっていいか解らない」という状況が多くの人にはある。自分もふくめ。それらを形にしていく行為がどれだけ苦痛か。メディアを選ばないといけないし、選んだメディアを使いこなす技量も必要となる。それらを完パケまで持って行く技術も相当必要である。でも、その「技術」自体が目的化してしまっていて「目的=何を作りたいか」というものが不完全なまま、いまの多くの人々は創造的行為の幻影を追っているような気がする。
なんだかんだいって、大手メディアは既に「コンテンツ不足」を暗に認めている。某週刊漫画誌はとうとう「原作大賞」とやらを始めてしまった。日本テレビも、「電波少年的トキワ荘」などという、放送作家公募番組をやってしまった。BSデジタルは相変わらず、過去のコンテンツの再放送ばかり。結局、メディアもすべて「コンテンツ不足」なのである。番組作りのブルーカラーは大量にいる。けれど、そのコンテンツを形にできるような、ホワイトカラー的なマネージャーが不在な状況なのである。
バラエティ番組のエンドロールを見れば一目瞭然なんだが、お笑い番組の放送作家の名前は、「殆ど同じ」なのである!!「そーたに」「おちまさと」、なんてのはここら辺に詳しくなくても、大体の人がどこかで聞いたことがあるはずである。結局、同じ人間がルーチンワークのなかで放送コンテンツを企画構成していたら、画一化が起こるのは自明のことではないか。(作家に教養への貪欲さがあれば、また話は変わってくるだろうが…。)しかも、そういった人間達が、こうしたコンテンツ制作を囲い込んでしまっている事実がある。(逆に、この人達以外安心して頼めないってのもある)アニメでも、結局小中千昭・松井亜弥・昔で言えば小山高生など、が結局まわりまわって制作…ってかんじになってる現状。
結局「おもろい何か」をシナリオや企画書にできる技術って、日本にはまだない教養なのかもしれないと、学部時代から痛感している。「おもろい何か」をもっとおもろくする技術ってのも、殆どない。そして、それらが固定の人たちによって囲い込まれている…という状況がある。
そこで自分がやろうとしていること。それは、「コンテンツ制作の支援」という事である。ものづくりをするときに、ブチあたる障壁を読み解き、それらを取り除く術を考えていきたい。特に、コンテンツ制作の第一段階である「企画→シナリオ」という流れを、もう一度見直していきたいというのがある。「作りたいものを形にする第一段階。」想像力の種みたいなのを花開かせる、そんな支援ができるメソッドの開発を行いたいというのが、僕の今の希望となっている。
先輩の言葉を借りれば【クリエイティブ技術のオープンソース化】である。(これ名言だとおもう)
うおー。どうでもいいけど、卒業したい。