ブログネタ:今、一番手元にないと不安を感じるものとは?
べ、別に不安なんてないんだから… …
… … … … … … … … …………(?)
時間はぎち②だとちょっぴり不安になる、買い物する時はぉ金


えっと、これからネタを釣りに行きますww

世界各地の珍しいニュースを読み物風にわかりやすく紹介したサイト『なんでも評点』の筆者が、「人は選択肢が多いほど疲れることが判明 ―だからネタ探しは重労働。能動的なネットが受動的なテレビに勝てないのもこのため?」のタイトルでコラムを掲載し、ネットでも話題となっている。
同コラムによると、判明したのは米国ミネソタ大学マーケティング学部のキャスリーン・D・ヴォース教授らの実験によるもの。328人の被験者を“何かを選択しなければならなかったグループ”と“何も選択しなくてよかったグループ”の2グループに人為的に分け、いくつかの課題を与えたところ、前者のほうが明らかに、課題に集中できなかったり、課題を投げ出したりする者が多かったという。
この実験の裏付けから、筆者は「われわれが『情報の多さに疲れる』とこぼすとき、実際には“情報を能動的に取捨選択”することに疲れているのである」との結論を導き出し、その点でネットが受動的なテレビには勝てない理由ではないかとした。
これに対し、ネットでは「たしかに...」「調査とかしなくても実感として自明だよね。でも、とっても大切な事」「疲れたとしても、それによって得られる情報の価値が高い場合だってあるだろう」など、さまざまな意見が挙がっている。
詳しくはこちら
人は選択肢が多いほど疲れることが判明
― だからネタ探しは重労働。能動的なネットが受動的なテレビに勝てないのもこのため?
2008年04月20日
われわれは「情報の多さに疲れる」というような表現をすることがある。しかし、人間は情報量が多すぎると本当に疲れてしまうのだろうか?たとえば、テレビを観ている人は、実に大量の視覚情報と聴覚情報にさらされている。だが、テレビを観ているだけで疲労感を覚える人はあまりいないはずだ。
一方、ネットはどうだろう? ネットの使い方にもよるが、何か知りたいことや調べたいことがあって膨大な情報の海をさまよっているうちに、だんだん疲労感が増してくることがある。ここで言う「疲労」とは、目の疲労ではなく精神的疲労のことである。ネットの世界は自分で情報を取捨選択しないと先へ進むことができない。能動的な意思決定が求められる。一方、テレビはこちらの都合など関係なく、情報を延々と流し続ける。(少なくとも現時点の地上波テレビでは)視聴者に残された能動的要素があるとすれば、チャンネルを変えるか、テレビの電源を切るか・・・ぐらいのことしかない。
まあ、テレビを観ていて“うんざり”することなら、いくらでもあるだろう。しかし、それは“情報が多すぎるがゆえの疲労感”とは別物のはずである。
要するに、人は情報がただ多いだけでは疲れない。情報を受動的に享受しているだけなら疲れない。われわれが「情報の多さに疲れる」とこぼすとき、実際には“情報を能動的に取捨選択”することに疲れているのである。“選択肢の多さ”に疲れていると言い換えてもよいだろう。
ネットがテレビに勝てない大きな理由は、ここにあるのではないか。リラックスしたい時間は、ネットで“能動的”に過ごすより、テレビを“受動的”に観ている方がよいというわけだ。
■選択プロセスが心を疲弊させることを示す実験結果
さて、上記の考察を裏付けるような実験結果が米国で発表されている。ミネソタ大学マーケティング学部のキャスリーン・D・ヴォース教授をはじめとするいくつかの大学の研究者たちが7つの実験を実施し、その結果を“Journal of Personality and SocialPsychology, Vol. 94, No. 5”誌上で発表している。
研究者たちは、328人の被験者を集めて2つのグループに分けた。どちらのグループにも同じ情報を与えた。消費者製品と大学の科目に関する資料である。しかし、2つのグループは、与えられた情報をどう処理するかに違いがあった。
- グループ1:資料の中から、買いたい製品、授業を受けたい科目を選択する。
- グループ2:資料に目を通すだけで、一切の選択を行わない。
研究者たちは、こうして“何かを選択しなければならなかったグループ”と“何も選択しなくてよかったグループ”を作り出した。本稿冒頭に述べた考察に照らし合わせれば、グループ1は“情報を能動的に取捨選択”する必要があったが、グループ2は“情報を受動的に享受”するだけでよかったことになる。
そして、ある課題を各グループに与え、2つのグループの間で集中力と我慢強さに違いが生じているかどうかを調べることにした。具体的には、各グループの被験者に次のいずれかの“不愉快な課題”を与えたのである。
- 健康には良いが、不味い飲物を飲む。(日本で言うなら、“青汁”みたいなものを飲まされたのだろう)。
- 氷水に手を入れる。
どちらも、ある程度の我慢を要するたぐいの“課題”である。精神的に元気な状態なら一気呵成に済ますことができるだろうが、精神的に疲れている場合は「つらい」と感じるはずだ。つまり、研究者たちは、“それを成し遂げる”という明確な目標を持つ課題を被験者に与えることによって、被験者の疲れの度合いを測ろうとしたことになる。
すると、グループ1の被験者たち(製品や科目を選択しなければならなかった被験者たち)は、グループ2の被験者たちに比べて、課題に集中できない者や我慢できずに課題を投げ出す者が有意に多かった。
さらに、学生たちを被験者とする別の実験が実施された。この実験でも、上の実験と同様に“何かを選択しなければならなかったグループ”(グループ1)と“何も選択しなくてよかったグループ(グループ2)”を作り出した。その後、2つのグループに数学の問題集を与え、近々実施される試験のための勉強をしておくように指示した。
この実験でも、やはりグループ1の被験者たちは集中力と根気に欠ける傾向を示した。彼らは、数学の問題集に取り組もうとする時間がグループ2よりも短く、ビデオ・ゲームをしたり雑誌を読んで気晴らしをしている時間の方が長かったのである。
さらに、グループ1の被験者たちが解いた問題の答え合わせをしてみると、グループ2の被験者たちより正答率が低いことも判明した。
これらの実験では、“何かを選択しなければならないグループ”と“何も選択しなくてよいグループ”を人為的に作り出したわけだが、研究者たちは、このような2つのグループが自然発生する場所、すなわちショッピング・モールにも足を運んだ。
研究者たちは、ショッピングを済ませた買い物客を呼び止め、商品を選ぶまでにどれくらい時間がかかったかを答えてもらった。そして、簡単な数学の問題を見せて、それを解いてもらった。
すると、やはり買い物の選択に時間がかかった消費者ほど、正答率が低いことが判明したのである。(ただし、回答者は58人と少ない)。
選択(に至るまでの意思決定)は心の中の貴重な資源を消耗させる・・・というのが、この研究チームを率いたキャスリーン・D・ヴォース教授が導き出した結論である。ヴォース教授は次のように述べている。
「何かを選択した後の人たちは何も選択しなかった人たちに比べて、問題を解いたり、不愉快な課題を達成しようとするときに集中力を失う傾向がはるかに高い。このパターンは実験室でも、教室でも、ショッピング・モールでも認められた
「(多くの中から特定の何かを)選択しなければならなかったかどうかがキーとなる。この傾向は、研究者たちが被験者たちに選択を行わせた場合だけでなく、各人が自発的に選択を行った場合にも認められる。さらに選択に結果が伴った場合にも結果が伴わなかった場合にも認められる」
しかし、ショッピング好きの女性の多くがそうであるように、多くの選択肢を比較しながら最終的にどれか1つを選択するというプロセスに楽しみを見出す場合もある。選択するという行為自体を楽しんだ後でも、われわれの集中力や根気は低下するのだろうか?
研究者たちが最後に実施したのは、まさにこのことを確認するための実験だった。被験者たちに何かを選択させるのは上記の実験と同じだが、今回は選択自体を楽しめるような状況を用意した。たとえば、誰かにプレゼントしてほしいものを登録する“ギフト登録”に加える商品を選択させる(Amazonの“ほしい物リスト”もギフト登録の1つである)。
今回も2つのグループを作り出した。“楽しい選択”に4分を費やしたグループと12分を費やしたグループの2つである。すると、4分を費やしたグループに比べて12分を費やしたグループの方が、後で集中力や根気を失う度合いが高いことがわかった。
つまり、たとえそのプロセス自体を楽しんでいた場合でも、選択にかける時間が長かったほど、精神的疲労が大きくなるのである。
■ネタ探しは、まさしく精神を疲弊させる
実は、ここからが(筆者としては)本稿の核心部分になるかもしれない。ここのところ、筆者のモチベーションが大幅に減退して、更新頻度がひどく落ち込んでいるその原因に迫ることになるからだ。
「ありえな~い100選」の特設サイト(@宙出版)に掲載されている「私が読物の題材にしたいと思うネタは100本に1本あるかないか 」というコラムでも書いたように、ただ単に世界中の珍ニュース記事を読み漁っているだけでいいなら別に苦にならない。もともと珍ニュース・マニアみたいなところがあったので、それはそれで楽しめるわけだ。
しかし、当ブログ以外ではなかなか読めず、なおかつインパクトのある話という条件を課し、世界中の珍ニュース記事に目を通して取捨選択を繰り返すのは、実際のところ、かなり精神的に疲れる作業である。記事を書くこと自体につらさを感じることは少ないのだが(本業との兼ね合いで時間的に苦しい場合は別として)、100本もの記事に目を通してもネタが見つからない日などは本当につらい。
世界の珍ニュースを題材にしているサイトの有名どころの多くが最近、閉鎖したり更新を停止したりしていることについては以前も触れたことがある。おそらく、そういったサイトの皆さんにしても、ネタ選びに疲弊する毎日だったのではないかと想像する。
そして、実際、上のような実験結果が出ている。選択肢が多すぎると精神的に疲れることがあるのは誰しも経験的に知っているだろうし、例によって“何を今さら”な部分もある実験なわけだが、こういうふうに大真面目に結果を提示してもらうと、何だか救われた気にもなる。
実際、ようやくネタが見つかっても、もう記事にする気力すら残っていないことだってある。まさに選択プロセスに時間をかけすぎた結果、消耗しきってしまうのである。(そういう場合は、後日、そのネタを引っ張り出してきて記事にすることもあるが)。
常連読者の皆さんには、私がネタ探しに苦しんでいることを十分ご理解いただいていると思う。だが、このブログは(今回はいろいろ思うところあって具体名を出させていただくが)「アンビリバボー」(フジテレビ)や「ザ!世界仰天ニュース」(日本テレビ)などの制作に携わっている人たちも、ネタ探しに利用しておられるようだ。
特に「アンビリバボー」に関しては、お蔵入りになった1回目の出版企画のときに実際に某K川書店と制作会社の間である程度話が通っている。その話が最後まで通らなかったから、編集者がやる気をなくして自然消滅に至ったのだと私は解釈している。
どういう話かというと、K川書店から本が出た暁には、「アンビリバボー」でその本をプロモーションしてもらう・・・みたいな話だった。それが実現していたら、パブリシティのなさで大苦戦 している「ありえな~い100選」とは180度違う展開になっていただろう。
しかし、その話の実現性は極めて低いだろうな・・・と私は見ていた。そもそも、当ブログは、あくまで世界中の珍しいニュース(さまざまな事情により日本のメディアが伝えないニュース )を探し出してきて、それを読み物風に加工して紹介しているサイトである。その珍しい“ネタ”を最初に取り上げたのが当ブログであろうと、“ソース”は海外にある。
ならば「アンビリバボー」のような番組の制作側としては、当ブログで見つけた話をソースまで遡ればよい。しかも、テレビ番組である。本人に取材して登場してもらうこともできるし、再現ドラマを作ることだってできる。製作スタッフが最初に「なんでも評点」という個人サイトでその話を知ったとしても、それはただの“きっかけ”に過ぎない。要するに、彼らからすれば当ブログなど、何のレスペクトも払う必要のない存在なのである。
まあしかし、だとしても私は労力を費やして“ネタ”を探し出してきた。上の実験結果が裏付けているように、精神をひどく疲弊させるほどの重労働である。番組制作会社のスタッフが独自に同じネタを探していたなら、もっと“工数”がかかっていたのではないだろうか。つまり、結局のところ、当ブログの過去記事が番組制作の“きっかけ”になったケースでは、私が期せずして制作会社のコスト節減のお手伝いをしていることになる。
この方面の話については、あまり詳しく書くと「ありえな~い100選」の版元に迷惑をかける可能性もあると思って今まで控えていたのだが、どうせテレビで取り上げてもらえそうな見込みもないし(「な○とも」で紹介される話も流れたし)、もう遠慮しなくていいのかなと思い始めている。
当ブログの過去記事と同じ話が半年後とかに「アンビリバボー」や「ザ!世界仰天ニュース」で再現ドラマになるケースは、2年前にK川書店の企画が立ち上がったころから、かなり増えている。「○○という番組で今放送してましたね」というふうにコメント欄で教えてくれる人もよくいる。
少し時間はかかるかもしれないが、いっそのこと、そのような例について徹底検証して負け犬の遠吠えのごとく一騒ぎしてみようかなと思わないでもない(4月22日追記:さっそく手持ちの石の1つを試しに投げてみた )。書籍である「ありえな~い100選」に掲載された話がこれらの番組で“再現”(2つの意味で“再現”なわけだが)された場合は、もう少し文句を言える状況になるかもしれないというのもある。
ま、「ありえな~い100選」の制作時には、本来なら収録すべきだが、「アンビリバボー」で既に“再現”されていたので変な誤解(こちらが後でパクったみたいな誤解)を買わないように配慮して、泣く泣く収録を見送った話が何本もあった。
とはいえ、冒頭に書いたように、ネットで多少知名度があったところで、テレビの前では無力である。ネットは能動的な取捨選択を要求される媒体なので、リラックスできない面がある。一方、テレビの場合は、受動的な情報享受に耽っているだけでよい。私自身、疲れているときはコンピュータ画面に向かうより、テレビをぼんやり観ている方が楽だ。