二週間に一回、金曜日の14:45になると、Iさんがやって来る。彼は12年間通院しているが、一度も遅刻をしたことがなく(10分前には来ている)、この時間帯が彼の指定席である。平成23年3月11日(金)、午後14:46、“東日本大震災”を私は彼と共に体験した。その時も彼は、自分から何か言葉を発することはなく、二人とも黙って地震の揺れを感じていた。診察室の本棚から数冊の本が落ちてきた。<倒れてきたら困るからね>と、私は両手で本棚を押さえながら揺れがおさまるのを待った。
当日のカルテには、<診察中に大地震、診察どころではなくなった>とあるが、二人がその後どういう行動をとったかは書かれていない。二週間後の3月25日(金)のカルテには、<余震とか原発事故とか、大変なことになってるけど、どうしてる?>と訊くと、「多少の不安はあるけど、どうにもならないですから。・・・あの日、電車は止まっていたけど、自転車だったので家には帰ることができた。家に帰ってから、こんなにすごいことになってるとわかって驚いた。あれから、図書館が完全に閉まったのが困っている」と。私の感想として、<世間の人々の心配とは裏腹に、天災よりも“人”の方が怖いということらしい>とある。
Iさん、初診日:平成18年5月 診断名:自閉症スペクトラム障害、恐怖症(対人・社会)
小学生の頃より、学校でも自宅でもほとんど口を利かなくなった。中学では酷いいじめに遭った。高校に進学し卒業できたが、友人は一人もいなかったという。専門学校に2年間通ったが、卒業後は就職することなく、重度知的障害の弟の面倒をみたり、家事手伝いをして過ごした。平成18年2月(29歳)より、母の親戚の会社の警備の仕事を手伝うことになった。しかし、仕事に就いて3日目、上司に叱責されたのをきっかけに、不安焦燥感と共に体全体の痛みを訴え、希死念慮も出現したため、当クリニック初診となった。以来12年間、2週間に1回、定期的に通院し現在に至る。
毎回の診察において、私の質問には答えてくれるが、自分から何かを話し出すことはない。私が沈黙していれば、診察時間中はずっと沈黙が続く。沈黙が苦手なおじいちゃん先生は、一生懸命話題を探す。10年前から、彼が読んでいる本の内容について聴くというパターンが定着した。本が好きな彼は、週2回必ず図書館に行く。2週間たてば、何か別の本を読んでいる。ある時、<今は、なに読んでるの?>と訊いたら、「ローマ人の物語(8巻)を読んでます。ローマがどうやってできていったか知らなかったので、それが面白かった」といった。さらに、めったに自分から感情表現をしない彼が、「面白いのはハンニバルのところです」というのだ。<それじゃあ、私も読んでみようかな。前から読んでみたいと思ってたけど、なかなか手が出なくてね>と私も受けて立った。
平成26年5月~平成27年1月にかけて、『ローマ人の物語』塩野七生著(文庫43巻)を、二人で読みっこした。その後のカルテには、H.26.7.25、<ローマ人>17巻(私は4巻)・・・<ローマ人>20巻(私は11巻)・・・<ローマ人>23巻(私は15巻)・・・<ローマ人>25巻(私は18巻)・・・<ローマ人>29巻(私は20巻)・・・<ローマ人>35巻(私は27巻)・・・<ローマ人>39巻(私は32巻)・・・H.27.1.9<ローマ人>読了(私は43巻)、という記載が残っている。彼は、図書館で借りて読んでいた。私は、あっちこっちのブックセンターから古本をかき集めて読んだ。うちのカミさんが「ブックオフで○○巻と□□巻みつけたから買っておいてあげたよ」と言っていたのが懐かしく思い出される。当時の私は、その内容に感動し、有意義な日々を過ごすことができた。
平成27年1月11日(日)付、私の雑記帳には、・・・ローマ人の物語、最終43巻を読み終えた。『一国の歴史も、一人の人間の生涯に似ている。徹底的にわかりたいと思えば、その人の誕生から死までをたどるしかないという点で』と、作者は“ローマ人”をわかりたい一心で全15巻(文庫だと43巻)を書き綴ったという。13:00すぎ、古代ローマ帝国の死をみとった。言い表しようのない感慨がある。この大作を6か月かけて少しずつ読みながら、様々な思いに浸ってきた。これまでの人生、これからの生き方、・・・この本を読むきっかけを与えてくれたI君に感謝したい。どっちが患者かわからないといわれそう・・・とあった。
彼に一度だけ訊いたことがある。<人に会ってて一番つらいのはどんなこと?>と。顎に右手を当てて考えこんだあげく(これがお決まりのポーズなんです)、しばらくして、「話題がないこと」と、ポツリと答えた。私もしばらく考え込み、いつもの沈黙が続いた。
“東日本大震災”と『ローマ人の物語』を一緒に体験したI君とは、今後どんな体験を共有することになるのだろうか。
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