曾野綾子さんは私の好きな作家の一人です。私が言葉にできない感情を見事に言葉にしてくれるので、<よくぞ言ってくれました!>という爽快感が味わえます。先日、新聞のコラム欄に書かれていた文章の一部を抜き書きしてみました。

 

 「・・・・・愛は好きだという自然な感情が沸き起こることではなく、人として、私たちが相手に対して持たねばならない感情を、義務として持つことなのである。必ずしも、感情としての愛がなくてもいい。義務として、愛しているのと同じ行為がとれればいいのだ。それは感情として嘘をついているのではなく、その時初めて人間は、この複雑な心理と社会構造を超える魂や哲学を持った存在になるからだ。・・・・・」

 

 以前に書いたブログ、「イヤイヤながらでもやる」ということ、で私がいいたかったのはこのことなのですが、曾野綾子さんは、簡潔明快な文章でそれを表現してくれています。曾野綾子さんはクリスチャンですが、言っていることはまさに、“慈悲の瞑想”そのものです。愛しているのと同じ行為(業)が取れるようにと念ずることが、“慈悲の瞑想”の目的の一つであると私は理解しています。

 

 曾野綾子さんの文章にたびたび出てくる表現に、『一人の人間の中には、悪魔と神の要素が同居している』というのがあります。別の言い方をすると、自分の中にある誇らしい部分と、自分の中にある醜い部分とをバランスよく折り合いをつけて受容すること。このことは、精神療法の重要課題の一つでもあり、言葉だけでなく、感情的にも受容できれば悩み苦しみがなくなるのではないか、と思われる患者さんが大勢います。そして、ヴィパッサナー瞑想(手動瞑想)はその境地に至るための有力な方法です。良い自分に気づいて・オッケー、悪い自分に気づいて・オッケー、とやってると“言葉を介さないで”そのことが受容できるようになるのです。