精神科医としての仕事の特性として、患者さんから、「こんな話は誰にも話せません」という、「ないしょ話」「打ち明け話」「ここだけの話」「裏話」・・・を聴かされるのは度々のことである。話の内容は千差万別。びっくりさせられる話、感動させられる話、怒りを覚える話、怖くなる話、嫌悪感を覚える話、不安にさせられる話、眠たくなる話、二度と聞きたくない話、笑わせられる話、どうにもならない話、自分が反省したくなる話、カルテに記録することも憚られるよう話・・・などいろいろである。

 「誰にも話せない」話を私にしてくるということは、私のことを信頼してくれている、ということに他ならない。とても有難いことではあるが、聞く方にしてみれば「しんどいなあー」というようなことを考えていた10数年前に、以下の名文に出会った。以来私の座右の銘になっている。ちょっと長い引用になりますが、皆さんも「座右の銘」の一つに加えられてはどうでしょうか。私は『信頼は最高の贈り物』としています。

 

 相手が自分の打ち明け話を「ここだけの話」にしてくれることが信頼できないと打ち明けられない。打ち明ける以前は秘密を保持する境界が自分一人の内にあるが、打ち明けることによってそれが二人の共有の秘密になる。しかしそこからそとには広がらないということが信頼できないとき、打ち明けられないのである。・・・相手を信頼してはじめて秘密を話すことができ、それを相手にゆだねることができるのである。・・・

 「信頼する」とは相手についてすべて知っている状態と、まったく何も知らない状態との中間の状態である。相手について何も知らなければその人を信頼することはできない。しかし相手のことが何もかもわかっていれば、つまり自分がこうすれば相手はああすると確実に予測できるのであれば、もはや「信頼する」必要はない。予測どおりのことが当然のこととして起こるだけである。われわれは、朝、太陽が昇ることを「信頼して」眠りにつくわけではない。明くる朝になれば太陽は昇るにきまっているのだから、われわれはそれを、「信頼する」とは言わない。「信頼する」とは完全には予測できないということである。したがって、信頼して打ち明けるときにはいくばくかの不安が伴う。打ち明けるときにはその不安に打ち勝って、思い切って話さなくてはならない。だから勇気がいる。先の明るくなることを信じて話始める。・・・そして話し始めたら、心を空にするまですべてを話さなくてはならない。「巾着にあるだけ打ち明け」なくてはならない。中途半端にとどめては本当に委ね、託すことにならないのである。打ち明けるとき、人は不安に打ち勝って「信頼」という、人間が人間に贈りうる最高の贈り物を贈るのである。

 そして相手がそれを受け止めてくれたとき、人はもはや孤独でなくなる。重荷をともに担ってくれる人が現れたからである。一人の重荷が二人の重荷になる。だから打ち明け話を聞く人は、「信頼」という最高の贈り物を受け取ると同時、重荷も担わされるのである。

 キリスト教文化では告白は聖職者によって聴かれる。告白は、本来、神に向かって罪を話し、神によって許されることを意味しているであろう。

 だから打ち明け話を聞く人はいくばくかの神を演じるのである。聞く人が重荷に感じるのも無理からぬことであろう。精神療法家であることはその重荷に耐えることである。

 

 治療者の方は打ち明けることはないのか。治療者は自分の秘密を話すわけではない。しかし患者に対するすべての応答を通して実は打ち明けているのである。打ち明けざるをえないのである。

                                 “精神療法家の仕事” 成田義弘 著