土曜日の夜

妻:「明日の昼は何食べる?」

夫:「ラーメン食べたいから、ラーメンにしよう」

 

翌日の日曜昼近く

妻:「昼はラーメン作るね。昨日買っておいたから」

夫:「冷たい蕎麦にしてよ、蕎麦が食べたいな」

妻:「だってあなた、昨日はラーメンにしようって言ったじゃない」

夫:「昨日は寒かったし、お腹もすいていて、脂っこいものを食べたいと思ったけれど、今日は暑いし、そんなにお腹もすいていないから、蕎麦が食べたいと思ったんだよ」

妻:「あなたはいつも気まぐれなんだから、それなら自分で作ったら」

夫:「・・・・・」

 

 この夫婦の会話、どのように思われますか。“無常の見方”からすれば、土曜日の夜の夫と、日曜日の昼の夫とは別人であるから (人の心も体も常に変化し続けていているから)、このようなことが起こるのは自然なことのように思う。夫婦共々、“無常”を知らないがゆえに起こった行き違いである。それでは、夫婦共々、無常を知った場合、どんな会話になるのでしょうか。

 

妻:「明日の昼は何食べる?」

夫:「今の僕は、明日の昼はラーメン食べたいだろうと思ってるけど、明日の昼になったら、蕎麦が食べたいと思うかもしれない・・・」

妻:「分かったわ。明日の昼になって、まだラーメンが食べたいと思っていたら、私が作るね。でも、あなたが蕎麦を食べたいと思ったら、あなたが作ってね・・・」

夫:「了解」

 

 どうでしょう、これならお互いが感情的に(ケンカに)ならずにすむと思いませんか。先日、うちの患者さん(H子さん)に手動瞑想の説明をしているときに、こんなたとえ話をしました。どんな流れでこのような話をしたかは忘れてしまいましたが、H子さんはキョトンとした顔をしていました。どうやら、このたとえ話は失敗だったようです。次回の受診のときに、感想をきいてみたいと思っています。

 

 真に仏教的な見方をすれば、<ラーメンだの蕎麦だのと言っているうちは、貪欲の呪縛から解放されていないということです。どちらを食べるにしても、出されたものを十分に味わい、感謝して頂くことです。ウンチになってしまえば、ラーメンも蕎麦も同じです・・・>と言うべきでしょう。しかし、<明日は仕事が休みなので、“○○屋”のラーメンを食べよう>などと考えている私としては、とてもそんなことは言えません。手動瞑想を続けることによって、何時かそういう境地に近づければと思っています。