原始仏教経典では、苦しみを、<四苦> 生・老・病・死 と、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五取蘊苦を加えて<八苦>に分類する。精神科を受診する患者さんの悩み苦しみは、このどれかに相当する。このうちの3つも4つも、時には5つも6つも合わせ持ったかたもいる。人生の不公平さを思い知らされる。そういう患者さんたちを、長年診察していると、「自分はなんて幸せなんだろう」とおもえてくる。そういう境遇にない自分の幸運に感謝する。精神科医は、悩み苦しみ深く不幸な患者さんを日々みているおかげで、「自分は幸せなんだ」と自然に自覚することができるようになるのである。

 

 現在通院中で、私が最も癒される患者さんを紹介します。

 

Y子さん 78才 通院歴:17年 診断名:うつ病

 平年10年にうつ病を発症。当クリニック初診は平成12年4月。典型的な内因性うつ病で、種々の抗うつ剤をためして、完全寛解にいたるのに約3年半かかった。その後は抗うつ薬を徐々に減量。平成22年からは、ルディオミール(10)1錠 のみ服用している。5年前、<服薬を中止できる可能性もあるが、予防投与として最低量を続けるということもできる>と説明してところ、後者を選択された。内因性うつ病は再発のリスクがあり、加齢も再発の危険因子となるので、その選択は正しかったと思う。

 現在の通院間隔は2か月に1回。私は彼女に会うのが楽しみである。診察の始まりはいつも同じ。<変わりなかったですか>「変わりないです、おかげさまで」それから15分間、ご家族の近況や趣味の園芸の話をして帰られる。その語り口が実に穏やかで、こちらの心を和ませてくれる。ほんとうに幸せそうに見える。もっとも、彼女は、貧しい家庭に育ち、上京後まもなく結婚。2人の子供を相次いで亡くし、夫には早くに先立たれ、二人の娘さんにも次々と深刻な問題が起こり、苦労が絶えなかった。おまけに、うつ病まで体験された。先日、<何か悩み苦しみありませんか>と訊いたら「若い時、苦労したから、今はない」ときっぱり。その表情は実に安穏としていた。「毎年頂く、彼女がプランターで育てたミカンが、とても美味しいんです」。