アトモキセチン(=ストラテラ)は、ADHD治療薬として、最も多く使われています。 

 ADHDの、不注意と多動、衝動性に有効であるとされていて、2012年からは子供だけでなく、大人にも使用できるようになりました。

 私がアトモキセチンの使用を積極的に考えるのは、ADHD特性がいくらかでも改善されれば、職場や家庭などにおける適応レベルが上がり、不安抑うつ状態に陥らないで済むのではないか>、と思われる患者さんたちです。たとえADHD特性があったとしても、本人がそれに困っていないのであれば、アトモキセチンの処方を考えることはありません。

 さて、今回のブログでは、<アトモキセチンがこんなに効くとは、おじいちゃん先生、びっくりした!>という、Mさんのケースを紹介します。

 

 Mさんが、私のクリニックを最初に受診したのは、平成25年8月(当時22歳)でした。

当時は、某大学の国際関係学科に在学していた時で、「フランスとカナダの友人と3人で旅行していて、満員の電車の中で息苦しくなって、急に手が麻痺してきて(過換気症候群)、救急車で病院に運ばれた」というのがきっかけでした。

 平成25年8月○日(初診日)、その日の診察では、<・・・過換気症候群というのは、状況によって、誰にでも起こり得ることです。ひどい夫婦げんかをして興奮するとか、体にひどい痛みがあって浅い呼吸(胸式呼吸)を長く続けたとか、コンサートで大声を上げて応援するとか・・・>といった説明をし、恐怖突入用の頓服薬として、ソラナックス(0.4)1錠を処方しました(この日1回だけの受診で終了)。ただ、Mさんの言動で、ちょっと気がかりな点がありましたが、本人の訴えがなかったので、それには触れませんでした。

 

 平成28年3月、2年7か月ぶりに受診。

 「今回お願いしたいのは、自分にアスペルガー症候群の傾向があるか、診断してもらいたい。人とコミュニケーションがうまくいかない。隣の人の話がすんなり理解できない。仕事で、1階に荷物を置いてほしい、と言われたのに憶えていなかったり、なにかを持ってきてと言われても、すぐに持ってこれないことがある。スタッフにも、君はコミュニケーションが取れてないと言われたことがある。よく考え事をしてしまうので、次の仕事がわからなくなる。これまでは、海外生活が長かったことからくる馴染めなさかと思ってたけれど、アルバイトするたびに同じようなことが起こって、どこも続かなかった。・・・友人に、お前アスペルガーじゃないの、と言われてネットで調べてみたら、当てはまるところもあったので・・・」というのだ。

 3年前の初診のとき、私が気になった言動が、この日のMさんにも如実に出ていた。会話のやり取りにひどく時間がかかる。こちらが質問するごとに考えこむ動作が入るので、会話が途切れ途切れになる。そのため、1分で済む話が5分も10分もかかる。診察中にテーブル上に広げた、手帳や筆記用具を片付けるのにも、とても時間がかかる。医者でなくとも、誰にでもわかる不自然さ、ぎこちなさが明らかでした。この時点では、診察上の言動や、仕事での不適応の様子からして、<アスペルガー特性よりは、ADHD特性の方が強いのではないか>、と考えていました。

 本人の主訴が、「不安もうつもないし、クスリは必要ない。就業上の困難を何とかしたい」だったので、<私は就労支援の専門家ではないので、専門機関にいって、適性検査など受けてみるとよい>と伝え、障害者職業センターなどを紹介したところ、「ありがとうございました。また連絡いたします」と言って帰っていった。

 

 平成29年4月、1年1か月ぶりに来院。

 「以前の会社はクビになりました。今は、週5日、小学生の英会話学校で教えています。いやなことばかりで、その日のことが頭から抜けないんです。昨日は授業を休んでしまって。朝から(昨日の出来事の)いやな記憶が消えなくて、叫びたくなってタオルを口にくわえて、大声を何度も上げていたら、母に、病院に行った方がいいと言われたので、今日きました。今回は、憂うつだし、これからこの仕事を続けていけるのか不安でたまりません」と。

<職場での状況はどうなの?人間関係とか?>

 「3月に入ってから仕事量が増えて、家に帰っても、次の日の準備とかしなければいけないのに、間に合わない。特に低学年の生徒の授業が大変で。電車の中で、あんなんじゃダメでしょ、と社長に大声で叱られた。時間割を作って仕事をしなさい、と社長には言われ続けている」と。

 この一年間は、いくつかのアルバイトを転々として、数か月前に今の仕事に就いたばかりだという。一年前に、私が紹介した援助機関に相談はしなかった。「自分が障害者であることを認めたくなかったから」だという。

 この日は、不安抑うつ状態の改善のため、サインバルタ(20)1錠を処方しました。2週間後には、「あれ飲んでると、まあいいか、と思えて、今までより後悔が減った。仕事にも少し慣れてきて、進め方がわかってきた」と、不安抑うつ状態の改善が見られた。この時、<サインバルタは、うつ状態の改善だけでなく、MさんのADHD傾向の改善にも寄与しているのではないか>、とも考えました。その後は、月に1回、定期的に通院するようになり、SST(生活技能訓練)や、ADHD特性に対する認知行動療法的アドバイスを続けました。しかしながら、仕事の適応レベルは上がりませんでした。

 平成29年11月、「仕事帰りに、薬局で休んでいたら、急に意識がなくなって救急車で病院に運ばれた(過換気症候群?)。ボーとして椅子に座っていたら、体が動かなくなった。立つと頭がくらくらして、頭が働かず、考えられなかった。仕事の後によくあることです(過集中の後によくみられる症状)。・・・その日は幼児の授業で、なかなかコントロールができず、ストレスが溜まっていた。病院に着いたら、やっと目があけられて、点滴されていた」と。

 その後、<英語力はあっても、子供や、そのお母さんまで相手にするような仕事は、向かないんじゃないの>、というような話をしているうちに、解雇されてしまった。

 これを機に、自分に合った仕事探しをしよう、ということで合意。この頃、<仕事での適応レベルが上がるかもしれないから、アトモキセチンを服用してみませんか>、と勧めてみたけれど、本人が嫌がるので、無理強いはしなかった(自分が障害者であるということを認めたくないという気持ちがずっとある)。

 

 平成30年6月~8月、職業訓練校(ウェブ制作)

 平成30年9月~10月、障害者職業センター(職業準備支援)。ここで、知的障害、学習障害、などを疑われ、専門機関受診を依頼された。

 平成30年11月、発達障害専門クリニック受診。『広汎性発達障害、境界知能または軽度知的障害。コミュニケーションの硬さ、計画性のなさ、実行機能の弱さなど、ASD(自閉症スペクトラム障害)の特徴も目立っています』と評価された。

 令和元年(平成31年)5月、「仕事が見つからないので、ずっと落ち込んでいます。センターで実習を3日間やった。いろんな人と会って貴重な体験でした。改めて、職業センターでの自己分析と一致したことが多かった。『どんな仕事をするにも、スピードが遅い、というのが課題かもしれない。確認の精度を上げるように』と言われてたことです。」としょげていた。<いい仕事が一つだけ見つかればいいのだから、焦らない!>と励ましてみたものの、前途多難を思わせた。ところが、予想に反して(ゴメンナサイ?)、

 令和元年6月、「就職先が決まりました。大手IT関係の会社の事務です」ときました。

 令和元年9月、「10月から、社内研修(英会話)の動画を編集する仕事になった」と。就職先が大企業で、会社側の理解もあったので、十分適応しているのかと思ったのですが、その後の診察では、職場の同僚との対人関係にまつわる悩みを、次々と訴えていました。

 令和2年4月、「テレワークになってます。・・・以前先生がお話ししていたクスリ、飲んでみようかと思うんですが」と突然言い出した。あえてその理由を詮索することはせず、この日は、ストラテラ(25)1錠を処方した。

 令和2年5月、ストラテラ(40)1錠に増量。

 令和2年6月、ストラテラ(40)2錠に増量。

 令和2年7月〇日、「特に変わりはない。・・・切り替えやすくなったような気がする思ったことが、あまり考えずに、そのまま口に出るようになった会議でも発言できるようになった」と言いつつも、本人には、クスリの効果の実感があまりないようでしたが、おじいちゃん先生から見ると、あまりの変わりように、アッと驚かされた。何が変わったかというと。

 

○来院したときに、診察券を出してから診察室に入るまでの時間が格段に短くなった。

○一動作、一動作が早くなっている。

○こちらの質問に答えるときの、考えこむような動作が消えていた。

○質問に対して反応するまでの時間が短く、会話が流ちょうになった。

 

 このような変化を受けて、<今日のMさんは、会話していて、ブレーキを踏んで立ち止まることがないから、会話がスムーズに進むね。自分で、変わったと思わない?お母さん何か言ってない?>と投げかけたが、「そうでしょうか?」と首をかしげるだけだった。でも、いつもは私が(しびれを切らして)先に診察室から出ていくのですが、この日は、Mさんが先にサッサと出ていった。その後も、いろいろな行動上の変化が見られ、

 

○薬を飲み忘れる頻度が減った(以前は、処方した薬を余らせていることが多かった)。

○予約を変更することや、診察時間に遅刻してくることがなくなった。

 

 後日、Mさんの変化について、お母さまから聴取したところ、

 

 「スーパーマーケットに車で一緒に行ったとき、私が半ドアで降りようとしたら、そのことにすぐに気づいて、『もういいから早くいって!』と叱られた。前はこんなこと、気づきもしなかったのに、びっくりした。」「朝と夕の食事の支度を手伝ってくれてすごく助かる。私が動物病院に行くとき、その行き方(道順)や、昼ご飯は○○で食べるといいよとか、前もって気づいてくれた。私なんかが、絶対気づかないことを言ってくれて、びっくりしている。」「犬にかかる治療費のことを話していて、私が、Mが家に入れてくれてる食費の話をしたら、『今は、その話は関係ないでしょ』と怒られた。全くその通りで、Mにそんなこと言われたこと一度もなかったのでびっくりした」と、お母様も驚いていました。

 

 最近のMさんは、自分でも変化に気づいていて、

 

 令和2年10月~12月、「朝ぱっと起きられてる。」「クスリ飲んでないと(のみ忘れると)、こだわって、ずっとそこに、なにかの不安にとどまっている、ということに気づいた。その不安からも少しづつ遠ざかっている。」「母に、その薬で手際が良くなったね、と褒められた。母からすれば変わったと思うのか、普段の生活で、皿を洗ったり、洗濯物を干したり、ゴミ出ししたり、それを3つともできるようになった広く見る(見える)ようになった。でも、昨日は朝薬を飲むのを忘れてしまっていて、アマゾンでゴーグルを買おうと思っていたら、3つともできなかった。何かをやる時に、書かなくても(かつてはメモ魔だった?)、順序良く進めていけるようになった。・・・編集の仕事で悩むことがあった。相手の言ってる言葉の意味が分からなくて、何度も訊いちゃうことあって、時間がどんどん経ってしまった。でも、あとから聞けばいいか、あとからやればいいか、と思えた。」「動画に音楽をつける注文があって、時間がかかったけれど、何とか1週間でやれた(時間の段取り、時間配分ができた?)」と。

 

 このように、Mさんの日常生活動作や仕事効率の大きな変化(改善効果)は、目を見張るものでした。<アトモキセチンは、Mさんの脳の働きを、一体どのように変化させたのでしょうか?>。それを考える上で、かつて、発達障害専門クリニックで、知能検査(WAIS-Ⅲ)を行った際の、臨床心理士のコメントがとても参考になるので引用します(ちょっと長いですけど)。

 

検査日:○○年○月○日

(検査時の様子)・・・

 *検査実施時間は90分でした。途中、「漢字が分からないです。帰国子女なので」「その言葉を知りません」と話されることがありました。Mさんは、中学生までの教育を英語で受けてきており、日本語の読み書きは通信教育で学ばれたとのことでした。日本語も英語も「半々」で、「気持ちを表現するのは英語の方がホッとする」ともお話しされていました。検査中、考え事を英語でつぶやくこともありました。・・・“テンポよくやり取りする”というよりは、“ゆっくり考えながらやり取りする”というような印象を受けました。・・・

(所見)

 *Mさんの能力水準は、年齢平均に対して全体的に低い範囲にありました(各IQの結果)。Mさんは、「新しいことを理解し覚えるのに時間が必要」、「一度にたくさんのことを覚えるのが苦手」といったことが、生じやすいのかもしれません。ゆっくりと、一つ一つ着実に吸収していくスタイルが合う方なのではないかと思われます。

 *『言語理解』・『知覚統合』に対して、『処理速度』が低く出ていました。「物事を素早く正確にこなすこと」は、Mさんにとって苦手になりやすいのではないかと思われます。検査時は正確にこなすことが出来ていましたが、ペースはゆっくりになりがちでした。作業スピードを求められると、上手く力を発揮しにくいのかもしれません。

 *『知覚統合』は「目で見た情報をもとにして物事を理解する力」を測定します。

Mさんは、ゴールやルールが示されている状況だと力を発揮しやすいようでした。反対に、そういったものが示されていない(自分で推測したり、判断したりすることが求められる)状況だと、時間がかかったり、上手くいかない傾向があるようです。・・・「何を・どのようにすればいいのか」、具体的にルールとして示してもらったり、手本を見せてもらったりすることは、Mさんが持っている力を発揮するうえでとても大切なことだと思います。

*『言語理解』は、「言葉の理解や表現に関する力」を測定しています。

 Mさんは、初等・中等教育を主に英語で受けており、場面によっては英語の方が理解や表現をしやすいこともあるようでした。また、語彙についても、これまでの学習環境の違いにより、習得されているものにムラがあるのではないかと思われます。Mさんは、一度にたくさんのことを覚えることが苦手なようで、会話などでは、情報量が多くなると、記憶から抜けていってしまったりしやすい面もあるのかもしれません。言葉のやり取りでは、「意味の取り違いが生じていないか、双方で確認をする」等して、理解を確かめ合うことが大切でしょう。また、大切なことは、あとからいつでも確認できるよう、文章や手順表など、目で見て確認できるものを活用することも大切です。

 

 さて、おじいちゃん先生は考えました。<アトモキセチンを服用することによって、ワーキングメモリー (working memory:作業記憶,作動記憶)という脳の機能が、著しく改善したのではないか>と。

 ワーキングメモリー (working memory:作業記憶,作動記憶) とは,短い時間に心の中で情報を保持し,同時に処理する能力のことを指します。わかりやすく言えば、“何かを覚えておきながら、違う考え事をしても、覚えておいた内容を忘れない能力のこと”、となります。その働きが損なわれると、「3つの用事を頼まれても、いつも、1つは忘れてしまう。」「30分でできるはずの料理が、洗濯物のことが頭に浮かんだり、明日の予定が気になって確認したりしているうちに、1時間以上かかってしまった。」「職場のロッカールームの片づけをしていて、他の用事が気になり、それらを片付けているうちに、ロッカールームの片づけを、そのまま放りっぱなしにして自宅に帰ってしまったので、上司に叱られた。」といったことになります(いずれも、ADHD傾向を有する、うちの他の患者さんの言です)。

 ADHD特性を理解するうえで、“ワーキングメモリー”という概念は、とても役に立ちます。もっとも、ワーキングメモリーの障害は、注意集中が損なわれたりすれば、多かれ少なかれ、誰にでも見られることです。知能検査においても、条件によっては(うつ状態、幻覚妄想状態など)低いスコアが出ることはいくらでもあります。しかし、ADHDおける、ワーキングメモリーの障害の原因は、それらとは違って特有なもので、『脳の成長過程で、“シナップスの刈り込み”という、脳の機能の最適化が十分に行われなかったことと関係している』、という仮説があるんです(興味のある方は調べてみてください)。

 

 今回は、アトモキセチンの著効例として、Mさんのケースを紹介しましたが、全ての患者さんに同じような効果が期待できるわけではありません。<この患者さんには、効くはず!>と思って処方しても、効果がないばかりか、副作用が出て中止するケースもあります。また、<良く効いている>と私が思っても、「薬に動かされているみたいで、これは(本当の)自分ではない」という理由で、服薬を止める方もいます。

 アトモキセチン処方の目的は、置かれた環境への適応を助けることです。しかし、本人ペースで作業することが許されれば、大きなストレスも発生せず、アトモキセチンの助けは必要ないでしょう。置かれた環境が厳しくなって、上手く適応できない時だけアトモキセチンを服用する、という手もあります。服用するかしないかは、本人が決めることです。

 

 今回のブログはとても長いものになってしまいましたが、精神科の治療が、一直線に進むものではなく、いろいろ紆余曲折を経て進むものである、ということをわかってもらえたら幸いです。

 

(補足1)<ちょっと調べてみました>

 発達障害(特別支援教育)の専門家は、知能検査(IQ)と学校の成績が相関しないという事から、IQよりもワーキングメモリーという考え方を重視するそうです。また、最近はIQが生きづらさを必ずしもあらわさない、つまり、IQが正常でも(非常に高くても)、まともに社会生活が送れないという事が徐々に認知されてきて、アメリカ精神医学会の改訂診断基準 DSM-5ではIQによって自閉症の重症度を分類するのではなく、どれだけ援助を必要とするかで重症度を分けて行こうという方向になっているそうです。