針灸学校教育では、陰陽五行は習うのだが、その後に成立した道教のことは習わない。道教を知らないと昔の中国人の発想が十分に理解できない。「神」「魂」「魄」といった言葉も、実は道教思想に根づいている。道教思想は別に難しくはなく、その内容を理解すれば、なるほどと感じ入るものが多い。これは中国医学を深く理解する上で非常に有意義なことである。
1.「神」とは何か
神という漢字は、「示」(祭壇)+申(稲妻)で構成される。人知を超えた存在。(雷に打たれた材木で作った祭壇が最も貴重とされた) ただし伝統中国医学でいう「神」とは、いわゆる神様とは無関係で、知性ある生命すなわち現在でいう大脳前頭葉が健全な者のことをいう。医古文で「神なし」というのは狂人のことである。
一方、道教では脳を上丹田として泥丸宮(にがんきゅう)としている。これは脳味噌的な呼び名であって、現代科学的理解からはほど遠い。
道教ではその役割に応じて八百万の神々がいるが、しかし人々を圧倒する存在感というより雑多に神々が大勢いるイメージである。そうした中にあって三清道祖(道徳天尊・元始天尊・霊宝天尊)を最高位とする。道教廟では、この三清道祖の像を本殿祭壇中央に据えている。

ただし真の最高神は天帝で、宇宙と万物をつかさどるとされる。天帝とは仏教寺院では帝釈天と名を変えるが、中身は同じ。わが国では「天」として理解する者が多い。
天帝=帝釈天=天の神=天、となる。

2.「精」とは何か
「精」は<研ぎ汁が青く澄むまで米を洗う>というのが元々の意味で、核心あるいは種というニュアンスに変化した。道教では、空気中にある栄養素(≒酸素)が、腎にある精(生命の核心)と交わって神(=大脳活動)を滋養する役割をもつ。
道教修験者は、空気中にある栄養物質(≒酸素)をなるべく大量に体内に取り込み、腎にある精を増すことで神を栄養するのだが、息を息を吐き出してしまうと、神を十分に影響できないので、息止めの修行を行った。
長い時間の息止めは、大気中の酸素を身体各部に取り込むことができ、脳(上丹田)や心臓(中丹田)を養うことができる。しかし息を下腹にある下丹田まで取り込むには呼吸法の修行を必要とした。
下丹田に多量の空気を送り込むと、関元の炎も大きくなる。ちなみに「丹」とは炎の色でもある。硫化水銀(HgS)は天然では辰砂として存在する。辰砂を熱すると朱色になり、その蒸気を冷やすと水銀になることから、水銀は丹を増やす作用があることから、永遠の生命を得る霊薬であるとされた。
3.「魂」「霊」とは何か
道教は永遠の命を獲得するための道を修行するのだが、死を前提とした考えに魂魄という概念がある。肉体と精神は死後は魂魄は分解して、「魂」は天に昇り、「魄」は地上に残りやがて白骨となる。
「魄」は「白(骨)」+「鬼」に分解できるが、鬼とは生者でない者すなわち死者のことをさす。魂の目に見えないもの=心とするると、魄は、死者の骨=目に見えるもの=肉体という、魂の対立概念となる。 魂は「云」+「鬼」に分解できる。「云」は天上にある雲、「鬼」は死者のことである。「厶」は自分自身のこと。これらを併せて自分自身が死後に天に上って雲としての存在になることである。
現代に伝わる鬼のイメージは後世の者がつくりあげたものにすぎない。

なおキリスト教の世界では「霊」(スピリット)と「魂」(ソウル)は別物だとみなされる。魂=心であり、人が死んでもその人の魂は生き続ける。この魂は、個人特有の心の本質部分であり消滅しない。輪廻して別の生物として継続して存在する。

魂が人の生死とは関係なく存在するのに対し、「霊」は、生命を失った後に新しく誕生する。残存した感情や生へのエネルギーであるが、時間の経過とともに余分なものが削ぎ落とされ、徐々に消滅する。霊をなだめるのが宗教により名前は異なるが供養や法要である。
魂の中身は個人ごとに異なるが、霊になると個性が乏しくなり個々の人の特定は困難になる。霊の一部は草や石などの自然会の万物の守護に関わるものとなり、三十三回忌を過ぎると天に昇り、祖先としての存在になって、鎮守となり地域を見守る。
わが国の民俗学の父、柳田国男によれば、人が死ぬとすぐに天に昇るのではなく、山へと向かい、山から子孫を見下ろして、残された者を見ているとした。残された者は決して孤独ではなく、祖先に見守られながら生きている。昔の人は、山や雲を眺めては自分の祖先のことを回想していたのだろう。山から自分の子孫の家には、年に2回、盆と正月に戻り、子孫と親しむ。(柳田国男著「祖先の話」)
もっとも儒教の創始者である孔子は、「怪力乱神を語らず」として、神秘的な現象やあの世のことよりも、「今をどう生きるか」という現実の道徳や政治を重視した。神秘的な神霊(神)については否定しないものの距離を置き、積極的に関わろうとしなかった。この立場はキリスト教の真逆である。キリスト教は神と契約し取引する。わが国でキリスト教が一定以上に広がらないのは、日本人のもつ儒教的素養(=宗教に縛られないが、日常に溶け込んでいる)があるからだろう。
4.「神」「霊」「魂」の名のつく正穴
「神」「霊」「魂」のついた正穴分布を調べると何か分かることがあるのではないか。
このように思って正穴の分布を調べると、次のことが判明した。
①これらのツボは下半身には存在しない。
②「神」「霊」のつく経穴は、頭部・心経・前胸部・中背部と解剖学的に脳や心臓に
関わる位置にあるが、両者の区別に特徴的なものは発見できなかった。つまり経
穴的には、同じようなニュアンスで使われていることがわかった。
③魂のつくのは魂門一穴だけだった。
1)魂のつく正穴(1穴)
①魂門(膀): 中背部にある。魂(たましい)。目に見えぬ気をつかさどる。同系統
のツボに魄戸があるので併せて説明する。
魂は気をつかさどり死ぬと天にのぼり神となる。形(=肉体)を主どるのは魄。
魄は地上に止まって鬼となる。鬼とは得体の知れない亡者で人間ではない。
魂門は肝兪の外方1.5寸にとる。魂は五行でいう肝の五神になる。
魄戸は肺兪の外方1.5寸にとる。魄は五行でいう金の五神になる。
ここでいう神とは精神活動のこと。
2)霊のつく正穴(5穴)
①青霊(心):青=若い、未熟。青霊とは生まれたばかりの霊、すなわち死亡して
肉体を失うのと引き換えに誕生したばかりの霊。死後硬直が始まって、上腕二
頭筋が動かなくなって肘の伸縮ができなくなっている。青霊穴も硬直してい
る。
仰臥位で手を下げた肢位で、上腕にある青霊は、背部Th6棘突起下にある霊台
(督)墟とほぼ同じ高さにある。霊台の語源は後述。青霊は、霊台の分身的存在
になる。
②霊台(督):霊墟と対峙している。腹臥位になると、このあたりが最も隆起する
処。
③霊墟(腎):「墟」は遺構のことで、土を盛った墓をさす。墓の中にはすでに霊
が抜けた後の骨だけが残っている。霊墟のツボの位置は、仰臥位になると大
胸筋が最も隆起する処。
④霊道(心):右手掌を胸にあてがうと、手関節尺側が、心臓あたりに位置するこ
とから、 心臓に関係する道すじとした。
⑤承霊(胆):「承」は受ける、「霊」は神(=知性)。通天と同じく頭頂にあり、思
惟活動に関与している。
3)神のつく正穴(8穴)
①神蔵(腎) :前胸部。心に近い紫宮の両側で霊墟の上にあり、神霊(=心)を
守る。
②神堂(膀) :上背部で心兪の傍にある。心の精神である神を蔵する部。
③神封(腎): 読みは<しんぽう>。「神」=心、「封」=封鎖→領域。心に近い領
域。
④神門(心): 手関節尺側にある。神は大脳活動で知性のこと。「心」には、心拍
数に影響を与えるもの=喜怒哀楽との意味もある。胸の中央に手をあてる
と、神門穴あたりがちょうど心臓の位置になる。
⑤神闕(任):「神」は生命、「闕」は要塞や都市を守る城壁の大きな門、また門間
の通路。「闕」は体内への入口という意味。臍からへその緒を伝い胎児は滋養
されるので、臍は神の気の出入口だとする。
⑥神庭(督):前頭部にある。脳は神の府であり、「庭」は門庭(前庭)
神庭(拝殿)→本神(本殿)→頭維の亀裂から脳(御神体)へ達する。
⑦本神(胆): 前頭部にある。神庭に横にある。神=脳(知性)。
⑧神道(督):左右の「心兪」の間の後正中。神には「心」「脳」の2つの意味が
あるが、神道では「心」とく心拍に変化をもたらす感情(怒喜思憂驚)を意
味。
