使命感や理想から放たれる感覚を、考える事から感じられるものへシフトを前回の記事で表現してみました。
それから少し経って、その「感じられるもの」が、予告なく訪れました。
公園で働くことになって、夕立ちが来た日のことです。
鳥やセミの声が、蛙の声に変わっていった
大粒の雨音が、やがてその全てを飲み込んだ
東の暗雲と、西から差し込む光
そのコントラストは、人の手では描けないものだった
吸い込む息が変わった
晴天の爽やかさから、深い海を歩くような荘厳さへ
世界は、一瞬で変わるのだ
これが、畏怖というものか
抗えないことが、こんなにも心地良いとは
自然と呼吸が深くなっていました。景色に溶けてしまいそうな安堵感がありました。
ずっとここにいたい、と思いました。
でもその瞬間に、すでにそこにはいなかったのです。
「いたい」と願う心が生まれた時、私はもう次のことを考え始めていました。景色の中にいたのではなく、景色を見ている自分の外側に、立っていました。
だからこそ、小さな悲しさが生まれたのだと思います。
そしてその悲しさに気づけたこと自体が——以前の自分には、なかったことでした。
社会の中で長く生きていると、いつの間にか「こうあるべき自分」が積み重なってゆきます。
役割、期待、評価。それに応えようとするうちに、自分の輪郭が少しずつ削られていきます。削られていることにも、気づかないまま。
本来の自分を取り戻そうと、工程を組もうとしたことがありました。まとわりついたものを、取り除く作業をしよう、と。
でもその瞬間に気づきました。「うまく取り除こうとする自分」がまた出てきている、と。それ自体が、同じパターンの繰り返しでした。
変化は、構えた時には来ませんでした。
あの夕立ちの前に立っていた時のように、何も目指していなかった瞬間に、静かに起きていました。
それが今の私の、本当の自分への距離が縮まった証明の仕方です。
願っていたことは、すでに始まっていました。
