『ローズの秘密の頁』を観ました(その1:アイルランドとスライゴー、そして『ライアンの娘』) | 首の差アンジーのバラード

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Amazon prime で少しばかり指先のサーフィンをしていたら、この作品『ローズの秘密の頁』(The Secret Scripture)にたどり着きました。白髪のヴァネッサ・レッドグルーブの横顔が映し出されている地味な装いと、ルーニー・マーラの大きな緑色の瞳が印象的な扉画像で、評価も星4/5なので、見てみようと・・・。初めてヴァネッサ・レッドグルーブを意識して観たのは恐らく『ハワーズエンド』だったと思うけれど、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』といった文芸作品での気品あふれた演技を目にして以来、彼女は単なる駄作には出ないはず、という勝手なバイアスもありました。

 

観始めて、途中、一時停止をせざるを得ず、その際にこの作品が『父の祈りを』といったダニエル・ディ=ルイス作品を撮ったジム・シェリダンが監督したこと、さらには彼が『イン・アメリカ』というアメリカのアイルランド移民一家を題材にした映画も監督していたことを知りました。ディ=ルイスはプロテスタント系アイルランド人の家系の血を引くイギリス人であるとどこかで読んだ記憶もあるし、これがアイルランド映画なのだ、ということをはっきりと認識して、視聴再開。なるほど、それで映画の序盤はベルファスト(北アイルランド)から始まり、舞台はアイルランド共和国のスライゴ―なのだ、と納得。のっけからドイツ軍による空爆を扱うなら、ロンドン空襲の方が印象が強いし、なぜ、ベルファスト?という私の素朴な疑問がまず一つ解決し、さぁ、ではスライゴ―へ。

スライゴ―はアイルランドの首都ダブリンからはかなりの距離がある、ザ・地方というイメージだったのですが(もうずいぶん以前のことですが、私はダブリンから何時間か列車に乗ってこの街を訪れたことがあります)、あらためて地図で確認すると、イギリス領北アイルランドとの国境線までかなり近いことを発見し、意外に思いました。なぜなら、スライゴ―と言えば知る人ぞ知る、ノーベル賞受賞作家のアイルランド人詩人、W.B.イェイツが多くの時間を過ごした土地で、この映画にもチラッ映る特異な形をしたベン・バルベン山がシンボルなのですが、そのアイルランド的風土と歴史的背景の知識により、私にとってこの土地はイギリスの支配から離れた遠いところにあると勝手に思い込んでいたからです。ベン・バルベン同様、オーストラリアのエアーズロックやハワイのダイヤモンドヘッド、さらに言えば日本の富士山も、独特な形状をした山(巨大な岩?)は神話的崇拝の対象になるべくして生まれたような、超自然のパワーを秘めた存在感があるような気がします。スライゴーで滞在したB&Bのオーナー夫人が乗せてくれた車窓から眺めたベン・バルベンの姿には、確かに神々や妖精の存在を信じさせる力を感じたことを覚えています。

アイルランドのカソリック派とプロテスタント派による対立は独立派とイギリス派の対立と重なり、その独立運動や内戦は『マイケル・コリンズ』や『麦の穂を揺らす風』といった、アイルランドの抗争の歴史を背景にした映画作品の題材になってきましたが、どれも主要な主人公が命を落としたり、同じアイルランド人同士による戦闘場面等、正直、観ているのが辛くなるシーンが多く、心が痛む作品が少なくありません。1916年のイースター蜂起(イギリスからすると反乱)は1919年に勃発したアイルランド独立戦争へと、さらには内戦へと、アイルランドの苦難の歴史が続いていくのです。中学、高校と地理で学んだアイルランドとイギリスの位置関係からは、両国は姉妹ような島国だろうと想像していましたし、学校の世界史の授業では触れることなかった上記のような史実を知ったのは、U2が歌ったSunday Bloody Sunday(「血の日曜日事件」を題材にした楽曲)という曲からでした。今から思うと、バブルの予兆があった当時、あの曲が日本のディスコ(!)でも流れて、それで踊っていた若者たちがいたとは・・・なんてシュールなんでしょう(苦笑)

イギリスに協力したアイルランド人がどのような扱いを受けるか・・・について、初めて接したのはディヴィッド・リーン監督の『ライアンの娘』という映画を観たときだったかもしれませんが、その映画をテレビで観たときには、アイルランドの田舎町でイギリス兵とロマンティックな関係を持つヒロインの身にが何が起きるのかをすでに知っていたので、多分、学生だった私にも何らかの知識があったのでしょう。知性を感じさせる、足は不自由だけど身のこなしの優雅なイギリスの将校と、不満をため込んだアイルランドの田舎者のむさ苦しい男たちとの対比は、人妻ロージーを惑わせるのに十分でしたが、イギリス人将校もロージーも思慮の無さ故に共感を呼び起こしません。が、二人の関係が村人の知るところなり、ある事件でロージーがリンチにかけられる場面は、平凡な市井の民が理性を失う魔女狩りの狂信場面同様、『ローズの秘密の頁』でスライゴーの町の男たちがローズの夫、すなわちイギリス軍に参加したマイケルを躍起になって捜索し、処刑する場面に通じ、人間の本性を垣間見ることとなり、この『ローズ』では回想シーンというか説明的導入シーンではありますが、普通の人がむき出しにする(例え同胞であろうと、もしかしたら同胞ゆえに募る)敵意と狂気を描いていて、観ていて人間の本性を恐ろしく感じました。

アイルランド人作家のジェイムス・ジョイスは『ダブリン市民』という短編集で、ダブリンの人々の偏狭さ、卑屈さ、カソリック教会のマヒしたような有様を描いていますが、イギリスという隣国に踏みつけられ続けたアイルランドの人たちが経てきた時間と歴史は理性で語ることは難しく、官能のみを求めるロージーのある種の無知とも言える危うさと、マイケルを取り囲み処刑するアイルラン人のどちらも簡単に善悪で割り切ることはできません。

そんなことを考えされられた作品でした。原題の scripture は「聖書」を意味し、これはローズが自らの正気を記録し、唯一のマイケルの形見の十字の勲章を隠した聖書に由来します。ローズが拠り所としたのはこの一冊の聖書でした。神の言葉である聖書と、神に仕えるはずの聖職者によって凄惨な人生を送ることになったローズの数十年に及ぶ苦難の対比もまた皮肉なものです。大方の映画作品においては、カソリック教会は分が悪い描かれ方をすることが少なくありませんが。