私と母の関係性を語るがゆえに、少し重い話になります。暴力で怖い思いをした方は、どうか読まないでください。


 私が子供の頃はいわゆる貧困母子家庭でした。

 父親はお酒を飲むといつも母の事を殴っていました。

 母は私の手を引いて逃げ出し、自転車の後ろに乗せると、夜の町を泣きながらぐるぐる回って、父親が寝静まった頃家に戻るんです。

 別居してから、父親はアパートをガス爆発で全焼させてしまい生活保護に。 

母は父の借金を返さなければなりませんでした。

私達の生活は凄まじく貧しくて、真冬にこたつやストーブすらなく、貰い物の布団にくるまり過ごしていたんです。

 だから私、肺炎になっちゃったのね。昔の肺炎だから、医者に「覚悟してください」って言われたそうで、ガラスの点滴瓶の下で、母がオイオイ泣いていたのを覚えています。


 母は私がいつどうなるかと不安にかられ、父にアパートの場所を教えてしまいました。

 私が退院した後も、父は母と私の住むアパートに度々現れ、窓ガラスを割り上がり込んでは、母の髪を掴み殴り続けました。

 小学2年生だった私は、このままでは母が死んでしまうと110番に電話をして警察を呼びます。

 警察に連行されながら、父は私を睨み「俺を売ったのか!」と怒鳴っていました。 

若いお巡りさんが、今日はこちらで眠って下さいと近くのラブホテル(その頃はただの旅館だと思ってました)に案内してくれて、私の手に 、貝を合わせ布でくるんだ昭和の手作り玩具をくれました。

「僕の御守りなんだ。田舎のお母さんが作ってくれたんだよ。きっと粥子ちゃんを守ってくれるから、頑張ろうね」って。

 大切な想い出の品物だったでしょうに。それがすごく嬉しくて、温かくて、心強くて、大人って優しいんだなと感じました。

 いつかお礼をと思ってましたが、あれから40年、もう退職しちゃってるだろうな。

お巡りさん、ごめんなさい。貝は割れちゃったけど、粥子は今も、お巡りさんの優しさを御守りにして過ごしております。


その後、母と私はアパートを追い出され、母はきっぱりと離婚を決意。その後安定した仕事に就き働き続け、女手ひとつで家を建てました。

私は20年間のまぁまぁな結婚生活を経て、ここに図々しく転がり込んだのです。

 私の離婚の理由は何だっけ?

 もう、そんな事どうでもいっか。20年のうち、15年は幸せだったんだし。