1.老人ファッション


 じき老人というカテゴリに突入する私は、街で老婆を見かけると、ついファッションチェックをしてしまう。参考になる人、反面教師になる人など色々だが、総じて皆さんお洒落度は底上げされているようで、けっこうなことではある。

先日、面白いなあ、と思う老女2人を見た。

二人とも、お年を召した方には似合わないことになっている、どカジュアルスタイル。

最初見た人は、推定75~80歳くらい。白髪の髪をひきつめ、グリーン系のチェックのシャツにブルーデニムの裾をロールアップし、紺のスニーカーを履いていた。完全な少年スタイルである。身に付けているシャツ、デニム、スニーカーは若い人が着ているような感じの物で、たとえばよく下町の商店街の奥にあるあやしげなオバサン御用達の店の物ではなさそうである……まさか孫の服を拝借してきたのではあるまい。

で、痩せた人なので、服装じたいは体つきによく合っていた。何が面白かったかというと、その人の態度がもろ古き良き?老婆のそれだったこと。人の前を通るとき、ちょっと腰をかがめて会釈して、ハイハイ、ごめんなさいましよ、という感じなのである(セリフまでは言わなかったけど)。

これだけボーイッシュカジュアルにしていても、態度は昔ながらのおばあさんというミスマッチっぷりが面白く、悪くないよなあ、とニヤニヤしながらひとりごちたのであった。


もう1人は推定70歳前後。

やはり白髪頭だがショートカットで、グレーのゆるニットにベージュとカーキの間みたいな色のチノパンツで颯爽と歩いていた。スポーツが得意そうな感じの人である。

この人もスタイルがよく、骨格診断でいうところのナチュラルになるのだろう、こういう服装が非常によく似合う。真っ白のスニーカーを合わせているのも感じがよかった。

が、残念ながら、私はこういうスタイルにこよなく憧れつつも似合わないとわかっているので、参考にはならない。見て楽しむだけである。であるのだが…お洒落な老婆を見るのはやはり楽しい。

他にも、電車の中で、ものすごく上手に綺麗にスカーフを結んでいるおばあさんを見かけたり、黒いワンピースに手編み風なカーディガンの組み合わせが可愛いおばあさんもいて、皆さんべつにセレブではない、普通の人々のようであるから、お洒落の裾野は拡がっているのだなあ、と妙に感心したのである。うーん、日本人老婆も捨てたもんではないかも?

蛇足ながら、私は子供の頃、年をとったら着物に割烹着を着て、髪をお団子にして安物のかんざしなど挿し、こめかみに膏薬を貼るという格好をするんだと決めていた。赤塚不二夫のマンガに出てくる下町の婆さんスタイルである。今でもそのスタイルには憧れとも郷愁ともつかぬものがあって、死ぬ前に是非とも実行しようとひそかに決めている。

ちなみに私の理想の婆さん像は、故内海桂子師匠である。彼女の雰囲気、佇まいが大好きである。



2.憂鬱なるおにぎり


私は、おにぎりさえあれば人生何とかなる、と本気で思っている程度にはおにぎり好きである。食べ物の講釈を垂れるというか蘊蓄を語るのは好まないのだが、ふんわりおにぎりが主流になりつつあるらしい、と聞いては黙っておれなくなった。

思えばおにぎりの海苔はパリパリがいい、なんて世間が言い出した頃から状況は不穏であった。

おにぎりの中身の最重要アイテムたる梅干しが甘くなったことで更なる打撃が加わった。

そしてとどめはふんわりおにぎりである。

主に若い世代がふんわりおにぎりを好むようになったらしい。

私はふんわりおにぎりを喜ぶなんて、みんな歯周病なのかしらア、と一瞬思考があさっての方向へ行きかけたが、我に返ってみればとんでもないことである。

だがしかし──身体的条件の劣化は案外的を得ているかもしれない。べつに若い人々が皆歯周病ではないにしても、味覚の麻痺、劣化、咀嚼力の劣化は大いにありそうだ。

加えて言うならば、ふんわり握ったおにぎりを食べて米粒をポロポロこぼしやしないか、そうなったらみっともない、という懸念もないのだろう。これはメンタリティの麻痺、劣化である。

いずれにせよ、ふんわりおにぎりが主流になったら世も末なのだが、そんな物は買わなきゃいいだけの話なので、自分の生活に直接被害が及ばないだけマシ。

しかし、何だかムカつくので、厚かましいことをしてみた。

自分の写真をグレンの写真と並べてみたのである。

数年前にチェンバロを弾いている時に誰かが撮ってくれたお気に入りの一枚。相変わらず私はブスだが、チェンバロのおかげで3割マシに……見えないかw

ちなみに手前のケースは私のDVD。恥の記録である❗








相も変わらず国産下着に不満しかない私…特にブラ選びは難しい。

私の好みが変なのか?多分そうなんだろう。

レースでおおわれたカップの分厚い盛りブラなんて、私には縁のない代物だが、日本の女たちは大好きなようで。


と思っていたら、胸を小さく見せるブラが人気だそう。

巨乳でない人も愛用するのは、痩せてみえるから、らしい。

私も一つ持っている。ブラではなくブラキャミ。普通のブラキャミは、どうしてもカップ部分の人工的、不自然な丸みが好きになれないし、アンダーのゴムの食い込みはワイヤーよりはるかに犯罪的‼️

で、胸を小さく見せるブラキャミならナチュラルなシルエットになるかも、と買ってみた。が、良くはなかった……シルエットがきれいじゃない。ただ布で押さえているだけで、胸の高さは無くなるとはいえ、布の厚みと形状で、胸板の厚い人、みたいに見えるのだ。

ちなみに、胸を小さく見せるブラは総じて変なデザインである。目的上、致し方ないのだろうが、プチプラ品に至っては趣味の悪い物ばかりである。

にもかかわらず、性懲りもなく執念深く探していて、またまたお試し気分で一つポチったのが、これ下矢印



レビューは国内外とも高評価で、カップが薄いとあったので期待する(画像ではあまり薄そうじゃないけど)。

で、半信半疑ながら届いたものを早速試着──これ、いい‼️


確かにカップは薄め。国産品の分厚いカップよりはかなり薄めである。しかし、バストトップが透けて見えることはないから大丈夫。

で、きちんと胸をホールドしてナチュラルシルエットで感動する。

なぜカップの薄さを追求するかというと、フィット感と密接な関係があるからである。

理想形のカップに無理矢理自分の胸を押し込むよりも、自分の胸にフィットさせる方が自然だし心地よいし、結果きれいに見える気がする。


日本人は理想のお胸(お碗型?私は好きじゃないけど)に見せることばかり追求して、装着する人へのフィット感を無視している。

ブラだけはちっとも進化しない。

ちなみに、今回紹介したこのブラは海外製品だと思うけど、どこの国かはわからない。

それはどうでもいいけど、本っ当にブラだけは落胆の日本製。もはや悲劇。


ついでに、他に愛用しているブラはこういうの。



これは透けてます。プチプラです。色違いで数セット所有。
とてもよくフィットするし、黒いTシャツならバストトップもわかりにくいので私は平気でつけている。
レビューを読んで面白いのは、日本人は勝負下着として購入し高評価をつけているのに対し、英文のレビューではフィット感で高評価を与えているところ。
やっぱり、下着に対する意識、違うよね~┐('~`;)┌

以下は追記:
このブラは、いわゆる貧乳の人には不要だと思います。下着にファンシーさ、装飾性を求める人にとっては掃いて捨てるべき物でしょう。
体に自然にフィットして服に響かないことがブラの使命、盛りたくないと考える人にオススメ。






ストリートピアノ

 大衆は音楽もコミュニケーションも求めていない。無料で曲芸を見たいだけである。

曲芸を披露したくてウズウズしているプレイヤーだらけだから、利害は一致している。しかし、じき飽きられるだろう。ストリートピアノは市民権を得ることなく自然消滅すると予言す。


シェディングと蝿の王症候群

 ワクチンシェディングはなかなかに微妙で判断も難しい現象らしい。私自身は比較的軽い方だが、ひどい人はもう本当にひどいらしく、半死半生状態で外出もままならないらしい。で、思い切って人里離れた場所へ移住を考えるとか──実際、そういうコミューンがちらほら出来ているらしい。

そういう話を聞くと、私はほとんど条件反射的に、殺人が起こるに違いないと思い込んでしまう。いわゆる蝿の王症候群が発動するわけである。大昔あった魔女狩りにおける群衆心理も、これかな?と思う。よくわからんけど。

で、そんなナチュラリストの桃源郷を目指すコミューンには、必ず某団体の工作員が潜り込んで乗っ取りを……なんてね。スパイクタンパクを撒き散らして破壊、ではなく洗脳して乗っ取るのが得意技なのだ、彼らは。

それはともかく、私は汚染された卑しい街に踏みとどまるのが、生き方としては好みである。


書物の断捨離

 本を断捨離してみて、意外なことに気付いた。サン・テグジュペリを手放しマルローを残すなんて、はたちの頃は考えられないことだった。

三島由紀夫は手放しても森鴎外は絶対必要だし、澁澤龍彦はエッセイ集より小説の方が残るのも何だか可笑しい。

ジュリアン・グリーンとシモーヌ・ヴェイユ

へは青春時代との遅すぎる訣別を断行。老境にはベルナノスの方がしっくりくる。バルザックもしかり。

中世哲学関係は結局私のアタマでは理解不可能だったから神父様に差し上げ、東南アジア史はやはり残す……とまあ、厳選したつもりのわずかな本たち。どれも私的には極上な内容だが、高尚難解では全然ない。ただし、ほとんどが現在では絶版になっている。つまり、私の趣味はとっても時代遅れなんである。