権力とは、公的領域を、つまり行為し言論を交わす者たちの間で潜在的に可能な現われの空間を、そもそも現にそこに存在させ、その現存在を維持するもののことである。(アーレント『活動的生』259)
権力が生み出されるために不可欠の、純粋に物質的な唯一の条件は、人びとの共存それ自体である。(アーレント『活動的生』260)
権力は腐敗する。これは事実だが、それは、強者を破滅させるべく弱者が力を合わせるときだけであり、それ以前はそうではない。(アーレント『活動的生』264)
権力が腐敗し、悪影響を及ぼすのは、隔離され孤立してのみ成就しうる制作を事とする領域のみであり、それゆえ、いわゆる文化的、精神的生活においてであって、真に政治的な領域においてではない。権力は、現われの公的空間を設立し、保持するのであり、そうである以上、権力とは、人間の手によって形づくられた対象物としての世界を、文字どおり活気づけるもの、すなわちそもそもはじめて生き生きとさせるものである。(アーレント『活動的生』265)
西洋の歴史において、おそらく、権力への真正の信頼ほど、まれで短命であったものはなく、現われ輝くこと自体に権力が役立つがゆえに権力に本来固有な光輝に対してプラトン主義やキリスト教があらわにした不信ほど、強情ぶりを発揮してきたものはない。結局のところ、「権力は腐敗する」という確信ほど、近代において一般に普及したものはないのである。(アーレント『活動的生』266)
👼 アーレントは「権力は腐敗する」と我々が自明視している思い込みを否定する。というのは、彼女にとって権力は支配ではないからである。権力は多数的な人間のパースペクティヴ的な世界の現前を通して「一にして同一の」共同世界を開き、維持する力である。したがって、それは属人的な力ではない。それは人間が多数的なものとして世界に現れうるためのdynamis、potentiaなのである。おそらく、近代が誤解したのはこの点であろう。近代において権力とは、つねに何らかの成果であり、完成態として保持され、可視化され、ひけらかされるべきものとして理解されたのである。dynamis、potentiaとして権力は常に未完の開かれであるが、近代は完成され閉じられる目的だと解したのだ。言い換えれば、そこでは権力に対応する活動が言論と行為から制作に移されたのである。ルネサンス以降、国家という政治的共同体は制作物として語られたのである。そのとき「権力は腐敗する」。多数的な人間の「一にして同一の」共同世界が閉じるからである。制作は集合的である場合でも本質的に孤独なものである。権力は孤独な力による支配となる。近代国家が「制作物」として構想されたとき、政治はもはや始まりの場ではなく、管理の対象となった。こうして近代は、政治を信じなかったのではなく、政治を制作に置き換えることで、政治を終わらせたのである。
👹 そういう意味では、「政治の世紀」であった二〇世紀は、実のところポスト政治の世紀であったのである。アメリカ合衆国とソビエト連邦という二大覇権国家は、いずれも行為と言論の開かれた空間としての政治を内在させるのではなく、支配に定位した制作物として構想され、維持された。冷戦時代の政治の硬直は、イデオロギーの対立そのものに起因するのではない。むしろそれは、対立するいずれのイデオロギーにおいても、その自己理解と革新を不断に試みるはずの言論性と行為性が失われたことに因るのである。
国際政治のポスト政治性はソビエト連邦崩壊後の「歴史の終わり」にあたっても強化されこそすれ、本来の政治性を取り戻すことはなかった。歴史の終わりというテーゼは、文字通り多数的な人間の試みとしての歴史の終焉の宣言であり、そこでは政治は完成形として提示された。そこで求められる活動はもはや言論と行為ではなく、管理と調整であって、政治という活動が制作、あるいはむしろ労働という活動に切り下げられる。そこで起きたことは歴史という大きな物語の終焉というよりも、物語が終わったという物語の実体化である。文明の衝突という物語も物語の実体化を引き継いだ。文明の衝突という物語は、文明を実体化し、人びとが行為と言論を通じて世界に現れる複数的なプロセスを、あらかじめ与えられた物語としての文明的アイデンティティへと還元する。その結果、政治は始まりの場ではなく、実体化された文明同士の衝突を管理・予測する技術へと変質する。歴史の終わりも文明の衝突も新たな「20世紀の神話」なのである。
👿 神話と言えば、「権力は腐敗する」というわれわれの常識も、ある意味で神話である。アーレントに則して言えば、権力それ自体は腐敗しない。というのも、腐敗するものはもはや権力ではないからである。腐敗するのは権力ではなく、権力を自身の所有物と錯覚したときの権力者の精神である。そのとき、権力は内世界的なものとして物化される。権力が物として所有され、支配の道具として行使される。しかし、権力とは、多数的な人間の「一にして同一の」共同世界そのものの dynamis、すなわち potentia であり、それを持続的に開き続けようとする力であって、決して属人的な力量によって行使されるものではない。
われわれは、ナチズム、スターリニズム、さらには ポル・ポト による支配に至るまで、いわゆる「政治権力」が生んだ幾多の悲劇を経験してきた。しかし、アーレント的に言えば、それらは政治の過剰ではなく、むしろ政治の欠如、すなわちポスト政治の現象であった。そこでは、多数的な人間の「一にして同一の」共同世界は維持されず、世界は属人的な力量によって生み出された成果物へと貶められているからである。
その結果、第三帝国にせよ、共産主義世界にせよ、「真の世界」の到来という神話が語られる限りにおいて、それらはすべて、プラトン主義的二世界論に由来する現世不信の戯画にほかならない。現に存在する複数的な世界を否定し、完成された真理の世界を掲げるとき、政治はもはや多数的な人間の始まりの場ではなく、一元的支配と多数性の破壊の装置へと転化するのである。ここでは歴史の皮肉が働いている。プラトンは神話を語ったが、ポスト政治はその神話の枠内にある。そして、その神話の生んだ悲劇を経験した我々は「権力は腐敗する」というプラトン主義の神話を強化してしまう。そこでは、現実Wirklichkeitと現れErscheinungとは同一であるという多数的であるという意味で必然的に政治的な人間存在の地平が閉じられているのである。
💩 したがって、20世紀の神話を経験して21世紀を生きる我々の課題は自ずと明らかであるように思われる。それは、多数的な人間で在り続けようと意志することである。人間以上の存在を僭称せず、動物的存在に退行して安住しないこと、つまりは神話を語らないことである。しかし、我々はアルゴリズムという21世紀の神話装置に絡め取られようとしている。アルゴリズムとは、行為と言論が生じる前に、既に決定されていることとして何が起こるべきかをあらかじめ決定し、言論と行為の発動に先回りして人間の始まりを不要化する制作的装置である。アルゴリズムは我々に「何を考え行動しようと無駄だ。こちらは最適解を既に知っている」と言う。その前に我々の活動は自動化と反応の労働となる。ここで問われているのは、われわれがなお、始めることのできる存在として公共的世界を開き続け、世界に現れ続ける意志をもつかどうかなのである。
それは我々多数的な人間が権力を取り戻すことではない。そもそも人間が権力を持ったことなどなかった。というのは、権力は所有物ではないし、それが所有されたように思われるときにはそれは支配力となってしまうからであり、支配力を持ったとき我々は人間ではなくなるからである。我々人間は権力の主体ではなく、権力の条件なのである。我々が人間で在るという課題に答え堪えるとき、共同世界を開き維持する力としての権力は発動する。我々がアルゴリズムの神話に抗する恐らく唯一の道は、「何を考え行動しようと無駄だ。こちらは最適解を既に知っている」と嘯くアルゴリズムに断固として「否。我々は最適解ではない新たな何事かを始めることができる。なぜあら、我々は人間だからだ」と行為で突きつけることである。そのとき、世界は自動化の反応の環世界ではなく、試みとして開かれる。多数的な人間の力としての権力が発動する。
その行為は非同一性の実践ということになるだろう。最適解を知っているアルゴリズムは我々の実践を同一性へと回収しようとする。多数的な人間の実践を自然的な反応へと同一化しようとする。それがアルゴリズム的合理性である。言い換えれば道具的理性の支配である。それに対する非同一性の実践とは単にアルゴリズム的合理性に反対するということではない。というのはあることに反対するとは同じ論理の土俵に上がることだからである。反対物は同一性の論理において一致するのである。そうではなく、非同一性の実践の戦略は「ずらし」と「倒錯」である。「ずらし」とは非同調的な参加である。正義も、主張も、告発もコンテンツとして回収してしまうアルゴリズム的合理性に対し、同一化・最適化・予測に回収されない仕方で、非同一性を引き受けつつ公共的に現れ続ける21世紀のアンガージュマンである。「倒錯」とは個人的振る舞いではなく、同一化と最適化の圧力のもとで、多数的な人間がゲリラ的に行う集団的戦略である。それはデータ化、パターン化を破る。つまり、「ずらし」と「倒錯」の戦略は本来非同一的である多数的な人間性をそのままで肯定し未来へと投企することである。その大いなる肯定がアルゴリズム的時間性の徹底した否定なのである。なぜなら最適解を既に知っているアルゴリズムの時間性は既在性による同一化の時間性だからである。非同一性が非同一性として肯定されるところで共同世界を開く権力は発動する。


