思蓮亭雑録

思蓮亭雑録

ブログの説明を入力します。

さらに言えば、使徒たちが説いたそのままの形で見れば、キリスト教は理性の管轄外にある、彼らはキリストの物語を語ることに終始したからだ。しかしその物語の最上の部分は、そもそもキリストの教え全体がそうなのだが、主に道徳的な教訓から成り立っている。この部分の内容は誰もが自然の光によって簡単に理解できるのである。

 さらにまた、使徒たちは超自然の光に頼らなくても、自分たちの宗教を普通のひとたちにも理解できるように表し、ひとりひとりに簡単に心から受け入れてもらうことができた。彼らはキリスト教を、先にさまざまな「しるし」で裏付けていたからである。また同様に、彼らは超自然の光に頼らなくても人々に宗教上の戒めを発することができた。そして彼らの「手紙」の目的も、まさにこの点にあった。つまり使徒たちは、ひとびとの信仰生活を固めるのにそれぞれが最善と判断した仕方で、ひとびとに教えや戒めを与えるためにさまざまな「手紙」を書いたのである。下57f

 物語的認識、それを歴史的認識と呼べるならば、歴史的認識は自然の光(理性)の管轄外の信仰にかかわるということだろうか。人間的知性はその有限性の故に論述的、論証的に働く。それは人間的知性がそれ自体歴史的認識(物語)に拘束されるということではないだろうか。例えば様々な時代の自然認識はその時代のパラダイムに拘束されてきた。何がしかの現象にその一義的な原因を求めるという因果律もある種の物語であると言えるだろう。その点ではスピノザは自然現象に「複雑系」を認めているようで、現代を先取りしていたとも言えそうだ。しかし、すべては物語だと開き直るわけにもいかないだろう。そのような相対主義は近代版の不可知論であり、それは「語り得ぬものの前には沈黙する」というよりもむしろ逆に近代的な主観性の肥大であるように思われる。そのような相対主義よりも、信仰の領域を確定するために理性の領域を確定するという方が実勢的にまだ誠実な態度であるように感じられる。しかし、スピノザの姿勢は理性の領域と信仰の領域を分離するということとも異なるものであるように思われる。確かに理性的認識は理論的問題で信仰は実践的問題だろう。しかし、神に於いて知ることと意志することが同じであったようにスピノザにとってこの二つの領域は別のものではなかったのではないだろうか。人間的知性が神の知性のうちにあるとすれば、自然の光による認識の精度を上げてゆくということはそれが限りなく意志に、実践に近づいてゆくということであろう。そしてこれは、理論的認識を物語へと解体してゆく近代的相対主義とは異なる姿勢である。というのは、スピノザにあっては人間的知性による認識の真理性は実践的真理性(道徳性)として証示されるからである。そこでは物語的認識の方が方法として自然的認識のうちに含まれるのではないだろうか。

 

A mural painted on a fence depicts US President Donald Trump as the Coronavirus in San Francisco, California on April 01, 2020. All 40 million residents of California were Thursday ordered to stay at home indefinitely in a bid to battle the coronavirus pandemic in the nation's most populous state. (Photo by Josh Edelson/AFP Photo)

 

 

 

 

神が意志すること、あるいは神が決めることは、みな永遠に変わらない必然性や真理を含んでいる、ということをわたしたちは証明した。これも既にしめしたように、神の知性と神の意志は同じものなので、神が何かを知っていると言おうと、神が同じ何かを意志していると言おうと、主張の内容は変わらないからである。したがって、神が何かをありのままに知っているということが神の本性および完全性から帰結する場合、それと全く同じ必然性によって、神がその何かをあるがままに意志しているということも帰結する。しかし、あらゆる必然的な真理がもっぱら神の取り決めに基づいているとすると、当然ながらさまざまな自然の一般法則も神の取り決めに他ならない。そしてこのような取り決めは、神の本性の必然性および完全性に由来するものである。ということは、もし自然の一般法則に逆らうような何かが自然のうちに起こるならば、それは必然的に神の取り決めにも、神の知性にも、そして神の本性にも逆らうことになる。つまり、もし神は自然の法則に反する何かを行うと主張するならば、その人は同時に、神は神自身の本性に反する行いをするという不条理きわまりない主張を余儀なくされるのである。261f
 

 スピノザは第4章で「三角形の本性やさまざまな固有性質の必然性は、それらが永遠の真理としても考えられる限りは、ひとえに神の本性や知性のもつ必然性に支えられているわけであり、三角形の本性に支えられているわけではない」(203)と述べている。ここで三角形の本性が永遠の真理としても「考えられる限りは」と言われる場合、そのように考えているのは治世をもつ存在者としての人間であろう。とすればこれは、人間の知性が三角形の本性を認識するのはそれが神の知性の必然性によって可能とされているということであると同時に、人間知性の認識の働きという媒介が無ければ神は自身の必然性のうちに三角形の必然的な観念が存するのを知り得ないとは言えないだろうか。神は自己自身の必然性に拠って自己自身を知る即ち自己自身を意志する。言い換えれば神は自己自身の必然性に拠って自己自身を現実化する。それ自身神の必然性のうちにある人間知性の働きは神の知性の働き即ち意志の働きを映し表現する鏡であり、その人間知性は神の知性を鑑として活動するが、この人間知性という鏡と神の知性という鑑の相互的は反照関係自体が神の必然性に拠っている。このような反照関係が世界の世界性をなしているとは言えないだろうか。世界の原理としての神即ち自然は必然的なものである。つまりそれは自己自身を知る即ち自己自身を意志することによって絶対的に自己自身を定立する。この絶対的な自己定立に於いて神の自由とその必然性とは同じである。神は端的な自己原因として絶対的に自由であろう。同時に意志され結果する神(自然)は意志する神(本性)以外に原因をもたないからその因果関係は必然であろう。それ故、自然のうちには自然(神)の一般法則に逆らうことは生じ得ない。もしそのようなことが生じるとすると神が自身の自由によって自身の自由な本性に逆らうか、神が自己自身の外部に原因をもつという背理に陥ってしまうからである。しかし、人間知性からするとこの世界には偶然的なものが生じたり、奇跡という形で神が介入するかのように見える。神はその外部に自己自身を定立する場所をもたないから神は自己自身の内に自己自身を定立するだろう。言い換えれば、神は自己自身のうちに自己自身を映し、像化する。この神の自己映像化の媒体が人間知性であるとは言えないだろうか。神自身はその自己映像を通して端的に十全に自己自身を認識するだろうが、」人間知性は神即ち像化された自然をその都度の多様な諸鏡面に於いてのみ認識するだろう。人間知性が認識するのはその知性を媒介にして像化された神の像だと言えるだろうか。

 

Nurses making the hearth sign at Cremona Hospital on March 29, 2020, in Cremona, Italy. The Italian government continues to enforce the nationwide lockdown measures to control the spread of coronavirus / COVID-19. (Photo by Marco Mantovani/Getty Images)

今のこの危機がせめて僕たちが愛するということを学ぶための試練となるように。

 

 わたしたち人間を構成するもののうち、他よりも優れている部分が知性である。だからもし自分にとって本当に有益なものを求めようとするならば、わたしたちは何よりもまず、知性をできる限り完全なものにするよう努めなければならない。知性を完成させることこそ私たちにとって最もよいことに他ならないはずだから、これは確かなことだろう。

 さて、わたしたちが何を知るにせよ、そうした知や確信の支えとなるのは、神を知ること以外の何物でもない。それは神なしにはどんなものもありえないし知り得ないからでもあるし、また神について明晰判明な観念を持たない限り、わたしたちは何でも疑ってしまえるからである。この帰結の一環として、わたしたちの最高善は、つまりわたしたちの最高の完成は、ただ神を知ることにかかっていることになる。

 さらに言えば、神なしにどんなものもありえないし知りえないのだから、自然の内にある万物はその本質に応じて、また完成の度合いに応じて、みなそれぞれ神の観念を内に含み、かつ外に表している。またわたしたちは、自分のものごとを知れば知るほど、それだけ神についての知を広げたり完成させたりすることになる。言いかえると、(原因から結果を知るということは、その原因固有の何らかの特性を知ることに他ならないのだから)自然のものごとを知れば知るほど、それだけ完全に神の本質(これこそ万物の原因なのだから)を知ることになる。したがってわたしたちの知の営み、つまりわたしたしの最高善が、全体として神を知ることにかかっている、というだけでは話は終わらない。むしろ神を知ること自体が最高善の内実なのである。

 ひとは何をとりわけ愛するかに応じて、つまり愛する対象の性質と完成度に応じて自分自身の完成度に近づいたり、逆に不完全になったりするものだが、このことからも同様の結論が出るだろう。言うまでもなく、神こそ最も完全な存在である、そうすると必然的に、最も完成された人間、至高の幸福に最も多くあずかっている人間とは、神を知的に理解することを他の何よりも愛し、またそのような神の知を何にもまして喜ぶ人ということになる。そういうわけで、わたしたちにとっての最高の善は、そしてわたしたちの至福は、結局ここに、つまり神を知ることと愛することに帰着するのである。

 以上の通り、私たちの内にも神の観念が存在するし、そしてその限りでは、神自身がわたしたち人間のあらゆる営みの目的なのである。だとすると、そのような目的のために取ることを求められるさまざまな手段は、神の命令と呼べるだろう。わたしたちにそのような手段を取るように命じるのは、こう言ってよければ、私たちの精神の内に存在する限りの神自身だからである。したがって、この目的を見すえて立てられた生活規則も神の法と呼ぶのが最善であろう。194ff

 人間は自然の一部でありながら、それを知ることができる即ち知性をもっているという意味に於いて自然を離れている。しかしまた、まさに離れているということに於いて人間は自然に還る。このときに自然は人間にとって環境と言えるものになるのではないか。自然は環境として具体化すると言うことはできないだろうか。確かに知性をもった人間が存在しなくとも自然は自然法則に従って動いているだろう。しかし、そのように人間の存在しない自然を想像するときに我々はすでに人間の知性を前提としてしまっている。人間はそれ自身自然の一部として自然の法則に則って存在するものであると同時にその法則を映す鏡でもあるのではないだろうか。そうだとすると人間が自然を認識してゆくということは自然が(環境として)自覚を高めてゆくということになるだろう。言い換えれば、人間知性は神の自覚の媒体ということになるだろう。実践的には、知性的存在は盲目的な自然必然性から相対的に自由であるが、まさにその自由な知性の働きで自然(神)の法を認識し、その自由な知性の導きで神(自然)の法に則って行動することで、人間として完成する(現実化する)。何事かを認識する場合、それをその根拠から認識することの方がそうでない認識よりも優れた完成された認識ではないだろうか。また、何か行為する場合、その行為の根拠を認識しつつ行為する方がそうでない行為よりも優れた完成された行為ではないだろうか。すなわち、自然(神)は知性的存在者にとってそれを目指しそれに則るべき鑑であり、知性的存在者は自然(神)を映し表現する鏡である。この鑑と鏡の重層的な映像関係が世界の世界性をなすとはいえないだろうか。実践的な観点から言い換えれば、自由な知性的存在がそれによって自然(神)の法を認識しそれに導かれて行為することが知性的存在者にとって善であると同時に、その認識行為を媒介として最高善である神(自然)が実現するという意味でその認識行為自体が最高善の内実となる。

 

French tenor singer Stephane Senechal sings from his apartment window in Paris as lockdown is imposed to slow the rate of the coronavirus disease (COVID-19) spread in France, March 24, 2020. (Photo by Gonzalo Fuentes/Reuters)

今この危機の時こそこの世界に共に生きるということはどういうことなのか、よりよい共生を築くためにどうすればよいのかよく考える時だ。