とても大切な方が亡くなりました。
そんなに頻繁に会うわけでもなく、息子が幼稚園を出てから、ほぼお会いするタイミングもなく…
たまに幼稚園関係で集まる時にお顔を拝見する程度でした。
息子が中学受験をする時と、終わった後にたまたまお会いしました。
そのときも「太郎くんの望む道へ進むお手伝いができたら嬉しいです」とおっしゃってくださった、心の師です。
人はどう生きるべきか、どうあるべきかを説いてくださり、それを実践されていた方です。
突然降って湧いた災難は、多くの人を悲しみの淵に突き落としました。
あの日の夕方、ほんの一瞬の土砂降りの中の事故…
人は「不幸な事故」と言うでしょう。
こちら側からすれば、事故になど遭うはずもない状況の中の事故。
交通事故、というのは「事故」なのでしょうが、被害者側からすると「殺人」と同じです。
殺され、奪われたのと同じです。
何度何度考えても納得できません。
前夜式にお伺いしましたが、とても交通事故で亡くなられたとは思えない綺麗なお顔で、息子も何度も
「なんで…?なんで…?」
とつぶやいていました。
私の母も義両親も、病気で亡くなりましたから痩せてしまって、元気な時の姿は見る影もありませんでした。
でも、事故ですから、さっきまで普通に会話していた人がなくなったわけですから、ご遺体が綺麗ならば、その姿がこの前お姿拝見した時とまるっきり同じという、今までに感じたことこのない、強い違和感と、強い憤りを禁じ得ませんでした。
神様はなぜ彼をお召しになったのでしょう…。
つらくて寂しくて不安で、これを混乱と言うのだ、と初めて知りました。
なんの前触れもなく大切な人が天に召されたのは初めてだったからなおさら…。
でも、その答えは、参列者の代表の方のお言葉に見出せました。
とても納得できましたが、だから良いというわけではない、という、頭と心がバラバラな状態で苦しかったです。
きっと師の心は、私たちにこう告げています。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」
恨んではいけない。
憎んではいけない。
どんな時も、全ては神様の大いなる計画の一つなのだと。
被害者側は当然のこと、加害者側も不幸になってしまう事故…。
師の今回のことは私に、運転中にサイドミラーやバックミラーを見る回数を確実に増やしました。
被害者になることは防げなくても、加害者になることは防げる。
そして、私が加害者にならなければ、被害者は一人減る、ということ…。
これこそ、師が私に送って下さったギフトだと思おう。
葬儀の帰り道。
図らずも同窓会のようになった子供達は、9年の時を瞬時に飛び越えて、心から楽しそう。
息子の、こんな芝居染みていない、屈託のない笑顔を友達に見せているのを久しぶりに見られて、私も幸せでした。
小学校高学年の頃からは、こんな顔、見たことないな…ってくらい、楽しそう…。
さっきまで、目を真っ赤にして泣いていた子も、今は笑っている。
子供達は今を生きている。みんな前を向いて歩いていく。
私も前に向かって歩こうと思えました。
9年前の私の母の葬儀の後、太郎が
「ママ。お葬式って、生きてる人のためのものなんだね…」
と言ったのを思い出しました。
明日からまた生きていくための儀式なんだと。
師の蒔いた種は、これからたくさんの場所で芽を出し花開き、実を結ぶと信じられました。
明日もまた生きて行こう。
ともすると、膝から崩れそうな気持ちになってしまうけれど…
それでも、前を向いて歩こう。
いつまでも悲しむことを師は望まないから。