Angeli・ka fuです。

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朝一番に電話が鳴り、

電話機に表示された名前を見て、

一瞬、取るのを躊躇する・・

苦手な義叔母だった。

 

なぜ、苦手になったか・・・というと。
かなこの納棺の時のひとことが、こころに刺さって、ずっと取れなくて。
それでも、悪気はなかったんだよね、

自分の気持ちに正直すぎて、ついポロリと出てしまったのだろう、と今は思える。
子どもを失った母親の気持ちなど到底理解できないもの、と今は思える。

当時のわたしのこころが脆過ぎて、受けいれられるわけがなかったんだ、と
今は思える。

 

たったひとことが、打ち込まれた楔のようにこころを分断し、長く長く修復できないときもあれば、

たったひとことに、氷が溶けてゆくように救われる時もある。
言葉もまた両極。

二元性の世界では、どちらもあって、どちらを選択するか、なんだなあ、と
ぼんやり考える。

一瞬、受話器を取るのを躊躇う、
私の中に、まだ受け入れられてない傷があるんだなあ、と気づく。

まず気づく。そして、どうするか?

もうその場所に留まっていたくない自分もいるのを見つける。


生きることはそんな一瞬一瞬の自己選択の繰り返し。

 

 

義叔母の電話は、親戚の訃報を知らせるものだった。

お盆の最中にお通夜、告別式が入り、

穏やかに過ごすはずの予定が一変する。

慌ただしく予定と気持ちの変更を促される。

 

何が起こるかわからない、それがこの世を生きるってこと。

それを受け入れるわたしたち家族がいて、
今という時間の受け入れがたさの真っただ中に親戚家族がいるだろう。

ここでもまた二元性なのか・・

 

自分だけが取り残されたような時間感覚の中で、
周りの人が何事もなかったかのように(当然何事もなかったのだ。当事者ではないのだから。)

変わらぬ生活を続けていることに、理不尽さや納得できない気持ちを持ったこともあったけれど、

自分がこちら側に立ってみると、

あぁ、そういうことだよね、と理解できる。
 

大昔の私と異なるところは、

留まる人、留まるしかない人、の気持ちも解りながら、

時間が進んでいる、
という両方が解るところ。

 

体験、経験することで、理解することで、
同じような出来事が起こったときに、自分の視点が変わってくる。

それは、選択の幅を拡げてくれる。
そして、自分が過去の自分とすこぉし違ってることが確認できる。

少し、ほっとするね。