今回は批評家・随筆家の若松英輔氏の著書
『悲しみの秘儀』よりご紹介させていただきます本



「見えないことの確かさ」

偶然、ある出来事が起こって、
どこからか心に光が差し込んでくる、
そう感じたことはないだろうか。
光線を目で見たわけでもないのに、
光としか言いようのない何かが
胸を貫くのを感じたことはないだろうか。

また、あることを心から理解したとき私たちは、
「わかった」と過去形で言う。
そんなとき人は、自分にとって親しい、しかし、
本当の意味をはかりかねていた何かを

発見したかのように、その衝撃を語り始める。

私たちが日常でしばしば経験しているこれらの現象は、
真に人を目覚めさせる契機となるものがすでに、
その人の内に宿っていることを示している。
光はないものを照らし出すことはできないからだ。

美術館に行く。不意に何かに

打たれたような衝撃を受けて、
その絵の前で呆然と立ち尽くす。

公園で、花を咲かせた一本の樹木に

魅せられることもあるかもしれない。
街で耳にする音楽に、はっとさせられることもある。
だが、ほかの人は何事もなかったように

傍らを通り過ぎてゆく。
人生を変えるような大きな出来事が起こっていても、
周囲はそれに気が付かない。

人生の岐路と呼ぶべき出来事は、
それが自分のなかでどんなに烈しく起こっていても、
それを他者と分かち合うことはできない。
理由はもう分かっている。それらはすべて、
私たちの内なる世界で生起した、
私にとっての「事件」だからだ。

希望、情愛、信頼、慰め、励まし、癒し、
どれも生きていく上でなくてはならないものだ。
いずれも見ることもできなければ、

手で触ることもできない。
とはいえ、見えないことと、ないこととは違う。
見えないが存在する。そうしたものが、
私たちの人生を底から支えているらしい。

人はみな、例外なく、内なる詩人を宿している。
詩歌を作るかどうかは別に、誰もが詩情を宿している。
そうでなければ真理や善、あるいは

美しいものにふれたとしても何も感じることはなく、
それを誰かに伝えたいと思うこともないだろう。

内なる詩人はこう語る。
見えないから不確かなのではない。
見えないからこそ、いっそう確かなのだ。


      (抜粋転載させていただきました。)
☆☆☆

見えないけれど確かに存在するものに

私たちは日々支えられ生きています。


そしてある時どこからか偶然のように

様々な感覚を通じて心に差し込んで来る光に☆

内に宿る詩人・詩情が照らされ呼び覚まされて

人生の岐路と呼ぶべき出来事、

真の目覚めへと導かれるのでしょう星(*^_^*)