ダスカロスによる新訳版『キリストのたとえ話』より。

聖句 
「実のならないいちじくの木」
       ルカによる福音書13章6~9節
☆☆☆

ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、
実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。
「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、
見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」
園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。
木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
そうすれば、来年は実がなるかもしれません。
もしそれでもだめなら、切り倒してください。」

☆☆☆


このたとえ話は、「価値のないものは取り除かれるべきである」
ということを示しています。
しかし、「価値のあるもの」とは、いったい何を指しているのでしょうか。

ご主人(神や絶対存在性を指している)は、
「私たちはこのいちじくの木をもう三年も面倒をみてきたのに、
ただ一つの実もつけたことがない」と言います。
この「実をつけたことがない」とは、生命の役割が果たされていない、
という意味と同時に、邪悪な行為がなされているとの意味もあるのです。

ご主人はさらに続けて言います。
「良い土地を無駄にしている。実をつけないのなら、

なぜそのまま植えておくのか」
これに対して、ぶどう園の面倒をみている園丁(キリスト)は
「どうか、もう一度チャンスをお与えください。
私がそのいちじくの木に実をつけるようにできるかもしれませんので」
と答えたのです。

このたとえ話の真の意味は、
「何年かの間、いや長年であっても、

あなたがたとえ実をつけることがなくても、
言いかえれば不運な辛い人生をおくってきても、
決して絶望してはいけない」ということなのです。

ロゴスであり、世の光であり、自己認識性の施与者である「施しの主」は、
あと一年(もう一度のチャンス)たったら、
あなたが実を結ぶ(内なる自己に気づき、その道を歩むこと)と
願って待ってくれているのです。
すなわち、最後の瞬間まで、
罪の償いをするチャンスがあるということを意味しています。
このように、あなたには自分の境遇を善き方向に改善すべく
希望と機会が常に与えられているのです。


・ロゴス

キリスト、あるいはキリスト・ロゴスという時、
基本的に「神の独り子」を意味している。
また、キリスト・ロゴスが受肉化された存在としての

ジョシュア(イエス)は、「最愛なるロゴス」を意味する。
私たちの学びの中でしばしば使われる「聖なるロゴス」あるいは
「神-人」であるイエス・キリストは、絶対存在性のロゴス的表現による
純粋、完全、かつ直接的に受肉化された存在を指している。

ダスカロスによるギリシャ語の聖書原典からの翻訳では、
"初めに"と訳されているギリシャ語には、"権威"という意味もあり、
「ロゴスは権威の中にあった。ロゴスは神と共にあった。
ロゴスは神であった」と訳することを支持している。
また、ヨハネの福音書、第一章9節に、
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」
とあるように、ロゴスは"まことの光"である。

               (抜粋して掲載させていただきました)

☆☆☆

「成長する種」「いちじくの木」にも説いてくださっていますように
神様より頂いた生命を大切に

善き方向へと成長してゆけるように努力すること☆
その為には謙虚な姿勢で自己意識・認識を持って生きる必要性を感じます ラブラブ

平和が皆さまと共にありますように☆ (*^-^*)