長脛日子=建御名方富命(ミナカタトミ)でした。
建御名方(富)命は、列島で非常に人気のある神様で『諏訪信仰に分類される神社は全国6位(2,616社)』wikiより
九州に来て諏訪神社付近で起きる不思議があり、ご先祖が送ってくるメッセージが通常の常識とあまりにも違っていて事実を認識するのに時間がかかりました。
宮崎神宮(狭野神社を元に建立)に行ったところ、龍神(天白神、北斗七星・昴)が出て来ました。
五次元?の世界は喜びの世界か?宮崎神宮の境内を楽しく飛んでいます。(^_^;
狭野神社の神武天皇は、本物のカムヤマトイワレヒコであるのだと。
天白神とは、星神で、北斗七星・プレアデスのこと。
諏訪大社の神楽歌には「天白は星の次第の神なりや月の輪に舞え」、「天白は星の位の神なりや月の輪に舞え」と歌われています。
ナガとは、神武の敵?どうして神武の社にうれしそうに龍神が出てくるわけ???
皇国史観たっぷりの記紀を刷り込まれた頭にはあまりにも違う話で。( ̄∇ ̄)ウーン
当家が行くと現れる龍神の不思議。
熊本県上益城郡山都(やまと)町の虹ともに龍神が出て来た龍宮滝
それで宮崎県児湯郡新富町にある当家と同じ苗字の「永牟田遺跡」の付近を調査したところ、三輪山付近にある地名と合致。「富(トミ)地名」と「大和(やまと)池」がありました。
三輪山近くの等彌(とみ)神社、富雄川とも繋がりました。
蛇のことを「ナガ・ナガラ」ともいいますが、「トビ・トビノオ・トベ・トメ・トミ」ともいい、漢字の「富」が地名として多く、「富岡、富永、富雄」などが上げられます。
後期旧石器時代~の永牟田遺跡は、「富」地名がある新富町に存在し、近くには大和(やまと)池まであり、池の畔には新田諏訪神社もありました。
宮崎県児湯郡新富町大字新田字永牟田
永牟田遺跡の隣は新田原古墳群で、新富町新田支所の隣に大和(やまと)池があり、池の畔に新田諏訪神社も在る。
「トミ」地名は南九州に多々あり、延岡にも「遠見山」、「富美山」など離れた地域に広範囲に分布。
呼ばれる朱色の顔料を使っていたらしい。
新田原の近くの古墳群から出土した土器にも、この顔料が
塗られていたそうだ。
この丹石(にいし)の産地から、「丹生田」(にゅうた、にうた)に
呼ぶようになり、当て字に「新田」を使うようになったと考えられて
いるようだ。
次のブログ様から転載させていただきました。m(_ _)m
番号 |
名称・指定日 |
内容 |
2 |
新田原古墳群(にゅうたばるこふんぐん)
指定年月日 (昭和19年11月13日) |
総数207基の古墳が町の北西部を中心に点在します。その集中部は4つに大別でき、最近では祇園原(ぎおんばる)・山之坊(やまのぼう)・石船(いしふね)・塚原(つかばる)の4つの古墳群と考えられています。 なかでも祇園原古墳群には、古墳時代後期でも宮崎県内で最大の首長たちの墓があります。最大の弥吾郎塚(やごろうづか)古墳は墳長94mに及び、古墳時代後期では南九州最大の前方後円墳です。 最近発掘された百足塚(むかでづか)古墳からは、県内でも始めて完全な形で発見された人物はにわを含む多種多様なはにわ群が姿をあらわしました。 これらのはにわは当時の大和政権との密接なつながりをしめすものとして重要な出土品です。
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百足塚古墳から出土したはにわ
百足塚古墳から出土したはにわは円筒はにわと形象はにわの2種類があり、このうち形象はにわは人物や動物、建物の形を表 現したもので、宮崎県を含む南九州で、これほどの数や量が発見されたのは始めてです。 復元中の百足塚古墳 百足塚古墳は古墳の長さが80mの前方後円墳です。周囲には盾形周溝と呼ばれる溝が掘られ、さらにその周囲に堤がめぐります。 古墳は2段に造られており、各段と堤の上には円筒はにわが約1000本並べてありました。堤の一角には人物や動物などの形象はにわが60個体立ててあったようです。 |
新田原(にゅうたばる)古墳群 テキストと画像は新富町役場様からお借りしました。
富田と書いて「トンダ」と読む海の近くの古墳群もありました。
古墳時代前期における一ツ瀬川流域河口部を支配する首長墓が富田村古墳です。
大和で神武天皇と戦ったという「トビノナガスネヒコ」(トミノナガスネヒコとも)は、月氏勢力でニニギノミコトの後裔と小林恵子氏は説いてます。長脛彦は、賊ではなく「彦・日子」が付くので皇族。(ニニギノミコトの母親はタクハタチチ姫で阿波古事記ではオオゲツ姫)
また宝賀寿男氏は、「登美建速日命」が登美彦・長髄彦であるならば、建日別命はその父の位置にある天八現津彦命とも同人だと。
長国造の領域は阿波国那賀郡の那賀川流域が中心であったが、その周辺には、勝浦郡の式内社の事代主神社や、名方郡の式内社の多祁御奈刀弥神社(タケミナカタトミ。名西郡石井町浦庄字諏訪に鎮座し、諏訪神たる建御名方命・八坂刀売命夫妻を奉斎)など三輪・諏訪一族に関係が深い古社が存在しており、これらの社も長国造一族が祀ったとみられる。」
当家(永牟田氏)は、実は阿波とゆかりがあり、祖父は祖母を阿波の士族の家からお嫁さんとして迎えています。
長脛彦=建御名方刀美命(諏訪神)であるとしたならば興味深い歴史的事実があります。
薩摩の島津氏は、清和源氏頼朝流で、島津氏と名乗る前は秦氏である惟宗忌寸流朝臣をもともと名乗り、薩摩藩は諏訪大社を勧請し、島津氏累代によって崇敬。鹿児島県にある諏訪大社系の神社は、ほとんどが「南方(みなみかた)神社」と称します。
また宮崎県延岡市には、南方(みなみかた)古墳群があります。延岡の古墳も諏訪と関係があるのではないかと思ってますが、次の天下(あもり)神社は、ニニギノミコトとササノ姫の墳墓だと80年前に鳥居龍造博士が調査結果を報告しています。
秦氏の島津の紋は、古代太陽教、古代世界宗教であったミトラ教に繋がります。
古代太陽信仰のシンボル太陽十字を表す十字の縄文時代の土偶が東北地方で多々発掘されています。
薩摩川内市に新田神社があり、主祭神は、ニニギノミコトで祭祀者は秦氏である惟宗(これむね)氏となります。
島津氏に古代ミトラ教の戦士民俗が残り、新羅の花郎(ファラン)の系統で名門の美少年を先頭に厳しい軍事訓練を山中で行なっていました。
十数年前に宮崎県高原町の狭野神社を参拝してから、何故か?出雲系の神社から出てくる龍神と牛神。
画像の一段目は、シュメール出土円形印章殷影図でハルキ神と生命樹のシンボルが出て来ます。(^_^;
2段目の画像2枚は殷墟から出たペトログラフで、三輪山にある殷人ゆかりの三つ鳥居に繋がる??
川崎真治さんの「日本最古の文字と女神画像」に掲載されています。
「牡牛神ハルは、太陽神で蛇女神キは水神で両者から命(生命樹)が生まれる」という思想が古代日本にも世界各地にありました。
シュメール印章そのもののハルキ神は熊本の小山諏訪神社の近くで大空に浮かび上がりました。
千年以上前の建立の諏訪神社の上空だったんですねえ。(^_^;
記紀の話しは違うと伝えたかったのでしょう。(^_^;
古代列島のあちこちに蛇女神キと牡牛神ハルは、ペトログラフとして残っています。
記紀ではタケミナカタトミはタケミカヅチに負けて逃亡、その上、トミノナガスネヒコは、賊として神武天皇に倒されます。
が、勝利者の神武天皇の神社は非常に少なく武神信仰は明治以前はなく、御名方富命を祀る諏訪神社が日本中に多々あります。ナガ族である当家が何故か日本国初代神武天皇を祭祀していたのだろうと謎でその謎を追いかけて来ましたが、ようやく分って来ました。
神武天皇とは、記紀では一人ですが、複数の方を合体させたのが神武天皇だったのでしょう。
記紀を創作した当時の権力者は、万世一系を唱えアラヒト神となり自称神武だった10代崇神天皇と息子の11代垂仁天皇を日本国天皇の初代としたかった。このお二人の奈良への侵攻が初代神武天皇の話に反映されているのでしょうね。
一方的に片方を野蛮人と決めつけ、自らを正義の味方として相手方を征伐する手法は、白人VSインディアンの手法と同じで、現代の日本ではまだ通用してる??(^_^;
7人くらいの神武天皇候補が居るようですが、私が思う神武天皇はお二人。
一人は、東明聖王の朱蒙ともう一人は「カムヤマトイワレヒコ」に相当するのは、応神天皇」かな~と。(^.^)
狭野神社は蒲牟田(かまむた)であり、「ほむた」とも読めます。秦氏系の応神天皇は、ホムタ大王とも云いますし、大陸で前秦を建国したもと蒲(ほ)の一族(チベット系氐族=縄文)の符氏が前秦が滅びて列島に渡って来たのではないか、チベット系氐族は、殷とも関係がありそうでです。秦氏といえば、史上初めて「皇帝」という称号を名乗った始皇帝も居ます。
朱蒙の生誕エピソードは、水神の娘と太陽神(宇宙神・天)のミトラ思想の蛇女神キと牡牛神ハルが元になっています。また東明聖王(朱蒙)は、インドから列島まで宝貝交易をされていたのかと。半島に渡り高句麗を建国してまもなく王莽に殺されたようで、「高原町」とは、この方由来かと。当家の名前とそっくりな王名で驚きました。
wikiより
「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、夫余・高句麗・百済に共通して見られる。『三国志』所引の東明王の扶余建国神話や日本の神武天皇の東征伝説とも類似する。
『三国史記』高句麗本紀・東明聖王紀によると姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、チュモン)または鄒牟(すうむ、チュモ、朝鮮語: 추모)、衆解(しゅうかい。『三国史記』新羅本紀・文武王紀では中牟王、『日本書紀』天智天皇紀では仲牟王と書かれている。『三国史記』高句麗本紀・広開土王紀や百済本紀・義慈王紀によると、黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた。扶余の7人の王子と対立し、卒本(朝鮮語版)(ジョルボン、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に亡命して高句麗を建国した。
都城市に高城と三輪族ゆかりの桜地名が存在、「宮崎県都城市高城町桜木字永牟田」ピンクで囲んだところです。
朱蒙は、列島から出て高句麗を建国してまもなく王莽によって殺されて戻って来なかった説があるのです。
ですので、月氏勢力である大国主が三輪山で国作りを進めていたのではないかと。
狭野神社は、蒲牟田(かまむた)の地にあります。蒲牟田とは、釜牟田であり、「かまむた・かまぶた・かまんた」で、ヌナカワ姫から生まれた出雲の建御名方命に繋がり、ヌナカワ姫がシンボルの上越の釜蓋(かまぶた)遺跡にも繋がりました。
江戸時代に描かれた物部守屋を弓矢で射た聖徳太子のパルティアンショット図なんですが、江戸の庶民は聖徳太子の何を知っていたのでしょうか。ますます明治維新とはなんだったのかと疑問が湧いてきますね。
あとで聖徳太子の謎もブログで書いて行きたいと思ってます。
お読みいただき有り難うございました。(*^。^*)
まだまだ謎が多いので調査して行きたい。
追記:
今朝、亡くなっている?寝ているような人の体から赤と青のチューブが2本出ていて、チューブの先に青と赤の液体がこんもりと山積みされている夢を見ました。日本原住民を虐めている赤鬼青鬼は滅びるのでしょうか。(>_<)
歴史の事実が日本の皆様に伝わりますように。
服部順治さんのブログで興味深いお話が出ています。
ただ一つ、福島に多くの宗像族が移住しているのは確かですが、宗像族ゆかりの貝塚が南九州にあるので済州島とは関係ありません。(^_^;三女神信仰は世界各地にあります。よろしければお読みになって服部さんの温かいお心を感じてください。
追記の追記:月氏族(弓月の君)の秦氏と徐福末裔の物部氏は同族ではない。
佐賀の金立神社の祭神は、徐福となります。この方は秦の始皇帝の依頼を受けて不老不死の薬を探しに列島に到来、秦の徐福と名乗りますが、族種は秦氏ではなく物部氏のご先祖。驚いたのですが藤原氏の先祖でもあるかも。(^.^)
斎木雲州さんは、物部の族長のニギハヤヒ=徐福と主張されています。
豊後大友氏は、藤原氏が先祖で春日神社を祭祀してます。
徐福を祀る金立神社の神紋と豊後大友氏の紋所が同じでビックリしました。(^.^)
藤原氏も徐福と同族なのでしょうか。
同じ紋所ですね。(*^。^*)
次のブログのお話は、記紀では初代神武天皇の東征話ですが、現実は初代神武の時代ではなく、10代崇神と11代垂仁の時代の話し。神武東征とは、徐福子孫の物部族を率いた崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)と垂仁天皇(イクメイリヒコ)が、日本先住民と戦った話し。ミケヌ=ミケイリヌのことで、同じ「イリ」が入っております。
『筑紫・物部政権「ナギサタケ」王の御子に、「五瀬」(イツセ)がいた。
彼は紀元1世紀頃には、筑秦国の指導者であった。
五瀬は、弟「三毛野」(ミケヌ)や「稲飯」(イナヒ)と協議し、物部王国の遷都計画を立て、好機をねらっていた。
ついに五瀬は大和地方へ進軍することを決め、165年(後漢の恒帝治世)、船団を組み、まずは南九州へ向けて有明海を出航した。
五瀬らは肥後国に停泊し、球磨川流域で多数の屈強で若い兵士を集めた。
彼らは「久米ノ子」と呼ばれ、森林を走りまわっていたので、白兵戦が上手であったと云う。』(抜粋ここまで
物部氏の本拠地は北九州で佐賀付近で、当時は中央集権はなく、古代列島は多種多様な国がありました。
西都原に調殿(月殿)があり、月氏族が暮らしていました。
物部氏である古代名族の土持氏が宮崎県の日向国に入って来たのは、歴史的事実として確認されているのは平安末期であり、それ以前は物部氏は日向に来られてません。土持氏は、中世日向の大豪族。
宮崎県には南米まで到達した古代縄文人が居て彼らは北極星を目印に遠距離航海をしており、北辰信仰一万年の歴史があります。
皇室の祖先が高天原から降臨して来たというのは、神話であって現実ではなく、歴史ではない。(*^。^*)