碧玉の歴史旅(仮題)

碧玉の歴史旅(仮題)

ただいま再開準備中です。地味に歴史調査をしています。温かい目で見守っていただけると嬉しいです。よろしくお願いします。m(_ _)m

Amebaでブログを始めよう!

長脛日子=建御名方富命(ミナカタトミ)でした。びっくり

建御名方(富)命は、列島で非常に人気のある神様で『諏訪信仰に分類される神社は全国6位(2,616社)』wikiより

九州に来て諏訪神社付近で起きる不思議があり、ご先祖が送ってくるメッセージが通常の常識とあまりにも違っていて事実を認識するのに時間がかかりました。笑い泣き

 

宮崎神宮(狭野神社を元に建立)に行ったところ、龍神(天白神、北斗七星・昴)が出て来ました。

五次元?の世界は喜びの世界か?宮崎神宮の境内を楽しく飛んでいます。(^_^;

狭野神社の神武天皇は、本物のカムヤマトイワレヒコであるのだと。照れ虹おうし座

 

天白神とは、星神で、北斗七星・プレアデスのこと。星空

諏訪大社の神楽歌には「天白は星の次第の神なりや月の輪に舞え」、「天白は星の位の神なりや月の輪に舞え」と歌われています。

 

ナガとは、神武の敵?どうして神武の社にうれしそうに龍神が出てくるわけ???

皇国史観たっぷりの記紀を刷り込まれた頭にはあまりにも違う話で。( ̄∇ ̄)ウーン

 

当家が行くと現れる龍神の不思議。

熊本県上益城郡山都(やまと)町の虹ともに龍神が出て来た龍宮滝

 

それで宮崎県児湯郡新富町にある当家と同じ苗字の「永牟田遺跡」の付近を調査したところ、三輪山付近にある地名と合致。「富(トミ)地名」と「大和(やまと)池」がありました。びっくり

三輪山近くの等彌(とみ)神社、富雄川とも繋がりました。

 

蛇のことを「ナガ・ナガラ」ともいいますが、「トビ・トビノオ・トベ・トメ・トミ」ともいい、漢字の「富」が地名として多く、「富岡、富永、富雄」などが上げられます。

 

後期旧石器時代~の永牟田遺跡は、「富」地名がある新富町に存在し、近くには大和(やまと)池まであり、池の畔には新田諏訪神社もありました。

 

宮崎県児湯郡新富町大字新田字永牟田

 

 

永牟田遺跡の隣は新田原古墳群で、新富町新田支所の隣に大和(やまと)池があり、池の畔に新田諏訪神社も在る。

 

「トミ」地名は南九州に多々あり、延岡にも「遠見山」、「富美山」など離れた地域に広範囲に分布。

 

 

新田原は、「にゅうたばる」と読みますが、朱が採れたので「にゅうた」と読みます。
辰砂(しんしゃ、英: cinnabar)は硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。水銀の重要な鉱石鉱物。(wikiから画像とテキスト借用。
「朱沙は朱色の顔料で、古代日本では「丹石(にいし)」と

呼ばれる朱色の顔料を使っていたらしい。

 

新田原の近くの古墳群から出土した土器にも、この顔料が

塗られていたそうだ。

 

この丹石(にいし)の産地から、「丹生田」(にゅうた、にうた)に

呼ぶようになり、当て字に「新田」を使うようになったと考えられて

いるようだ。

 

次のブログ様から転載させていただきました。m(_ _)m

 

 

 

番号

名称・指定日

内容

 

新田原古墳群(にゅうたばるこふんぐん)

 

指定年月日

(昭和19年11月13日)

総数207基の古墳が町の北西部を中心に点在します。その集中部は4つに大別でき、最近では祇園原(ぎおんばる)・山之坊(やまのぼう)・石船(いしふね)・塚原(つかばる)の4つの古墳群と考えられています。

なかでも祇園原古墳群には、古墳時代後期でも宮崎県内で最大の首長たちの墓があります。最大の弥吾郎塚(やごろうづか)古墳は墳長94mに及び、古墳時代後期では南九州最大の前方後円墳です。

最近発掘された百足塚(むかでづか)古墳からは、県内でも始めて完全な形で発見された人物はにわを含む多種多様なはにわ群が姿をあらわしました。

 これらのはにわは当時の大和政権との密接なつながりをしめすものとして重要な出土品です。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 百足塚古墳から出土したはにわ         

                       

 百足塚古墳から出土したはにわは円筒はにわと形象はにわの2種類があり、このうち形象はにわは人物や動物、建物の形を表

現したもので、宮崎県を含む南九州で、これほどの数や量が発見されたのは始めてです。

復元中の百足塚古墳

 百足塚古墳は古墳の長さが80mの前方後円墳です。周囲には盾形周溝と呼ばれる溝が掘られ、さらにその周囲に堤がめぐります。

  古墳は2段に造られており、各段と堤の上には円筒はにわが約1000本並べてありました。堤の一角には人物や動物などの形象はにわが60個体立ててあったようです。

 

新田原(にゅうたばる)古墳群 テキストと画像は新富町役場様からお借りしました。

 

富田と書いて「トンダ」と読む海の近くの古墳群もありました。

古墳時代前期における一ツ瀬川流域河口部を支配する首長墓が富田村古墳です。


 

大和で神武天皇と戦ったという「トビノナガスネヒコ」(トミノナガスネヒコとも)は、月氏勢力でニニギノミコトの後裔と小林恵子氏は説いてます。長脛彦は、賊ではなく「彦・日子」が付くので皇族。(ニニギノミコトの母親はタクハタチチ姫で阿波古事記ではオオゲツ姫)

 

また宝賀寿男氏は、「登美建速日命」が登美彦・長髄彦であるならば、建日別命はその父の位置にある天八現津彦命とも同人だと。

長国造の領域は阿波国那賀郡の那賀川流域が中心であったが、その周辺には、勝浦郡の式内社の事代主神社や、名方郡の式内社の多祁御奈刀弥神社タケミナカタトミ。名西郡石井町浦庄字諏訪に鎮座し、諏訪神たる建御名方命・八坂刀売命夫妻を奉斎)など三輪・諏訪一族に関係が深い古社が存在しており、これらの社も長国造一族が祀ったとみられる。」

 

当家(永牟田氏)は、実は阿波とゆかりがあり、祖父は祖母を阿波の士族の家からお嫁さんとして迎えています。ニコニコ

 

 

長脛彦=建御名方刀美命(諏訪神)であるとしたならば興味深い歴史的事実があります。

薩摩の島津氏は、清和源氏頼朝流で、島津氏と名乗る前は秦氏である惟宗忌寸流朝臣をもともと名乗り、薩摩藩は諏訪大社を勧請し、島津氏累代によって崇敬。鹿児島県にある諏訪大社系の神社は、ほとんどが「南方(みなみかた)神社」と称します。

 

また宮崎県延岡市には、南方(みなみかた)古墳群があります。延岡の古墳も諏訪と関係があるのではないかと思ってますが、次の天下(あもり)神社は、ニニギノミコトとササノ姫の墳墓だと80年前に鳥居龍造博士が調査結果を報告しています。

 
 
ニニギノミコトを祀る延岡の竹谷神社では、可愛岳頂上の鉾岩上空に昇る北極星を多くのイワクラが仰ぐように並んでいます。
近年竹谷神社で見つかった明治時代に造られた瓊々杵尊像は、虹と笹に乗っています。虹
虹とは、ナーガであり、トビ・トミでもあり、延岡市と都農町には、笹地名月地名が存在。ニコニコ
 
川崎真治は「サララ」とは七枝樹のことだと説いてます。
狭野神社が祭祀する「カムヤマトイワレヒコ」という「サヌノミコト」とは、ササゆかりの方だったのでしょうか。
 

秦氏の島津の紋は、古代太陽教、古代世界宗教であったミトラ教に繋がります。

古代太陽信仰のシンボル太陽十字を表す十字の縄文時代の土偶が東北地方で多々発掘されています。

薩摩川内市に新田神社があり、主祭神は、ニニギノミコトで祭祀者は秦氏である惟宗(これむね)氏となります。

島津氏に古代ミトラ教の戦士民俗が残り、新羅の花郎(ファラン)の系統で名門の美少年を先頭に厳しい軍事訓練を山中で行なっていました。

 

 

十数年前に宮崎県高原町の狭野神社を参拝してから、何故か?出雲系の神社から出てくる龍神と牛神。

画像の一段目は、シュメール出土円形印章殷影図でハルキ神と生命樹のシンボルが出て来ます。(^_^;

2段目の画像2枚は殷墟から出たペトログラフで、三輪山にある殷人ゆかりの三つ鳥居に繋がる??

川崎真治さんの「日本最古の文字と女神画像」に掲載されています。

 
 

 

「牡牛神ハルは、太陽神で蛇女神キは水神で両者から命(生命樹)が生まれる」という思想が古代日本にも世界各地にありました。

 

シュメール印章そのもののハルキ神は熊本の小山諏訪神社の近くで大空に浮かび上がりました。

千年以上前の建立の諏訪神社の上空だったんですねえ。(^_^;

記紀の話しは違うと伝えたかったのでしょう。(^_^;

古代列島のあちこちに蛇女神キと牡牛神ハルは、ペトログラフとして残っています。

記紀ではタケミナカタトミはタケミカヅチに負けて逃亡、その上、トミノナガスネヒコは、賊として神武天皇に倒されます。

が、勝利者の神武天皇の神社は非常に少なく武神信仰は明治以前はなく、御名方富命を祀る諏訪神社が日本中に多々あります。ナガ族である当家が何故か日本国初代神武天皇を祭祀していたのだろうと謎でその謎を追いかけて来ましたが、ようやく分って来ました。

 

神武天皇とは、記紀では一人ですが、複数の方を合体させたのが神武天皇だったのでしょう。

記紀を創作した当時の権力者は、万世一系を唱えアラヒト神となり自称神武だった10代崇神天皇と息子の11代垂仁天皇を日本国天皇の初代としたかった。このお二人の奈良への侵攻が初代神武天皇の話に反映されているのでしょうね。笑い泣き

 

一方的に片方を野蛮人と決めつけ、自らを正義の味方として相手方を征伐する手法は、白人VSインディアンの手法と同じで、現代の日本ではまだ通用してる??(^_^;

 

7人くらいの神武天皇候補が居るようですが、私が思う神武天皇はお二人。

一人は、東明聖王の朱蒙ともう一人は「カムヤマトイワレヒコ」に相当するのは、応神天皇」かな~と。(^.^)

狭野神社は蒲牟田(かまむた)であり、「ほむた」とも読めます。秦氏系の応神天皇は、ホムタ大王とも云いますし、大陸で前秦を建国したもと蒲(ほ)の一族(チベット系氐族=縄文)の符氏が前秦が滅びて列島に渡って来たのではないか、チベット系氐族は、殷とも関係がありそうでです。秦氏といえば、史上初めて「皇帝」という称号を名乗った始皇帝も居ます。

 

 

朱蒙の生誕エピソードは、水神の娘と太陽神(宇宙神・天)のミトラ思想の蛇女神キと牡牛神ハルが元になっています。また東明聖王(朱蒙)は、インドから列島まで宝貝交易をされていたのかと。半島に渡り高句麗を建国してまもなく王莽に殺されたようで、「高原町」とは、この方由来かと。当家の名前とそっくりな王名で驚きました。

 

wikiより

「東明」を始祖にする建国神話・始祖伝説は、夫余・高句麗・百済に共通して見られる。『三国志』所引の東明王の扶余建国神話や日本の神武天皇の東征伝説とも類似する。

『三国史記』高句麗本紀・東明聖王紀によると姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、チュモン)または鄒牟(すうむ、チュモ、朝鮮語: 추모)、衆解(しゅうかい。『三国史記』新羅本紀・文武王紀では中牟王、『日本書紀』天智天皇紀では仲牟王と書かれている。『三国史記』高句麗本紀・広開土王紀や百済本紀・義慈王紀によると、黄帝の孫の高陽氏、黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた。扶余の7人の王子と対立し、卒本(朝鮮語版)(ジョルボン、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に亡命して高句麗を建国した。

 

 

都城市に高城と三輪族ゆかりの桜地名が存在、「宮崎県都城市高城町桜木字永牟田」ピンクで囲んだところです。桜

 

 

 

 

朱蒙は、列島から出て高句麗を建国してまもなく王莽によって殺されて戻って来なかった説があるのです。滝汗

ですので、月氏勢力である大国主が三輪山で国作りを進めていたのではないかと。

 

狭野神社は、蒲牟田(かまむた)の地にあります。蒲牟田とは、釜牟田であり、「かまむた・かまぶた・かまんた」で、ヌナカワ姫から生まれた出雲の建御名方命に繋がり、ヌナカワ姫がシンボルの上越の釜蓋(かまぶた)遺跡にも繋がりました。

 

江戸時代に描かれた物部守屋を弓矢で射た聖徳太子のパルティアンショット図なんですが、江戸の庶民は聖徳太子の何を知っていたのでしょうか。ますます明治維新とはなんだったのかと疑問が湧いてきますね。

あとで聖徳太子の謎もブログで書いて行きたいと思ってます。ニコ

 

お読みいただき有り難うございました。(*^。^*)

まだまだ謎が多いので調査して行きたい。

 

追記:

今朝、亡くなっている?寝ているような人の体から赤と青のチューブが2本出ていて、チューブの先に青と赤の液体がこんもりと山積みされている夢を見ました。日本原住民を虐めている赤鬼青鬼は滅びるのでしょうか。(>_<)

歴史の事実が日本の皆様に伝わりますように。

 

服部順治さんのブログで興味深いお話が出ています。

ただ一つ、福島に多くの宗像族が移住しているのは確かですが、宗像族ゆかりの貝塚が南九州にあるので済州島とは関係ありません。(^_^;三女神信仰は世界各地にあります。よろしければお読みになって服部さんの温かいお心を感じてください。

 

 

 

追記の追記:月氏族(弓月の君)の秦氏と徐福末裔の物部氏は同族ではない。

 

佐賀の金立神社の祭神は、徐福となります。この方は秦の始皇帝の依頼を受けて不老不死の薬を探しに列島に到来、秦の徐福と名乗りますが、族種は秦氏ではなく物部氏のご先祖。驚いたのですが藤原氏の先祖でもあるかも。(^.^)

 

斎木雲州さんは、物部の族長のニギハヤヒ=徐福と主張されています。

 

 

豊後大友氏は、藤原氏が先祖で春日神社を祭祀してます。

徐福を祀る金立神社の神紋と豊後大友氏の紋所が同じでビックリしました。(^.^)

藤原氏も徐福と同族なのでしょうか。

同じ紋所ですね。(*^。^*)

 

次のブログのお話は、記紀では初代神武天皇の東征話ですが、現実は初代神武の時代ではなく10代崇神と11代垂仁の時代の話し。神武東征とは、徐福子孫の物部族を率いた崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)と垂仁天皇(イクメイリヒコ)が、日本先住民と戦った話し。ミケヌ=ミケイリヌのことで、同じ「イリ」が入っております。

 

 

『筑紫・物部政権「ナギサタケ」王の御子に、「五瀬」(イツセ)がいた。
彼は紀元1世紀頃には、筑秦国の指導者であった。
五瀬は、弟「三毛野」(ミケヌ)や「稲飯」(イナヒ)と協議し、物部王国の遷都計画を立て、好機をねらっていた。

ついに五瀬は大和地方へ進軍することを決め、165年(後漢の恒帝治世)、船団を組み、まずは南九州へ向けて有明海を出航した。

五瀬らは肥後国に停泊し、球磨川流域で多数の屈強で若い兵士を集めた。
彼らは「久米ノ子」と呼ばれ、森林を走りまわっていたので、白兵戦が上手であったと云う。』(抜粋ここまで


 

 

 

物部氏の本拠地は北九州で佐賀付近で、当時は中央集権はなく、古代列島は多種多様な国がありました。

西都原に調殿(月殿)があり、月氏族が暮らしていました。

物部氏である古代名族の土持氏が宮崎県の日向国に入って来たのは、歴史的事実として確認されているのは平安末期であり、それ以前は物部氏は日向に来られてません。土持氏は、中世日向の大豪族。

 

 

宮崎県には南米まで到達した古代縄文人が居て彼らは北極星を目印に遠距離航海をしており、北辰信仰一万年の歴史があります。

 

 

皇室の祖先が高天原から降臨して来たというのは、神話であって現実ではなく、歴史ではない。(*^。^*)

 

いらっしゃいませ。♪(^o^)

古代日本の謎で気になったことを皆様にご紹介しております。

 

「都農」の都農神社の大国主命と出雲長浜神社のご祭神の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が繋がりました。

 

”出雲国風土記の冒頭を飾る「国引き神話」は、綱をかけ海のむこうから土地を引き寄せ縫い合わせた国土生成の話”が、八束水臣津野命の神話です。

 

弓月=ヤマトということもわかりました。

弓月の君とつながる三日月神社と三日月原神社と三日月原が都農町に現在も存在します。

本日はさらっとした流れだけの説明でご容赦ください。;m(_ _)m

 

宮崎県宮崎市の青島神社には宝貝の祈りがあります。

古代縄文人は宝貝をインド洋付近で採って沖縄で加工し、殷に販売していたと考えております。

三輪とは出雲で有り殷人(殷・インド・忌部かと)が居たところで宝貝に繋がるかと思います。三輪山の大神神社には、特殊な三つ鳥居があり、神社様のHPによると起源は古すぎてわからないそうです。

真砂とは宝貝のことです。

 

出雲長浜神社の宮司は、秦和憲様でした。ニコニコうれしかったです。

長浜神社の鳥居は、三輪族ゆかりの殷族ゆかりの三社鳥居であり、男女の石神も祀られてます。北辰信仰も天神社ありました。

また非常に興味深い文献も吉備歴文会様にUPしてありました。クローバー有り難うございます。

内容が濃く、学術的見地に立ったレベルの高い歴史会様で、動画もありました。

 

出雲市にある 長浜神社 は出雲大社の南6kmほどの所にある歴史の深い神社です。
主祭神は八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ の みこと)という神様で記紀とほぼ同時代に編纂された我が国最古級の書物「出雲風土記」に登場し出雲を造ったとされています。

 

弓ヶ浜、妙見(北辰)信仰もありました。

 

 

都農神社と八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)

 

都農町にある都農神社は大国主命を祭り、宮司は永友氏で「ナガ」で歴史或る社家様

 

長浜神社は、八束水臣津野命(大国主)を「津野命」をお祭りされて宮司は秦氏様でした。

 

日向一の宮の都農神社には、推古天皇の御代に「秦 河勝」奉献の古神面が現存しています。

 

縄文の十字の土偶や秦氏の太陽十字は、ミトラ(太陽)信仰のシンボルで古代インダス文明に繋がるかと。

 

 

秦氏の先祖とされる弓月の君のwikiの説明:弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ/ユンヅ、生没年不詳)は、『日本書紀』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王とも称され、秦の始皇帝の後裔とされている(wikiより)

 

秦氏の故郷は、弓月国(ヤマト)

秦氏の故郷、弓月国 佐伯好郎氏(早稲田大学)は、秦氏の故郷・弓月国(クンユエ)は中央アジア天山山脈 の北に位置しカザフスタンのバルハシ湖の南、イリ川付近にあったと報告している。 昔、この地はクルジア(Kuldja・弓月城)と呼ばれていた。現在でもシンチャンウイグル 自治区の中に、クルジアと呼ばれる町がある。

 

大和の語源「ヤマトゥ」と大和山(吉備中央町) クルジアのすぐ東南 50km 位のところ、イリ川上流に「ヤマトゥ」という小さな村がある。 中国人たちは「弓月」と言い、彼らは「ヤマトゥ」と呼んでいた。「ヨセフ・アイデルバー グ氏説では、「ヤマトゥ」が「やまと」の語源と指摘している。 岡山県加賀郡吉備中央町に大和山 608.4m がある。明治 22 年の市町村制施行で吉備郡大 和村となる。大和山が語源である。秦氏が自らの故郷を偲ぶ名前を付けたと考える。山の 名前は古い。渡来人は最初に見晴らしの良い山に登り、安全を確認し、平野におりる。こ れが天下るの意味である。

 

大国主を祀る日向一の宮都農神社がある都農町に「三日月原神社」と「三日月原」という地名があります。

左下の黄緑で囲ったところが三日月原と三日月神社です。

赤い丸は都農神社で、濃い緑は都農駅です。(^o^)

「三日月神社」と「三日月原神社」と「三日月原」で、月地名が存在。

都農町に三日月神社を訪ねました。

 

「三日月原(みかつきばる)神社」様

神社の扁額です。

 

地元の方にもう一つ、三日月神社様を教えていただき訪ねました。

三日月神社様の鳥居です。

古い信仰が残っている都農はすごいところですね。

三日月の形が描かれている石神様がいらっしゃいました。

お参りすることが出来て感謝、感謝です。

山があり、海があり、美しい畑が広がる都農の風景

自販機に貼ってあった都農町のキャラクターでつのぴょんです。

畑と海のコラボの都農の風景帽子が素敵♪(^o^)

 

 

秦氏と三輪のゆかりのおはなし

秦氏の子孫である世阿弥は、「風姿花伝」の中で、不思議な秦氏の由緒を述べています。

 

まずインドの釈迦の話から始まって、秦河勝は、エジプトを脱出したモーゼのように川から流されて、三輪山の神杉の川のほとりで拾われた嬰児(赤ちゃん)、その子は始皇帝の生まれ変わりであると述べてます。※(名は嬴政または趙政ですね)(*^。^*)

そして聖徳太子が神楽を申楽と名付けたと、秦河勝はインドの毘沙門天と説明。(「補陀落渡海」とは、補陀落を目指して船出するような話しと極めて似てます。ニコニコ
 
風姿花伝 第4の現代語訳です。こちらに詳細に掲載されています。有り難うございます。

 

 

そして、そして秦氏は百済から来たとされてますが、新羅の間違いであると定説です。

 

「弓月の君率いる秦氏の謎」
日本書紀で伝えられるところによると、応神天皇の時代に秦(しん)の始皇帝の子孫である「弓月の君」が百数十県の民、数万人を率いて、百済から渡来してきたという。秦氏(はたし)の研究で発掘された遺跡には新羅系の物が多く、日本書紀が新羅を百済と間違えたとするのが定説である。秦氏は、土木、製鉄、養蚕、機織りの技術を持って渡来し、山城(現在の京都府)を中心に大和朝廷を支え、平安遷都にも大活躍したという。聖徳太子の知恵袋的存在であった秦氏の秦河勝は有名で、弥勤菩薩で知られる広隆寺も秦氏の氏寺である…

下記のサイトからの抜粋

 

 

 

高千穂では、古代太陽信仰族と熊襲族(百済族)との戦いがじつはあったわけです。倭国が滅亡した白村江の戦いののちに列島に大量に来られた百済族は、もともと熊信仰をされていました。

 

この高千穂神社の夫婦杉に出て来られた方々は、超古代の太陽信仰族(ミトラス教・弥勒信仰族)の方々で、アラハバキ神となり、日本の重要な神社に隠れ神として祀られています。高千穂では、太陽信仰族の後裔の方々は鬼八とされて、熊襲族であるミケイリヌ命に倒されたのでしょう。(イリ族で熊信仰か)←ここがポイントで後で説明します。

三輪王朝を始めたという崇神帝は、何故か??三輪族の神を畏れて大物主も天照大神も外に出され、奈良の一部分で狭い地域しか治めることが出来ませんでした。(三輪族とゆかりがなく、三輪山はご先祖ではなかったのです。十代崇神が伊利可汗(イリグカガン)で、十一代垂仁が、頡利可汗(イリカガン)で、この方々と初代神武天皇のカムヤマトイワレヒコのゆかりが混ぜ混ぜされているので日本の歴史は大混乱しています。久米とは熊族のことですね。また詳しく説明します。

 

日向市にある大御神社に五千年前の巨大蛇神が出現する洞窟がありますが古代太陽信仰の名残で、大御神社は、日向のお伊勢様として太陽神を祀っています。

金色に太陽のように輝く天孫族

弥勒菩薩

ミトラ教の歴史は非常に古く、原始世界宗教とも原始太陽教とも原始キリスト教とも言われます。

 

川崎真治さんの話しは以前にもブログに掲載していますが、川崎真治さんは、「アラ」は「アブ(父)・ラーブ(獅子)」、「ハバキ」は「母・キ(地母神)」、七枝樹二神の牡牛神ハルと地母神キは「ハルキ」→「ホウキ」、伯耆のホウキ、としていました。(こちらも詳しく説明しますね。(^o^)

 

 

記紀とは当時の最高権力者が造った権力者の為の「神話」であり、歴史的事実とはまた違います。当時の中国に日本は長く続いている立派な国として誇り高く紹介したかったのと、当時の有力豪族の由緒の権威の格付け(カースト)を作成したわけです。

 

もともと大和とは、部族連合国家でした。都合の悪い話しもありますが、出して説明すればなるほどスッキリされるかも。隠されていることを出来るだけ出して行きたいと思っています。(*^。^*)

 

それから誤解のないように記しておきますが、宮崎県は橘がシンボルだったかと思うのですが、wikiを見たら消えてます。(^_^;ウーム

宮崎県に「橘」を冠した通りなどがありますが、全て祝詞由来で明治時代以降に付けられた名称が多く、歴史的には関係ありません。

 

橘族が古代海人族で熊襲だったとするブログを見掛けることがありますが、人吉盆地に居られる橘族は、鎌倉時代に源氏と平氏に仕えていたのですが、武士はやめ地頭として、東北地方の秋田県から熊本県人吉に入られた歴史的事実がありますので、古代南九州と関係ないです。橘族自体が新しい族種で藤原不比等との係わりで有力豪族として成立されてます。人吉の歴史資料館で橘族の展示があれば拝見したいと思っています。歴史的事実を踏まえての展示を期待しています。ニコ

もう一つ、記紀では久米が勝利したように書いてあるのですが、日本には武神としての久米信仰がありません。むしろ、負けたとされるタケミナカタトミノミコトの諏訪信仰は、全国で盛んで武神としても信仰されています。本当は逆なんでしょうか。不思議ですよね。(^_^;

 

関係ない話し削除しました。

 

 

 

以前ご紹介しましたが、再度紹介。

皇族が来られている熊本県の永尾(えいのお)神社です。

 

先日、皇嗣殿下となられた秋篠宮様が2015年に来られています。

重要な神社が永尾神社でございます。

 

ご祭神は、玉依姫

 

玉依姫とは、

 

日本神話で、海の神の娘。鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の妃となり、神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)(神武天皇)ら四子を産んだ。

 

という伝承があります。

 

日本国初代神武天皇とは、神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこ)というお名前です。

「ヤマト」がつきます。


永尾神社は、海童神(玉依姫)が巨大な「えい」の背中に乗ってはるかかなたより鎮座された、との伝えもあります。エイの尾にある剣から、別名を「剣神社」とも称します。「剣」というと思い出すのは、四国の剣山ですね。この地には忌部氏がいます。三輪山には鳥居の形から殷族がいました。

ツイッターからのご紹介です。

 

四国の剣山にピラミッドがあるそうです。

尾に針があるのは、蜜蜂で秦氏と「蜂」が関係あるという話しがあります。(^_^;

 

 

秦氏の寺院に蜂岡寺があります。

広隆寺 (こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある真言宗系単立の寺院。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、地名を冠して太秦広隆寺とも呼ばれる。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。毎年10月12日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られるが、不定期開催となっている。

 

尾に針がある「蜂」と「弥勒菩薩」まで繋がりました。牛もですね。おうし座

追記:聖徳太子も繋がりました。(^_^;

 

不思議なのですが、当家が高千穂神社を初めて参拝した日は、霙交じりの真っ暗な天気だったのですが、夫婦杉を撮影したところ、神秘的な写真が撮れました。笑顔の女性が赤ちゃんを抱っこしています。

ここはムー大陸もしくはレムリアの一部だったのでしょうか。古代に黄金人がいたそうです。虹

弥勒菩薩も出て来られました。

兜率天 (とそつてん) の 内院 に住み、 釈迦 (しゃか) 入滅 から56億7000万年後の未来の 世 に 仏 となってこの世にくだり、 衆生 を救済するという 菩薩 が弥勒菩薩です。高千穂神社は兜率天??(*^。^*)

 

次は熊本県上益城郡山都町の龍宮滝です。(ヤマト)

こちらも初めて龍宮滝に行ったところ、虹と龍神が出て来ました。

あたりはキラキラとして美しい霧が立ちこめていました。

不思議な時間が流れ。

 

風光明媚な宝貝の祭祀がある青島神社の宮司は、長友宮司様で、出雲族と素戔嗚尊を祀る日向一の宮は、都農神社で永友宮司様。

どちらも「なが」ですね。

当家は、80年前まで高原町に居た「永牟田氏」で、日本国初代神武天皇と天孫族を祭祀する狭野神社と係わっておりました。

200年近く前の江戸時代の「高原町所系図」にも掲載されています。

文書を記録して下さった方も永濱(ながはま)様です。

当家は士族でありました。

戦前の戸籍簿にも「士族」と明記されております。

 

 

後期旧石器時代~鎌倉時代までの永牟田第1遺跡と永牟田第2遺跡とが近年発見されました。

明治維新の謎も少しずつ出して行きたいと思っています。

 

宮崎市の跡江貝塚遺跡で地元のアマチュア研究家の日高祥氏より南米バルディビア土器文明そっくりの縄文土器が発見されています。次は2003年から情報発信をされている権藤さまのHPです。とても親切な方です。おねがい

 

「太平洋岸宮崎でバルディビア土器風の縄文土器を発見!」

 

 太平洋岸に面した宮崎市で、南米エクアドルのバルディビア土器とそっくりの文様を持つ縄文土器群が発見されていた。エクアドルのバルディビア土器とは、米国スミソニアン協会のエバンス博士夫妻により縄文土器とそっくりの文様を持つ土器様式として、1965年に発表されたものである。博士らはバルディビア土器文明が唐突に始まっている事から、日本の縄文人が土器文化を携えて太平洋を渡り移住してきたのだと主張している。しかし、バルディビア土器にそっくりの文様を持つ縄文土器は、九州の熊本の土器に限られ、それ以外の地域では、わずかに鹿児島などで発見された土器との類似性が認められる程度だった。
 縄文人が、太平洋を渡り南米にまで到達していたとすると、黒潮に乗って移住したに違いない。しかし、黒潮に乗って太平洋を渡ったのならば、何故、太平洋沿岸からバルディビアの土器と似た文様の土器が発見されないのか。この点が、これまで最大の謎だった。今回、宮崎でバルディビア土器とそっくりの文様を持つ土器が確認された事により、この最大の謎が解明されたと言えるだろう

 バルディビア土器そっくりの縄文土器が発見されていたのは、宮崎市の中心部から15分ほど車で大淀川を遡った跡江貝塚遺跡で、1961年地元のアマチュア研究家 日高祥氏により発見され県の史跡に指定されていた場所である。1961年と言えば、エバンス博士がバルディビアの土器と縄文土器の類似性を発表するよりも前である。それが、何故今まで表に出てこなかったのか?考えれば不思議な話であるが、それには理由があった。
 跡江貝塚の発掘調査は大分県の別府大学が行い、数々の文様土器が発見された事から県の史跡に指定された。しかし、調査をすれば、それでおしまいとする宮崎県の姿勢から、遺跡の大部分は宅地造成されてしまっている。現在では、貝塚の場所どころか存在すらも知るものはいない状態なのだ。跡江貝塚遺跡が、宅地造成で壊されていく中、発見者の日高氏は何年間にも渡り、造成で剥き出しになった遺跡の土器収集を行った。たまたま、日高氏にバルディビア土器の写真が目に止まり、今回の発見に繋がったのだ。おそらく日高氏以外に、跡江貝塚遺跡の土器文様を即座に思い出せる者はいなかったかもしれない。

 跡江貝塚遺跡は、公式には1万2000年前から7000年前の物とされているが、発見者の日高氏によるとアカホヤ層(喜界島噴火による火山灰層)の直下まで、土器が埋まっている事から、約6300年前の喜界島大噴火まで続いた土器文明であると言う。この遺跡からは、なんと24種類もの文様の土器が発見されており、文様の豊富さでは、九州随一だと言う。土器の底は、何れも平底で、中には雲母を混ぜきらきらさせた土器も存在する。更に、大量の無紋土器も発見されていると言う。又、この遺跡からは、愛媛県上黒岩遺跡から発見された物と同様の通称女神石と呼ばれる線刻石も発見されている。この女神石もバルディビア遺跡で発見され、縄文とのつながりを示す物とされている。しかし、残念ながら女神石は、みかん箱50箱以上にも及ぶ、日高氏の収集物の中に紛れ込み、現在も捜索中である。龍ここまで

 

 

跡江貝塚の土器とそっくりでしょう。6300年前の喜界島大噴火で縄文人は南米まで行っちゃったのでしょうか。(*^。^*)

次の権藤さまのサイトより抜粋しました。

 

こちらは動画もあります。

大変親切な久留米地名研究会様から許可をいただきました。ニコニコ

 

さて、五千年前の日向伊勢が浜にある縄文人手彫りの洞窟です。

中から外を見ると巨大蛇神が出現します。

面白い仕掛けです。

五千年前のシベリアのハカシア地方

7つの頭の生命樹

 

五千年前のメキシコにナーガ神

 

ナーガとは呉王家の守護神だったそうで、倭人の信仰していた生命樹思想のようです。

東南アジアでナーガを祀っているところが多々見られます。

 

現代の富美山にナーガが出て来てビックリ。

実は、高千穂のくしふる神社にも出て来ました。

 

上越の釜蓋遺跡の住所もヤマト(字釜蓋)となります。

 

ヌナカワ姫がシンボルの釜蓋(かまぶた)遺跡です。おとめ座

 

地上に描かれた星星霧島北斗七星の磐座と天孫族を祭る狭野神社が立地するのは蒲牟田(かまむた)の地。(*^。^*)

カマムタ=カマブタ=カマンタおうし座龍虹

 

 

熊本の装飾古墳も生命樹っぽくて面白いのであとでご紹介しますね。

縄文人は地球をぐるっと一回りしていたのでしょうか。(^_^;

鬼界カルデアの噴火で南米まで行ってまた戻って来ていたように思います。

カヌーでスイスイ??

 

 

 

日本正統皇統を主張される某地名研究会と当方は関係ありません。

私のブログは身分の話しはないですし、歴史的事実と遺跡を尊重。

ご自分たちが「日本正統皇統周王朝呉王家縄文海人なんたら族」と仰るなら、由緒を自分たちで証明すべきですね。

根拠を出して名乗られるのが良いかと。

当方とは無関係ですので迷惑をかけないでください。

証拠の物件をそろえて郷土の博物館、歴史資料館にご相談されてください。