3日の土曜日は、

生野学園の体育祭だった。


例の、
応援合戦がメインイベントという体育祭。

親子のふれあいで、

絆を作り直し、

強くなろう!

という意味の

子供達   VS   親


という構図で行われる。



.....って、


私には、

親の為の運動会に見えたけど.....











初回の、

生野での初めての体育祭。




体育祭なんかに全く興味がなく、

「そんなもん出ないし」

というスタンスの次男。


私が行くことで、

「ママに容認されているものなら、自分もここにいても安心なんだ.....」



という意識を知らずに持つ彼なので、



バイトの都合をつけて参加した。






思いの外中学生も参加してて、

何だまとまってるじゃん!


と、

少々安堵。




ははははは、
でも、

うちの次男はいつもの通り、

競技の途中で

「虫捕まえてきていい???」


とか言って、

虫網持ってふらふらしていたそーだ






先生たちはそんなやつ初めてで、

"えっ

と思いつつ容認、

笑ってた。



でも、それが彼なので、

私は驚かないし、

反対にある意味安心した。


それでこそ彼。



彼の本質は、

生野にあっても、

変わらずきちんと息づいていた。











体育祭だからとか、

生野でみんなとの協調性を図ることを日々肌に刻み込んでもらってるからといって、

自分のsoulに沿って動くことを忘れるなんて彼ではない。






ま、

親の私がこういうスタンスなので、

これまでの一般の学校での運動会に比べ、

大変に楽だった。

親もね








だがやっぱり、


バイトの疲れと寝不足で、

私のテンションは全く上がらず、

応援合戦を第三者的に眺めつつ

ぼんやり眺めてた。


.......とか言って、

うちの息子がいる中学の応援は、

可愛くって楽しかったが....




ま、でも

やっぱりさ、

やりたい人や好きな人がやればいいって思うんだな.....


人間、
適材適所って言うぢゃない.....



実際見てみて、

それなりの意味も理解はできた。

が、

自分の夢を実現すること以外に想像力が働かない私には、

他のことを考える余裕はなく、

申し訳ないが
めんどくさいし
どうか勘弁してほしい....
そもそもできる人がやれば機能的だよね...

って思う 








でも、

今日もQちゃんと話してて気づいてしまった。


やっぱりうちは、

ちょっと種類が違うらしい....




........おかげで微妙な違和感を常に感じてしまうんだね...

納得.....










おそらくはこう......





私は、

生のままの自分で子供達と接する。

自分の生身の感情を隠さない。

だから、

彼らに笑われることしょっちゅう、

悲しいことがあったら、

彼らがすっごく慰めてくれるし、

まるで友達。

彼らといる時だけ、

生きてる感覚を味わえると言っても過言ではない。

でも、

親としてものを言う必要がある時は、

断固として一本の筋を通す。

その時、

親としてブレることがあってはいけない。

譲れないことは、

相手がどんな状況にいようとも、

それで傷つくとわかっていても、

必ず言う。

親として、

遠慮はしない




そのせいか、
長男に言われる。

「オカンは俺の連れのオカンとは全然違う。
俺、俺のオカンがオカンでよかったって
ほんま思うねん。あいつら可愛そうやもん。
だから、頼むからそのままでおってな....」


だって......











長男を産み、
育てている間に、

私はすっごく悩んだ。


「親」

の私と

一人の人間としての「私」


どっちの私をメインにして、

彼と向き合うべきなのか.....




「親」の自分で彼と接すると、

自分に嘘をついてる気がして
大変な違和感を感じる。

きっとそれは、

息子も感じ取り、

私たちの親子関係や彼の未来が、

あまりよろしくない結果へとつながるだろう。

が、

自分自身のままで接すると、

きっと、

全く常識外れた人間に育て上げてしまい、

彼の人生の障害になるだろう。

果たしてどーしたら.....?




出した答えは、

「自分のありのままで子供と接しよう。
私のありのままを見せよう。」

だった。

だって、

そうじゃないと、

親としても自分としても無理をしてしまい、

子供に嘘やごまかしを身をもって教えてしまうだろう。

嘘のない、

生の人間を育てたい。





それから、

自分のままで、
親としての良識をも兼ね備えた人間になるべく、努力を始めた。


子供を育てる上で、
いろんなことを教える時に感じる、

自分の価値観と
世間一般の価値観との【差】、
あるいは【ズレ】を

共通の集合体の部分で自分と融合させる。








この融合は、


そうそう簡単ではなかった。


感覚で感じるだけで、

具体的にこういう場合はこう!

といったデータが何にもないから、

一つ一つ、

確認し、
方向を決めて、

まず自分に刷り込むのに、

時間を要した。


そしてそれには、

実体験による裏付けも必要だった。




結局 長男がいい体験版になってくれた。

でも、

そのおかげで、

長男との信頼と繋がりは

大変に深くて太い




が、

おかげで、

親としてぶれない私が出来上がった。









うちの長男も、

ほんと、
腫れ物に触るよう....って

こんな風なんだ.....

と思うほど、

大変に荒れ、
自分を見失い、
混沌とした日々を過ごした時期があった。



生野にお世話になっている次男は
ADHDで、

人の気持ちを察するだの汲むことはほぼできない。

苛立って、

ヒステリを起こし、

静かにしていても心ここにあらずで
人の言葉なんかまったく耳に入らない....という時期が多々あった。

それはまさにADHDの特徴ともいうべき、

自我に入り込んでしまっている状況だ。





だが、


私は容赦はしない。


相手がどんな精神状態で、

どんな状況下にあろうとも、

また、

病気だからとか、

相手が子供(まだまだ未熟という意味)だからとか、

理解できる水準に達していないからとか、

そんなことはお構いなしに、

私の心のズレ発見装置に引っかかったことは、

必ずハッキリという。

その時だけは、

彼らは普通に大人扱いされるわけだが、

親として、

どんな瞬間の刷り込みのチャンスも逃すべきではない。

聞こえていないようで、

刷り込みの効果とは恐ろしいもので、

必ず彼らの脳にインプットされている。

そして、

終いの果てにはそのようになっていく。




だから、

基本的な大事なことは、

必ず遠慮せずに言い渡す。


ただし

もちろん感情的にではない。

間を取り

目を見て

相手に伝わる言葉と方法を選び、

彼らの心に私の思いが届いたと確信が持てるまで、

時を変え、
何度も何度も言葉をかけ続ける

これが個人の個性に合わせるという一番大事なところ。








通常の子供たちが、

登校拒否になり、

生野にやってくる。





申し訳ないが、

登校拒否の根本原因がまったく違ううちの場合、

その気持ちや傷つき度合いは想像の域を超えない。




通常の登校拒否の場合、

その原因がわからず、

親は自分を責めまくり、

子供とのコミュニケーションの道を見失うのだろう。

それを生野では、
きっと、

もう一度生き方や考え方を学び直してともに変わっていこうとするのだろう。

それがビンゴで必要な人たちがたくさんいる。




が、
うちはそうではない。

子供とのコミュニケーションの道はいつ何時も失われない。

だって、

うちの息子らが迷路に入った時、

私だけが彼らの行く道を照らせるからだ。

何があっても、

生身でお互いに触れ合い関わってきているから、

生野の応援合戦で、

これまで見せたこともないグダグダの私を見せる必要がない.....

って、

彼らに見せたことのない私なんてないし....



そこが、

うちは違うと言われたのだ。




どーであれ、


枠にはめられずにタラタラと進められて行く生野の体育祭は、

次男にはうってつけだった。

なんせ、
お菓子食べてジュース飲んで
しながらの体育祭だ。

普通の学校じゃご法度な事が、
さもありなんとできるって
考えられる


もちろん、

虫取りもゲームもOK。


夢のような体育祭じゃないか 



ありがとう、

生野学園