今日も鉄売ってお金になったよ。
ここは宝が眠る家だね。
お爺ちゃんは収集家なのか物持ちがいいのか…
この敷地の広さと物の多さ。
片ずけしてるとね、無意識に背負ってきた荷を降ろしてる感じがするの。
知らず知らずに洗脳された考え方ともおさらば。
自分の身を酷使してでも人のために尽くす…なんて意味の額が出てきたんだけどこれも気持ち良くサヨーナラ。
私には忘れない一言がある。
片付けしてたときに天国でいる叔父さんが綴った日記の一文。
『最高道徳という不道徳である』
肚に落ちちゃったんだよね。
祖父の時代からずっと大切にしてきてた道徳論。
その教えに従ってきた家族。
その教えに理解ができなかった家族。
私は後者。
人のためにするのがダメとは思わない。
ただ自分の身を削ってでも人が喜んでくれるためなら精一杯尽くす…なんてことは可笑しな話。
幸せ論を唱えてる人たち、人のために一生懸命な人たち、道徳というものを信仰してる人たちの家族がいつも満たされ、幸せそうだったらきっと祖父が大切にしてきた道徳を素直に受け入れた。
でもね、この教えは私には理解できないんよ。
私は常に他人に尽くすでも自分に尽くすのでもなく、己があるがままに生きること、無意識に自然に湧き上がるものをただ受け取るだけの生き方で自分が感じる楽しいを選択すること。
ゼロの状態、ニュートラルの状態って言ったらいいのかな。
だからって祖父や父が大事にしてることを否定するのではないの。
私が大切にしたいものを大切にして生きる道を選択しただけ。
そういう意味では私は老子の感じ方に同感だな。
瞑想の捉え方も私の根源には老子がいるよね。
彼らの耳を静かにすることで、彼らは聞かなくなる。
彼らの口を閉じることで、彼らは話さなくなる。
彼らの心をそのままにすることで、彼らは考えなくなる。
知性の働きを止めることで、彼らは完全に単純さを取り戻す。
生き生きとした魂を休ませ、知識から離れることで、好き嫌いをもたなくなる。
これは偉大な達成と呼ばれる。
私が100%で楽しいを選択することが、これからどんな世界を作り出してくか…楽しみ。
今は心置きなく荷を捨てることが、私の楽しいを増幅させてるよ。
それに加え、父も義父母にもいっしょにこの作業に携わってもらえることが更にワクワク度をUPさせてるね。
庭には紫陽花が顔出してたよ~![音譜](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/038.gif)
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