皆さん、こんにちは
パン講師をしているクリスチャンの平野宏子です。
日本人は聖書を読んだことがない人が物凄く多いですよね。
皆さんは読んだことがありますか
その理由は、何が書いてあるかを知らないから読む気にもならない人が多いとは思いますが、たとえ読み始めてもすごく難解なんですよね
私は10歳の時に初めて教会に行きました。
教会といってもプロテスタントの牧師さんが私の住んでる町に開拓伝道のために引っ越してこられたので、先生の一戸建てのお家が教会でした。
通りに教会の看板が掲げられていました。
その頃は、イエス様のお話を紙芝居で聞いたり、子ども賛美を歌ったりおやつをいただいて・・、とっても楽しかった記憶が鮮明に残っています。
私は3年生の時に両親が離婚して、当時は今のように離婚家庭は多くなかったから、とても悲しくて寂しい日々を過ごしていました。
ですから、神様が憐れんでくださり、教会という温かい居場所を与えてくださったのでしょう。
でも、まだほんとうに大切な『福音』については学んでいなかったんです。
程なくサタン(悪魔)の働きによって、私は神様から引き離されてしまいました。
まだ信仰が弱いうちは、簡単に魔の手に引っかかってしまうのです
それから27年後、再び神様に立ち返る機会をいただき、ようやく生かされている意味や自分が成すべきこと、信仰によって永遠が与えられたこと、福音についての真理を知ることができました。
真理は聖書に全て書かれています。
ですが、聖書は一般の人には難し過ぎて理解することができず、一人では最後まで読破することが難しいです。
もし頑張って読んだとしても、違った解釈で読んでしまいます。
そのために、『牧師』や『神父』という存在が立てられているのでしょうね。
なぜ、聖書は難しいのか
一言でいうと、神様の言葉であり神様の価値観だからです。
神様のお考えは、私たち人間の考えとは全然違うんです。
私たちは、最初の人間であるアダムとエバが罪をおかしたことにより、生まれた時から罪を持っています。
そして、ほんとうの神様に背を向けて、この世の常識や環境による価値観を植え付けられてしまい、神様の価値観から遠ざかってしまっているんです。
私は最初の頃、読みやすい『新約聖書』をまず一人で読んでみました。
がいっぱいだったけど、それでも読み通しました。
その後、『旧約聖書』を読みましたけど、『創世記』というこの世の初め辺りはまだ面白く読めましたが、
『創世記』→『出エジプト記』→『レビ記』辺りで挫折したかな
『レビ記』は、祭壇へのささげ物についてとか、もうその時代の人じゃないから意味不明なことがずっと続いてるんですよ。
でも、その頃には『バプテスマ』という、よく使われる言葉でいうと『洗礼』を受けた後だったので、私の中には聖霊という神様の霊が住んでおられたため、牧師先生に教えられてもいないのにすごく重要なことに気付いたんです
『レビ記』では、罪をおかした場合、人はその罪をゆるしていただくために動物の血(いけにえ)をささげなくてはならないんです。
先に新約聖書でイエス様の十字架の死を読んでいたので、レビ記を読んでいる時に動物のいけにえがイエス様に重なって見えたんです。
それで、教会の友人(クリスチャン歴が長い)に、
「旧約聖書では罪のゆるしのために動物の血でゆるしていただくでしょ。イエス様って動物の代わりってことなの」と言いました。
友人は、「なんでわかったのその通りだよ〜。宏子ちゃん、すごいね〜」って言ってました。
新約聖書も難しいと思ってた私がなぜピンとそのことに気付けたのか
褒められてうれしかったんですけど、それは私が頭がよかったからではないですよ
あとで、もう一度新約聖書を読んでそれがわかりました。
信じて救われると聖霊がその人のうちに住んで新しい人間として生まれ変わること。
つまり、価値観が神様と同じになり、神様目線で物事を考えるようになったりするので、難解な聖書がとても読みやすく理解できるようになるのです。
事実、2回目に読んだ新約聖書では、「あぁ、こういうことだったのか〜」と納得納得の連続でした
まだ信仰がないうちは、この世の常識や人それぞれの価値観、本をたくさん読んだりして、人は何が正しいのかもわからず、人の言葉に左右され、傷付いたりして苦しいことが多いものです。
私は神様だけを信頼しているので、全くブレることがなく、あらゆる悩みからも解放されて生きることができるようになりました。
それがほんとうの自由なんだと思います
皆さんにもほんとうの自由を手に入れてほしいです
今日のみことば
今日、私が書いたことについて、イエス様が弟子たちに話をされてる聖書箇所です。
[ヨハネの福音書 16:7〜18]
しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」
そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」
こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。
複雑な言い回しですよね
新約聖書はギリシャ語で書かれたらしいんですけど、日本語に訳すとなんかわかりにくくなっちゃうのかな
弟子たちは、イエス様が何を言ってるのかわからないって言い合ってますが、この時の弟子たちにはまだ聖霊が内に住まわれてない状態なんです。
ですから、イエス様に従ってはいるんですけど、信仰がない方と同じ状態なんです。
これをもう少し( )で補足してみますね。
しかし、わたし(イエス様)は真実を言います。
わたしが去って行くことは(天国に帰る)、あなたがたの益(有益である)になるのです。
去って行かなければ、あなたがたのところに助け主(聖霊)はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。(ほんとうの神様を信じず、背を向けて生きていることを『原罪』と言います)
義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。(主の義の証明は、御子キリストを世の罪のために十字架で死に渡し、三日目によみがえらせたこと)
さばきについてとは、この世を支配する者(サタン(悪魔)がさばかれたからです。
元々、人間の『罪』と『死』はサタンがもたらしたもので、イエス様が十字架で人間の罪の身代わりとなってくださったことで、信じた人間は『罪』と『死』(サタンの武器)から解放されることになった。やがて、サタンとそれにつく者たちは滅ぼされます。
あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
しかし、その方(聖霊)、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
父が持っておられるものはすべて、わたしのものです(この世のものは全てイエス様のもの)。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」
そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」
こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。
その後、信じた者(は全てキリストの弟子となる)には聖霊を与えられて、イエス様を見る(繋がる)ことができるようになさった)
どうでしょう
またまた長くなってしまいました
生徒さんで、なんとなくわかった〜という人は是非教えてくださいね
私がキッチンにいると、冷蔵庫の上から見下ろしてます
読んでくださってありがとうございました。