JW組織を離れても聖書の神が真実の神であると信じていた私は、「聖書の神が、エホバの証人が信じている『エホバ』でなければ、父なる神とはだれなのか」を探し続け、真(まこと)の神と出会うことができた今、死んだ胎児に対して、真の神はどのようにご覧になり、どのように扱ってくださるのかを知りたいと思いました。



クリスチャンにとって、「救い」は大きな慰めであり感謝です。

それを受けることができるのは本当に喜びであり、何ものにも替えられないものです。

ですから子どもを失ったクリスチャンが、自分の子どもたちが救われているという希望を保証する何らかの理由を探し求めていることは、非常によく理解できます。



しかし残念ながら、多くのクリスチャンがこの理由を、聖書的には根拠がなく、また実際に聖書の本質的な教えとも矛盾する間違った信念のもとに探し求めている場合があるようです。



※この記事は、「死んだ全ての人が将来地上に復活してくる」という教理を信じているカルト宗教「エホバの証人」には、決して理解できない記事となっており、エホバの証人向けに書いていませんし、エホバの証人を真理に導きたいという目的で書いているのでもありません。

あくまでも聖書を主体とし、聖書の教えの基本を理解し、「救いとは何か」「何からの救いなのか」を聖書から十分認識しているクリスチャンと共に分かち合いたいと思い書いています。


ただし、この記事は、私が個人的に聖書から感じたことで、あくまでも私の見解であり、これが真実だと断言して言えるものではありません。




クリスチャンにも、幼い我が子を突然の事故や病で亡くして悲しみの中におられる方がおられると思います。



聖書では、人は全て罪人であり、罪人は死んでシェオルに下り、最後の審判で肉体をつけて復活し、地上での行いに応じてさばかれ、地獄で永遠の裁きを受けることから免れない者となりました。



死んだ者は、最終的な裁きの時に肉体をつけて復活し、神の御座の前でその行いに応じて裁かれることが決まっています。(ヨハネ黙示録20:12)



犯罪者が、刑務所に収容され刑罰を受けなければいけないのと同じように、罪人である人間の収容先は地獄であり、そこで永遠の刑罰を受けなければなりません。



しかし、イエス・キリストが私たち罪人が受けるべき罰を代わりに受けてくださったので、そのことを信じて受け入れた私たちは神様からの裁きを受けることはありません。



ですから、キリストを受け入れずに死んだ者は、行いに応じて裁かれ、いのちの書に名のしるされていない者は燃える火の池である地獄に投げ込まれます。


イエスが神であることを信じない者が地獄に行くのは、キリストがその人の身代わりに罪の裁きを受けてくださったのにもかかわらず、その救いを拒み、自分の罪の裁きを自分の身に受けると決心したことになるからです。





罪人は行いに応じて裁かれ地獄へ行かなければならない…。




そうであるなら、胎児や生まれたばかりの赤ちゃんが死んだ場合、その子たちも裁かれ地獄に行かなければいけないのでしょうか…。

それとも、胎児や赤ちゃんは、罪がないのでしょうか。

詩篇51:5には「ああ、わたしは咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」とあり、同じ詩編57:3には「悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生まれ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る。」とあり、エペソ2:3には「生まれながら御怒りをうけるべき子ら」とあります。


この聖句からも分かるように、聖書は全ての人間が罪のある状態で生まれてくると教えています。

人間は皆、生まれながらにして罪人、罪の性質を持って生まれてきます。


この条件を表す神学的用語は『原罪』です。



その証拠に、人は罪の犯し方を誰からも教えてもらわなくても嘘をついたり、だましたり、盗んだりして罪を犯してしまいます。


誰も罪を犯すことを教わる必要がないのは、この『原罪』があるためであり、私たちすべてに罪が生まれつき備わっているために、私たちはみな罪を犯す宿命にあって、幼児たちを含む全ての人間は『原罪』の下にいます。


環境によって、罪の性質が植えつけられていくのではなく、罪の性質を持つ者だから罪を犯します。


ですから、赤ちゃんは罪に向かう傾向なしに、無垢の状態で生まれてくるということではありません。


子どもたちの行動を何の先入観もなしに観察すれば、子どもたちが罪を犯すことを教えられたことなどないことがわかるでしょう。


オタマジャクシが泳ぎをおぼえたり、鳥たちが飛ぶことをおぼえるように、子どもたちも大人たちも容易に罪を犯すことをおぼえます。

罪は人間に本来的に備わったものなのです。


クリスチャンの中には、「幼子は純粋で無垢なので、罪がなく、死んだら天国の神の御元にいます。」と信じている方もいるようです。


でも、罪の性質も罪に至る傾向も持たずに生まれてくるのなら、道徳的に無垢だとされている子どもたちが、なぜいつも罪のある大人に成長するのでしょうか。


子どもたちが「罪人」でないなら、彼らは「キリストの救い」を必要としない者となります。

キリストは罪人のために死なれたのですから。


幼子の救いに関する答えがいずれに向かってくにせよ、それはイエス・キリストを除いてすべての人間は罪の性質を持って生まれてくるという聖書の教えに忠実でなければならないと思います。



でも、ここで混同していけないのは、罪の性質を持っていることと、実際に罪を犯すこととの違いを考えなければいけないと思います。


神様の裁きは、肉体的に犯した罪に基づいて与えられると聖書は語っています。


「死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」ヨハネ黙示録20:12



「神様による有罪宣告は、実際に犯した罪に基づいてなされる。」



この重要な点は、聖書全体で教えられているのではないでしょうか。


コリント第二5:10「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」と述べられています。


最後の審判は、私たちが地上にいる間に犯した罪に基づいてなされるということが明確に主張されていることに注意するなら、幼児たちは道徳的主体になることはできず、善や悪の好意を行うことができる前に亡くなった幼児や胎児たちは、この箇所に記された基準では裁かれることはありえないと私は思います。



神様は、将来的に罪を犯す可能性があるからさばかれるのではなく、犯した罪に応じて裁きを下すお方であると聖書には記されています。


母親の胎内にいる子どもについては、「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに…」ローマ9:11とあります。


少なくとも胎児については、「行いがない」と語られていて、さばかれる理由がないと推測できます。


また、生後間もない赤ちゃんについても、全く同じことが言えると思います。



ローマ1:18でパウロは、神が怒っておられるのは、人間が不義によって真理をはばんでいるからだと言っています。


でも、胎児や赤ちゃんは「真理」を知る事ができる能力も機会もありません。真理をはばむこともできません。

それは、知的障害者にも同じようにいえることだと思います。


そうすると、神様は、胎児や赤ちゃんに対してお怒りになっていないのではないかと考えられます。



コリント第一6:9-10では、パウロは天国に入ることのできない人々のリストを挙げています。


幼児や知的障害者たちは、こうした行為を行うことができないことは明らかです。




もし、胎児も幼児にも備わっている「原罪」のゆえだけで地獄に送られるなら、神様の心にはそうした裁きを行う十分な理由があるでしょうけれど、子どもの心にはそうした苦難を受ける理由がまったく分かりません。


そうした状況では、子どもは苦難を知るでしょうけれど、なぜそうした苦難をうけなければならないのか、その理由を理解することはできないでしょう。


隣人に対しても、自分自身に対しても、なぜこれほどの重い罰を受けなければいけないのか説明できないでしょう。


その結果、この苦難に関する意味と重要性全体が意識にとっては謎となり、その結果、罰の根本的な要素が欠けてしまい、正義は擁護されなくなってしまうのではないでしょうか。



しかし、イエス・キリストの十字架の意味から考えても、キリストが十字架で死なれたのは全人類の罪の為であると聖書は語っています。


「この方こそ、私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく全世界のための、なだめの供え物なのです。」ヨハネ第一2:2



先ほども述べたように、キリストを信じない者が地獄に行くのは、キリストがその人の身代わりに罪のさばきを受けてくださったのにもかかわらず、その救いを拒み、自分の罪の裁きを自分の身に自分で受けることを選択したことになったからです。


でも、キリストは胎児や幼児、赤ちゃんのためにも死んでくださったことは間違いないのです。


そして、その子たちはキリストの救いを受け入れる能力も責任もないときに死んでしまいました。


結果的にはキリストを拒まず、キリストがその子たちのために死なれたという事実だけが残ります。


ですから、胎児や新生児が死んでしまった場合、私は天国に行くと聖書から言えるのではないかと思います。



私が一番興味深く思った聖書箇所は、マタイ19:13-15、マルコ10:13-16、ルカ18:15-17に記されているイエス・キリストと小さな子どもたちの記述ですが、イエスに手を置いて祈って頂くために、人々が子どもたちをイエスの前に連れてきたのですが、弟子たちがイエスの疲れを気遣われて人々を追い返そうとしたのですが、その弟子たちの行動をイエスはマルコの記述で「イエスはこれを見て憤り…」とあります。


イエス様が憤られたことは、聖書の中に数か所しかありません。その中の一つの出来事だったのです。


JW現役時代は、「神の国はこのような者たちのものである」という言葉から、「イエスの言いたいことは、小さな子どものような人々、子どものように謙遜なものだけが神の御国に入ることだ」と教えられてきました。


救われるためには、大人たちは子どもたちのように謙遜でなければいけない…と、イエス様の言葉を大人たちだけに当てはめるこの解釈は、この箇所に記されている、弟子たちに対するイエスの憤りとイエス様が子どもたちに与えた特別な祝福という二つの出来事を適切に扱うことが出来なくなります。


この出来事の中で子どもたちが果たした唯一の役割が、真の信仰者である大人がなるべき模範やモデルを示すことだけにすぎないなら、イエス様が弟子たちに憤りを感じたのは何故でしょう…?


憤りを感じるということは、イエス様にとって子どもたちは特別な関係にあるからではないでしょうか?


イエス様が憤りを感じたのは、弟子たちが「神の子どもたち」、すなわち、神の救いの恩寵を受けるべき子どもたちを追い返そうとしたからではないでしょうか。


幼子たちは、キリストの祝福を願うことについて何も理解していませんが、キリストは子どもたちを優しく思いやりをもって受け入れ、祝福されたのです。


イエス様は、子どもたちを受け入れることを望んだのです。



また、イエス様と幼児たちを扱った福音の箇所と、黙示録20章に見られる最後の審判に関する箇所の間には興味深いつながりがみられます。


命の書(単数形であることに注意)が開かれる前に開かれた幾つかの書物(複数形であることに注意)には、人間の行為が記録されています。


命の書には生まれ変わったすべての神の子どもたちの名前がしるされています。


神の真理を拒絶した行いが記録されている者の名は、誰も命の書に見出すことはできません。


亡くなった幼児たちは良い業も悪い業も行う前に亡くなったので、命の書の前に開かれる行いの書の中に彼らの行為を見いだすことができません。


これらの幼児たちの人生はあまりに短くて、彼らはとうてい道徳的主体にはなりえないのです。


したがって、行いの書に記されていない以上、幼児たちはその行いによって裁かれることはないと思います。


それにもかかわらず、「神の国はこのような者たちのものである」というイエス様の見解によれば、最後の審判の際、幼児たちが主の御前に立つとき、彼らの名前は、少なくとも子羊の命の書に記されているのではないでしょうか。


神の裁きに会う条件に合致していないため、幼児たちは救われている。

その可能性が高いように思えます。



ただ、神様はこの事に関して明確に語ってはおられません。


それは、小さな命が人間のエゴや罪深さによって犠牲となることを防ぐためのものかもしれません。



では、人間のエゴによって死んだのではない胎児や幼児は、何故死んでしまったのでしょう。



詩篇139:16に、こうあります。


「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

これは胎児の段階で、神様が主権をもって人間の将来を決定しているということです。

胎児や赤ちゃんが、何らかの病気が原因で死ぬということは偶然ではなく、神様の決定に従って起こったことだということです。

神様が意図的、計画的に、彼らに極めて短命な人生を与えたのです。

神様が意図的、計画的にそうされるには意味があるのですが、では何故私の胎児は生まれずに死ぬように神様はご計画されたのでしょうか…。


そのことは、また機会がありましたら書いてみたいと思います。




組織を離れて、聖書を正しく学んで主を受け入れた時、生まれてこなかった私の子に、どのような希望があるか聖書から知ることができ、とても慰められました。


あの子は今、どこよりも一番安全で、一番安心できる主の懐の中で守られていると思うと、親として感謝です。


いつかあの子を私の腕の中で抱きしめることができることを期待しながら、この世の生活を生きることができます。