子どもが親よりも先に「死ぬ」ということは、この世の中の出来事では不自然なことであり、それを受け入れる為に自分自身の思考や感情を整理していく作業は大変苦しく、精神が病んでしまいそうでした。



テレビ番組などで動物の赤ちゃんが元気に生まれて、愛くるしい仕草が画面いっぱいに映っているのを見て、「なぜ動物の赤ちゃんは元気に生まれてくるのに、動物よりも優るはずの私の赤ちゃんは生まれてこなかったのだろう…私の赤ちゃんも、猫だったら元気に生まれてきただろうか…」「元気に生まれてきさえすれば、私の赤ちゃんは猫だろうが犬だろうがなんでもよかった。」と、常識的な思考では決して考えない、あり得ないことを考えたりしたことがありました。



それだけ、元気に生まれてくる赤ちゃんへの思いが強かったのだと思います。




JW現役の頃は、「死んだ者は将来地上に復活してくるので再会できる」という希望の教えを信じていました。

しかし、生まれずに母親の胎内で死んでしまった子どもには「復活の希望はない」という教えでした。



でも、母親にとって生まれて世話のかかる子どもに対する思いと、お腹の中ですくすく成長している胎児に対する気遣いや愛情の注ぎ方は同じです。


まだ胎児の状態であっても、健康で元気に生まれてくれるようにと願い、妊娠中はストレスを避けたり、胎児の成長を気遣い、母親は自分の食事にも気を遣います。


お腹の中に赤ちゃんんがいる…というだけで、自分自身の健康管理を真面目にできるんですよね。

お腹の子のため…と思えば、何をやらせても飽きっぽい性格の私でさえも長続きしたものです。


それは、まだ見ぬ子に対する親の愛情以外何ものでもなく、生まれてきた子に対する母性愛と同じなんですよね。


こんなに母性愛を持たせておいて、「生まれてこなかったので、復活はありません」と、そんな残酷なことをエホバはなさるのだろうか?…と、現役の頃はずっと矛盾に感じていました。



生まれてきたのに、死んでしまったわが子とは地上の楽園で再会できるという希望があり、子を失った悲しみ苦しみが報われることが約束されていることが本当なら大きな慰めになるでしょう。


しかし、胎内で死んでしまった子には復活がなく、再会することもなく、永遠の別れになり、子を失った親にとってこの苦しみ、悲しみに対しては、何の希望も慰めも報いもありません。



「全ての涙を拭い去ってくださる」というエホバの約束は、どのように理解してよいのだろうか?と悩みました。




ひとりの姉妹から、「それは、胎児を失ったという経験を忘れさせてくださる…なかった事として、本人の記憶から取り去られるということよ…悲しみの記憶を取り去って下さるのは神しかできないことであり、それは大きな慰めよ…」と言われたことがありました。






確かに全能の神であるなら、本人の記憶を取り去る事は可能ではあるけれど…








でも…






そんなの…






そんなの…




ある意味「記憶喪失」であり、それは本当の私ではなくなってしまいます。




辛い経験の記憶は残っていても、その辛さ、悲しみ苦しみを覆うほどの慰めがあるからこそ、その慰め、報いに感謝できるのであって、辛い記憶を取り去ってしまったのなら、どうやって神に感謝する気持ちが湧きあがるのか…



記憶を全く取り去る事で問題解決だなんて…

そんな手法はあまりにも短絡的で、愛があり知恵のある神らしからぬやり方だと感じました。





その点は解決できないまま、JW組織が偽りだと分かり、エホバの証人が信じている「父エホバ神」は偽りの神であり、存在しない神、偶像崇拝であることが分かった時、改めて死んだ胎児の「死」と向き合い、「あの子は今、どこにいるのだろうか?」「どのような状態でいるのだろうか?」「それとも完全に存在しなくなり消えてしまったのだろうか?」「将来、再会できるのだろうか?」「聖書はなんと言っているだろうか」と、いろいろ私なりに一から調べました。




寺の住職に嫁いで「お庫裡さん」となった友人からは、「親が悲しむと、子どもが成仏できなくなるから子どものために悲しむな。」と声をかけて頂きました。



彼女の話によると仏教の教えでは、子が親より先に亡くなるという事は、最高の親不孝と言われ、賽河原(さいのかわら)という仏教の冥界で、親よりも先に早く死んだ子供たちが苦しみを受ける場所であり、親不孝の罪を償うため石を積んで、塔をつくらなければならないのですが、もう少しと言うところで、餓鬼という鬼に崩されてしまい、また一から積み直さなければいけないそうです。


最初から積み直すと、また餓鬼が崩す。


だから、いつまでたっても成仏できずに泣いているのだそうです。





これもある種の地獄、苦しみの場所ですよね。


仏教では、その供養と救済のために、お地蔵さんをお祀りするという理由があり、お地蔵さんは、子供の守り尊と言われているそうです。

彼女は、私を慰め、力づけるために掛けた言葉であり、その気持ちは感謝して受けることができましたが、仏教のその教えは初めて聞いた事柄ではありましたが、受け入れるどころか聞いていてあまりにも悲しく、残酷で、子どもが不憫で、その教えに嫌悪感を感じました。



「子どもが親よりも先に死ぬ事は最大の親不孝…だから罪が重い…だからいつまでたっても成仏できず、苦しみ泣き続ける…」



親であるなら、それを聞いたとき「この子が何をしたというのか…子どもが可愛そう…」と咄嗟に思うはずです。


子どもは、死にたくて自ら死んだわけではありません。

生きたかったのに、生かしてもらえなかった、生きられなかったのです。


それなのに「親不孝、最大の罪」として、そのような苦しみの場所で報いを受ける。



その教えは、悲しみに打ちひしがれている親心をさらに苦しめるだけです。





自分の子が転んだ時、親は子供に駆け寄って起こしてあげます。

怪我をしていないか、どこか打ってないかと気遣います。

転んだ衝撃で不安で泣いている子を抱きしめて安心させてやります。


子どもは、どうしても親の世話が必要です。

親の世話がなければ生きていけません。


それなのに、死んだ子は賽河原(さいのかわら)という苦しみの場所で存在していて、親の助けもなく、小さな手で一つ一つ石を積み、まだまだ不器用なのに、集中力だって培われていない子どもなのに形の違う石を積み上げるのは拷問です。



そんな状況下で、やっと積み上げた石の塔を鬼が来て「この親不孝!」と罵り塔を壊す…。



親として、子どもがそのような状況にいると想像するだけでも胸が引き裂かれる思いです。



泣いている子に駆け寄って抱きしめて安心させてあげる事ができない…子どもを不安の中にいさせたままであることを、どれだけの親が納得し、受け入れることができるでしょうか。



親が駆け寄って、子どもを助けてあげられない代わりに地蔵が鬼から子どもを守ってくれる?…。



そんな石の地蔵に何ができる…。



つくづく「偶像崇拝の教えは残酷であり、むなしい」と感じました。