前回の私を訪ねてこられた年配の現役JW姉妹の記事を書いていて、私が現役の頃あの組織で長老団や巡回監督、特開者と様々なやり取りをした事を久しぶりに思い出しました。



あのJW特有な言い回しや論法…。



分かりづらく、聞いていて納得しずらく、明瞭、明確でなく、常に何かを隠し、こちらが答えを求めているのに、どちらに転んでも言い訳ができるような答え方、自分の答えを相手に「たぶん、こういう答えなんだな」と決定させる答え方、常に守りの精神…それは自分の言葉、答えに責任を持ちたくないというズルい精神以外何ものでもないと思います。


こちらが質問しているのに、答えず逆に質問で返す。

話の主導権は常に自分の側で持っていたい。

相手のペースに陥らない…。

警戒、駆け引き…といった精神が会話の裏に見え隠れして、彼らとは、何の武具も身につけず、正々堂々と腹を割った会話ができませんでした。





気持ちが悪いんですよ…そういう会話って…。




それでいて、こちらも彼らと全く同じように「たぬき」になって、彼らと同じ論法で、質問に対して明確な答えを出さず、揚げ足を取られないような言い方、無難な言い方、質問に対して質問で答える言い方をすると、最初の勢いがなくなってオタオタし始めるんですよね。



相手が自分と同じ技で来られると太刀打ちできない…。

つまり、自分の技の攻略法を知っていないからでしょうね。



組織の犬である巡回や特開者ほど性質はそれほど悪くなくても、それと同じような論法を現役JWも使うんですよね。




断絶して、何度か現役の姉妹たちと接触を持って組織に対して話し合いをしたことがあります。



その時、数人の姉妹と個々に話をしたのですが、話をしているときに現役JWには決まったパターンがあると感じました。



まず、組織に対する疑念を投げかけると、最初は「エホバが用いている組織に忠実であることは、エホバへの忠実」と断固として組織を擁護します。


でもこちらが、組織がこれまでどんなことをしてきたのか動かない証拠、反論できない証拠を提示して、彼女たちが見ようとしなかった方向から指摘していくと、彼女たちも反論、擁護できなくなり、組織に対して最初に抱いていた確信、信頼が段々崩れてきます。

断固として組織を擁護していたことが弱くなってきます。



そうなると、彼女たちの次の逃げ場「組織ではなく、エホバへの信頼」と声高に訴え、主張してきます。



しかし、こちらが聖書から徹底的に「神のみ名はエホバではなく、エホバは神ではない」と否定すると、聖書から「神のみ名はエホバであり、エホバは神である」と証明できなくなり、段々「神のみ名はエホバ」という自信が崩れてきます。



そうなると、彼女たちの次の逃げ場「この宇宙を創造した唯一の神」と言い、「エホバ」というみ名を用いず「唯おひとりの神」と、今まで「誰」と断定していたのに、ただの「神」と言うようになり、「神と個人との関係が重要」と、クリスチャンであるなら誰が聞いてもおかしくないセリフに変えてもっともらしく説明してきます。



そこでこちらが「神にもいろんな神がいます。世の人が崇拝している神々もたくさんいます。『この宇宙を創造した唯一の神』とは、どなたのことを指していますか?」と質問すると、神のみ名「エホバ」が彼女たちの中では崩れかかっているので、さすがに「エホバ」と言えないので、彼女たちの次の逃げ場である「イエス・キリストの御父である唯一の神です。」と答えるんですよね。



これも、JWを知らない一般のキリスト教会のクリスチャンが聞いたら、自分たちが信じている神と同じだと思ってしまいます。


言葉だけ聞いたら、JWも聖書の神を信じているんだと思いがちですが、そこで惑わされてはいけません。


組織への確信、神のみ名がエホバである事への確信が崩れかかったJW現役が「イエス・キリストの御父である神を信じています。」という論法は、ただの逃げであり、苦し紛れの論法なんです。



JW現役が信じている「イエス・キリスト」とは、大天使ミカエルが肉体をつけて地上に来られたという理解、イエスは神によって最初に造られた被造物、だから崇拝に値しない。という理解、認識なんですよね。




それは、イエス・キリストではありません。



聖書からいくらでも証明できます。



そんなイエス・キリストは架空のものなんです。存在しないんです。


彼らは存在しない架空のイエス・キリストを信じているんです。


架空のイエス・キリストの御父は、架空の父であり、その御父も存在しないんです。


信じても意味がないんです。



そういった状態で、聖書の神が誰かも自信を持って説明できない、分からない…

イエス・キリストが誰であり、どのような方なのか自信を持って説明できない、分からない…


聖書でいう「救い」が何のことなのか自信を持って説明できない、分からない…


分からないのに「神」だの「御父」だの「救い」だの言葉を並べてもっともらしく使い、こちらに反論してくる…。


みっともないと思います。




彼女たちの論法も、JW幹部たちと同じです。


テニスコートで、勝敗を決める試合ではなく打ち合いをするのに、相手が打ってきたボールを相手にまっすぐ返すのではなく、大きく左に打ち返し、相手を無駄に走らせます。


そのボールを相手はまっすぐ返すのに、今度は大きく右に打ち返し、またまた相手を無駄に走らせます。


相手の体力をそうやって消耗させ、相手が打ち返すことに必死になり、本来の目的を相手に見えなくさせてしまう、そういうやり方の論法に見えて仕方がありません。


それって、愛がないし、卑怯だし、ズルいんですよ。




組織への信頼の上に立っていたのに、足元が崩れ、両手でエホバにしがみついていたのに、エホバのみ名も崩壊し、片手でイエス・キリストにぶら下がっている状態になってしまい、その大天使ミカエルだったイエス・キリストも崩れるのに、どうして必死にその組織にしがみつこうとするのか…。

私もそうでしたが、「組織ありき」が当然で、それに慣れていた思考は、「この組織が偽りなら、じゃあ、どこに行けばいいの?と、やはり「組織」を第一に求めてしまうんですよね。


でも、この地上には残念ながら神が用いている「唯一の組織」なんて、どこを探してもないと思います。




私は最初、組織を出るとき自分がどこに向かっているのかも分からない状態でした。

組織を出て、どこへ行けばいいのだろうという不安がなかったわけではありませんでした。


でも、大切なのは「組織が偽りであるなら「出るべきだ」と思いました。


ただ一つの偽りをもお許しにならない神であるなら、その神がこのような組織をお認めになり、用いるはずがなく、私もその神の御心と同じように、ただ一つの偽りをも妥協して容認することなく、はっきりとした態度を示し行動するなら、必ず真の神が導いてくださる。放置したままにはされない。という信仰でした。



どこに向かっているかは知りませんでしたが、自分で決断し、組織を出た後は、こちらが何か意識して行動したわけではないのに、自然と状況が今の教会へと導かれるように物事が進みました。



最初は警戒しながらでした。



二度と失敗したくないし、人生を無駄にしたくないという思いもありました。


この教会が教えていることは、本当に聖書が言っている通りかどうか、牧師との学びでもしつこいくらい質問し、何度も確認しました。


聖書と突き合わせていく作業をし、慎重になりながら牧師との学びを進めていきました。



自分の聖書理解や疑問が解決されたとき、納得してこの教会に通い続けることを決めました。



でも、自分で納得して教会に通っても、組織にいた時と同じような躓きは経験すると思います。


カトリックやプロテスタント、そのプロテスタントの派を批判するつもりはありませんが、プロテスタントの中にもいろんな派があって、「これは本当に聖書的に正しいの?」と思われるような教えをしている教会、派もあります。

最初、私も組織を出た後、「イエス・キリストを主として信じて崇拝している教会のクリスチャンは派を超えて全て救いを受けた仲間のクリスチャンだ」という認識でした。


でも、いろんな教会があります。


「信じるだけで救われる」を主要にし、聖書の教えも正しい理解も持たされず「神の子になりたいですか?」という質問に対し「神の子になりたい」という返答だけでバプテスマを施す教会。


地獄を否定する教会。


聖霊崇拝が主体となっている教会。


また、教会だけでなく、クリスチャンと言われる人にも、いろんな人がいます。

生まれながらの肉が旺盛なクリスチャン、霊的にも円熟したクリスチャン。

クリスチャンに躓いて、「これならJWと何も変わらないじゃないか…」と思うことも多々あるとおもいます。

でも、何が違うかというと、JW組織は完全に「偽りである」という事なんです。



教会にだって問題はありますし、聖書の教えとは違う教えをしている教会もあるでしょう。

それを聖書が教えている通りかどうか調べていく地道な作業も大切だと思います。


その作業を経て、おのずと自分が通いたいと思う教会が見つかるかもしれないですね。



最初、私の通う教会に留まるきっかけとなったことは、私の通う教会は、文語訳聖書を主に用いていて、若いクリスチャンは新改訳を使っていますが、文語訳聖書の中には、確かに「エホバ」という言葉が使用されています。


最初は旧約の聖書朗読が嫌で嫌で、「エホバ」という響きが、まだ信仰が確立していない私を混乱させていました。



エホバは偽りだと思っていたのに、では、やはり神のみ名は「エホバ」が正しいのか…って思ってしまいます。



でも、文語訳聖書を読んでいると、あることに気がつきます。





創世記1章では、「神」「神」「神」という言葉が続き、どこにも「エホバ」という言葉は出てきません。





しかし、2章に入ると「エホバ神」…と初めて「エホバ」という言葉が登場します。





なぜ2章から「神」が「エホバ神」と表現されるようになったのか。






これも、エホバの証人は説明することができません。





でも、聖書をよく理解している教会のクリスチャンなら、誰でも知っていて、簡単に説明できることらしく、その説明を、牧師が聖書から詳しく説明してくれたとき、「エホバ」という言葉の正体がはっきり分かり、納得できてスッキリしたことがあります。



私の周りにも、組織を出て教会を探しておられる方もいます。


ご自分に合った教会が一日も早く見つかる事を祈っています。