またまた私の会社に、リベンジなのか、JWの年配の姉妹が訪ねてきました。
「どうしてもイエスは霊者として復活したことを聖書から話し、証明したい。」という理由で…。
はぁ…
もう、いいんですよ…
私はJWの何が嫌いかというと、たくさんあるのですが、「自分は真理を持っている」という自信から、「必ず相手を論破する」という動機が見えるのが嫌なんです。
JWは「クリスチャンとして、ふさわしい態度は議論を避ける」と口では公言しますが、心のどこかに、自分たちが持っている真理の霊の剣の切れ味を試してみたいと思う気持ちが働くんですよね。
「JWだけが真理と聖書の知識を持っている」と自負していますから、どうしても高慢になるのは当たり前です。
「知識は人を高ぶらせる」とはよく言ったものです。
私は今回、処理しなければいけない書類も山積みになっていたので、あまり長く話はできないことを伝えました。
年配のJW姉妹は、「すぐに解決できる初歩的な問題なので、お時間は取らせません。」と、満面の笑顔と自信に満ちていました。
「数分の証言で、Angeさんが一言も反論できないほどの証拠を聖書から提示し、失礼させていただきます。」とおっしゃいました。
はぁ…
だから、もういいんですよ…。
どんな聖句を持ってくるかは知りませんが、私にとってはJWの教えなんてどうでもいいんですよ。
私は「JWの教えは偽りである」と調べて確信しているし、聖書を用いている宗教でJWが一番聖書の知識がないと分かっているし、JWとは議論もしたくないし、関わりたくないし、近づきたくないし、あなたがJWの教えを信じているなら最後まで信じ続ければいいでしょうし、信じ続けた結果は自分持ち…ということでいいんじゃないですか…。
と…
心の中でブツブツつぶやいていましたが、相手が「数分の証言で反論もできず、終了させることができます。」とおっしゃって下さっているのですから、それならありがたいことです。
スッパリ私を切って頂きたいですし、そのほうが終わり方も気持ちがいいです。
その場合は潔く「参りました」と深々と頭を下げて、後ろの座敷に引き下がります。
年配のJW姉妹は、「前回、Angeさんは『朽ちないからだ』でイエスは復活したことを信じているとおっしゃっていましたね。それは正しい理解です。
でも、イエスが肉体をもって復活して天におられるという理解は聖書的に間違っています。
今日は、どうしてもそのことをお伝えしたいと思いお訪ねしました。
コリント第一15:50には『また,兄弟たち,わたしはこのことを言います。肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません。』とあります。
ここで、『何は』神の王国を受け継ぐことが出来ません…とありますか?」と質問してきました。
私は「はい…『肉と血』は神の王国を受け継ぐことができません。」と答えました。
年配の姉妹は目を輝かせ、「そうです!その通りです。ここにはっきり書いていますね。
今イエスは天におられるのですが、それはエホバ神のおられるところです。
神は霊ですから、神のおられる霊の世界に入るためには血肉の体を捨てて、霊者にならなければいけないことがこの聖句で理解できます。
ですから、イエスが今、天で霊者として存在していることがこの一つの聖句が証明しているんです。」と…。
年配の姉妹の小さなガッツポーズが見えました。
さすがに私もこれには参りました…。
ここまでJWが聖書理解がないとは驚きでした。
聖書で言っている「血と肉」が人間の肉体そのものを指していないことを理解していないようです。
エホバの証人も否定的な意味で使うはずですが、よく、人間的な人のことを「肉的」と言うじゃないですか。
聖書で言う「血肉」とは人間の弱さや滅ぶべきことを強調する言葉であって、人間は全知全能の神の前では弱い者であり、その弱い人間は、その滅ぶべき体を持ったままでは神の国を受け継ぐことができないため変化が必要であり、よみがえりの時、人間が霊者になるのではなく、栄光の体を持つようになると、この聖句は使徒パウロが教えようとしている箇所です。
いろいろ聖句から説明しようかと思ったのですが、勤務中のため、優先することがあったので簡単に説明しました。
私は、「前回も説明しましたが、イエスは復活して弟子たちの前に現れたとき、幽霊と思っている弟子たちにルカ24:39で『霊ならこんな肉や骨はありません。…』と言いました。
ここでイエスは自分の体について何と何があると言ってますか?」と質問してみました。
年配の姉妹は「…肉と骨とあります。」と答えました。
私は「そうですね、ここで注目して頂きたいのはイエスは決して『血と肉』とはおっしゃらず、『肉と骨』とおっしゃったことに深い意味があるのです。
『血と肉』と『肉と骨』は同義語ではありません。
『血肉』という言葉は聖書で数多く用いられていて、常に『生まれながらの人』のことを指していますよね。
たとえばマタイ16:17では、ペテロが『あなたは、生ける神の御子キリストです』と告白したのに対してイエスは「…あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは肉と血ではなく、天にいますわたしの父です。』と言われました。
これは人間的なものと神的なもの、生まれながらの人と天の御父とが対照的に記されている箇所です。
ガラテヤ1:15-17で、使徒パウロは、自分が回心したときのことを『異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるとめに、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、血肉には相談せず、…アラビヤに出て行き、…』と記しているように、ここでも『血肉』は、生まれつきの力と能力を持つ人間のことだと理解できるはずです。
そういう人々にパウロは相談しなかったのです。
彼らはパウロに何一つ付け加えなかったのです。(ガラテヤ2:6)
パウロの福音は、神の啓示によって彼に与えられたものでした。
ですから、『血肉』が何を意味しているのか正しく理解しなければ、聖書が何を言っているのか当然理解できなくなってしまいます。
一つ、私はエホバの証人がどのように理解しているのか知りたいのですが、イエスが死なれる時、『すねを折られなかった』のはどうしてだと理解されていますか?」と聞いてみました。
年配の姉妹は、何を意図として聞いているのか分からないようで、少しオロオロしながら「…それは預言の成就であり、その預言の成就はイエスが間違いなくキリストであるという証明です。」と答えました。
私は「キリストであるという証明のための預言の成就はたくさんありますが、『すねを折られなかった』のは、ただそれだけのためだと思われるのですか?
聖書の出来事には必ず意味がありますよね。
ましてやイエスが言われている事には大切な教えが含まれています。
なぜイエスは復活した自分の体を『血と肉』と言わず『肉と骨』と言ったと思われますか?」と聞いてみました。
年配の姉妹は、少し弱い口調で「ご…ごめんなさい…Angeさんの質問が分かりづらいのですが…」と戸惑っていらっしゃいました。
これでは、いつまでたっても会話は終わらないと思い、「エホバの証人は、『血の中にあるいのち』と『聖霊の中にあるいのち』の違いをはっきり知る必要があると思います。
エホバの証人は『血は命』ということで、輸血しませんよね。
たしかにレビ17:11にあるように、からだのいのちは血の中にあります。
そして、たましいのために贖いをするのは血です。
キリストの血が十字架の上で罪の赦しのために流されたとき、主は御父にご自分の霊をおゆだねになり、主のからだは死にました。
主の肉体のいのちはもはや血の中にありませんでしたが、肉と骨はともに保たれました。
骨は一つも砕かれませんでした。
ローマの兵士たちは、二人の強盗の骨を折った後、イエスのところに来ましたが、イエスがすでに死んでおられるのを見て、『そのすねを折らなかった』のです。
兵士たちの一人がイエスの脇腹を槍で突き刺しました。
すると、ただちに血と水が出てきました。
これがどういう意味だかわかりますか?
死んだイエスの血の気のないからだは十字架から取り降ろされ、およそ30キログラムの香料とともに麻布に包まれ墓に葬られました。
その遺体が朽ち果てることはありませんでした。
しかし、三日後、肉と骨を備えたそのからだが墓からよみがえったとき、そのいのちはもはや血の中にはありませんでした。
復活のからだの中には血はなく、そのいのちは聖霊の力によって直接与えられたからです。
このことは次の聖句に示されています。
コリント第二13:4『(キリストは)弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます』
ローマ8:11『もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなた方の死ぬべきからだをも生かして下さるのです』
使徒1:1-3『イエスが行い始め、教え始めたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。イエスは苦しみを受けた後、…ご自分が生きていることを使徒たちに示された』
復活されたイエスのからだには血はなかったにもかかわらず、イエスはエルサレムの二階座敷で弟子たちに現れ、そして彼らに言われたのです。
『わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。』と…
イエスはそう言われて、その手と足を彼らにお示しになったのです。
エホバの証人は、血肉のからだと肉と骨のからだの違いを正しく理解する必要があることと、コリント第一15:44の『…霊のからだによみがえらされるのです。生まれながらのからだがあるのですから、霊のからだもあるのです』という箇所で述べられている『霊のからだ』の『からだ』ということばを省いて『霊』と認識してしまっているところが落とし穴だと思います。
霊のからだがどういうものなのか、生まれながらのからだがどういうものなのかの意味を正しく理解しないといけないのではないでしょうか?
そうじゃないといつまで経っても聖書が本当は何を教えているのかも絶対に分からないし、それが分からないままだと、これから起こる『義人の復活』『悪人の復活』『第一の復活』も意味が違ってきますし、そうなるとダニエルの予言の最後の週を構成する大患難時代の7年間の後半のことなども混乱した理解になってしまいます。」と伝えました。
年配のJW姉妹は既に混乱しているようで、数分の証言で私を黙らせると宣言されたのですが、ご自分が黙ってしまい、次の言葉を完全に失っておられました。
エホバの証人には、決して理解できないことなので、仕方のないことですから…。
私は、「もう、あなた方の聖書理解がどのようなものかわかりましたし、これ以上お話を続けても解決できないと思います。
イエスが霊者として復活されたと言いたいために、エホバの証人がいろいろ持ち出す聖書箇所も7、8か所くらいあることは知ってます。
それに対して一つ一つ返答できるのですが、申し訳ないのですが、私も勤務中ですし、ここまでとしてお引き取り下さいませんか?」と告げました。
年配のJW姉妹は「わかりました」とおっしゃって下さり、丁寧にお礼の言葉をのべて帰られました。
もう、二度と私を訪ねて来ないと思います。
しかし、JWと話していてつくづく思うのは、彼らはパウロの時代にいた、現代のヒメナオとピレトだとだと思います。
偽教師は必ずしも資格をもっている人ではりません。
ヒメナオはパウロによって除名されているにもかかわらず、復活について誤った教えを巡回して説き続けていました。
彼らは自分の主張に確信をもっているので、まだ迷っている人たちや確信のない人たちが信仰を覆されてしまうのです。
その内容は真理のみことばとは異っていました。
これからの世の中は、終わりの時代に向かって、聖書にはないことを確信をもって語る人がたくさん出てきます。
エホバの証人も、まさにその偽教師の一つのグループです。
偽教師は、反キリストの霊を現しています。
そのような組織に気付いて、組織から出る方も増えていることも事実です。
喜ばしいことだと思います。
最近、身近でおきた組織離れの現役の経験も、その方の状況が落ち着いた頃に記事にできたらと思います。