私はエホバの証人から聖書を学んだ時から、「聖霊は、エホバの活動力である」と教えられてきました。


「エホバの活動力・力・パワー」ですから、エホバご自身が所有されるものであり、その力を使うのも使わないのもエホバご自身が決めることであり、誰にもその権利を侵すことができません。


エホバの最愛の一人子であるイエスですらも、聖霊というパワーは持っていません。


エホバから、その聖霊パワーを受け、力を得、誘惑に打ち勝ち、奇蹟を行い、エホバからの聖霊に保護されていたのです。



ですから、エホバの証人の理解では、聖霊は人間に外部から働きかけるというイメージでした。


確かに、ヘブライ語(旧約)聖書時代では、エホバに特別に用いられた人々には聖霊が臨まれました。


モーセと70人の長老たちがイスラエルを治める任務を全うできるように聖霊は彼らの上にとどまりました(民24:2)


幕屋を建てるために選ばれたウリの子ベツァルエルには、その役割を遂行できるように聖霊で満たされました。(出35:31)


それだけでなく、カナンの地ではオテニエルの上に…ギデオンをおおい…エフタの上にくだり…サムソンを動かし、彼の上にくだり、また彼の体から去られました。



このようにエホバの聖霊である力は、人々に外部から臨んだり、下ったり、留まったり、離れたりすという認識でした。


ものみの塔の挿絵でも、いつもエホバは高い天に座しておられ、実際エホバに祈るときも「高い天の御くらに座しておられるエホバ…」と祈りますから、私たちから遠く離れておられるので、エホバは自分自身で行くことができないところで御心を成し遂げるために、「活動力」である聖霊が必要なんだ…という理解でした。


分かりやすく言えば『念力』みたいなものですね。



でも、聖書をヘブライ語(旧約)聖書、ギリシャ語(新約)聖書と読み続けていくと、「聖霊」がエホバの「活動力」と理解するには矛盾が感じられました。


私はその矛盾を率直に天的級の姉妹に質問してみました。



姉妹に、聖霊について私が上記で述べた認識で間違いないかどうか確認したところ、姉妹はハッキリと「その通りです。『聖霊』は、エホバご自身の力であり、イエスも天のみ使いも聖霊という活動力は独自で持っていませんし、エホバから聖霊を与えてもらい、働きができるのです。」と答えられました。





そう…




やっぱり…




聖霊は…










エホバご自身のみの力、パワー、念力…






映画の『スターウォーズ』のジェイダブ…


いえ…ジェダイが持つ『フォース』のようなものです。





しかし、本当にそうであるなら、次の聖句はどのように理解すればいいのか悩み、質問してみました。




「もし、聖霊がエホバご自身の活動力、御力であるなら、エホバご自身がご自分の望むように用いられるわけですよね。

その活動力である聖霊をどのように使うかは、エホバだけに権利があるということなんですよね。」と質問すると、姉妹はハッキリと「そうです。エホバご自身に備わっている力なので、他の霊者がエホバの活動力である聖霊を奪うことも使用することもできません。」と答えられました。


私は、「そこで、私が矛盾を感じるのは、ヨハネ14:16で、イエスは自分が去った後『そしてわたしは父にお願いし,[父]は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。』と聖霊を送って下さることを約束していますが、同じヨハネ15:26では『わたしが父のもとからあなた方に遣わす助け手,』と、イエスは聖霊のことを『私が遣わす…』と、自分に主導があるように言っているように感じます。


またヨハネ16:7でもイエスは『わたしが去って行かなければ,助け手は決してあなた方のもとに来ないからです。しかし,去って行けば,わたしは彼をあなた方に遣わします。』と、なぜイエスはエホバの権限である聖霊に対して『私は聖霊をあなた方に遣わします』と、言ったのでしょうか?


たとえば、いろいろ聖書を読むと、あれほど謙遜なモーセが岩を打って水を出したとき、『エホバの力によって水を出す』と言わずに『わたしが出す』と言ったためにエホバから厳しい扱いを受けましたよね。


その事から、エホバのみ力をあたかも自分の力のように用いたり、自分の力であるかのような印象を人々に持たせるのは間違ったことだと理解できるのですが、聖書中の人物の中でイエスほど謙遜で、み父の偉大さを誰よりも認識されていた方なら、決してそのような分をわきまえないような言い方はされないと思うのですが、どうしてイエスは『わたしが聖霊を遣わす』と言ったのでしょうか?」と質問しました。




天的級の姉妹は、イエスがそのように言った聖句の存在を知らなかった…




いえ、いずれ天でイエスと共に王となられ、地上の私たちを支配される天的級の姉妹ですし、聖書を十分熟知しておられるのは間違いないわけですから、その聖句の存在を知らなかったということはないでしょう。





一瞬「えっ?そんな聖句あったっけ?」という表情をされましたが…




ええ、きっとド忘れされていたのだと思います。



周りの姉妹達もビックリして、急いでその箇所の聖句を開き、二、三人の姉妹が一冊の聖書を一緒にのぞきこんで、声に出してその聖句を読みました。


しかし、天的級の姉妹だけは周りの姉妹達がその聖句を確認しているのに、決して聖書を開かず、姉妹たちの聖書を見ようともせず、聖句を確認することもせず、一心に聖句を読んで確認している姉妹達を黙って横目で見ていました。



それはそうですよね。



天的級の姉妹ですから、聖書をいちいち開かなくても、どこの聖句にあり、それはどのような意味なのか、そしていちいち参照聖句を開かなくても理解できるわけです。

その余裕のある態度、姿勢、さすがだなと感じました。



周りの姉妹達は天的級の姉妹と違って、その聖句を読んだとき「ほんとだぁ~!イエスは聖霊のことをハッキリと『わたしが遣わす』と言ってるぅ~!なんでぇ~?えぇ~?これどういう事?姉妹、この聖句知ってたぁ~?」と、互いにその箇所の存在を知っていたかどうか確認し合っていました。


ほとんどの姉妹たちが、イエスがそのように言っている聖句があったことを初めて知ったのか、それとも今まで読んではいても気にしていなかったのか、その聖句に驚かれていました。



周りの姉妹達もかなり関心が湧いたようで、私の質問に天的級の姉妹がどのような解説をしてくださるのか期待し、全員の熱い視線が天的級の姉妹に向きました。



ただならぬ全員の視線は、どのような期待がご自分に向いているのかを天的級の姉妹は察知されたようで、一瞬圧倒されたかのように体を後ろに動かしましたが、姉妹達の視線からご自分の目を逸らし、うつむきながらボソッと次のように答えてくださいました。




「そっ…それは…確かにイエスは、聖霊を送る権限があたかも自分にあるかのように印象付けるような言い方をしていますけど、それはモーセが岩を打った時、謙遜さが欠けた発言をしたのとは全く違うもので、そのモーセの場合と比較させて質問してくるのは、聖書を知らない人の質問です。


イエスはモーセと違って、エホバから一番愛されたひとり子なのですから、モーセと立場が違いますし、エホバからの愛され方も違うわけですから、エホバの物は全てイエスの物なのです。」と…。




一瞬、「えっ?何、このヘンテコな解説…」と思いました。



私は、「姉妹の説明だと、たとえば親が築いてきた事業で得た資産、財産を、その家で、こよなく愛されている一人息子が、特別に愛されているという理由だけで勝手に親の資産、財産を自分の使いたいように使うことは許される…ということになってしまいますよね。


いくら愛されていたとしても、親が息子に譲渡していない限り親の物ではないでしょうか?


たとえば、この息子の友人が借金で苦しんでいるとき、息子が『僕のお父さんにお願いして、お金をいくらか貸してくれないかと頼んでみるよ』と言うなら分かるのですが、『お父さんのお金は僕のお金と同じだから、家に帰って必要なお金持ってくるよ』というのはちょっと筋が通らないような気がしますが…」と聞いてみました。



天的級の姉妹は、「Angeさん、あなたは本当に聖書をちゃんと調べていますか?イエスは今、天で王としてこの組織を支配しておられるんですよ。エホバから全ての権限を委ねられているんです。だからイエスが『わたしが聖霊を送る』と言ったとしても、何の不思議もないのです。エホバから権限を全て委ねられているのですから、エホバの活動力である聖霊もイエスに委ねられていると考えるなら、なぜイエスがあたかも自分の所有物であるかのような言い方をしたのか、おのずと理解できるのではないですか?」と自信たっぷりに、唾を飛ばしながら力強く答えてくださいました。



私は「でも、エホバがイエスに全ての権限をお与えになるのは、イエスが死なれて三日後に復活し、天に昇られて、エホバの号令がかかるまで右の座に座しておられ、全ての事を成し遂げた後ではなかったですか?。


イエスがこの聖句で語っておられるときは、まだ栄光を受けていないですし、エホバから全ての権限を委ねられていないはずではないでしょうか?。


それに、イエスはいくらエホバから愛されたひとり子とはいえ、アダムと同じように罪を犯す可能性もあったわけですよね。

そういった可能性のある中で、いろんな誘惑に打ち勝ち、杭につけられて屈辱的な死を経験するまで試練だったんですよね。

イエスでも、その死を拒否することもできたし、拒否する可能性もあったと組織は教えていますよね。


イエスのエホバに対する信仰もどうなるかも分からない状態で、エホバがイエスに全ての権限をお与えになるでしょうか?


まだイエスの任務も成功していない段階で、『自分は任務を成功させる事ができるし、全ての権限は委ねられているのと同じだから…』という自信があったから、そのように『わたしが…聖霊を送る』と言ったのでしょうか?それって、すごく高慢に思えますし、取らぬ狸の皮算用に感じてしまいます。


謙遜で、従順なイエスがそんな行動取るはずがないと思うのですが…。」と意見しました。



天的級の姉妹は、「Angeさん、今のあなたに何を言っても理解するのは無理だと思います。

何故なら、あなたにはエホバの聖霊が働いていません。

わたしが言っていることは、ここにいる姉妹達全員は理解できるし、納得できます。

聖書理解というものは、エホバの聖霊の働きがなければ決して理解できません。

残念ながら、献身した者と、まだ献身していない研究生ではエホバの聖霊の働きが違いますから…。」



これを聞いていた周りの姉妹達は、「うん、うん」と頷いていました。



なぜこの説明に頷けるのか理解できませんでした。


献身していない研究生には聖書を理解するための聖霊が働いていないというなら、研究生はいつ理解することができるのだろうか?


理解して確信して信仰を抱くという段階を踏むことができないではないか?と素朴な疑問を感じました。



そこで私は天的級の姉妹に、「エホバを同じように信じる者に対して、エホバは『この人にはこれだけの聖霊の働きを与えよう』『この人にはこれくらいの聖霊の働きを与えよう』と、人によって聖霊の与え方に区別をされるのですか?」と聞いてみました。


天的級の姉妹は「えぇ、それはあるでしょうね。同じエホバの証人でも、天的級と、地的級の証人とでは聖霊の助けによる聖書理解が違ってきます。」と答えられました。


私は「では、ヨハネ7:38で、イエスは『わたしに信仰を持つ者は,まさに聖書が言ったとおり,『その内奥のところから生きた水の流れが流れ出る』のです。』と言ってますよね。

そして続く39で、生きた水の流れのことを『しかしこれは,彼に信仰を持つ者が受けようとしていた霊について言われたのである。』と説明しているように、間違いなく聖霊について語っていると理解できますよね。


ここでイエスは『わたしに信仰を持つ者は聖霊を受ける』と言っています。

天的級の姉妹も、ここにいる地的級の姉妹も全員同じように『イエスに信仰を持つ者』ではないですか?


ここだけでなく、どこの聖句を読んでも『信じる者に聖霊が与えられる』とか、『信じる者に聖霊が共に居る』とかの表現が多くあって、信じる者には区別、分け隔てなく、同じように聖霊が与えられるという印象を持ちます。


逆に、どこを読んでも『信じる者の中でも、聖霊の与えられ方は違います』というような印象を持つような聖句はどこにもありませんが…」と聞いてみました。



天的級の姉妹は「じゃあ、Angeさんはご自分も天的級と同じ聖霊が与えられ天的級以上に聖書を自分は理解できるはずだと思っていらっしゃるのですね。」と聞いてきました。



この聞き方、言い方、なんとなく嫌味に感じました。



私は決してそんなつもりで質問しているのではなく、純粋に聖霊について理解したいと伝えました。


ヨハネの聖句を読むと、わたしにとって聖霊は疑問だらけだったのです。



天的級の姉妹に質問したことだけでなく、ヨハネ14章から読んでいくと、イエスが自分が去った後、聖霊を送ると弟子たちに約束し、その聖霊とはどのようなものなのかを説明し、聖霊を紹介していますが、この場面も不思議でした。


なぜなら、聖霊は昔から存在し、ヘブライ語(旧約)聖書時代から人々に働きかけ、ギリシャ語(新約)聖書でも聖霊の働きによりマリアがイエスを身ごもった事実は弟子たち全員が理解していたことであり、それだけでなく聖霊というものがどういうものなのか、イエスの説明を今さら聞くまでもなかったはずです。


それなのになぜイエスはわざわざ自分が去った後に来る聖霊の特徴を紹介したのでしょうか?


これは、弟子たちが理解していた聖霊とは違うものなのか、それとも弟子たちが理解していた聖霊の働き方が違うのか?という疑問がありました。



私はそのことも素直に天的級の姉妹に話しました。



天的級の姉妹は、私の聖霊に対する疑問の多さに答えなければならないのか…という感じでウンザリした表情でした。


もちろんその質問を聞かれても答えることはされませんでしたが、最後に次のように警告されました。



「Angeさん、あなたの質問や疑問、話を聞いていると、あなたはサタンの影響を受けています。

非常に危険な状態です。

研究生はサタンに狙われやすいですから、ご自分がしっかり気を引き締めていなければなりません。


聖書を自分で理解しようとせず、納得できなくても組織が教えていることに素直に聞き従うと姿勢があるならエホバから祝福されます。


今は疑問だらけで理解できなくても組織が教えている聖書理解だけをまず取り入れていく作業をして、自分の疑問は今は持ち出さす傍においといて、『楽園』の書籍研究を順調に終わらせ、『崇拝』の本に入っていく頃には、あなたの疑問も自然と無くなってきます。


あなたは今サタンの影響があるので組織の教えに反抗的な姿勢が見え隠れしています。

そういった状況のままでは、どんなに聖書を理解しようと思っても、エホバがそうはさせません。


聖霊に対しては、『エホバの活動力』という組織からの理解だけで十分なんです。

それ以上知ろうとすることは傲慢なんです。

エホバは一番傲慢な者を嫌います。

あなたはエホバから嫌われたいと思いますか?」と、ある意味脅されました。



「サタンの影響を受けている」と天的級の姉妹から宣告された私を警戒するような視線で見ている姉妹も数人おられました。


そのような視線を感じたとき、本当に寂しかったです。


こちらとしては、純粋に疑問に感じて、教えて欲しいという思いだけでした。

理解して信仰を深めたかっただけでした。


周りの姉妹たちは、仲間として受け入れてくれるだろうと思っていたのですが、天的級の姉妹からハッキリ「サタン」なんて言われると、やはりその言葉には影響力はあります。



その日は、天的級の姉妹の最後の警告で私の質問タイムは終了し、遅い時間になっていたので食事会を終え、それぞれが帰路にむかいました。


帰宅して、その日の事を思いめぐらしました。



天的級って何なんだろう…?

そんなものなのだろうか…。


あの聖書理解は何なんだろう…?

そんなものなのだろうか…。


今日は何も得るものも喜びもなかったような気がする…。


むしろガッカリしたことが多かったのではないだろうか…。


そんなことを思いながら、食事招待宅の姉妹が持たせてくれた折り詰の中の料理の品々を見た時、『選ばれた残りの者』であるはずの天的級の姉妹が、しなびた海苔に巻かれた人工イクラの軍艦寿司のように『選ばれなかった残り物』と重なって見えてしまいました。


そう思ってしまう私はサタンの影響を受けているのかも…と反省しながら、その日はエホバに天的級の姉妹をそのように見てしまう罪をお赦し下さいと祈り、就寝しました。



その出来事以来、天的級の姉妹は集会でも私を避けるようになり、「私に近づくな」というオーラを放っていました。


あからさまにそのような態度をされると、さすがに私も近づけなくなりました。


相手が拒絶していることが分かっているのに、あえて相手に近づくというのは嫌がらせ以外何ものでもありません。


当時はまだ若かったので、姉妹をそのような態度にさせてしまったのは私が悪いんだ…嫌われる私が悪いんだ…と思いましたが、今となっては笑ってしまいます。



私が姉妹に聞いてみた聖霊に対する疑問、質問は、エホバの証人以外の、いわゆる世のキリスト教の教会のクリスチャンは全員、もちろん聖書からちゃんと答えることができます。

私の抱いていた疑問は、彼らにとって初心者の段階で理解していた事なのですから。


答えられないのはエホバの証人だけです。


なぜイエスが聖霊の事を「私が遣わす」と言ったのか、そして旧約時代の聖霊は、『臨む』とか『上に降る』とか、『覆う』とかの表現が多かったのに対し、新約時代の聖霊は、『その人の内に共に居る(住む)』と、初めて今までとは違う働きの表現が出てきます。

イエスはその事を弟子たちに説明していたのですが、それがどういうことなのかを理解したとき、やっと私の長い間抱いていた疑問が解決され何とも言えない爽快感を感じたものです。


やはり、み言葉である真理は必ず理解させてくださると、感動したことを今でも覚えています。



あの組織の中にいたのなら、決して未だに理解できず悶々としていたと思います。


それは、エホバの組織は真理を知らない証拠であり、偽りしか教えられない組織の限界であり、天的級と言われる者の理解もその程度のものだという証拠だと感じました。



組織で毎年行われる記念式では表象物に与る証人が増えているそうですが、その天的級クラスの方々は本当に本物なのでしょうか…。


残念ながら私には決してそうは思えません。