私のアメブロにメッセージを送ってくださったエホバの証人の方…。


あなたからのメッセージに対してお返事を差し上げようと、あなたのブログにアクセスいたしましたが、既に退会なさったようでお返事ができないため、このような形をとらせて頂きます。


あなたの私に対する批判はよく理解できます。


私もあなたのようにエホバを信じ、この組織だけが宇宙主権者であられるエホバ神が用いている唯一の伝達経路と信じている立場であるなら、私のような者に対して強い憤りを感じたと思います。



あなた方から見て、組織を批判する反エホバの証人や、あなた方から見た「背教者」が、不慮の事故や、病気などで亡くなった場合、あなたがおっしゃるように「エホバから直接打たれた」「エホバの裁きを受けた」と言うエホバの証人の方は多いですよね。


それは、あなたの側から見た見方であり、あなたがそう思いたいから、そう望んでいるからそのように見えるだけなのではないでしょうか。



あなたは、私の身にも、また私の家族の身にも同じような事がおこることを望んでおられるようですが、たとえ私が不慮の事故で命を落とそうが、病気で苦しんで死のうが、全ては神様のお許しの中で起こることであり、あなたが信じている「エホバ神」からのさばきだとか、あなたが信じているエホバから打たれたなどと私は思いません。


毎日、車で通勤して、こうして無事家族の元に帰れるのも、神様が道のりの安全を守ってくださったからであり、私が事故にあうことを神様がお許しにならなかったからです。

私が生きることを神様がお許しにならないのであるならば、今日の私の命はなかったことでしょう。


もし私が、あなたの望むように苦い思いをし、哀れな死に方をしたとしても「エホバから打たれた」とお思いになられても結構です。


私は、あなたが信じている「エホバ神」は偶像であり、何の力もないと聖書から確信していますので恐れる必要がありません。


ただ…。


あなたも、「みことば聖書に信頼をおいている」とおっしゃるなら、本当にあなたが信じているエホバは生ける神なのか、徹底的にお調べになってみたらいかがでしょうか。


私は、もうエホバの証人の教理に対して反論する過去の記事を消してしまったので、あなたに提供することができませんが、私よりもエホバの証人の教理の間違いを聖書から詳しく説明している方のブログやサイトがたくさん検索できると思います。


どうぞそれらの方々の深く調べられた記事をお読みになることをお勧めいたします。



ここでは、あなたのご意見に対してだけお答えいたしますね。



あなたは、「新世界訳聖書は信頼のおける聖書だ」とおっしゃいますが、果たしてそうでしょうか。


新世界訳聖書が信頼の置けない聖書である証拠は、たくさんあるのですが、ここではほんの数例だけ提示させていただきます。


あなたはものみの塔聖書冊子協会が発行している「ギリシャ語聖書王国行間逐語訳」を持っていらっしゃるとのことですが、それと比較しながらこの記事を読んで見て下さい。



① 「私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が…」(第一テサロニケ3:11)


「わたしたちの神また父ご自身が、そしてわたしたちの主イエスが…」(同、新世界訳)



一見、同じように見えるかもしれませんが、通常の聖書の翻訳である最初の訳ではこの箇所で「父なる神」と呼ばれているのは「主イエス」であると訳されているのに対し、エホバの証人発行の新世界訳では「神また父」と「主イエス」との二つの別個の存在として訳されています。


つまり、キリストが神であるかどうかにおける大きな翻訳の差があるのです。


さて、ではどちらが正しいのでしょうか。


このことを結論づけることは簡単なことで、それは日本語に翻訳される前のギリシャ語聖書と比較すればいいことですよね。


ここで参考になるのがギリシャ語と英語の行間逐語訳聖書です。


あなたがお持ちの「ギリシャ語聖書王国行間逐語訳」を御覧下さい。


ここでもし、新世界訳聖書のほうが正しければ、「神」と「キリスト」とは別の存在なのですから、当然、主語の代名詞は(三人称)複数形になっているはずです。


ですから、英語で「they(彼ら)」となっているはずですよね。



しかしこのこのギリシャ語の単語を対応させた英語を見てください。


主語は「he(彼)」となっているではありませんか?


「he」とは三人称の単数を示す代名詞であり、主語が一人であることがわかりますよね。


つまりこの箇所で言う「父なる神」とは「主イエス」のことであり、聖書にはキリストが神であると書かれていることが分かると思われませんか?


新世界訳聖書には、イエス・キリストが神であることを否定するために、このような書き換えの手口が多く見られます。



でも、新世界訳聖書でさえも書き換えることができなかった箇所があります。


それはヨハネ20:28です。


「それに答えてトマスは彼に言った、『わたしの主、そして私の神!』」(新世界訳ヨハネ20:28)


エホバの証人は、「キリストが神でない」と主張するために、翻訳の際に語順を並べ換えたり、途中で切ったり、語句を脱落させたりするのですが、この箇所だけは短く明確であるため、あらゆる書き換えはできなかったようです。


ですからエホバの証人はキリストが神ではないと主張するために、このような説明をしますよね。


①トマスは復活されたキリストを見てびっくりして間違った。

②トマスにとってキリストは神々の一つのようなものであった。

③トマスは実際にはエホバに向かって語ったのであった。


果たしてそうでしょうか。


では、その言葉を受けた時のキリストの態度を見てください。


もしキリストが神でないのなら、キリストに対して「わたしの神」とあがめることは偶像礼拝の罪であり、神様が偶像礼拝を最も嫌っておられることをキリストはご存知のはずです。


ですから、キリストは礼拝を拒まれ、トマスを正すはずです。

実際にペテロも(使途10:25-26)、パウロとバルナバも(使徒14:11-15)また御使いも(黙示録19:9-10)自分が拝まれることを拒否し、神を拝むように正しました。


しかしキリストは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。」と語られ、トマスを戒めることなく礼拝をお受けになりました。(マタイ14:33、28:9、マルコ5:9、ヨハネ9:38も御覧下さい。)


ですから、キリストはご自分が神であることをお認めになられたことが分かります。


新世界訳聖書の訳には書き換えが多いことを調べることができるので、確かめてみてください。


結論からして、キリストは神であると聖書は語っており、エホバの証人が発行している「新世界訳聖書」は決して原本に忠実に翻訳したのではなく、自分たちの独自の教理体系を作るために書き換えられたものであることがきっとご理解できると思います。



さて、次にあなたがおっしゃる、私の「飲酒」に関する過去の記事で、いろんな方からの反論があり、もうこれに懲りてブログを書くことをやめるだろうと期待していたのに、未だにしぶとく記事を書き続けている神経の図太さと、飲酒に関する歪んだ見方を正せとのご指摘ですが、確かにエホバの証人は飲酒を否定してはいませんし、むしろお酒の好きな方が多いですよね。


私も現役の頃は、会衆内でお酒の強い姉妹は皆から絶賛され、本人も酒豪であることを自慢していましたし、酔って昔の恋愛話を聞かされたり、長老のグチを聞かされたりということがあっても、それが普通だと思っていました。


皆が楽しい時間を過ごせたこともありましたが、飲む席にいないほうが良かったなと思う場面もありました。

多少でもお酒が入ると正直な感情や意見が出やすくなりますからね。



ただ、ここからは私の聖書理解による良心の決定と、私の信仰なので誤解なきようお願い致します。


聖書を知っているクリスチャンはお酒を飲むか飲まないかは、エホバの証人だけでなく、聖書を信じている一般の教会のクリスチャンもそれぞれだと思いますので、それぞれの聖書理解と、それぞれの良心と信仰で決定なさる領域だと思います。



私はお酒は飲みませんし、煙草も吸いません。


まず、なぜ私が煙草を吸わないか…。

クリスチャンでなくても、健康のことを真剣に考えている人は煙草を吸わないものですよね。

それは、煙草が健康を害し、最終的には癌の原因となることが広く知られているからですよね。


ということは、「煙草を吸わない=自殺行為をしない」というだけの意味なのです。


私は神様からいのちを頂いており、どのうような自殺行為も罪であると信じています。

煙草を吸わない理由が、「自殺をしたくないから」であるならば、何ら当たり前のことと思われないでしょうか?


ですから、なにも私は煙草だけに集中攻撃をしているのではなく、暴飲暴食も、危険な運転も、同じく自殺行為につながる罪となるのではないかと思っています。


でも、日常食べることは必要ですし、運転することも必要ですから、それらの「必要」と「罪」との境界線が煙草ほどはっきりしていないだけなのだと思います。



お酒の場合も、健康を害するという意味では、通常の食事と同じく飲みすぎなければいいのかもしれません。


でも、お酒を飲むのはなぜでしょうか…。



それは、殆どの場合、酔うためではないでしょうか。


脳の機能を麻痺させることによって、それにはいくつかの効用がありますね。


たとえば悲しいとき、辛いときに脳を麻痺させることによって、悲しみや辛さを和らげることになるでしょう。

また、騒ぎたいときにも興ざめさせる働きのある理性を奪い、より楽しく騒げるという効きめもあります。


様々な問題を抱え、不安な気持ちと、むなしさをかき消すためにお酒が必要な人もいらっしゃるでしょう。

日頃のストレスの解消のために、親しい仲間と楽しくお酒を飲んで羽目をはずす事も必要とされる方もいらっしゃるでしょう。

他にもいろいろな理由があるでしょう。


それぞれの方のお酒を飲む目的は違ってくるでしょうね。



だた、私の場合ですが、私は組織から出て、クリスチャンとなったのですが、聖書の本当の教えを理解したとき、私自身、お酒を飲む必要はないと感じました。


イエス様を信じた者はすべての罪が赦されて一歩一歩天国に向かっており、永遠の喜びが与えられたクリスチャンにとっては、理性を働かせて天国を希望として生き、神様の愛の中で生きていることのほうがはるかに喜びですから、少しでもお酒で脳を麻痺させることはそれらの楽しみを奪うことになってしまいかねないと思うのです。


多くの人にとっては不安となる死さえも、天国に行くための一ステップとして喜んで見つめているのですから、お酒を飲む理由が本来ないと感じました。


また、酔うところには泥酔があり、泥酔するところには必ず多くの罪が付随していることも事実ですよね。

悪口、陰口、性的な罪が伴っていて、クリスチャンも弱い人間ですので、その場を避けるという意味もあります。


それは、エホバの証人のあなたも聖書から教えられているのでご理解されていると思います。



「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:18)



私は、生活の様々な問題もいろいろ忙しい中で解決しなければいけないこともあり、また、毎日みことばに触れ、教会の兄弟姉妹と神様について語り合い、それによって喜びを得ることも多く、私の実生活の中で、お酒を飲む必要性を私自身が感じていないということもあります。



ただ、これだけは申し上げたいのですが、神様は人間を束縛するお方ではなく、自由をお与えになる方ですから、クリスチャンに与えたいと思われているどんな幸いさえも、幸いだからといって強いてお与えになるのではなく、クリスチャンが自由意志を持ってその幸いを自ら選ぶようにと勧めておられる方です。


神様は、私たちの人格を踏みにじることをせずに導かれる真実なお方です。


私たちクリスチャンはお酒を飲むか飲まないか、何を選択するか、何が神様に喜ばれることなのかと常に心に留め、内なる声に聞き従って決定すればよいと思います。



最後に、あなたにお伝えしたいことは、私の「飲酒」に関する記事に対してご意見を下さった方々は、ご自分を明らかにしていらっしゃる方たちばかりでした。


私が残念に思うのは、あなたがたエホバの証人の現役の方は、自分を明らかにせず一方的に意見だけ吐き捨てていかれる方が多いことです。


確かに、あなた方現役の方にしてみたら私のような反JWは、組織の脱落者、サタンの手先として礼儀に値しないと思われるでしょうが、あなたが優位にあり、エホバからの強い後ろ盾を得ている聖なる民であるなら、むしろ正々堂々とご意見されたほうが説得力があると思います。


そのほうが、「背教者」が怯むと思いますよ。


あなたのようなやり方を「背教者」に「卑怯」だと感じさせてしまうと逆効果だと思います。


ですから、あなたが私の不幸や死を望むようなセリフは、だだの脅しにしか聞こえなくなってしまうのです。


主権者エホバのみ名を負う者に相応しい行動を取られることを聖書も勧めているのではないでしょうか。