「自分は、何のために生まれてきたのだろう…。」



「自分は、何のために生きているんだろう…。」






これは、人の心の底にいつもある疑問です。


そしてそのことが分からないために、人生の中で経験する様々な挫折…

それは失恋であったり、会社の事業に失敗したり、病気になったり、年老いたり、体が不自由になったりと、人それぞれの理由があると思います。


そういった個人の抱える深刻な問題によって「もう、生きている意味がない」と感じ、自ら死を選択する悲劇が毎日のようにこの日本でも起こっています。


自殺してしまう人が毎日のようにいるということは、自殺志願者が何十万、何百万という大勢の人が生きる目的について迷い、悩んでいるということなのでしょうね。


仕事に一生懸命打ち込み、社会奉仕やスポーツに一生懸命頑張って気を紛らわせていらっしゃる方も多く、なぜかじっとしていると、「何のために生きているんだろう…?」との疑問が心の中で湧き上がり、正面からそのことを考える時、気持ちが暗くなると話して下さった方がいました。


人生の目的を正面から考える時、人はどうしても悩んでしまわなければならないことが出てきますね。


自分は何のために生きているのか、死んだらどうなるのか…。



いろいろ考え悩むことでしょう。


それを考えても悩んでも、解決できず、その空しさをごまかすために毎日を忙しくさせているのかもしれませんね。





でも不思議なもので、人というものは、誰かに愛されていると感じている時には、「何のために生きているのだろう?」という疑問はほとんど持たないものだと思われませんか?


それどころか、かえっていのちを受けたことの喜びを知り、その素晴らしさを楽しみ味わっていると思われるのではないでしょうか。


ですから、愛が人間にとって、なくてはならないものであることは誰もが感じていることなのです。


その証拠に愛情の中で育てられていない子どもは、精神面で顕著な問題を持っている場合が多く、大人でも、誰にも愛されない孤独感は耐え難いものです。



なぜでしょうか…。




それは、人間は愛されることを必要なものとして造られたからです。




神様はこう語られました…。



「そして神は『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう』」(創世記1:26)



神様が人を「神のかたち(性質)」を持った者として造られたのです。



では、「神のかたち」とはどんなものでしょうか?



「われわれ」と神様が語っておられることに注目できますね。


神様は唯一のお方であられると同時に三つのご人格を持った方、すなわち、「三位一体」の神様が表わされているのです。



それは「父なる神」・「子なる神キリスト」・「聖霊なる神」です。


このことは、人間の経験では理解しにくいことですが、聖書には何度も言及されています。


たとえば、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを受け…」(マタイ28:19)


この聖句では、父と子と聖霊という三つのご人格が示されていますが、その「御名(性質または本質)という言葉は単数形で書かれています。



日本語の名詞には単数も複数もないのですが、新約聖書の原文であるギリシャ語にはあるのです。



また、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(Ⅱコリント13:13)と、三位一体の神からの祝福を求める祈りが書かれています。



この神様が本質は一つで優劣の差はなく、お互いに永遠から永遠まで愛し合っておられる方なのです。



家族のような感じですね。


例えば「田中さんの家族」は、父、母、息子がいますが、三人はそれぞれ人格を持つのに、まわりの人から一つの家族「田中家」と認識され、それは間違いではありません。


そしてその家族はお互いがお互いを愛していて、互いに協力しあっています。



すこし話が横にずれてしまいましたね。



つまり、神様の本質は、お互いに永遠から永遠まで愛し合っておられるということは、「神のかたち」には、永遠性と完全な愛の交わりがあることがわかります。


そして人間は、このような神様の性質を持つ者として造られました。


ですから、人間は永遠に生き、しかも神様との完全な愛の交わりの中で、神様が喜びを持っておられるように喜びを持って生き続けるために造られたのです。



それがどれほど素晴らしいことか…。



この地上での罪人同士での不完全な愛でさえ、愛し合うことは素晴らしいことです。


そして、その愛のゆえにいのちを捨てることがあるほどです。



ましてや、完全な愛を持って永遠に神様と人間が愛し合うことはどれほど楽しく素晴らしいことでしょうか。



「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(第一コリント2:9)



このように神様と永遠に完全な愛で愛し合うことは、私たちには想像さえできないほどの素晴らしいことであり、神様は人間に愛し合う喜びを与えるために造られたことが分かるのです。


そして人間の喜びは神様の栄光を現すものだったのです。



しかしどうでしょうか?


人間は神様と愛し合うどころかその存在を無視し、神様と愛し合うどころか偽りの神々である偶像を拝み、神様と愛し合うどころか金を愛し、名誉を愛し、快楽を愛し、あらゆる欲望のために生きています。


そしてその欲望がかなえられることが人生の目的にすり替えられ、欲望が満たされる可能性がなければ生きている意味がなくなり、自暴自棄になって、先ほどのように自殺したりとの問題が起こるのでしょう。


これが罪なのです。



罪には「的はずれ」という意味があることは誰でも知っていることですが、まさしく本来神様によって造られた尊い幸いな目的からはずれて生きている人間の姿を現す言葉だと思われませんか?


そして罪を犯した人間は死ぬ者となり、それだけではなく死後にさばきを受けて、神様の愛のひとかけらもないところである地獄で永遠にさばかれる者となってしまったのです。


しかし、神様の、人間を造られた目的が変わってしまった訳ではありません。


そして神様は罪人である私たちをもなお愛してくださり、人間を本来生まれて来た目的に戻すため、すなわち永遠に神様と共に生きる者とするために、私たち罪人の身代わりにイエス・キリストを十字架の上でさばかれたのです。


そして死後三日目に復活させ、キリストを信じる者に永遠のいのちを与えると約束されたのです。




罪を犯してさばかれる者となってしまった人間が、生まれてきた目的を享受するためには、どうしても地獄から救われて天国に行かなければならないのです。



言い替えれば、人間は天国に行くために生まれ、今生きていると言えるのです。


そして、天国に行って初めて本当の意味で「生きている」ことの意味を理解し、納得し、心から神様に感謝し、賛美し、喜ぶことになるのです。




「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(第一テサロニケ5:10)




主よ…感謝します。


アーメン。