マタイ123「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神はわれらと共にいます」という意味である。」


今回は、この聖句にあるイエス様のお名前「インマヌエル(神われらと共にいます)」という意味を、創世記の記述にさかのぼって学んでいきました。


さて、私たち人間の社会において絶縁というのは問題であり、悲劇でありますね。


今でも人々が身寄りがないそういう中で老後を迎え、亡くなられる…自分の死に際を看取る人がいない…そういうニュースを聞くようになって久しいですね。


孤独死、無縁社会といわれ、関わりのある人がいないというように、どのような理由かは分かりませんが、寄り添ってくれる人がいない、そういう方たちが実際この社会に存在しています。


確かに、人がいるところには問題がおこりやすいので、人との関わりは煩わしいと感じ、適当な距離感が必要になる場合もあります。


しかしそうかと思えば、人にかまってもらいたい、人に何か認めてもらう、人に何かしてもらうということを求めます。


人は、そういう意味では一人では生きてはいけません。

何らかの形で依存し、寄りかかりながら人というのは生きていきます。


それは一般的にも理解されているところではないでしょうか。


人との関係においてはそうですが、では、この世界を造られたお方との関係はどうでしょうか?


創造主なる神様との関係がもし切れているとするならば、これ以上の悲劇はないですね。


自分を創り、生かしておられる神様を知らない…その神様との関係が切れている、絶縁状態にある…それは人として最悪の状態と言えるのではないでしょうか?


このマタイ伝123の記述は何を示しているでしょうか?


それは、イエス・キリスト様の誕生、神様が人としておいでになられた、そしてそのお方はインマヌエルととなえられる…それは神様が私たちと共におられるという意味であり、そのような名前の意味を持たれるお方がおいでになったのです。


神様が私たち人間と一緒にいてくださる。


それは、創造主なる神様に造られた人として、生き物として一番正常な状態なのです。

しかし、残念なことに、人は自らその状態を破りました。自らその縁を切りました。


神様のもとを飛び出しました。


その結果が、私たちがこれまでに自ら経験したであろう痛み、苦しみなどの悲しい現実なのです。

しかし、神様はその状況を望んでおられません。


だからこそ、救いの計画、この絶縁状態を回復するために用意をしてくださいました。


この「インマヌエル」なるお方を遣わしてくださいました。


「神様は私たちと共におられる」…先にイエス・キリスト様を信じた者たちはそれを毎日経験しております。


私たちは人生において悲しみも経験し、悩みも経験し、時には罪を犯し、また肉体的には死を目の前にするわけです。


ですが、神様はどのようなときにも私たちと共にいてくださるのです。


共におられる神様、インマヌエルなるお方のご存在、それは私たち聖徒の慰めであります。


このマタイ123のことばは、イザヤ714にて預言されていました。


イザヤ714「それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなた方に与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」


しかし、イエス・キリスト様が肉体を取られたことによって、初めて神様が私たちと共におられたわけではありません。


それは神様が私たち人間と共におられる、またその事を望んでおられるという、分かり易い具体化であって、神様がご自分の民と共におられたことはもう、何年も前からありました。


今日は皆さんと一緒に二回に分けて、「共におられる神様」「インマヌエルなるお方」を学んでいきたいと思います。


今日は、創世記の中から4人の人物に焦点を当てていきたいと思います。



◆ポイント◆


1・アブラハムと共におられた神様(創世記2122-27


この記述は、アブラハムがどのように異国民の曹長たちの間で尊敬されていったかについての一つの例として示されている記述と言えます。


そこではゲラルの王アビメレクとその軍勢の長ピコルが来て、アブラハムと契約を交わすときに22節の終わりのところでアブラハムに言いました。「…『あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる。』」と。


これがアブラハムと契約を結ぶ彼らの動機なのです。


この、本当の神様を知らないであろう国の王様たちがアブラハムについて言いました。


「あなたがどういうことをなさっても、神様があなたと共におられます。」と。


これは、神様がご自分でおっしゃったことでもなく、神様を知ってる者が言ったわけでもありません。


本当の神様を知らないであろう人が言った話なのです。


本当の神様を知らない人達が、アブラハムには神様が一緒におられることを認めたのです。


確かに神様はアブラハムと共におられました。


「信仰の父」と言われるアブラハムでありますが、彼は私達と同じ罪人であり、いろいろな失敗もしました。


しかしながらアブラハムは神様に従い、神様のみことばに従い歩んだ人であります。


そして神様はこのアブラハムと契約をたててくださいました。約束してくださいました。


神様の祝福の中でアブラハムはこの生涯を歩んで行きました。


それを傍から見て、この人達は言いました「神様があなたと共におられる」と…。



さて、私たちはどうでしょうか?


私たちの歩みの中で、人々は私たちをどのように見ているでしょうか?


聖書のことがよくわからなくても、聖書の真実がわからなくても、まず私たちの歩みを見て人々が「あぁ…神様があなたと共におられる」と言ってもらえるでしょうか…。



<次の記事に続きます>