さて、既にイエス・キリスト様を信じて受け入れたクリスチャンである私たちはどうでしょうか。

今日学んだように、神様は私達と共にいてくださいます。その約束も与えられています。



では、あなたは神様と共にいることを選んで生活しているでしょうか?


子育てを経験された親ならご存知でしょう。

赤ちゃんはいつもいつも親と一緒にいたいので、一度抱き上げるなら降ろして欲しくないと泣いて要求することがあります。



そしてベットで寝ているときも、たとえ同じ部屋に親といたとしても、自分の視野に親が入らないところにいるなら泣いて探し求めます。

あるいは自分の視野の中に親がいても、親の顔が自分のほうを向いていないなら機嫌が悪くなります。



私達と神様との関係はどのうようなものでしょうか?


幼い子どもが親をそこまで慕い求めるように、いつも一緒にいて欲しいと思うほどに神様と共にいることを望んで求めて生きているでしょうか?


人間の側から言うときに、旧約聖書の中では、エノク、そしてノアという人だけが「神様と共に歩んだ」と書かれています。


神様と共に歩む…それはどういうことでしょうか?


ミカ68「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」


神様が私たちに求められていること、それは正義であり、憐れみ、人を愛し、へりくだること、つまり神様の御心を求め、神様の喜んでくださることを行う、神様のご性質に倣って、みことばに従って生活することなのです。


そのような、神様を気にした生き方、それを私たちクリスチャンはしているでしょうか?


私たちの生活における基準というのは何でしょうか?


神様を目の前に置いた生き方をしているでしょうか?


それとも感覚的な生き方でしょうか?自分の好き嫌いによって決めているでしょうか?


神様は私たちと共におられる、その真実、現実というのは私たちの生活における態度、あるいは反応、また生き方、それに影響しているでしょうか?


それとも神様が私達と共におられるというのは一つの聖書の教理であって、あなたの生活の中では特に具体的に関係のないことでしょうか?


聖書のみことばを真実として理解することと、その中で生きることとはまた別の話となります。


私たちはしばしば、いろんな悩み、苦しみを経験します。


そういう中で神様の存在がぼやけてしまう…私たちの感覚によって神様は大きくもなったり小さくもなり、いるように思えたり、いないように思えたりします。


「砂の上の足跡」という有名な詩があります。

ある人が神様と浜辺を一緒に歩いている夢を見ました。

浜辺ですから当然そこには足跡がつくわけですね。


その人が後ろを振り返って、今まで歩いてきた砂の足跡を見ました。

そこには、神様と自分、二つの足跡がそこにはありました。


しかしある部分が一つの足跡しかない部分を見ました。

そして神様に申し上げるのでね。


「神様、あなたは、私があなたに従うと決断したときから私と一緒にいてくださると、ずっと一緒にいてくださると約束してくださったではありませんか…あの、足跡が一つしかない時というのは、私がとても辛く悲しい、本当にあなたの存在を必要とした場面であったのです…。なぜ神様、あなたは私と共におられなかったのですか…神様あなたはその時どこにいらっしゃったのですか?」と彼は言いました。

神様は彼におっしゃいました…。


「私はあなたを愛している…私はあなたをずっと愛している。

私はあなたを離れることは決してない

そして私はあなたのもとを離れたことはない。


あなたが見たこの一つしかない足跡…あの場面で、実は私があなたを肩に背負って、背中に背負って歩いた。


私たちのクリスチャンとしての歩みの中でも同じようなことがあるかも知れません。

神様のみことば、それはよく学んで知っています。


しかしながら私たちの誤った感覚によって、神様がおられたり、おられなかったりするということがあります。


救い主の母として選ばれたマリヤに御使いは言いました。ルカ128「…『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます。』」

神様があなたと共におられると言ったのです。

逆の言い方をするならば、マリヤは主と共にいたのです。


神様と共に歩む生活を選んだということです。

神様にとって選ぶ女性は誰でも良かったというわけでは決してありません。


ミカ書6章で言われているような神様が喜ばれるような生き方、神様と共に歩むということを実行していたマリヤであるからこそ、神様は彼女を選びました。


そのようなマリヤは確かに動揺もあったでしょう。受け入れるには大きすぎる御使いからのニュースでした。

ですが、マリヤは理屈ではなく、信仰によって反応しました。


ルカ138「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。』そして御使いは彼女から離れて行った。」


私たちも同じように神様に反応できるでしょうか?

そういうほど私たちは積極的に神様と共に歩むことを選んでいるでしょうか?


最後に詩篇231-4を見てみたいと思います。

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はたといわたしは死の陰の谷を歩むともわざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちとつえはわたしを慰めます。」


詩篇の筆者にとって、この詩は平安の状況で書かれたものではありません。5節には敵のことが書かれています。

その中で彼は言いました。「自分が死の陰の谷を歩むとも、困難、悩み苦しみの中にあってもわたしは恐れない…神様がわたしと共におられるからだ」と宣言しました。



それは、あなたの、わたしの証しでしょうか?


救い主誕生の知らせを受けた羊飼いたちが、馬小屋へ走っていきました。

彼らはイエス様に具体的にお会いして、それで満足したのです。

そこでヨセフやマリヤが羊飼いたちを客人としてもてなしたとはどこにも書いていません。


羊飼いたちにとって、イエス様が共におられるということが喜びであり、感謝であり、満足だったのです。


神様が私たちにしてくださった救いのご計画、そのことに私たちはもっと感動すべきではないでしょか。

わたし達も改めて、インマヌエルなるお方がわたし達の個人的な神様であるということをかみ締めていきましょう。それを、よくよく考えていくのならば、この世では味わえない喜びを経験していけるのです。



感謝します。

アーメン。