今回も、幕屋について引き続き学びました。



主題聖句

テトス3:5-6「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。」




この時期になると、インフルエンザの予防接種される方や、外出先から帰宅したときは、いつもよりうがい、手洗いが強調されますよね。


洗うということは、目に見える汚れだけでなく、目で見ることのできない病原菌も洗い落とすのですね。


病原菌を洗い落とさなければ、その病原菌を持ち運ぶ危険性がありますよね。


インフルエンザだけでなく、手をきれいに洗わないで食べ物に触ってしまったため食中毒が発生し、腸チフスにかかることもありますよね。


よごれは死を招くこともあります。



清さと洗いの大切さは誰でも理解されていると思います。



さて、「洗い」は「清さ」に深く関係があるのですが、今回は幕屋にある「洗盤」について学びました。


洗盤の記述は、出エジプト記30:17-21、38:8にあります。


また、位置は出エジプト記40:30-32にあります。



その中心的な教えを過去の面から見てみました。


全焼のいけにえの祭壇を通りすぎて、洗盤があります。


洗盤には水がいっぱい入っています。

それは、祭司が全身を清めるためでした。


その後も、神様に仕えるために幕屋の中に入っていくたびに、彼らはまずそこで手と足を洗わなければなりませんでした。


これから何が理解できるでしょうか…。


一般的な原則の適用として、洗盤は、私たちがみんな汚れた者であることを思い出させます。


詩篇24:3-4には「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」とあります。


私たちの手は悪いことをして汚れています。

私たちの唇は悪いことを話して汚れています。


ですから、私たちが神様に仕えるためには、まず清められなければなりません。



また、洗盤は、私たち自身が汚れている者であることを思い出させますが、神様は私たちを洗う準備をすでにしておられます。


それは、ダビデの祈りからも理解できますよね。


詩篇51:7には「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」とあります。



では、現在のための中心的な教えの面を、過去と現在とで比較しながら見ていきます。


比較1・ 「肉体のよごれ」と「霊の汚れ」の違い。


主イエスは、「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」(マタイ15:11)と言われました。


パリサイ人は、食事をする前にたいへん念入りに手を洗いました。

パリサイ人が主イエスに不平を言ったのは、イエス様の弟子たちが洗わない手で食事をしているのを見たからでした。


しかし、主イエスがとりあげたのは、霊的な汚れでした。


マタイ15:1-20の記述を見ると、霊的な汚れは肉体のよごれよりもはるかに重大であることが理解できます。


そして、霊的な汚れは外からでなく、内側から出てくるのです。


「悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」(マタイ15:19-20)



霊的な汚れは肉眼では見えませんが、それはちょうどウィルスや病原菌のような働きをします。

ですから、うそをつき、盗みをし、人を憎むとき、それらは目に見えませんが、私たちをむしばんでいるのです。



これはとても厄介ですね。

目に見える体の汚れや、体についた目に見えない病原菌などは洗うことで清さを保つことができるのですが、内側の汚れ、霊の汚れはどのように洗って清めることができるのでしょう…。



比較2・ 「水で清めること」と「聖霊によって洗われる」ことの違い。


使徒11:16には「主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる』と言われたみことばを思い起こしました。」とあります。


余談ですが、エホバの証人は聖霊の神性を否定するために、この聖句を用いて「『水でバプテスマを授けたように、聖霊でバプテスマを授ける』ということは、水が非人格的であるものと同じように聖霊も非人格的なのです。」と主張しますが、この聖句はそんなことを教えているのではないんですよね。

もっと重大なことを教えているんですよね。



水は私たちのからだを洗うことはできますが、心まで洗うことはできません。

私たちの霊的な汚れを清めるためには霊的な力が必要です。


たとえば、聖霊によって心が清められた人として顕著な聖書中の人物といえば、パウロの回心と新生の経験はよい例でしょうね。



テトス3:3-7にある彼自身のことばから、次の点を指摘し、理解できます。



(a)救われる前、パウロはどんな人だったか。


「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。」3節



(b)救いの原理…私たちが行った義のわざによらない。


「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」5節



(c)パウロを清めた力…聖霊が新生と更新との洗いをされた。5節




では、霊的な汚れを清める聖霊は、どうやって受けることができるのでしょうか…。


それは、私たちが主イエスを信じたときに聖霊を受けることができます。


そのことを、百人隊長コルネリオの経験から説明できるでしょうね。


使徒10:44には「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」とあります。


この例が示す清めは回心したとき一度だけ行われます。


それ以来、たえず行われる清めは、ヨハネ13:1-11で、イエス様が弟子たちの足を洗われたことから分かりますね。


イエス様を信じたとき(回心のとき)、私たちは「完全に洗われていること」になります。

しかし、未だに罪の性質を持っていますから、日頃の歩みの中で罪を犯してしまいます。


それが、「足を洗われること」になるのです。

それは日々、聖霊が神のみことばを私たちの生活に適用することなのです。


ですから、「完全に洗われていること」(回心のとき)と「足を洗われること」(日々、聖霊が神のみことばを私たちの生活に適用する)ことの違いを理解する必要がありますね。



幕屋に入って最初に祭壇があり、次に洗盤があり、どちらも清めの意味があるのですが、小羊の血によって清められることと、水によって洗われることの違いを理解するのは、最初は難しく感じました。


それを理解するために、次のような説明を受けました。


幕屋の庭には二つの用具がありました。


祭壇…小羊の血で清めることの型。

洗盤…水で洗うことの型。


新約聖書にもこの二種類の洗いのことが書かれています。


Ⅰヨハネ1:7「御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます。」


エペソ5:25-26「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた…キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり…。」



さて、この聖句からどのように理解できるでしょうか。


次のように説明できるかもしれませんね。



一人の放浪者が酔っ払って喧嘩をし、相手を殺してしまったとします。

しかし、この国の大統領は、この人を気の毒に思い、その罪を赦してやりました。


この人はもう刑罰を受ける必要がなく、どこへ行こうと自由です。


しかし、その放浪者が大統領とともに官邸に住むためには赦し以上のことが必要です。


彼は自分の性質を変え、悪と汚れた習慣から清められなければなりません。


同じように私たちも、神様との親しい関係を保つためには、キリストの血によって赦されるだけでなく(エペソ1:7)、聖霊の力によって清められて新しいいのちと性質を与えられ(Ⅰペテロ1:22-25)、日々、罪に対して戦わなければなりません(ガラテヤ5:16-18)



「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブル10:22)



次回は、いよいよ幕屋の中に入り香をたく壇について学びます。

本当に楽しみです。





今回も深く学べました。


感謝します。


アーメン。