「イエス起ちて此処を去り、ツロの地方に往き、家に入りて人に知られじとし給ひたれど、隠るること能はざりき。


ここに穢れし霊に憑かれるたる稚なき娘をもてる女、ただちにイエスのことをきき、来りて御足の許に平伏す。


この女はギリシャ人にて、スロ・フェニキヤの生まれなり。


その娘より悪鬼を遂ひ出し給はんことを請ふ。


イエス言ひ給ふ『まづ子供に飽かしむげし、子供にパンをとりて小狗に投げ與ふるは善からず』


女こたへて言ふ『然り、主よ、食卓の下の小狗も子供の食屑を食ふなり』


イエス言ひ給ふ『なんぢ此の言によりて〔安んじ〕往け、悪鬼は既に娘より出でたり』


をんな家に帰りて見るに、子は寝台の上に臥し、悪鬼は既に出でたり。」マルコ7:24-30



この箇所は私も大好きで、このフェニキヤ人の女性の信仰から私自身学ばされる事が多く、どうしようもない問題に押しつぶされそうになった時など、必ずこの記述を読みながらその場面、彼女の気持ちを自分なりに黙想することによって不思議と力を得ることが多くありました。


今回の礼拝でのメッセージで、この箇所が扱われ、また新たな理解と、彼女の信仰の素晴らしさ、そして何よりも神様の深い愛を知ることができました。


この出来事はマルコ伝だけでなく、並行記事であるマタイ15:21-28にも記録されています。



さて、聖書を読んでいると、不思議なことがよくあります。


神様の絶対的な主権という言い方をよくしますが、神様が「このようにする」とお決めになったことは、なされる、またそのお力を神様は持っておられるという部分と、一方で人の側の責任というのもあります。


神様は人をお造りになったとき、ロボットのようにお造りになったのではなく、人が自分で考え判断し、行動するよう自由意志というものを私たちの中に組み込んでくださいました。


ですから、人が自分で決めることによって物事が行われていくという事も事実です。


この神様の主権と、人の自由意志という部分がある意味相矛盾した形で混ざり合っている、それは聖書の教えの中によく見られますね。


たとえば、人が救われるということを考えた時、神様には全ての人をお造りになる力がおありになる。

また全ての人が救われて欲しい、救いたいという思いを持っておられます。


しかし、一方で人の側は求めなければ、真に受け入れなければ救われない…。


これはある意味矛盾したことのように思えてしまいます。


ある人は「神様は愛の神様だから全ての人が救われるべきだ」と言うかもしれません。

あるいは人の側を重視するなら「人はどのような状態であれ、神様が望むなら人はみな救われる、人の責任は関係ない」と言われる方もいらっしゃるでしょう。


しかしながら神様はみことばの中で人が滅びることを望まれない、全ての人が報われることを望んでおられるとも語っておられますし、「求めなさい」というように、人間の側の責任も語っておられます。


今回見る箇所というのは、どちらかというと、人間の側の責任、人が救われるということに当てはめるとするならば、人が求めるその「積極性」、その「心」、それによって結果的に救いに到達する、人間の側の責任というのが、やや強調されているようにも思われます。


またこの記述は「異邦人への伝道」、異邦人にも神様による救いの計画があるということを強調する部分でもあります。


さて、この記述を見ていきますと、イエス様は「ツロ」の地方に行かれました。


イエス様の伝道はガリラヤ湖を中心とするイスラエルの内部の地方が主な活動場所でした。

ツロは地中海に面する港町でした。

ちなみにツロとは、現在のシリアのことです。


ユダヤ人から見れば、シリヤは外国、異邦人の町になります。


なぜそんなところと思うのですが、そのあと「だれにも知られたくないと思われた」とありますから、長い伝道旅行を休息をとるため、いわばお忍びで海の見える港町にこられたのかもしれません。


しかし、「隠れていることはできません」でした。


イエス様の名声はこの町にもとどいていたのです。


そこで「ギリシャ人で、ツロ、フュニキヤ」の生まれの女が噂を聞き付け、イエス様の下にやってきました。


ギリシャ人とはユダヤ人以外の異邦人の事です。


女はイエス様に、自分の娘の悪霊の追い出しを願いでます。


自分の小さい娘が「汚れた霊につかれ、危険な状態にある。」というのです。


彼女の行動は積極的で熱心なものでした。

すぐに飛んで来て、イエスの足もとにひれ伏し、願い続けるその姿に、切羽詰った母親の思いを知ることができます。


ところがイエス様は、その女の訴えを退けられました。


並行記事のマタイを見てみますと、彼女の必死な訴えに対し、「されどイエス一言も答へ給はず…」と、なぜがお優しいイエス様らしからぬ冷たい態度をとられます。


そして、この異邦人の女からの願いに対し、イエス様は「まず子どもたちに満腹させなければ」ならない、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくない」とおっしゃいました。


この場合の「子ども」は、ユダヤ人のことを指します。


「パン」とは神様の祝福、神様の救いの計画です。


次に「子犬」の意味ですが、子犬ではなくただの「犬」の場合は異邦人、すなわちユダヤ人以外を指します。


そしてこの「犬」いう言葉はそれ自体に差別、軽蔑を含んだことばでした。

またユダヤ人が軽蔑表現として使う「犬」に含んでいる意味とは、飼い主がいない、汚れたものを漁る、汚い生き物としての感覚がありました。


それはユダヤの風習になっていました。

イエス様は、随分酷いことを言ったのでしょうか。


イエス様は人を差別、軽蔑される方ではありません。

イエス様は「犬」ではなく、「子犬」と言いました。

それも子どもと対比させてです。


したがって、私たちが自分のペットに対して日常使う、「うちのわんちゃん」とかの愛称として使われたと理解することが正しいと言えるかもしれませんね。

ですから、ここでイエス様が言われた「子犬」とは、ペットとして飼われている犬という意味合いがありました。


それよりも、イエス様がまず、「子どもたちを満腹させなければならない」ということについてですが、イエス様はまず、ユダヤ人の解放の為に来ました。


したがってユダヤ人への神様の祝福、ユダヤ人への神様の救いの計画が優先順位として、当然第1位にあったことはあきらかです。


「まず子ども」であるユダヤ人たちに「満腹させる」すなわち、神様の祝福、救いの計画を伝えなければと言ったのです。

神様の基準、聖書の原則からすれば当然のことです。


イエス様は明らかに,ユダヤ人と異邦人を、神様の祝福、救いの計画を順序の中で区別し、順番を正されたのです。


それは「まず子供に…」と言った言葉からわかりますね。

「まず」と言われたのなら、「次に」があるのです。


そして、ここで注目すべきことは、この「子犬」というのはペットである、つまり通常の飼い主と飼い犬との考え方でいうならば、少なくとも同じ地所内にいるわけです。同じ家にいるわけです。


そういう意味では、異邦人も神の家における位置というのがあるのです。

ただ、ユダヤ人が優先されるということでした。

イエス様のことばに対して、女は「然り主よ、(主よそのとおりです。)」とまず、イエス様に対して「主よ」と言いました。


ここで確認しておかねばならないのは、マルコの福音書で、12弟子以外で、イエス様を「主よ」と呼びかけたのはこの女以外にないということです。


先ずここが素晴らしいことだと思います。


イエス様の「いまはあなたの願いを聞くわけにはいかない、まずはユダヤ人だ」という、一見突き放されたことばでしたが、彼女はそれに対して非常に謙遜に応対したのです。


「主よ、その通りです、間違いありません」と彼女は、イエス様がおっしゃったことをそのまま受け入れたのです。


ここには彼女の謙遜的な態度、そして謙遜の伴うイエス様への信仰、そしてまた礼拝の態度、それは彼女が初めからイエス様の御足元に平伏したというところからうかがえます。


そして又、イエス様に対してお願い、求めはしているのですが、自分は罪ある者として、娘も家族も罪ある者として、神様の祝福には値しないということは分かっているのです。


イエス様が神様であることをみとめ、神様の基準、聖書の原則が分かっていますとした上で、「食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」と返答したのです。


ルカ伝14章では実際、金持ちの人の食卓の下で乞食の生活をしていたラザロという人もいました。


彼女は、「主が言われるのは最もでありますけれども、その食卓の下にいる子犬、つまり本来、神様の救いの計画からは外れている、選びという点からは本来外れている異邦人であっても、その子供、つまりユダヤ人が頂いている祝福のおこぼれを頂けないでしょうか」と言っているのです。


「主よ、あなたがおっしゃるのは確かにその通りです。私はそのような祝福を頂くには値しません。ですがその一欠片でもいただけるなら…」と彼女は言いました。


自分の置かれている立場、現状を素直に認め、その上でこの女性は信仰で食い下がったのです。


聖書的な意味でいう救い、「救われる」「救われない」ということを考えるときに、かろうじて救われようが、救いには違いないのです。


ですから彼女はある意味ギリギリのところの要求をしているのです。


「確かに私には価値はない、その資格はない、ですがそれを頂けるならば…神様の救いの計画、その端にでも加えていただけるならば」という思いですね。


そこにこの女性の「主は与えてくださる」「主は憐れみをもって取り扱ってくださる」という信仰が表されているのではないでしょうか。


彼女の言葉に対して、主は「そうまで言うのですか」と感嘆されました。


「そうまで言うのですか」は直訳すれば、「そのことば故に」となっています。


文語訳聖書では「なんじのことばにより」となっていますし、共同訳聖書では「それほどいうならよろしい」となっています。


また口語訳聖書では「そのことばで十分である」となっています。


つまり、「あなたの信仰はりっぱです。見上げたものです」とおっしゃっているのです。


イエス様は彼女の信仰をほめたのです。


イエス様からその信仰をほめられた人はそんなにいません。


その数少ない一人に彼女は選ばれたのでした。


彼女の信仰の素晴らしさ、すごさは、イエス様の言葉「それなら家にかえりなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」という言葉を信じたことでした。


癒しを求めてきた多くの人たちは、イエスの何らかの癒しの行為や、癒しの言葉をいただきました。

しかし、その女にはその言葉はありませんでした。


「家に帰りなさい」だけでした。

しかし、彼女はそれで癒されたと信じたのです。


なんという信仰でしょう。

彼女はイエス様が癒し主であることを心底から信じていたのです。


彼女が家に帰れば娘は癒されていました。


マルコ伝において、目の前にいない人を、ある意味「遠隔操作」というか、そのような形で癒されたというのは、ここにしか記録されていません。


主の前にへりくだり、主の言われることを素直に受け止め、その上で、望みを失わず、落胆せず、信仰をもって求め続ける姿勢があったからです。



見上げた信仰ではありませんか。


ここで、ユダヤ人たちの不信仰に比べて、異邦人であるフェニキヤの女の信仰はなんと見上げたものでしょうか。


彼女はまず、イエス様へのへりくだりがあります。


つづいて、イエス様からの一見、見放したとも思える言葉にも、なお信仰を失いませんでした。


「犬」よりまだ下の「食卓の下の子犬」と自らを位置づけました。

これを「へりくだり」と言います。


「子どもたちのパンくずをいただきます」と信仰を求めつづける姿、これを信仰があると言います。


「パンくず」とは、ユダヤ人が食べた神様の祝福というパンの残り、神様の祝福を少しでもということです。

神様の祝福の残りかすでも癒されると信じていたのです。


私たちも主の食卓から、こぼれ落ちたパンくずすら、ひらうに値しない人間です。


しかし、主はいつくしみくださって愛してくださいます。



では、この箇所のポイントとまとめに入ります。


<次の記事に続きます>