もしかしたらある人たちは、「心を改め、生活を一新したら、それで救われ天国に行ける」と思うかもしれません。


しかし、たとえきよい生活を送ったとしても、その人は、人として当然のことをしたにすぎません。

また、厳密に言えば、過去の誤りを正すことは、だれにもできません。



たとえば、ある経営者が経理部長のところに行き、自分の会社が多額の負債を抱えている事を知ったとします。


経営者は次のように言います。


「『私たちは過去のこと(借金)で悩み苦しむのはやめにするつもりです。古い帳簿を改め、新しいものに一新しました。これからは、必要な利子とともに期日までにきちんとお支払いします』と各業者に伝えなさい。」と言うなら、そこの経理部長は「うちの社長は気が狂った」と思うでしょう。



それと同じように、多くの人がそのような方法で天国に行こうとしています。


「これからは最善を尽くします」と神様に申し出るのですが、過去のことで悩み苦しむつもりは全くありません。


過去の罪は大目に見てもらえると思い込んでいる場合があります。



しかし、神様の御前では、最後の一円まで借金を払い終えないかぎり、義の要求が満たされることはありません。



殺人罪で指名手配されている者が逃亡生活を続け、十年間は模範的な市民生活を送ったとしても、警察に捕まれば、その人は殺人罪で起訴されることになります。


その十年間は誰一人殺さなかったとしても、その人は法律によって殺人罪でさばかれます。


ですから、今後はきよい生活を送ることを決意したからといって、過去の罪を覆い隠すことはだれにもできません。



神様は、過去も未来も見通しておれれるからです。


私たちが罪人であることに変わりはありません。


神様の標準によれば、私たちはみな罪を犯してしまったのです。


ですから、そのことを認めて、正しく対処しなければなりません。



主イエス・キリストは、私たちを自由にするために私たちに代わってご自分のいのちを捨ててくださいました。


私たちの過去の罪は償われました。

私たちは神様に対して罪を犯しましたが、神様は私たちに領収書を与えてくださいました。


また、キリストの十字架上のみわざに完全に満足なさったことをお示しになるために、キリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。


かつて十字架にくぎづけられたキリストは今も生きておられ、私たちの救い主となってくださいました。


キリストは行ける救い主です。




しかし、「なぜキリストは死ぬ必要があったのか、死なずに私たちを救うことができなかっただろうか?」と疑問に思う方もいると思います。



私たち人間は神様の律法を破りました。


その刑罰は死です。


その刑罰を十分に受けることなしに、どのようにしてキリストは私たちを救うことができたでしょうか?。


もし、キリストが不十分な代価しか払ってくださらなかったとしたら、私たちが受けるべきさばきが残っていることになってしまいます。



しかし、キリストが死んでくださったゆえに、私たちは信じれば救われるのです。


律法は破ったにもかかわらず、もはや律法によってさばかれることがないのです。



被告が控訴したり、上告したりすることによって、裁判が引き延ばされることはよくあることです。


その間に被告人が死んでしまったら、裁判所が引き続きその事件を扱う意味はもはやなくなってしまいます。


被告人はすでに天の法廷に呼び出されたからです。


法律は死んだ人をさばくことはできません。



また、もし人を殺せば死刑ですが、一人殺しても十人殺しても、受ける刑罰は同じ死刑です。

死刑が法律上の最高の刑罰だからです。


その人の罪が何であろうが、法律ができる最大限のことは、その人のいのちを取ることだけです。



または、次のように考えてみてください。


もしある人が殺人罪で死刑になり、一ヶ月後、その人が別の人も殺していた証拠が示されたとしたら、その人のからだを墓から掘り出して、もう一度裁判を行うでしょうか?


もちろんそんなことはしません。


その人は法律上の最高の刑罰をすでに受けてしまったのであり、したがって、法律の届かないところにいるのですから、とっくの昔に忘れてしまった罪があったとしても、それは問題ではありません。


主イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、私たちのために律法の最高の刑罰を受けて下さったと確信している私たちは、律法の要求から完全に解放されているのです。




しかし、「キリストを拒んだ者は天国に連れて行かない」というのは、はたして、あわれみ深い神様といえるだろうか?という疑問を持つ方もいるでしょう。




そうです。


神様は正しく、かつあわれみ深いお方です。


ぼろを着たみすぼらしい人を、きらびやかなホテルの舞踏室へ連れて行くことは親切なことでしょうか?


その人は自分が不潔なぼろ服を着ていることをさらに意識するのではないでしょうか?


その人はもといた暗い通りに何とかして逃げ帰ろうとするのではないでしょうか?


その人はそこにいたほうがはるかに幸せなことでしょう。


人が罪を持ったままの状態で天に、そのきよい光のうちに、連れて行かれたとしたら、それは親切であわれみ深いことでしょうか?



罪をきよめる方法は一つしかないのに、神様がそれについて申し出てくださったことを、その人は断ったのです。



他人に自分の心の内を知られたり、自分の考えをすべて読み取られたりしたとしたら、私たちはどんなにみじめな気持ちになる事でしょう…。



ですから、神様の御前に立つとき、いったいどのようなことになるのでしょうか。



その絶対的なきよさによって、罪の恐ろしさ、そのすさまじさが全て明らかにされるのです。


聖書には、イエス・キリストを受け入れなかった人々が、どのように感じるかが記されている箇所があります。


キリストご臨在の時、彼らは山や岩に向かって次のように言っています。




「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔…から、私たちをかくまってくれ」黙示録6:16




彼らは、いつまでたっても、罪のうちに永遠の世界に行こうとしているのです。


ところが、同じキリストのご臨在が、キリストを受け入れた人々にとっては天国の特質となるのです。



もうお分かりでしょう…罪からきよめられた人々にとっては、イエス・キリストがおられれば、そこは「天国」ですが、罪のうちにとどまっている人は、イエス・キリストがおられることによって、良心の呵責という地獄の苦しみを味わいます。


そのような人は、神様のきよさという無限の光のうちに立たなければならないのです。


もしある人が、この方の愛を拒み、その大いなる犠牲を「受け入れるに値しないもの、キリストの死なんてクズ」とみなされたのなら、その人は、この方の前で本当に幸福でありえるでしょうか?この方と共にいて喜びがあるでしょうか?


けっしてそうではないでしょう。


ですから、キリストに価値を見出せない人と、キリスト様が天で共に暮らすことはできないのです。