一回りの初めに、全国の主にある兄弟姉妹と共に神様を賛美し誉めたたえることに預かれたことを感謝いたします。


今回、私たちの教会ではマルコ7章1節から13節までを『神様か伝統か:伝統固執の危険性』という主題で扱われ、話されました。


今回は特に、「伝統」ということを考えさせられました。


皆さんが所属されている教会にも「伝統」があることでしょう。


今回メッセージで話されたことは、決して伝統が悪いものとして話されたわけではありません。

大事なことは、この伝統というものが、どういう位置に置かれているのかが大事なことだということを教えて頂きました。


このマルコ7:1-13の中からのメッセージの題は「神様か伝統か」ですが、問題となっているのは伝統固執、伝統にこだわるとの危険性が話されました。


これは、私たちが神様が大事なのか、それとも人の伝統が大事なのかとの問いかけを考えていきました。


伝統に固執すること、伝統にこだわることの危険性を3つあげて共に考えました。



◆ポイント◆


1・伝統にこだわることの危険性①:同じようにしない人を非難する


教会にも伝統が存在します。聖書には神様が「このようにしなさい」とはっきり書いてないことも多くあります。

しかし、はっきり書いてなくても、聖書の原則がはっきりしているものがあります。


たとえば、聖書に「タバコを吸ってはいけない」とは書いてありませんが、聖書全体を読むときに、私たちの体は神様から与えられているので、「その体を危険にさらすことは適当ではない、神様は喜ばれない」という原則がはっきりします。


しかし、他のすべてのことがタバコのことのようにはっきりしているわけではありません。


わかりにくいものも確かにあります。その場合、他のクリスチャンが自分と同じようにしないからといって非難することは注意しなければなりません。


この「人がよいと思って決め」たことがそれ以降続けられていくと、今回テーマにしている「伝統」になっていく可能性があります。


極端な例をあげましょう。日曜日に教会で礼拝をささげることは聖書の原則からはっきりしていると言えますが、「礼拝は午前11時からでなければならない」とは聖書の原則からは、はっきり言えませんね。


もし他の教会で礼拝が午前10時から行われていても、「その教会は間違っている」ということはできません。

礼拝の時間を毎週11時と決めることが間違っているのではありません。


またそれを何十年も続けること(これを伝統と言います)が間違っているのでもありません。しかしこの伝統にこだわりすぎて自分たちと同じようにしない教会(クリスチャン)を非難することは神様がお喜びにはなりません。




そもそも「危険性」というのは、「その恐れがある」ということであって、「それがそうだ」と言っているのではないことを最初にご理解ください。



まず、1節~5節の中で伝統にこだわってしまう危険性その①ですが、一つは「同じようにしない人を非難する」ということです。


ここで、パリサイ人学者たちが登場してきます。

おそらくガリラヤに住んでいるパリサイ人たちから要請を受けて、エルサレムからイエス様のところにやって来たのだと思われます。


それはイエス様の活動を探るという目的があったのでしょう。


このパリサイ人や学者たちはよくイエス様のところにやって来ていますね。

しかし、その動機は決して純粋なものではありませんでした。


今回も同様であったことが2節から読み取れます。



2節「而して、その弟子たちの中に、潔からぬ手、即ち洗わぬ手にて食事する者のあるを見たり。」



パリサイ人たちは、イエス様の弟子たちが手を洗わない、清潔な手、つまり潔められた手で食事していないということを問題視しました。


「潔からぬ」とは「汚れている」ということですが、ここでパリサイ人たちが言っている「潔からぬ手」「洗わぬ手」というのは、手を洗わないで食事をすることは、衛生上不潔だから問題があるということではありませんでした。


彼らが指摘していることは、衛生的なことが問題ではなく、儀式的なことを言っています。

彼らが考えるところの一つのやり方を、イエス様の弟子たちが「していない」ということを指摘しています。



この3節、4節というのは筆者であるマルコが、マルコ伝の大方の読者である異邦人に向けてユダヤ人の習慣というものを説明書きをしているところでもあります。



3、4節「パリサイ人および凡てのユダヤ人は、古への人の言傳を固く執りて、懇ろに手を洗わねば食らはず。また市場よりかへりては、まづ禊がざれば食はず。このほか酒杯・鉢・銅の器を濯ぐなど多くの傳を承けて固く執りたり。」



このうようなことが背景にあるという説明をマルコはしています。


2節にある「潔くない手」で食事をしないというのは、パリサイ人たちの「古の人」、直訳するとこれは長老という意味ですが、それは先祖代々受け継がれてきた、言い伝え、つまりこれらが伝統になります。


この「古の人の言い伝え」、4節にもあります「多くの伝え」、この伝統が受け継がれてきた事柄、ずっとやってきた事柄に従ってこの儀式的に潔くしなければ食事の席には着かないということを習慣としていました。


今回、伝統という意味になることが幾つか出てきます。


今見た3節で「言傳(いいつたえ)」4節で「傳(つたえ)」5節で「人の言傳」7節では「人の訓戒」8節では「人の言傳」9節では「言傳」13節では「傳」と出てきます。


ここで注意しないといけないのは、「人の言傳(言い伝え)」「人の訓戒(いましめ)」と頻繁に出てきます。


これは、ある時、誰かが言い始めた、やり始めた、そしてそれがどういうわけか大事なこととして周りの人にも捉えられてずっと行われ続けてきたわけです。




パリサイ人たちは「古の人」の言い伝えを固く執りたりとありますが、それは「保つ」という意味でもあったり「繋がる」「留める」という意味でもあったりします。



それを自分のものとしている…。

受身的にいうならば、「それに繋がれている」「それに縛られている」ということになるのかもしれませんね。



パリサイ人たちは「懇ろに手を洗わねば食らはず。」とあるように、当時は指先から肘あたりまで手としていたようですが、ユダヤ人たちの言い伝えによる儀式的な手を洗うということは、まず指先を上に向けて手首を濡らし、そして今度は指先を下にして手を濡らし、それから手をこするという、それが一連の動作だったようです。



それをしないで適当にサッと洗って食事をするならアウトだったわけですね。



そういった一連の儀式をしないと、儀式的には潔くないと見なされていたようです。


また4節でも、市場から帰ってきたときには「禊がざれば」とありますが、この「禊ぐ」とは「バプテスマする」と同じ意味があるそうです。


つまり、市場から帰ってきたのなら濯がないと食事をしない。


それは、市場に行くとユダヤ人以外の異邦人がいて、当然異邦人はユダヤ人が守るような律法は守りません。また、ユダヤ人であっても律法を守らない人々もいます。


そういう人たちと接触するということは儀式的に汚れているとみなされ、そのような場所から帰ってきた場合には一度、儀式的に潔め、それから食事をするという慣わしがありました。




余談ですが、この説明を聞いて、幼い頃、葬儀の焼香から帰って来た両親が、家に入る前に自宅で待機していた家族に自分の体に塩を降りかけてもらってから家に入った光景を思い出しました。(笑)



しかし、そこまでしないとパリサイ人たちからは「潔からぬ手で食事をしている」と咎められるのですね。



パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねました。『なぜ、あなたの弟子たちは古の人の言い伝えに従わずに汚れた手でパンを食べるのですか。』と。


パリサイ人と律法学者たちは、自分たちは言い伝えに従っているので、正しい者、聖い存在だと自認していました。


面白いことに、彼らははっきりと「古の人の言い伝えにしたがって」と言っているんですね。


それはつまり「伝統なんだ」「人がやり続けてきたことなんだ、考え出したことなんだ」あるいは、旧約の律法の中でももちろん「潔める」ということは出できますが、それを拡大解釈したり、人の考えを取り入れ、神様が言われている以上に強調することがあったようですね。


こういった人の考えが作り出した「言い伝え」というものは、必要以上に人に重荷を持たせているんですね。


パリサイ人たちにとっては今までやってきたこと、当然のことでした。


パリサイ人たちが儀式的に手の洗い方の一連の動作をしたければそれはそれで何も問題はなく、やりたければやればいいことなのです。


ですが、必要以上に重要な事として押し付けたり、神様のみ言葉と同じような位置にまで持ってくる、あるいは神様のみ言葉よりも、もっと重要なことのようにするならば、それは大きな問題となりますね。


彼らにとってそれは伝統でした。そして自分達と同じようにしない人を非難しました。



では、そもそも伝統とは何でしょうね?


聖書には「このようにしなさい」と書いてあることと、書いてないことがあります。


細かいことまで全部「このようにしなさい」とは書いてありません。


書いてないことについては、聖書の全体を見て、聖書の原則というものから「こうしましょう」と決めたことももちろんありますね。


しかし中には、聖書の原則というものをあまり考えないで、人の考えで、人の好みで、あるいは思いつきで「こうしましょう」とか、あるいは人の都合で「こうしましょう」となってずっと続いていることもあるかも知れません。


ですから、私たちが聖書を学んで従っていこうとするときに、「いや、これは聖書に書いてないからやっていいんだ」とは必ずしも言えませんね。


「聖書にはっきり書いてなければ何をやってもいいんだ」とは言えません。


聖書の原則というものを考えなければなりませんね。


聖書の全体を見たときに、神様の意図を考えたときに、「これは、クリスチャンとして適当ではない」ということは当然あります。


しかし、聖書の原則からしても、ちょっとそれは、はっきりしないということもありますね。

たとえば礼拝の時間を一つとってもそうですが、いろんな教会によってそれぞれのやり方があります。

そしてそれぞれ教会には歴史があります。歴史があるということは伝統というものがあります。



たとえば私たちの教会ではしませんが、兄弟姉妹が教会で集まったときにはお互いが握手をしたりするのも、その教会の伝統の域であったり、聖歌隊の立つ場所が前であったり後ろであったり、礼拝の時間に献金の時間があって献金袋が回ってきたり、それをなかなか聖書から「これこれこうだからそうします」と言いにくい部分があると思います。


パリサイ人たちは自分達の伝統にこだわるあまり、自分達と同じようにしない人を非難しました。

ですから私たちも、いうなれば「どちら側に転んでもいいようなものについて」自分達の教会と違うことをしているからといって非難することは注意しなければいけないですね。




2・伝統にこだわることの危険性②:クリスチャン生活が表面的になる


イエス様がおっしゃった預言者イザヤのことばは「あなたたたは表面的には礼拝をしているけれど、心からそれをしているのではない。人が決めたことを守ることに一生懸命で、意味のない礼拝をしている」ということを指摘しています。


クリスチャン生活がただの演技であるなら、神様がお喜びになるはずがありません。


みことばを読む時は意味を考え、神様に心を向けましょう。


賛美歌を歌う時は賛美をささげている神様に集中しましょう。


礼拝の場所にいることよりも、本当に神様を礼拝していることが大事なのです。

表面的に「これをしているからだいじょうぶだろう」という間違った安心感・満足感を持たないように注意しましょう。



2つめのポイントとして、伝統にこだわることの危険性として、クリスチャン生活が表面的になるということがあります。


6節、7節で「イエス言ひ給ふ『イザヤは汝ら偽善者につきて能く預言せり。『この民は口唇にて我を敬ふ、然れど、その心は我に遠ざかる。ただ徒らに我を拝む、人の訓戒を教とし教へて』と録したり。」とあります。


イエス様は先ほどのパリサイ人たちの質問に対してこのようにお答えになりました。

イザヤの預言を引用しました。(イザヤ29:13)

「イザヤはあなた方のような偽善者について預言している」と言いました。


この『偽善者』という言葉というのは、劇場で舞台に登場する役者が仮面をかぶって役を演じる人のことを表現する言葉です。


ですから、実際の自分とは違う人をここで演出している、偽善者というのはそういう人のことですね。


それをクリスチャンに当てはめるとするならば、見かけは礼拝している、見かけは献身の態度を持っている、見かけは敬虔そうな信心深そうな、霊的そうな振る舞いをしている…けれどもその礼拝で献身の対象であられるお方、神様に対する生活が全然できていない…ただの表面的な演技である…それは『偽善者』であると言わなければなりません。


そしてイエス様はおっしゃいました「この民は口唇にて我を敬ふ」と。


表面的には神様に対して敬虔である、敬っている、然れど、その心は我に遠ざかる…。


表面的にはそのような演技をしているかもしれないけれども本当の心の中は神様のほうには向いていない。

神様を意識した生活をしていない。


7節で「徒らに我を拝む」とあるように、「徒ら(いたずら)」とは、「虚しく」というように、「意味がない」ということです。


言い伝えを厳格に守り、しきたりに従おうとするパリサイ人と律法学者たちは、表面的には、立派にみえます。

しかし、その行為は、人間の言い伝えに捕らわれているにすぎません。

どんなに熱心にみえても、現実は神様のことばを捨てているのです。



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