もし、自分が暗闇の中をさまようような悩みを感じたら、神様の御前にひれふして、自分の行いをよく考えて、そして自分の喜びを奪ったものが見つかったら、すぐにそれを光の中に引きずり出し、そして自分の罪を父なる神に告げ、その喜びを奪ったものをやすやすと入れさせた油断と不注意とについて自分をきびしくさばくことが大切だといえるでしょうね。


でも、決して自分の安全と喜びとを混同してはいけないですね。


しかし、クリスチャンの罪に対して下る神様のさばきは、不信者の罪に対して下るさばきよりも、少しでも寛大なものであるとは思ってはいけませんね。


神様は罪を処分するのに二種の方法をとられません。


また、その尊い御子イエス・キリストを信じることを拒む者の罪を見のがすことがおできになりません。


でも、この二つの間にはつぎの大きな違いがあります。


つまり、クリスチャンの罪はみな神様に知られています。

そして、神様が備えられたイエス・キリスト様がカルバリの丘で十字架につけられたときに、その罪はキリスト様の上に負わせられたのです。


そして、その時、その場所で、クリスチャンのために身代わりとなられたキリスト様の上にさばきが下って、クリスチャンの罪の処分はただ一度で、永遠に終わったのです。


「そして自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました。」ペテロ第一の手紙2:24



キリスト様を拒む者は、自分自身、火の池で永遠に自分の罪を負わなければなりません。


しかし、真のクリスチャンが失敗するときには、その罪の告発は行われません。

さばき主であるキリスト様ご自身、十字架の上で、一度それを全く精算されたからです。


しかし、交わりの問題は、信者が聖霊を憂えさせるたびごとに、聖霊によって告発されるのです。



結論として、もう一つたとえて説明するなら…。



ある美しい月夜を思い浮かべてください。


月は満月で、いつもより銀光色に輝いています。


ある人が静かな池を一心にながめています。


そこには月が映っています。


彼はそばに立っている友人に、「今夜の月は美しいですね。何と静かに、雄大に浮かんでいるではありませんか」と言います。


その言葉が終わるか終わらないうちに、その友人が小石を池に投げ込みました。


すると、こんどは次のように言います。


「ああ、月がこっぱみじんに砕けた、そのかけらがぐらぐら動いている」と…。


友人は驚いて、「何とバカらしいことを言うのか、上を見てごらんよ、月には何の変わったこともないだろ。変わったのは月を映している水の状態だけだよ。」と言いました。



この簡単なたとえを自分自身に当てはめてみると理解できるでしょうね。


私たちの心は池です。


もしそこに悪が入らなければ、神の霊は、キリストの栄光と尊さとを、私たちの慰めと喜びのために私たちに示されます。


けれども一度悪い考えが心の中に入るか、あるいはつまらない言葉や批判めいた言葉が軽々しく口から出るとき、聖霊は、池(私たちの心)を乱しはじめられて、私たちの楽しかった経験は打ち砕かれてしまい、悔いた心で神様の御前に自分の罪を告白するまで、不安と憂いとに満たされるのですね。


このように罪を悔いて告白してはじめて、交わりの静かな楽しい喜びは回復されるのですね。



ここで、私たちの心がこのように不安である時に「キリストの御業は変わりましたか?」と尋ねられたら、何と答えられるでしょうか?


断じて変わりません。

ですから、私たちの救いも変わらないのです。



神様の御言葉は変わりましたか?


いいえ、断じて変わりません。

ですから、私たちの救いが確かであることには何の影響もないのです。



では、何が変わったのでしょうか…。



私たちの中にある聖霊の働きが変わったのです。


聖霊は、キリストの栄光を私たちに与えて、私たちの心を主にふさわしい者であるという自覚をもって満たす代わりに、今は自分の罪と、主にふさわしくない者であるという自覚とをもって、自分の心を満たさなければならないことを憂えられるのです。


聖霊がさばかれるものと逆らわれるものを、自分でさばき、逆らうまで、聖霊は、私たち自身から慰めと喜びとを取り去られるのです。


聖霊がさばかれるものと逆らわれるものを、自分でさばき、逆らうのなら、神様との交わりが再び回復されるのです。



主がわたしたちを導いて「神の聖霊を悲しませ」ないようにしてくださいますように。


わたしたちは、贖いの日のために、聖霊の証印を受けたのです。(エペソ人への手紙4:30)


どれほど私たちの信仰がうすくても、私たちが信頼しているほむべき主イエス・キリスト様が永遠に変わらないことだけは安心できますね。


「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」へブル人への手紙13:8


主が完成された御業は決して変わりません。


「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない…。」伝道の書3:14


主が語られた御言葉は決して変わりません。


「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」ペテロ第一の手紙1:24-25


このように私たちの信仰の対象、私たちの安全の土台、私たちの確信の基はみな「永遠に不変」です。



素晴らしいですね。


「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです…。」ロマ書3:4


「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。」ヨハネ3:33




この「尊い救い」を持っているという喜ばしい確信が、今も、また主イエス様がもう一度来られるときまで、あなたのもの、そしてわたしのものであるようにお祈りいたします。



感謝します。


アーメン。