私たち夫婦が最初に導かれた教会は、宣教師のご家族と、80歳と90歳の姉妹、そして50代のご夫婦のクリスチャンだけの小さな教会でした。


教会といってもアパートの1階の店舗事務所を少し改装し、十字架などの装飾品もなにもありません。


当時、「教会」や「十字架」にかなり抵抗があった私でしたから、少し安心しました。


ただ、牧師や宣教師は人を教えるだけの聖書理解や、正しい聖書知識をもっておらず、感情からくるだけの信仰だと思いこまされていたので、あまり期待はしていませんでした。


しかし、聖書だけを使った話を聞いたり、質問しても聖書から的確に答え、宣教師の方が、聖書を深く理解している事を知って驚きました。


主人はその宣教師の学びの中で信仰を持ち、バプテスマを受けたのですが、私はまだまだ理解に問題があり、そのような状況のまま、主人の仕事の移動に伴い、その教会からの紹介で、今の老牧師先生の教会に導かれ、老牧師との学びの中で信仰を持ち、バプテスマを受けました。


夫婦なのに、主人は宣教師の教会員、私は老牧師の教会に所属する成員という形になるのですが、半年に一度、自宅の清掃のために帰ったときは、必ず主人が所属する宣教師がいらっしゃる教会にお世話になります。


私達の移動のすぐ後に、一人の50代の落ち着いたクリスチャンがその教会を訪ねてきたらしく、毎週礼拝に参加するようになったと宣教師からメールを頂いて、教会の様子は知らされていました。


この方のお父様もクリスチャンらしく、この方は色々酸いも甘いも経験してきたクリスチャンのようで、私の印象は「誰かに紹介されてこの教会に来たわけではなく、通りすがりにここへ来たんだ…変わった方だな…今までご自分が所属していた教会はどうしたんだろう?」などと色眼鏡で見ている自分がいました。


主人はその方と暫く話をして、「いい方が来てくれたよな、本当の事を言うと、この教会から移動するとき、宣教師の先生を支えてくれるような経験値豊かな兄弟がもっといたらなって、ここを離れるのが心残りだったけど、Kさんのような人が来てくれて安心したよ。お前、kさんと話してみたか?すごいぞ、あれだけ聖書から語れるクリスチャンって、なかなかいないぞ、話し方も安定しているし」と、かなりお気に入りでした。


その後は主人とKさんとメールで連絡を取り合うことも多くなり、Kさんから私達夫婦宛に教会の広報も郵送されてきて、一筆添えてくださるメッセージがとても温かく、Kさんのお人柄が伝わってきました。


二回目、Kさんとお会いしたとき、以前よりKさんに近づいてみました。

いつものように落ち着いてゆっくりお話される方なのですが、時々スムーズな会話の中に表情も変えず、ボソッとジョークを入れたりして、それがまた面白く、私のガハハ笑いが炸裂するのですが、聖書の理解だけでなく、いろんな事を知っておられる方で、「もっと話しをしていたい、聞きたい」と思わせるような方でした。



さて、Kさんが話してくれる聖書の教えは、視点が面白く、私の理解も深めてくださるのですが、今回、Kさんが書いた聖書の話がとても分かりやすくて感動したので、Kさんに「この記事、貰っていいですか?」と許可を得て、快く了承してくださったので、ここにアップさせていただきます。



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業界(教界)用語に、“だめクリ”や“クルシチャン”という言葉があります。


“駄目なクリスチャン ”と“苦しいクリスチャン ”という意味だそうです。そうすると、対極は“敬虔なクリスチャン ”ということなのでしょうか・・・。いやはや、なんとも・・・です。


“駄目”や“苦しい”という形容詞 は、自虐的に使われているようですが、このような呼び方をするその心には、律法の影に支配されている姿を露にしていることを知らなければなりません。


なぜなら、“自らの行いを自ら評価している”からです。私たちが救われたのは、律法を守って行なったからですか・・・? 律法の行ないに応じて、神は私たちを評価するのですか・・・?


もう一度、ローマ 書でパウロ が言っている言葉を理解してください。「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるからです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者 によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリスト を信じる信仰 による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別 もありません。」(ローマ 3:20~22)



猛暑 が続いていた休日、家にいても茹だりそうだったので、図書館 で本を読みながら涼をとろうと出かけました。(クーラーはあるのですが、本当のことを言うと、電気代がもったいないから。^^;)


4人掛けのテーブル席で本を読んでいると、隣には何かの資格を取るための受験勉強 をしている青年がいました。ふと、何を勉強しているか気になり隣のテーブルを覗くと、暗記をするために赤い下敷きで隠したノートが置かれていました。


受験などで経験のある方も多いと思いますが、憶えたい単語などを緑のマーカーで塗りつぶして赤い下敷きを載せてそのノートを見ると、緑で塗りつぶした箇所が黒くなり、その部分だけが見えなくなります。そうやって、重要な単語や語句を暗記をしました。


さて、今あなたは神様です。(たまには神様の立場で考えてみるのも赦されることでしょう。皆さんも良く「少しは親の気持ちになって考えなさい!」と言うのでは・・・。)


もしあなたが神様なら、「何度言っても分からないし、変わることができない根性の腐った人間」に期待などするでしょうか(旧約聖書 を読めばわかりますね)・・・?でも、愛しているから自分のもとに帰って来て欲しい・・・。まあ、期待していれば、初めから愛する御子イエス・キリスト を十字架に掛ける必要はなかったことになります。聖書 には「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)と書かれているとおりです。


アダムから受け継いだ罪は消えることがありません。なぜなら肉を持っているからです。どうしたら罪が消えるだろうか。いや、どうしたら罪を見なくても良い状態になるだろうかと考えた神様は、御子であるイエス・キリスト をすべての人類(アダムの罪を持った)の代表として十字架につけられました。その聖い血を通してご覧になるので、私たちの変わらずに存在する罪は消されたのではなく、血に隠されて見えないだけなのです。


ノートに罪人と書いて、罪を緑のマーカーで塗りつぶしてから赤い(これがイエス・キリスト の血です)下敷きを通して見てください。


罪が消えて、だけしか見えないはずです。今度は下敷きを外してノートに書かれた文字を見てください。相変わらずに存在する罪人が見えるでしょう。


そうなんです。何度でも言いますがクリスチャン とは、キリスト の贖いによって“罪が赦された罪人”でしかないのです。


「どうせなら、キリスト を信じたときに罪も無くしてほしかった。」と思いませんか?(こんなことを思うのは、私だけでしょうか・・・)でも、あえて肉の罪は取り除かなかったのではないでしょうか。


聖書 は徹底して、“人間にはできないんだ”ということを教えているようです。それは変わらずに罪人だからです。罪人であると認識すればするほど、聖書 の戒めを守ることはできません。でも、わたしにはできないことが“神様にはできる”のです。ここに、すべての救いがあるように思われます。


天の父なる神様は、あえて罪の身体を持つ人間をとおして御業を現されたのです。


それを勘違いしていると、“すべては神の戒めですから、修行だと思って耐えて生きていきます”になるのか、“この世と適当に妥協しながら生きていく”ことになるのかのどちらかを選択してしまうようです。こうして、“ダメクリ”や“クルシチャン”が誕生するようです。


すべての問題となる“罪”に対して聖書 はどう言っているのでしょうか。


私たちの贖いとなり、神でありながら人となってへりくだって(本来は私たちがへりくだるのですが)くださったイエス・キリスト は、新約聖書 の初めにこう紹介されています。


この方こそ、ご自分の民をそのから救ってくださる方です。」(マタイ 1:21)とあります。


罪から救ってくださる”のです。


初めに、律法では義と認められない。律法は罪を意識させる、という聖書 の箇所(ローマ 3:20~22)を示しました。聖書 は徹底的に人間の罪を教えます。“律法”すなわち、“私たちのどんな行いでも義と認められて救われることがない”と聖書 は言っているのです。


だからイエスがキリスト (救い主)が、罪から救ってくださるために来られたのです。そして、私たちもキリスト の命に包括されて罪の身体(古い人)は「キリスト とともに葬られた。」(ローマ 6:4)のです。そして、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(6:7)


そして、「罪があなた方を支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」(ローマ 6:14)と、律法から恵みに移されたことを説明しています。


“律法”とは、私たちが神の要求を行うことであり、“恵み”とは、神が私たちにしてくださることです。であるならば、“恵み(神の行い)の下”にある私たちを、罪が支配することなどありえません。


それは、イエスを信じ救われた私たち一人ひとりに対して言われたのです。さらにパウロ は、自分がへりくだり弱いときにこそ、強いことを見出すのです。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現されるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリスト の力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリスト のために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、、私が弱いときこそ、私は強いからです。」(コリント Ⅱ・12:9~10)


私たちは弱い存在であるにもかかわらず、まだ、自分の力でしようと考えます。そして、失敗をくり返してしまいます。(もし、いま罪を犯さないでいられるならば、それは主が働いてくださっているからです。)自分ではできないことを理解し、弱い存在であることを受け入れて主に委ねたときに、初めて主が働いてくださるのです。だから、強いということができます。


もう恵みは私たちに十分現されているのですから、主を信頼して、これからの人生の中で“自身で実体化”していくのが信仰 ではないでしょうか。




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緑のマーカーに赤のチェックシートから罪と贖いを説明するところなど、Kさんらしいなと感じました。


Kさん、いつも遠方にいる私達家族を霊的家族として気遣い、励まし、ピンチを経験している時も助けてくれたり、味方になってくれてありがとうございます。


Kさんのような兄弟が、私達の身近にいてくださること、主に感謝してます。


アーメン。