2・「神のみこころを行うもの(人)」(31節~35節)
イエス様のところにイエス様の母親と兄弟がやってきました。
母親達は、イエス様に会いたがっていました。
しかしイエス様はご自分の周りにいる人々を見て「この人達が私の母、兄弟です」とおっしゃいました。
もちろんイエス様の周りにいた人々は血のつながった家族ではありませんでした。
イエス様は「神様の喜ばれることをいつも実行していく人が私にとってはもっとも親しい家族のような存在なのだ」ということをおっしゃったのでした。
先ほどは「聖霊をけがすもの」という表現を取り上げましたけれども、2つ目の極端なほうは、35節にある「神の御意(みこころ)を行ふもの」「神の御意を行ふ人」
先ほどの者が右側の一番右であるならば、神のみこころを行う人というのは一番左に位置すると言えます。
マルコ伝3章21節のところで、イエス様の身内の者たちが登場しました。
途中、エルサレムから来た学者たちによって邪魔され、棚上げ状態になったのですが、31節で戻ってくるわけです。
31節「ここのイエスの母と兄弟と来たりて外に立ち、人を遣してイエスを呼ばしむ。」とあります。
イエス様の肉体的な母親と兄弟たちが来ました。
32節「群集イエスを環りて坐したりしが、或者いふ『見よ、なんぢの母と兄弟・姉妹と外にありて汝を尋ぬ」
人をやって、イエス様に取り次いだわけですね。
「母親と兄弟、姉妹たちが、あなたに会いたがっています。」「あなたを探しています。」と言いました。
それに対してイエス様は不思議なことをおっしゃいました。
33節「イエス答へて言ひ給ふ『わが母、わが兄弟とは誰ぞ』と。
私の母親、兄弟とは誰だと聞いたのです。
なぜそのようなことをおっしゃったのでしょうか?
34、35節「斯くて周囲に坐する人々を見回して言ひたまふ『見よ、これは我が母、わが兄弟なり。誰にても神の御意を行ふものは、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり』」
通常、自分の身内、自分の母親、自分の兄弟というのは一番近い関係にある人ですね。
一番親しい、一番大事な存在であるはずです。
もちろん、イエス様は、肉体的な意味で、血縁関係という意味での家族というのはどうでもいいと言われているのではありません。
しかしながら、ご自分の目の前にいる弟子たちを見て、「この人たちは私の母であり、私の兄弟なのです」とおっしゃいました。
イエス様がここでおっしゃっているのは、血縁関係よりも近い霊的関係がここには存在しているとおっしゃっているのです。
それは目の前にいる弟子達だけに限らないのです。
35節で言われているように「神様の御意(みこころ)を行う人は誰でも、私の兄弟であり、私の姉妹であり、私の母親である」と言われたのです。
「神様のみこころを行っていく者が、私にとっては霊的に近い関係にある人である」とおっしゃっているのです。
神のみこころを行うということは、基本的なことで言うならば、神様が遣わしてくださった御子イエス・キリスト様、救い主としておいでになったお方、そのお方を個人的に救い主として信じ受け入れる…自分の今までの罪の生き方を悔い改める、罪を赦していただくイエス様を信ずる、それは神様のみこころを行う者です。
しかし、それだけに留まらず、神様が喜んでくださること、神様がみことばの中で教えておられること、それに従っていく、それに倣っていく、それを実行していく、それは神様のみこころを行う人です。
確かに神様のみこころということを考えるときに、簡単ではないことがありますね。
生活の中の、あるいは人生の中の全ての決定が、単純で簡単な選択ならば物事はもう少し楽なわけですが、そういうものばかりではありません。
人生においてどういう学校へ行くべきなのか、どこへ進学するべきなのか、どこへ就職するべきなのか、どこに住むべきなのか、誰と結婚すべきなのか、どのような働きをするべきなのか、それらは簡単に決められることではないですね。
ですからクリスチャンであるならば、神様のみこころは、神様のお考えは、神様が望まれることは何なのだろう…と、それを思い悩むということは当然あるわけですね。
しかし、明確な御意(みこころ)というのもあります。
疑う余地のない御意(みこころ)というのもあります。
それは先ほど言ったイエス・キリスト様を救い主と信ずることです。それは疑う余地はありません。
他にも明確な御意(みこころ)というのがあります。
夫婦の関係において、夫は妻を愛することは神様のみこころです。
妻が夫に従うことは神様のみこころです。
子供が両親を敬い従うことは神様のみこころです。
僕が主人に従うことは神様のみこころです。
権威の下に私達が置かれているのならば、その権威に、神様に罪を犯すことでない限り、従うことは神様のみこころです。
真の神様だけを礼拝すること、それは神様のみこころです。
神様が与えてくださったみ言葉を愛し、実行し、従っていく、それは神様のみこころです。
みことばを読み、神様に祈りを捧げる、それは神様のみこころです。
人々に福音を伝えていくこと、それは神様のみこころです。
神様のために奉仕をしていくこと、それも神様のみこころです。
そしてなす全てのことにおいて神様が喜んでくださるように、それが食べることであれ、飲むことであれ、神様の栄光のためにする、それは神様のみこころです。
神様のお考えを選んでいく人こそ、イエス様の兄弟であり、姉妹であり、母であるのです。
両極で言うならば、そっちの側の極端に私達は立っているでしょうか?
◆まとめ(結論)◆
いつも神様のみこころを選ぶ(喜ばせる)人になりましょう
今回学んだように世の中には神様にひどい罪を犯していつまでも罰を受けなければならない人もいれば、イエス様を自分の救い主と信じていつも神様が喜んでくださることを実行している人もいます。
この2種類の人たちは正反対(両極端)ですね。
「聖霊をけがす者」が右の壁に立つとします。
「神のみこころを行もの(人)」が左の壁に立つとします。
さて、あなたは自分と神様との関係を考えた時にどの位置に立っているでしょうか。
イエス様を信じ、救っていただいたことの素晴らしさを考え、感謝しながら少しでも左の壁に近い(神様が喜んでくださることを行う・選ぶ)位置におらせていただきましょう。
結論としては、私達は常に神様のみこころを選択するところにおらせて頂きましょう。
最初に皆さんにお聞きしました。
「あなたは神様との関係において、どの位置に立っておられるでしょうか?」
こちら側の極端は、イエス様に対して「あの方は悪魔に取り憑かれて、悪魔の力によって悪霊を追い出している」と言い、それは聖霊をけがす者、永遠に赦しがない、永遠の罪に定められる者、そういう存在があります。
こちら側には神様を信じ、イエス様を信じ、神様のみこころを行っていく、イエス様の心を心として従っていく、行っていく、みなさんはどこに今日、立っておられるでしょうか?
イエス様を信じておられるのであるならば、少なくとも真ん中から左には寄っているはずです。
しかし、それで満足していいのでしょうか?
失礼な言い方かもしれませんが、かろうじて救われているだけでいいのでしょうか?
かろうじて天国に入れていただけるだけで、神様は満足されるのでしょうか?
イエス様のあの十字架の死、あの尊い血が流されたというのは、その為だけだったのでしょうか?
イエス様は神のみこころを行う者は、「是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり」とおっしゃいました。
確かにイエス様を信ずること、罪を赦していただくこと、天に国籍を持つ事、それは神様のみこころです。
しかし神様のみこころは、それ以上にあります。
先ほど一つ一つ挙げたことに加えて、私達はもっともっと神様というお方を知って、また神様の御業をもっと知って、イエス・キリスト様の素晴らしさをもっと知って、このお方にもっと似ていかなければいけないわけですね。
神のみこころを行う人というのは、この左側に存在するのであれば、より私達はこちら側にこちら側に心を、体を向ける必要があるのではないでしょうか?
イエス様の尊い血によってあがなわれたこと、救われたこと、それは本当に尊いことです。
一人の人が死からいのちへ、永遠の刑罰から天の御国へ移される、それは素晴らしいことです。
しかしそれ以上にまた素晴らしいのは、私達の救われたことの効果というものが、私達の日々の生活の中で、もっと表されていく、そういう意味で救いというものがもっと豊かに示される、私達の短いこの地上での生涯の中で神様の素晴らしさが、また救いの素晴らしさが人々に表される、また、そういう人たちが集まる群れ、この教会が形成されていく、そのことを神様は望んでおられます。
皆さんは今日、どの位置に立っておられるでしょうか?
神様のみこころを行う側に私達は立ちたいし、また立ち続けるべきであります。
感謝します。
アーメン。